9話 逃げたかった記憶
店の中へと入っていくエメレイの背中を見送ると、スエラは口を開いた。
「別れた後は、友達でいようって約束したのに……。」
「今じゃすっかり、他人行儀だね。」
スエラの優しい声が、スタインの胸を締め付ける。
懐かしさと寂しさが入り混じるような微笑みを浮かべながら、スエラは続けた。
「……最後にくれた手紙に、彼女ができたって書いてあったけど。」
「その子とは、うまくやれてるの?」
スタインは目を伏せ、淡々とした口調で言った。
「……彼女とはすぐに別れた……。」
スエラの表情が、わずかに曇る。
「そっか……。」
それ以上は何も言わなかった。
スエラはスタインをじっと見つめながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「偶然だったけど、会うのは2年ぶりだね……。」
「スーくんがハンター続けててくれて嬉しいな。」
スエラは懐かしそうに微笑みながら、ゆっくりと思い出を語り始める。
「覚えてる? 私がまだアイアンで、スーくんが駆け出しだった頃。」
「……」
「スーくんとは気が合ったし、歳も二つ違いで近かったから、すぐに仲良くなったよね。」
「右も左もわからなかったスーくんに、たくさんのことを教えたし、クエストで本当にいろんなところに行った。」
スエラは少し目を伏せ、懐かしむように続ける。
「本当に長い間、一緒にいたよね…。」
「お互いのことを想いやったこともあったけど……。」
彼女はふっと微笑む。けれど、その笑顔はどこか切なげだった。
「もう、仲のいい師匠と弟子には戻れないのかな?」
スタインはしばらく黙り、ゆっくりと口を開いた。
「……俺は、スエラさんのこと……。」
「今も、尊敬してる。」
「ハンターとしても、人としても、なにも知らなかった俺にいろんなことを教えてくれた。」
スエラは少し目を見開き、そしてふっと微笑んだ。
「尊敬してるなんて、大げさだな~。」
スエラは、どこか照れくさそうに微笑んだ。
「でも、スーくんは…。」
彼女はふっと懐かしそうに目を細める。
「私が育てたもんね。」
優しく、どこか誇らしげな口調だった。
彼女の笑顔は、記憶の中のものとなにも変わらなかった。
愛らしい世界一の笑顔。
スタインは、その笑顔を見つめながら、意を決したように口を開いた。
「でも…それ以上に……俺はまだ……スエラさんのことが……。」
その言葉を、スエラは優しく遮った。
「……そうなんだ。」
スタインの苦しそうな表情を見つめながら、スエラは静かに微笑む。
「手紙には、もう立ち直ったって書いてあったけど……。」
「スーくんは、まだ私のことを想ってくれてたんだね。」
「でも、それはスーくんのためにならないよ。」
「私がその気持ちに応えられないことなんて、スーくんが一番よく分かってるでしょ?」
スタインは、苦しげに目を伏せる。
「……分かってる……。」
「俺がどれだけ未熟で、滑稽で、未練たらしい哀れなやつかなんてことは。」
拳を握りしめ、俯くスタインの肩がわずかに震える。
「それでも……俺は、あの笑顔も、キスも、忘れられないんだ…。」
「別れた時は、理由が分からなかった。」
「でも、今なら分かる。」
「俺のせいで、スエラさんにはたくさん嫌な思いをさせた……。」
「違うよ。」
スエラはそっと首を振った。
「私は嫌な思いなんて、一つもしてない。」
「責められるべきなのは私…。」
「スーくんの想いに応えたくて、曖昧な気持ちのまま付き合ってた。」
「スーくんのこと、好きだって思ってたけど……。」
「付き合ってくうちに、スーくんは“弟”だって感じるようになった。」
「私は、スーくんを男として見れない…。」
「別れたのは、それが理由。嘘じゃないよ。」
スエラの言葉は、優しく、それでいて残酷だった。
スタインは、その言葉を聞きながら、ただ拳を握りしめることしかできなかった。
「そんなの……納得できない。」
スタインの声が震えていた。
スエラは静かに目を伏せる。
「……そうだよね。」
「ごめん。」
「だって、あんなに……。」
スタインは拳を握りしめ、言葉を絞り出す。
「あんなに……。」
一緒に過ごした時間。
交わした言葉。
何度も触れた温もり。
スタインの中では、すべてがはじめてで「本物」だった。
スエラは、スタインの瞳を見つめながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……スーくん、私ね……。」
「とっても楽しかったし、愛されて幸せだった。」
「でも……。」
「スーくんの真剣な気持ちに、自分の気持ちを偽って応えたくなかった。」
ーー 偽りだとしても、そばにいられるならそれでよかった……
けれど、スエラの目を見た瞬間、何も言えなくなった。
彼女は、すべてを受け止めた上で、もう「過去」になろうとしている。
それが、どうしようもなく悲しくて、どうしようもなく悔しかった。
「それに、私なんかよりも素敵な人なんて、たくさんいるから。」
「スーくんは、スーくんのことを想ってくれる人と幸せになるべきなんだよ。」
その言葉が、スタインの胸に鋭く突き刺さる。
「……なんだよ、それ。」
彼の声はかすれ、苦しげだった。
スエラは少しだけ目を伏せ、そっと息を吐く。
「ごめん、ズルいよね。」
「でも、スーくんには私のことなんて忘れて、幸せになってほしい。」
「……俺だって、忘れたいさ。」
感情があふれそうになるのを必死に抑えながら、搾り出すように言葉を続けた。
