『没落令嬢と追放王子──堕ちた二人が手を取り合い奏でる、報いの逆転ワルツ』
煌びやかなシャンデリアの光が降り注ぐ大広間。その片隅で、私はただ立ち尽くしていた。かつてはこの場で微笑みを浴び、賛美を受けていたというのに──今では、誰もが私を笑い者にしている。父の借財と陰謀の罠により、我がアルノー家は没落。家族は離散し、私は社交界から追放された哀れな娘に成り下がった。
「見ろよ、あの落ちぶれた姿を」
「元はあんなに気取っていたくせにね」
「あの女は生意気だ。逆らいやがって……」
背後から耳障りな声が飛んできた。振り返らずとも分かる。声の主は、かつての婚約者だった侯爵家の嫡男。その言葉に取り巻きの令嬢たちが小鳥のさえずりのように笑い声を重ねる。胸の奥がぐつぐつと煮え立つ。けれど私は背筋を伸ばし、表情ひとつ変えずにその場を離れた。唇を噛んででも、涙だけは見せたくなかった。
──誇りを失ったのではない。ただ、奪われただけ。
そう心に刻み込み、私は王都を去った。
その頃、王宮では第二王子ラファエルが断罪を受けていたと耳にする。
兄王子派の策謀により、「不忠」の罪を着せられ、追放されたのだという。
潔白を訴えたと聞くが、誰も耳を貸さなかった。人々は都合の良い物語を信じ、真実を踏みにじる。私と同じだ。
誰もが敵で、孤独に沈むしかない。
数日後、地方の荒れた街。崩れかけた石畳を踏みしめ、私は重い荷を肩に担いでいた。
行商に身をゆだねるしか、もう生きる術はなかったから。
手のひらは荒れ、爪の隙間には土埃が入り込む。絹のドレスを纏っていた頃の自分は、もう遠い幻だ。
ふと、視線の先に立つ青年の姿が目に入った。粗末なマントに包まれた放浪者のような姿。
だが、その瞳は夜会の光を思わせるほどに強く、鋭かった。胸が跳ねる。──あれは、ラファエル王子。
思わず足を止め、息を呑む私に気づいたのか、彼もまた視線をこちらに向け、目を見開いた。驚きとためらい。それでも視線は逸らされず、私の唇は震えながら言葉を紡いだ。
「噂で存じておりましたが……殿下も、追放を……まさか本当だった……のですね」
ラファエルはわずかに目を伏せ、自嘲を滲ませた笑みを浮かべる。
「殿下ではない。今の私はただの放浪者だ」
胸の奥にずしりと響いた。失ったもの、踏みにじられた誇り、孤独に耐えてきた日々。
それを理解する人が、目の前にいる。涙が込み上げるのを必死に堪え、私は小さく笑った。
「……私も同じです。没落した娘として、笑われるばかりの存在」
彼はゆっくりと歩み寄り、その瞳を真っ直ぐに私に向けて囁いた。
「君の真っすぐな目で分かった……ならば、共に立ち上がろう。失った誇りを取り戻すために」
その言葉に心が大きく震えた。絶望の闇の先に差し込む一筋の光。私は迷わず頷き、かすれた声で応える。
「……ええ。私たちで、必ず」
荒れ果てた街角で交わした小さな誓い。それはやがて、王国全土を揺るがす逆転劇の幕開けとなるのだった。
夜風がしめやかに吹き抜ける路地裏。
石畳に腰を下ろした私の隣で、ラファエルは静かに炎の揺れるランタンを見つめていた。
粗末なマントに包まれた彼の姿は放浪者そのものなのに、その横顔は王宮で見たときよりもずっと力強く、確かな光を宿していた。
「……私は没落してから、洗濯場や厨房で奉公をしてきました」
私は自嘲を混じらせながら口を開いた。
「皆、私を落ちぶれた娘と笑いました。けれど、その油断が隙を生んだのです。令嬢たちの愚痴、使用人の噂、商人の密談……誰も相手にしない私だからこそ耳に入る声がありました」
