その いち。
私立甲山乙姫丙ノ上学園。
創設者3人の名を冠した、この冗談のような本当の名前の学園――住民やそこに通う生徒は略して甲乙丙(学園)と呼ぶその高校――は本土から離れた羽衣瑛島にあった。
羽衣瑛島はあらゆる創作に関する舞台やロケ地として建設された人工島で、関連する業界各種だけでなくさまざまな人々が生活を営む地方都市の様相をしており、都市の機能は本土と変わらず、そこに住む島民の生活も同様だった。
そんな島の居住区の一角に甲乙丙学園は存在し、その緑豊かな中庭や広い校庭が一望できる場所に学園の生徒会室があった。
いま生徒会室には、ふたりの少年がいる。
ひとりめは、この甲乙丙学園の生徒会副会長である式陣ジョー。
高めの身長で、銀縁の眼鏡をかけ、髪型、服装といった身だしなみは全生徒のお手本といえるほど整然としている。
見た目から受ける印象は、真面目でいかにも常識人といった感じだ。
もうひとりの少年は、副会長であるジョーとは簡素な長机を挟んで向かい合い、パイプ椅子に腰掛けていた。
ブラインドが下ろされた室内はうす暗く、彼の存在を怪しいものにしている。
その怪しさに拍車をかけているのが彼の格好だった。
ジョーと同じく制服に身を包んでいるところまでは一緒なのだが、彼は目の部分だけがくり抜かれた白いとんがり覆面をかぶっていた。
額の部分には、アルファベットのD、そのすぐ右斜め下にC、そしてCの右上に小さく数字の2が黒い糸で刺繍されている。
覆面の少年はデスクの上に無造作に置かれている写真の中から1枚だけを、小綺麗な白手袋に包まれた手で取り上げ、悦に入った様子でじっくりと見つめた。
写真に写っていたのはひとりの少女、ぷろろーぐに登場した一刀ゆう子だった。
そして、そこに写る彼女の姿はセーラー服姿などではなかった。
キョトンとした表情で写る彼女の身につけているものといえば――、
首すじを細く見せる立て襟、体のゆるやかな曲線にあわさるような光沢を抑えた黒い生地、それを縁どるちょっと暗めの朱い線、そして、まるで漆黒の原野に艶やかに咲き乱れる白い蘭を模した花模様、ももの脇でひかえめに自己主張するスリット……それらひとつひとつが洗練され、完成した美を持っていた。
「ふむ、やはり良いものだね、チャイナドレスというのは……。この一歩は小さな一歩。だがしかし、これからの未来へ踏み出していく大きな一歩でもある」
覆面少年が満足げに呟く。
そう、あろうことか、ゆう子はチーパオ、俗に言うチャイナドレスに着せ替えられていたのだ。
覆面少年は写真をデスクの上に置くと立ちあがって、窓のそばへと移動する。
そしてブラインドを指で細目に開けると、外に見える校庭に目をやり、呟くように低く、それでいて力強い声で言った。
「蝶という昆虫がサナギから成虫になる瞬間、その一瞬こそが極上の美と思ったことはあるかい? 羽化の時のちょっとでも触れてしまったら壊れてしまいそうなガラスのような繊細さ、そして羽を広げた瞬間の例えようのない美しさ、そんな一瞬の感動を永遠な物として残しておきたい、と思ったことは?」
白覆面の問いに、
「わ、悪いとは思うが……なにを言っているのか、まったくもってよく分からん」
ジョーはかなり困惑している様子で答えた。
「つまり、ボクが言いたいのは少女というサナギを破り、大人へと羽を広げる……その過渡期、それが高校時代だ! そして創立から3年目にして、この学校には1年生から3年生、年齢にして15才から18才と、少女のあどけなさと大人の女性の色香が渾然一体となっている生徒たちが数多くそろった! そう、いまこそ我らDCスクエアが立つ時なのだっ!!」
「あ、あの、ちょっといいか……?」
ジョーが消え入りそうな声で口を挟む。
「なんだい?」
自らの演説めいた口調に酔いしれていた少年は不機嫌そうに言った。
「あのだな。なんでそこで、その、チャイナドレスが出てくるんだ?」
彼の問いに、覆面少年は『よくぞ聞いてくれた』というように目を輝かし、
「メイド・イン・チャイナというと、多くの人々が非常に質の劣るもの、質の低いもの、謎に爆発する物を想像する。だが、チャイナドレスだけは別格だ……あれはこの世界の長い歴史の中で、不毛の地において出会いを果たした東洋と西洋、そのふたつの美の要素を持って産み落とされた本当の美だ……単体でも美しいが、それは身につける者がいてさらなる輝きを得る。つまり、チャイナドレスという美と少女という美が融合して、さらに高尚な物となるのだ。そして清楚な中にもほのかに漂う色香……ジョーくん、君ならそれを感じとれるはずだっ!」
恍惚とした響きが、言葉の中に垣間見える。
(本当になにを言っているのかまったくよく分からない……)
絶句したままのジョーにかまわず、覆面は弁舌を続ける。