「何もかも……!」
スタインの声が震えた。
喉の奥から絞り出すような言葉。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、どうしようもない想いが溢れ出そうとしていた。
「だけど、スエラさんと一緒に笑った日々も、ふざけ合った時間も、温もりも、交わした言葉も、すべてが鮮明に焼き付いて……離れない。」
拳を握りしめ、歯を食いしばる。
「幸せだったから。」
だからこそ、手放せなかった。
忘れられなかった。
スエラはそんな彼の言葉を静かに受け止めるように、そっと目を伏せる。
「……スーくん。」
その声は、どこか切なげで、優しかった。
スタインはずっと自身を縛っていたスエラの言葉を吐き出す。
「別れた日、スエラさんは俺に“変わらないで”って言ったけど……」
「無理だったよ。」
「……俺はもう…。」
「誰かと付き合うことも、付き合う資格もない。」
スエラの目が、ほんの少し揺れた。
「……そっか。」
「私、そんなこと言ってたんだね。」
スタインは何も言わず、ただ拳を握りしめたまま、スエラを見ていた。
「でも、スーくんが資格がない、なんてことはないよ。」
「なにがあったかわからないけど……。」
「スーくんは、ちゃんと人を大切にできる人だよ。」
「私がそれを一番よく知ってる。」
彼女の言葉は優しくて、温かかった。
けれど、スタインは首を横に振った。
「俺はもう……スエラさんが知ってる俺じゃない。」
「……」
「別れた後も、スエラさんは俺に優しくして気にかけてくれた。」
「だけど、今はただ、その優しさがずっと痛い。」
「帰ってくるはずがないって、わかってるから……。」
「…もう俺には、関わらないでくれ…。」
スエラは黙って彼を見つめた。
そして、少しだけ目を伏せる。
「……私、またスーくんを傷つけてたんだね。」
スタインの目が、わずかに動く。
「私は、スーくんが大切だったから、傷つけたくなくて……。」
「遠ざけることもできなかった。」
「だから、曖昧な気持ちで付き合って……傷つけて……。」
「別れた後も、私が悪いのに、以前の師匠と弟子に戻りたがって……優しくして……また傷つけた。」
「私のせいで、もっと深く傷つけてしまった。」
彼女の声が、かすかに震えた。
「私は、スーくんのことが大切だった。でも、それは……世話の焼ける弟子として。」
「だから……すべてが許されるなら、師匠と弟子の関係に戻りたかった。」
その言葉が、スタインの胸に深く突き刺さる。
戻りたかった――でも、戻れない。
彼女自身も、それを痛いほど分かっているのだろう。
スエラの声は、自らを責めるようで、苦しげだった。
スタインは視線を落とし、拳を握りしめた。
「……無理だ……。」
搾り出すような声だった。
「何もなかったように振る舞うなんて、できない……。」
「それに、スエラさんとあの人とのやりとりをどんな顔して聞いていればいいか、俺にはわからない。」
「……だよね。ごめんね、スーくん。」
「どうして謝るんだ。俺が悪いのに……。」
「…。」
「……私、あの人と結婚したの。」
スエラは、スタインの反応を気にするように少し間を置いた後、続けた。
「あの人のしたこと、スーくんは許してないかもしれないけど……。」
「私たちのこと、よく知らなかっただけで……。」
「あの人も悪い人じゃないから、許してあげてほしいな。」
スタインは視線を落とし、ゆっくりと息を吐く。
「……許すも何も俺がスエラさんのことを諦めきれなかったせいで、迷惑をかけた。」
「謝るべきなのは、むしろ俺の方だ。」
苦しげな声だった。
スエラは首を横に振り、優しく言った。
「いや、スーくんは何も悪くないよ。」
「手紙ぐらいで怒る方がおかしいんだから。」
「この街には、冒険者のあの人の付き添いで来たの。」
「……。」
スタインは沈黙したまま、その言葉を受け止める。
スエラは穏やかに微笑み、少しだけ言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「話してくれてありがとう。」
「話せてよかった。」
「今はまだ無理かもだけど、困ったらいつでも頼ってね。」
「10年後でも、20年後でも。」
その言葉に、スタインはかすかに息を詰まらせる。
彼女が今、自分とは違う時間を生きていることを、痛いほど理解していた。
彼女の歩む道と、自分の歩む道は、もう交わることはないのだと。
それなのに、自分だけが過去に囚われ、取り残されている。
――もし、俺がスエラさんを好きにならなければ。
そうしたら、弟分として傍にいれたかもしれない。
ただの後輩、ただの弟子として、あの頃の関係を続けられたのかもしれない。
けれど――
俺は、親切にしてくれた師匠に、身勝手に恋をした。
自分の思い通りにならないことに怒り、大切な人に罪の意識を持たせてしまった。
スエラさんは、何も責めなかった。
俺の未熟さも、醜さも、すべてを受け入れようとしてくれる。
それが、どれほど優しくて、どれほど残酷なことか。
――彼女はどこまでも聖人だった。それに比べて俺は、ただ醜い。
苦い感情が喉の奥に絡みつく。
「ついつい、話し込んじゃったね…。」
「エメレイちゃんには申し訳ないことをしちゃったな。」
「ハンターの仕事、頑張ってね。」
「…ああ。」
そして、スタインの顔をしばらく見つめたあと、ふっと名残惜しそうに目を伏せる。
「じゃあ、またね。」
それだけを告げると、彼女は背を向けた。