ラファエルは驚きの表情を浮かべ、やがて唇の端を上げる。
「なるほど……危機こそ機会。君は影に追いやられたからこそ、影の声を拾えたのだな」
私は少し肩をすくめた。
「惨めな生き方ですけれど、無駄ではなかったようです」
「無駄どころか、大きな武器だ」
ラファエルの声は揺るがなかった。
「私もまた、追放されて各地を旅する中で、多くの領主や商人と出会った。彼らに誠実に接すれば、心を開いてくれる。今では私の名を聞けば、民の中には本当の王子はラファエルだと言ってくれる者もいる」
私は息を呑んだ。孤独に沈んでいたと思っていた彼は、すでに信頼を編み上げていたのだ。胸が熱くなる。
「……あなたは、孤独ではなかったのですね」
ラファエルは静かに首を振る。
「いや、一人では限界がある。情報を操り、人の心を読む力……それは君のものだ。君が必要だ、セシリア」
胸の奥が強く打つ。私がただの哀れな娘ではなく、彼にとって欠かせぬ存在だと言われたのだから。思わず口元に笑みが浮かぶ。
「ならば、互いを補い合える。あなたの信望と、私の知略。その二つがあれば──」
「奪われた誇りを取り戻せる」
言葉が重なり、二人して見つめ合った。
そして吹き出す。笑い声は小さくとも、夜気の中で確かに温かさを帯びて響いた。
「ただの復讐ではない」
ラファエルは低く、しかし力強く告げた。
「私たちが求めるのは、因果の報い。そして、誇りを取り戻すことだ」
炎に照らされた彼の瞳は真剣で、どこまでも真っ直ぐだった。私は強く頷き、心に刻む。──この人となら、必ず成し遂げられる。もう私は、孤独ではない。
私は古びたサロンの奥に身を潜めていた。
磨きの落ちた大理石の床、壁には剥がれかけの金箔装飾。それでも、ここは未だ社交界の令嬢たちが集う場所だった。
彼女たちは表では華やかに笑っていても、裏では互いの秘密を暴き合い、優雅な笑顔の下に鋭い牙を隠している。私はその牙を、今度は逆に利用しようとしていた。
「セシリア? まあ、まだこの場に顔を出す勇気があったのね」
嘲笑を含んだ声でそう告げたのは、かつて親しくしていた侯爵令嬢エリス。
彼女は兄王子派の集まりに出入りしていると噂される女で、いつも人の弱みを探しては噂を流すのが趣味だった。
私はその性分を、最大限に活かすつもりでいた。
「ええ、落ちぶれても耳は健在よ」
私は笑みを浮かべ、わざとらしく囁いた。
「ねえエリス、聞いたの。あの第一王子派の宴で、不自然に財が流れているって」
彼女の瞳が怪しく輝いた。
「まあ……あなた、そんなことを。面白いわね。詳しく聞かせて?」
私は肩をすくめながら、半分真実、半分虚構を織り交ぜて話を広げた。
元婚約者が裏金を扱っている帳簿、王子派の高官が商人から賄賂を受け取っている証拠、
そしてまだ確認途中の噂話。
それらを「耳にしただけ」と濁しながらも、彼女の好奇心を刺激するように撒き餌を散らした。
「……なるほどね」
エリスは扇を口元に当て、愉快そうに笑った。「あなたの話、他の令嬢たちにも囁いてあげるわ。皆、こういう裏話が大好きだから」
私の狙い通りだった。
エリスのような噂好きが動けば、情報は瞬く間に社交界を駆け巡る。信じる者、疑う者、そのどちらにせよ王子派の評判は少しずつ揺らいでいく。私自身が広めるよりも、彼女たちの舌を利用した方が、はるかに効果的なのだ。
去り際、エリスが含み笑いを浮かべながら囁いた。
「ねえセシリア、あなた……随分と変わったのね。前はただ気高いだけの令嬢だったのに」
私は振り返り、微笑んで答えた。