「……艶っぽくも清潔感を保っているからこそ、ボクはこの学園が創設されるさいの制服コンテストに自らデザインしたチャイナドレス風のものを応募したのに……それなのに……それなのに、あのヘンタイ思想の大人たちがっ! よりにもよってセーラー服を制服に採用するなんて!!」
「あ、あのな……どう考えたってセーラー服のほうが清楚な印象を与えるだろうが……」
「バカを言うな! あんなものに清楚さを求める時代はとうに終わっているよ! ボクにとっても、巷の人々にとっても、もはやセーラー服とは淫猥な響きをもたらすものでしかないっ! 聡明なジョーくんなら、これから先の時代の流れをよむことができるだろう? ならば判るはずだ! これからの時代はチャイナドレス、もしくはそれに類似した美しくも艶やかな雰囲気のものが流行るはずだとっ! いや、流行らせねばならないとっ!! ではボクたちがその未来のためにできるコトとはなにか! 答えは簡潔にして明快だ! ボクたちは先駆けとして、まずはこの学園の生徒たちにチャイナドレスの良さを知らしめなければならないっ! そうとも、教育を施すならば若いうちのほうがいい、そして『千里の道も一歩から』なる言葉もある! さあ、そうと決まったならば、さっそく次なる作戦を開始しなくては! いいね、幹部Jくん」
「おい、ギンナン……なんだ、その幹部Jってのは……?」
唐突に、幹部Jなどと呼ばれたジョーはおそるおそる尋ねる。
そしてギンナンと呼ばれた覆面男はピクリと一瞬だけ動きを止めると、さらに語気を荒くして言った。
「総統だよっ! 総統! そういう些細な事から堅固であるべき組織の統率が崩れてしまう恐れがあるんだ! いいかい、君、この作戦下において、ボクはもはやこの学園の生徒会長である阿房内ギンナンでも、ジョーくんと小中高の長きにわたって机を並べてきた阿房内ギンナンでもないっ! DCスクエアの総統Xだ! 総統Xッ!! そして当然ながら、作戦下においては、君もボクの誇るべき良き親友であり悪友でもある式陣ジョーくんではなく、栄えあるDCスクエアの幹部Jとなるのだっ! わかったかねっ!!」
「え? お、おう……そ、総統……これでいいのか?」
ジョーはその勢いに飲まれてしまう。
「よろしい」
ここまで来たので、覆面男の正体を明かしてしまおう。
きちんと今までの文章を読んでいる方に改めて説明するまでもないのだが、総統Xと名乗る彼の正体は甲乙丙学園の生徒会長、阿房内ギンナンである。
ちなみに、彼の野望である『全世界にチャイナドレスの良さを知らしめなければならない!』ってのは建て前ってヤツ(一応ヤル気だけど)。
本音の部分は『チャイナドレスを着た女の人ってイイよね~』というヘンタイで、さらにはその女性たちの写真でアルバムを埋め尽くしたいと思っているhentaiなのだ。
そして、DCスクエアとは、彼が野望を実現するためだけに結成した秘密結社、
ドレスアップ = D
チャイナ = C
ドレス = D
コミュニティー = C
の略称、つまり『DCの二乗』というわけである。
建て前と本音をうまく使い分け、総統Xこと阿房内ギンナンは壮大な野望に共感する同志を秘密裏に募り、DCスクエアは準備期間を終え、ついに本格的な活動を始めたのだった。
その第一歩が、全世界にチャイナドレスを広めるための橋頭堡、『甲乙丙学園全女生徒チャイナドレス着用計画』であり、ギンナンはその壮大な野望を成就するための頼れる仲間として、式陣ジョーを良く言えばスカウト、悪く言えば巻き込もうとしているのだった。
さて、その巻き込まれようとしている不幸なジョーくんは、
(止めないとダメだよな……今ならまだ間に合う)
と思っていた。
趣味性癖はどうであれ、一応ながら阿房内は長年の友人でもあるのだから。
しかし悲しいかな、常識人はこういうある種の非常識と戦う場面でとことん弱い。
おずおずと口を開いたジョーは、
「いや、あのな、チャイナドレスを広めたいという馬鹿馬鹿しい考えはよく分かったが、写真を撮っておく必要なんかまったくないだろ?」
と、的外れな意見しか口に出せなかった。
「馬鹿馬鹿しいという言葉は不問として、写真を撮る必要性については、もう述べてあるはずだよ。さっきも言ったように、蝶は羽化の一瞬がもっとも美しいんだ。だから、その一瞬の芸術性をフレームの中に収め、永遠のものとするのは至極当然な考えじゃないかな。そして、さらには写真という第三者視点を用意することにより、チャイナドレスを着せられた子も、客観的な視点で自らの美を確認することができるようになる。つまり写真はただの副次的産物ではなく、明らかに美を構成するために外すことのできない要素のひとつなんだよ」
ギンナンはよどみなく、今までと同じように力強く答えた。
その答えに、ジョーは、
(嘘だっ!!)