「人は堕ちて初めて、本当の牙を手に入れるのよ」
その言葉に、エリスは驚いたように目を見開き、次の瞬間には声を上げて笑った。
その笑い声を背に、私はサロンを後にする。──これでひとつ、駒が動き始めた。彼女たちが流す噂はやがて、私とラファエルの計略を支える大きな波となるだろう。
その夜、雨が上がったばかりの石畳の上を歩きながら、私はラファエルの声に耳を傾けていた。湿った空気が頬にまとわりつく。夜の静けさの中で、彼の低い声だけが鮮やかに響く。
「君が噂を操っている間に、私は別の駒を集めていた」
そう前置きして、ラファエルは穏やかに続けた。ランタンの光が彼の横顔を照らし出し、その瞳の奥に確かな決意が見えた。
「追放され、最初は一人だった。誰も信じてはくれず、ただ彷徨うしかなかった。だが──ある夜、私を探していた者が現れた。かつて仕えていた騎士だ。剣を捨て、畑を耕していたが、それでもなお私を主と呼んでくれた」
彼の声はどこか懐かしげで、温かかった。
私は足を止め、彼を見つめる。ラファエルは遠くを思い出すように視線を宙に漂わせた。
「彼だけではない。商いに身をやつしていた従者も、私が潔白だと信じ続けていた。彼は取引先から情報を集め、時に資金を融通してくれた。地方に散った忠臣たちは、表ではただの庶民を装いながらも、密かに私を支えてくれている」
「……そんな人たちが、まだあなたを信じているのですね」
私は小さな声で呟いた。胸の奥が熱くなる。孤独に見えた彼は、実は信念を貫き、仲間を取り戻していたのだ。
「さらに、地方領主の中には王都の贅沢を苦々しく思う者が多い」
ラファエルは淡々と語る。
「彼らに耳を傾け、誠実に答えるだけでいい。そうすれば、自然と心を開いてくれる。私は彼らと酒を酌み交わし、共に食事をし、夜明けまで語り合った。そうして築いた絆が、今の私を支えている」
彼の言葉は重く、嘘のないものだった。私は目を伏せ、思わず問いかける。
「……では今、あなたの背後には……」
「剣を持つ者、金を持つ者、言葉を持つ者。そのすべてが、影となって私に力を貸している。少数だが、信頼できる者たちだ。君が流す噂が揺さぶりをかけ、彼らが証拠や人脈で支える。そうすれば──敵も仲間も一同が集まる舞踏会の夜、真実を晒してやる……勝機は必ず訪れる」
その言葉に、私は胸の鼓動が速まるのを感じた。ラファエルの背後に確かな絆と人々の思いがあると知ったことで、孤独ではないと強く実感できたのだ。
「……あなたは本当に、諦めなかったのですね」
ラファエルは振り返り、まっすぐに私を見つめて微笑んだ。
「諦めることを知っていたら、君にこうして再び会うことはなかった」
その言葉に、私は息を呑む。夜の闇に漂う湿った空気さえ、なぜか清々しく感じられた。──彼となら必ず成し遂げられる。私の心はそう確信していた。
夜更けの下宿は、外のざわめきが嘘のように静まり返っていた。窓の外では月明かりが石畳を照らし、風がカーテンを揺らしては、部屋の中に淡い影を作り出す。
机の上には羊皮紙や羽根ペンが散らばり、蝋燭の匂いがほのかに漂っていた。私とラファエルは机を挟み、舞踏会の夜に備えた計画を練っていた。
「こちらの席には兄王子派の高官たちが並ぶようですね……」
私は羊皮紙を指でなぞりながら言った。
「ここに証人を潜ませれば、一気に形勢を逆転できるはずです」
ラファエルは黙って頷いていた。
だが、しばらくしても彼の視線が図面から離れ、私に注がれているのを感じて、胸がざわつく。私は思わず眉をひそめた。
「……な、何ですか?」
彼は少し笑みを浮かべながら首を振った。
「いや……君は本当に恐ろしいほど聡明だ。没落した令嬢がここまで綿密な策を描けるとは、誰が想像できただろう」
褒められたはずなのに、胸の奥で不安が膨らむ。机に視線を落とし、蝋燭の炎が揺れる影を見つめながら、思わず小さく囁いてしまった。
「……本当に、私を信じているのですか?」
部屋に静寂が広がった。ランタンの炎がゆらゆらと揺れ、壁に映る影が長く伸びていく。息を呑むほどの間の後、ラファエルはゆっくりと微笑んだ。その笑みは穏やかで、けれどどこまでも真剣だった。
「君だけは、決して裏切らないと分かる」
胸が高鳴り、鼓動が耳に響いた。今まで誰からも嘲られ、信じられなかった私に、初めてまっすぐな信頼が向けられた。頬が熱を帯び、言葉が喉に詰まる。
「……どうして、そう言い切れるのですか」
ラファエルは真っ直ぐに私を見つめ返す。その瞳は揺らがず、静かな炎のように私を包んだ。「君の瞳を見れば分かる。そこにあるのは打算ではなく誇りだ。没落してもなお折れない芯の強さを、私は信じている」
視線が絡み、息が詰まりそうになる。
私の唇がわずかに震え、やっとの思いで微笑みを返した。
ラファエルもまた、口元に静かな笑みを浮かべていた。机の上の羊皮紙に記された策謀は、ただの計画図以上の意味を帯びていく。──それは、二人の心が通い始めた証でもあった。
■
豪華なシャンデリアが天井から降り注ぎ、赤い絨毯がまっすぐ広がっている。
絹のドレスと宝石に彩られた令嬢たちが舞い、貴族の笑い声が波のように広がる。そのきらめきに満ちた王宮の大舞踏会の扉が、重々しい音を立てて開いた瞬間、私の心臓は大きく打った。
視線が一斉にこちらへと突き刺さる。
分かっていた。驚きと困惑、そして軽蔑が混じることも。
けれど、私は堂々と胸を張って立っていた。
没落した令嬢セシリア、そして隣には追放された王子ラファエル。誰もが「ここにいるはずがない」と思っていた二人が並んで立っているのだから、ざわめきが広がるのは当然だ。
「まあ、見て……あの落ちぶれた娘が」
「恥知らずにも、舞踏会に戻ってきたのね」
耳に刺さる声。
私は顔を向けなくても、誰が言ったのか分かった。かつての婚約者がわざとらしく声を張り上げる。
「セシリア、お前のような女が、まだ舞踏会に顔を出せるとはな!」
その言葉に取り巻きの令嬢たちが笑い声を重ねる。矢のような嘲笑が降り注ぐ中、私はただ微笑んだ。
唇に浮かべたのは柔らかな笑み。けれど心の奥には冷ややかな炎が燃えていた。笑いたければ笑えばいい。私はもう、彼らの言葉で傷つくことはない。
その時、隣でラファエルが静かに私の手を取った。会場がどよめくのが分かる。
「あの追放王子が……」
「なんということだ」
囁きが幾重にも重なり、広間を揺らす。
だがラファエルは人々の視線を意にも介さず、ただ私の目を見てくれた。その眼差しに、私は確かな誇りを感じる。
私たちは失墜したはずの者たち。
それでも今、この場に堂々と立っている。その事実こそが、シャンデリアの光よりも強く、この舞踏会全体を圧倒していた。
大広間の空気は、緊張とざわめきで張り詰めていた。つい先ほどまで響いていた嘲笑は跡形もなく消え、視線は一斉に私とラファエルに突き刺さっている。
豪奢なシャンデリアの光が、私の手にある帳簿を反射して淡く煌めいた。私は胸元から帳簿を取り出し、ゆっくりと掲げた。
「こちらをご覧ください」
その声に、ざわめきが大広間を駆け抜けた。