と思ったが、思い切って口にすることはできず、その代わりに、
「じゃあ、まさかとは思うが、本当に女生徒全員にチャイナドレスを着せていくつもりなのか?」
としか聞けなかった。
「むろん」
ギンナンは至極当然という態度で答える。
「いや、あのだなあ、女生徒全員といっても、その、全員が全員、チャイナドレスを着てくれるとは限らないと思うんだが……まさか力ずくなのか?」
「そのまさかさ。好む好まざるを問わず、女生徒たちにはなにがなんでもチャイナドレスを着てもらう。そのためだけに、ボクは有名アパレルグループが発表したAI搭載型全自動更衣室を発注して早速活用させてもらっている」
「頼み込むとかじゃなくて、強引な手段で着せ替えるのかよ! そこまでいくと法とかコンプライアンスとかにがっつり触れるだろうがっ!」
「大義の前にそんな些細なことを気にしていられるかっ!」
力強く断言したギンナンに、ジョーはふたたび絶句せざるをえなかった。
ちょっとした沈黙が部屋を包んだほんの数秒後、コンコンと生徒会室のドアがノックされた。
「どうぞ」
覆面を素早く外して、ギンナンが答える。
その素顔はアツイ野望を胸に秘めているようには見えず、幼さを感じさせる風貌はどことなく憎めない。
そんなギンナンの居城ともいうべき生徒会室に入ってきたのは、白衣に身を包んだ少女だった。
後頭部でタマネギのようにまとめた髪といい、大きな丸い黒縁メガネといい、その奥に見える気弱そうな印象の瞳といい、ボタンで前をピッタリと止めてしまった白衣姿といい、非常に地味、まったくもって地味というしかない印象の少女だった。
彼女は部屋に入ってきて開口一番、
「会長、このあいだのお話なんですけど……」
「ちょっと待て。話って何の事だ、丘道くん」
ジョーに名前を呼ばれた彼女は、甲乙丙学園生徒会で書記を受け持つ園芸部の女生徒、丘道ジュン。
地味ではあるものの品行方正を絵に描いたような少女で、余談ではあるがジョーくんのガールフレンドでもある。
ジュンは、ジョーを横目で見て、
「DCスクエアに幹部として入ってくれ、っていうお話」
「なるほど幹部か……な、なんだってっ!?」
彼女が見せたあまりの平然さに、一瞬聞き流してしまうところだった。
「おい、ギンナン!」
「総統だ」
ギンナンは素早く訂正を入れる。
しかもいつの間にか、またとんがり覆面をかぶっている。
「そんなことはどうでもいい。それより彼女まで変なことに巻き込むな」
「変なこととは失敬だな……それにもう丘道くんにはいちど協力を仰いでいる。その輝かしい成果がデスクの上にあるじゃないか」
「な、な……? 丘道くん、それは本当なのか?」
無理矢理DCスクエアに引きずり込まれてしまったジョーくんは、なんとしてでもギンナン会長の野望を食い止めたかった。
こんな悪事と呼ぶには馬鹿馬鹿しい計画でも、もし他の生徒たちに知られたら……あっと言う間に生徒たちだけでなく、父兄や教育委員会、はたまたマスメディアまでに広まるに違いない……。
そうなったら自分だけが笑い者になるだけならまだしも、家族にもトバッチリがいく。
そう思えばこそ、是が非でも彼女をこちらの味方につけて、2対1の状況へともっていきたかった。
ところが、である。
「あ、あの……ごめんね、ジョー君。私、生徒会長……いえ、総統閣下の計画には乗り気なの」
ジュンの発言はあまりにも意外だった。
「な、なにっ?」
ジョーは再び驚くしかなかった。
ジュンは髪をほどいて、メガネを外すと白衣をゆっくりと左右にはだけた。
「だってチャイナドレスって……」
解放された黒髪が彼女の肩にかかり、白衣はファサアというかすかな音をたてて、その体を滑り落ちていく。
「けっこうクセになるんだもん……」
そこに現れたのは、光沢を抑えた真紅の生地に、明るい金色の縁取りがされた無地のチャイナドレスを身にまとったジュンの姿だった。
おどおどとうつむきがちだった顔はきりりと顎が引かれ、瞳からは気弱さは消え去り、代わりに氷のような冷たさと炎のような熱さという相反する力を秘めた光を放ち、胸を張るように伸びた背筋、スリットからその白さと艶やかさを誇るように伸びた脚線美、その姿勢と態度は溢れんばかりに内面からにじみ出る自信によって構築されていた。
さきほどまで、そこにいた地味な生徒会書記の姿はなく、今ここにいるのは、『地味』という言葉を自らによって払拭し、内面から輝かしいまでのオーラを放つ美しい姑娘だった。
凛としていながらも、妖しく微笑むカノジョを見つめるジョーくんの驚きは言うまでもない。
(これが本当に丘道くん……ジュンちゃんなのか?)