金で縁取られた表紙に見覚えがある者も多い。これは、かつて私が婚約準備のために管理していた帳簿の控え。
その中には、不自然な出費の記録と、裏金の流れ、そして密通の証拠が刻まれている。
私は一枚をめくり、震えぬよう声を張った。
「かつて私に婚約を誓った男──アルベルト・クライン。この人物は、裏金で家を肥やし、さらに身分を偽って密通までしていたのです」
そして、私は自ら得た情報をもとに全てを晒す……。
アルベルト・クライン──かつて私に婚約を誓った男。
私はずっと、なぜ彼があれほどまでに私を貶め、笑い者にしたのか理解できなかった。
ただの裏切り、ただの気まぐれ。そう思えば思うほど、胸の奥に澱のような苦しみが残っていた。
けれど、後に知った。彼の裏切りには、あまりに現実的で、そして卑小な理由があったのだと。
クライン家は、表向きは裕福な侯爵家に見えながらも、実際には商会との取引で借金に喘いでいた。アルベルトにとって私との婚約は、家を救う「縁談」でもあったはずだ。だが彼は、その重圧に耐えきれなかった。
彼が密通していた相手は、ベルローズ商会の娘リュシアンナ。金と権力を握る家の令嬢だ。彼女と結べば、資金も影響力も手に入る。つまり──彼は私ではなく、商会の娘を選んだのだ。
思い出す。社交界で私を笑い者にしたあの夜、背後でリュシアンナがほほ笑んでいたことを。
彼女が耳元で囁いたに違いない。「没落しかけた令嬢など不要。あなたには私と私の家の力が必要なのよ」と。
そしてアルベルトは、彼女に縋りつくために私を犠牲にした。
社交界での私の立場を壊し、婚約破棄を正当化しようとしたのだ。
「セシリアはもう終わりだ」
彼がそう言い放ったときの冷たい瞳を、私は今でも忘れない。あれは恋を失った瞳ではなかった。己の家を守るために、愛も信義も切り捨てた者の瞳だった。
全てを公にした瞬間、アルベルトの顔色が真っ青に変わった。「な、なにを……そんなもの、偽造だ!」
だが、周囲の視線は冷ややかだった。
取り巻きの令嬢たちの笑い声は凍りつき、広間のざわめきは驚愕と疑念に変わっていく。
私はその空気を確かに感じ取り、唇に冷たい微笑を浮かべた。
「偽造かどうか、皆様の目でお確かめください。この帳簿は、彼自身の署名で満ちています」
アルベルトが口を開こうとした瞬間、ラファエルが軽く手を挙げた。
それが合図だった。
従者に紛れていた人物が前へ進み出る。次々に商人たちが現れ、広間に響く声で訴えた。
「我らはこの高官に賄賂を要求された! 金を払わねば商売を潰すと脅された!」
群衆がどよめく。高官は顔を真っ赤にし、必死に声を張り上げた。
「で、でたらめだ! そのようなことあるはずがない!」
しかし商人たちは口々に証言を重ね、
さらに一人の男が書状を掲げた。
「ここに、要求された金額と日付が記された書き付けがある!」
動かぬ証拠を突きつけられ、高官の声は次第にかすれていく。
冷たい視線が彼を包み、貴族たちは互いに顔を見合わせた。会場の空気が完全に変わったのを、私は肌で感じた。
そして最後の一撃。ラファエルが懐から一枚の文書を取り出す。
その仕草は迷いがなく、彼の声は広間全体に響き渡った。
「これこそが真実だ。第一王子派が外国と交わした裏切りの密約文書──」
王宮の地下書庫に保管されていた一通の文書。
封蝋には第一王子の印章が押され、その内容はあまりに衝撃的なものだった。
【密約文書】
宛先:北方連合王国 宰相殿
我らが王国における権力闘争において、貴国の援助を乞うものである。
その見返りとして、以下の条件を約定する。
一、王国北部の鉱山の権益を、すべて貴国に譲渡すること。
二、貴国軍が進軍する際には、国境守備兵に戦わぬよう密かに命ずること。
三、王家直轄領の歳入の一部を、十年にわたり貢納すること。
四、王国の次期国王位が我が手に渡った暁には、同盟国としての名目の下、実質的には貴国の従属国として振る舞うこと。
かかる取り決めは、王国の民には一切知られてはならぬ。
我が即位後には、速やかに実行に移す。
第一王子 エドワルド・ヴァルディア
言葉が終わると同時に、大広間は一瞬の静寂に包まれた。次の瞬間、雷鳴のようなどよめきが広がる。
「裏切りだ……!」
「なんということだ!」怒りと驚愕が入り混じり、群衆の表情が凍りつく。王宮の柱に飾られた金細工でさえ、震えて見えるほどの衝撃だった。
アルベルトは力なく膝を折り、高官は蒼白な顔で後ずさる。
第一王子派の貴族たちは動揺を隠せず、互いに視線を交わしている。正統性が音を立てて崩れていく様を、私は確かに見届けていた。
隣に立つラファエルの横顔を見上げる。その瞳は冷静で、けれど深い決意に燃えている。会場を支配するのは、もはや私たち二人だった。
広間は、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。つい先ほどまで勝ち誇っていた貴族たちの顔は青ざめ、アルベルトも高官も声を失い、第一王子派の者たちは互いに視線を泳がせるばかり。煌びやかなシャンデリアの光に照らされながらも、その表情には影が落ちていた。
その沈黙を破ったのは、誰とも知れぬ小さな囁きだった。
「……本当に正義を持つのは、あの二人なのではないか」
その言葉はさざ波のように広がり、あちらこちらから同じ声が続いた。
「真実を示したのは……彼らだ」
「あの女を笑ったのは、間違いだった」
私は胸が熱くなるのを感じた。
群衆の視線が一斉に私とラファエルへ注がれている。
没落した令嬢と、追放された王子。
かつては蔑みと嘲笑の対象だった私たちが、今やこの場の中心に立っている。心臓が大きく鳴り、体中に熱が駆け巡った。
その時、誰かがそっと拍手をした。
乾いた音が広間に響き、私は思わず顔を上げる。続いて、別の場所からも拍手が加わり、やがて波のように広がっていった。小さな拍手はやがて嵐のような歓声に変わり、名前を呼ぶ声が渦を巻く。
「セシリア!」「ラファエル!」
私は驚きに目を見開き、隣のラファエルを振り返った。彼は微笑みを浮かべ、私を見つめ返す。その瞳の奥にあるのは、深い決意と温かな誇りだった。胸が熱く締めつけられるようで、思わず囁く。
「……私たち、誇りを取り戻したのですね」
ラファエルは頷き、静かに答えた。
「ああ。もう、誰にも奪わせはしない」
その言葉に私は微笑みを返す。二人の間に交わされた視線が、言葉以上の意味を持っていた。──この瞬間、逆転劇は完成した。敗者と呼ばれた私たちは、もはや過去の幻。今ここにいるのは、舞踏会の頂点に立つ新たな主役なのだ。
大広間を揺るがした暴露の嵐の後、沈黙が訪れた。その沈黙を破ったのは、誰もが認めざるを得ない現実だった。証拠と証言の重みに抗う術を失った、かつて私とラファエルを陥れ、地に堕とした者たちは、一人、また一人と崩れ落ちていく。
アルベルト・クライン──かつて私に婚約を誓い、今では嘲笑を向けていた男。
その素顔が露わになるのに時間はかからなかった。裏金と密通の記録が白日の下にさらされた彼は、蒼白な顔で言葉を失った。