「驚いた?」
茶目っ気を出しながら、ジュンはジョーの前に立ち、下から見上げる。
「あ、ああ……」
彼女の問いかけに惚けたように答えたジョーは、初めて彼女とデートしたときの緊張感のようなものに襲われていた。
「こっちの私もいい線いってるでしょ?」
「あ……うん」
その問いに、ジョーはうなずくことしかできなかった。
(くそ、俺はどうすればいいんだ……)
2対1に持って行く予定が、こちらが1の立場になってしまっている。
深刻めいた表情を浮かべるジョーを横目に、ジュンはデスクの上に無造作に腰かけると、スリットから伸びたすらりとした脚をまるで見せつけるかのごとく組んでみせ、目の覚めるような明るさの緋色の布靴をつけた足を無邪気に軽く宙で揺らしてみせる。
その態度は妖艶でありながら、不思議と健康的で清々《すがすが》しい清潔感があった。
それでいて、その前にひざまづいて思わず忠誠を誓ってしまいそうな威厳と風格があった。
(たしかにギンナンの言うとおり、チャイナドレスにはなにか美を、さらにはそれ以上のものを産み出す不思議な力のようなものがある! って、このペースにはまってはいけない! しかしながら、チャイナドレスには罪はないわけで……)
ジュンの仕草を見ているジョーの心の中で、今まさに、天使(良心の権化)と悪魔(邪な考えの権化)の戦争(いわゆる葛藤ってヤツ)が勃発していた。
「ねえ、ジョー君。チャイナドレスもそう捨てたもんじゃないよ」
心の天使と悪魔の激しい戦いの最中に、ジュンが身を乗り出すようにして、そっと甘い声でささやく(もちろん悪魔の味方として)。
「ああ、うん……」
思わず肯定と取れる返事をしてしまう。
天使軍劣勢!
(う……しかし……)
「ジョー君がお望みなら、デートもこの格好でしてあげるけど?」
今度はあごに人差指をあてて考え込むようなポーズをとって、ジュンがまるでジョーの心を読んでいるかのように呟く。
(え、その格好で!?)
天使軍がとうとう白旗を用意し始める。非常にまずい状態である。
「さてどうかね、ジョーくん。いや、幹部Jくん、もし我々の考えに賛同してくれるのならば、君の彼女専用にさらなるチャイナドレスを仕立ててやってもよいのだけどね……もちろん無料で」
ギンナンは、ポンッとジョーの肩に手を置いた。
だめ押しであった。
(ああ、神よ。もしいるのならこの罪深き俺を許してくれ……いや許せ)
とても許しを請う態度ではない。
そうして心が決まったジョーの返事は、
「び、微力ながら協力させてもらう」
天使軍完全に敗北……。
悪魔軍は盛大な凱旋カーニバルを繰り広げていた。
いや、天使軍も悪魔軍にまじって、
(いやっほーっ! ジュンちゃんの新たな魅力発見!! 俺も男を磨かないと! ジュンちゃん、俺の彼女でいてくれてアリガトウ!!)
脳内全土でお祭り状態だった。
「おお、協力してくれるんだね! そうかそうか、いやありがとう、心の友よ!」
ギンナンはうれしそうにジョーの手を取って、力強く握りしめる。
とまあ、こんな調子で、悪(?)の計画は密かに進行していたのであった。