群衆の視線は一気に冷ややかに変わり、さっきまで取り巻いていた令嬢たちでさえ、顔を背けるように距離を取る。その場で爵位を剥奪されることはなくとも、
「王宮法廷で裁かれるだろう」
との声が次々に広間を駆け巡った。
アルベルトは膝を折り、声にならぬ呻きを漏らすばかりだった。
次に断罪の矛先が向けられたのは賄賂を受け取った高官だ。
商人たちの証言と書状の前に、彼の反論はあまりに空虚だった。
「違う! 私は無実だ!」
と必死に叫んでも、群衆の怒りの声がそれをかき消す。
「王宮法廷で裁け!」
「牢へ送れ!」──怒号の渦の中、彼は兵士に囲まれ、逃げ場を失った。
そして最後に──第一王子派。
ラファエルが掲げた密約文書は、彼らを完全に追い詰めた。王国を売り渡すという裏切りの証拠。会場は「国を売った裏切り者だ!」という非難で満ち、第一王子派の正統性は音を立てて崩れ落ちていった。権威を誇ってきた彼らも、この夜を境に王宮法廷に引き出され、国の前で裁かれることになるだろうと誰もが理解していた。
群衆は次々と囁き合う。
「因果応報だ……」
「これが報いか……」
その声はやがて広間を満たし、空気は完全に変わっていた。そこにあるのはもはや嘲笑ではなく、没落令嬢と追放王子へ向けられる敬意の眼差しだった。
私はラファエルと並んで立ち、冷ややかな目で失墜していく者たちを見届けた。彼が小さく囁く。
「報いは、必ず下るのだな」
私は頷き、静かに答えた。
「ええ。たとえ時を経ても、裁きは逃れられません」
広間を揺るがしていた緊張は、ゆっくりと霧が晴れるように消えていった。
先ほどまで響き渡っていた罵声も怒号も、今では跡形もなく、人々の口からこぼれるのは拍手と歓声だけだった。
煌めくシャンデリアの光の下、貴族も商人も令嬢も、誰もが目を輝かせてこちらを見つめている。その視線の中心に、私とラファエルは立っていた。
心臓がまだ高鳴っている。張り詰めた糸がぷつりと切れ、胸の奥がじんわりと熱で満ちていく。
気がつけば、私は自然とラファエルの手を取っていた。
強く、確かに。彼もまた私の手を包み込むように握り返す。その温もりに、これまでの孤独も屈辱も、少しずつ溶けていく気がした。
「……堕ちたからこそ、あなたと共に立てたのです」
私は小さく囁いた。声が震えたのは、喜びのせいか涙のせいか、自分でも分からなかった。
ラファエルは静かに微笑んだ。その瞳は強い光を宿し、けれど私を優しく包み込む。「そうだ。君となら、何度でも立ち上がれる」
その言葉に胸が震えた。涙がこぼれそうになり、必死で瞬きを繰り返す。視線を絡めた瞬間、互いの瞳の奥に映るのは自分だけだと悟った。
長い間求めていた信頼が、確かな愛情へと変わる決定的な瞬間だった。
「ラファエル!」「セシリア!」──人々の声援が広間を満たす。
拍手は雷鳴のように響き渡り、歓声は波のように押し寄せてくる。
けれど、不思議とその喧騒は遠く感じられた。
私たちの世界には、今や互いしか存在していなかった。
ラファエルが私の手をぎゅっと握り直した。その力に応えるように、私は頷く。
「これからも……共に歩んでいけますね」
「もちろんだ。君となら、どこまでも」
そのやり取りに、胸の奥が温かさで満たされていく。
未来を誓うその仕草が言葉以上に雄弁で、この瞬間を永遠に刻みつけるようだった。
──こうして私たちは、敗者ではなく新たな主役として歩み出す。舞踏会の光の中で、誇りと愛を胸に抱きながら。
その瞬間、確信が胸に満ちた。因果応報の裁きが下り、私たちの勝利は揺るぎないものとなったのだ。