第17話 ヨーク卿ナイフで刺される
少し遡って、これは王宮に行く前日、学院に通う為に与えられた屋敷から、ヨーク卿が戻ってきた日。
「お兄様、最近ずっと男爵家におりますし、向こうの屋敷は引き払ってしまわれてはいかがですか」
高慢な物言いをしているが、大好きなヨーク卿に家に戻ってきて欲しいだけである。
「ははは、ここから通えない事もないけど、レポートなんかある時は、時間が足りなくなるんだよ」
ヨーク卿は、ちょくちょく帰って来るからとマリーゼを慰めた。
「マーティン▪コルドバ伯爵がお越しです」
「やあ、マーティン。僕が実家にいるとよく分かったね」
ヨーク卿は立ち上がって、マーティンを歓迎して迎える。
「明日は君達が、王宮に行くと聞いたからね」
「マーティン様、いらっしゃいませ。クロエお茶をお願い」
「かしこまりました」
マリーゼは、マーティンにソファに座るようにうながす。
「なんだ、見送りなら明日、来てくれればいのに」
「ちょっと話しておきたい事があってね」
「ほう。それは王宮に行く前にという事か」
ヨーク卿は素早く察して、マーティンの話を聞く事にした。
「まず、パナム領の種蒔きは、やはり長雨が原因で芳しくないらしい。
その事もあり陛下も塞ぎ込みがちで、宮廷も暗い雰囲気に包まれている。
本来なら、王宮に行く豪華なドレスを着ていくべきなんだが、なるべく抑えたドレスを着ていく事をお勧めする。
それにこれは余談なんだがパナム領の事で、懇意にしているコルドバ伯爵家の者に探りをいれてくる者がいるようだ」
マーティンは、兄妹が明日王宮に行く前に知るべき最低限の情報を教えてくれた。
「ドレスについて教えて下さってありがとうございます。マーティン様のお屋敷に探りを入れているのは」
マリーゼが考えをまとめていると。
「ホットラブ暴露記事かもしれないな」
兄のヨーク卿が、つぶやいた。
「ですわね。これで王宮に行くドレスが決まりましたわ。とにかく地味にいかせて頂きますわ」
こうして、王宮に地味なドレスを着ていく事で、陛下のみならず最終的には重臣達も文句のつけようがなくなった。
何より、ホットラブ暴露記事の罠に掛からないで済んだのだから、マーティンには感謝している。
◇◆◇
王との謁見が無事に終わった。
馬車で男爵家に帰る道中、ヨーク卿とマリーゼが取り留めないの会話をしている。
「お兄様が準男爵だなんて誇らしいですわ」
「マリーゼやマーティンのお陰だ。僕1人の力ではないよ」
「さすがお兄様、そんなところも素敵ですわ」
「可愛いやつめ」
ヨーク卿は、マリーゼの頭をポンポンと撫でた。
馬車が、ようやく男爵家に到着した。
「さあ着いたぞ。少し疲れたな。マリーゼも今日は早く休め」
ヨーク卿が、先に馬車を降りる。
「さあマリーゼ、足元に気を付けろ」
マリーゼが馬車を降りるのに、ヨーク卿が手を差し出した。
「ありがとうございます」
マリーゼが地面に足を下ろした瞬間、悲鳴のような怒鳴り声が聞こえた。
「この悪女め、死ねぇ~」
見知らぬ男がナイフを両手に持って、マリーゼに向かって突進してくる。
「ぐうっうっ」
脇腹に刺されたナイフが、グリグリと肉に食い込む。
「痛ってえ」
咄嗟にマリーゼをかばいナイフで刺されたヨーク卿が、男の手首と襟首を掴み地面に這いつくばらせた。
「離せ、お前も妹と同罪だ。ざまあみろ。派手なドレスで王宮に遊びに出掛けていい気なもんだ」
地面に押さえ付けられた男は、顔を横にずらしてわめき散らしている。
「くうぅっ。マリーゼの服を見てみろ。あれが、お前の言う、派手なドレスか」
ヨーク卿はナイフを腹に刺されたままで、男の顔をマリーゼに向けた。
「お兄様、お兄様、お兄様っ」
マリーゼは震える足を支えられずにその場に座り込み、膝を付いたままでヨーク卿に這いずってきた。
「あの地味な服は何だ」
「マリーゼは、パナム領の状況で、派手な服で王宮には行けないと言って、地味な服を着ていった。
それに、くぅっ┅┅、パナム領で泥沼に苦しむ兵士を救ったのも、今日、王宮に食料問題の提案をしてきたのも、マリーゼ」
ヨーク卿はそのまま男に覆い被さり気を失ってしまった。
「お兄様、いや、誰か」
マリーゼの悲痛な叫び声が辺りに響き渡る。
「ヨーク様」
呆気に取られてその場を動けずにいた馬車の従者が男を押さえ込み、男爵家から出てきた使用人がヨーク卿を助け起こす。
「ヨーク様、しっかりなさって下さい」
「そんな、そんな、そんなはず」
男はそんなはずはないと、ずっとブツブツ呟いていた。
◇◆◇
男にナイフで刺されたヨーク卿を使用人達が屋敷に運び、部屋に寝かせる。
「医者はまだか」
執事の怒鳴り声で、ヨーク卿を部屋に運んできた使用人の1人が、あわてて医者を呼びに部屋を飛び出す。
「きゃあ」
使用人が部屋を飛び出したところで、侍女と衝突してしまう。
「す、すまない。お医者様を呼びにいくところで」
「お医者様をお呼びしました」
侍女が呼びに行ったのか、後ろには医療鞄を持った年若い医師がたたずんでいた。
「お医者様、こちらです」
使用人は、医年若い師に手をかざして部屋に入るようにうながした。
「失礼します」
「ナイフで腹を刺されて、意識がありません」
執事が素早く状況を説明した。
医師はヨーク卿の服を医療鞄から取り出したハサミで切り裂き、ナイフで刺された脇腹を確認する。
「ポーションを持ってきたので、ナイフを抜いてポーションで傷をふさぎます」
医師がこれから行う処置に付いて簡単に説明を始めた。
「魔法ポーションがあれば、直ぐに治るんてすよね」
やっとのことで口を開いたマリーゼの顔は、涙でグショグショだ。
「ナイフで刺された箇所の血を止めることは出来ますが、流れた血は戻らないので安静にさせて下さい。では、始めます」
医師は用意させたタオルを脇腹の周辺に敷き詰めて、慎重にナイフを抜いた。
ナイフを抜くとヨーク卿の脇腹からは、真っ赤な血がどくどくと溢れだしてくる。
「お兄様」
マリーゼは、あわててヨーク卿の傷に手を当てて、血があふれないように押し当てる。
「邪魔だ、どけ。誰かこのお嬢様をどかしてくれ」
物静かな印象だった医師が、突然大声をあげて、マリーゼをヨーク卿から、どかすように指示が出ている。
ヨーク卿のベッドの周りにいた執事や使用人は、驚いて顔を見合わせてから、おどおどとマリーゼの後ろから腕を掴んで引きはがした。
「いやあ、お兄様」
ドタ
ドアの近くで大きな物音がして、マリーゼと医師以外は、後ろを振り返った。
「旦那様」
なんと仕事場から駆け付けた男爵が、ヨーク卿の腹の回りの血を見て、驚きすぎたのか倒れてしまった。
「旦那様が」
執事や使用人達は倒れた男爵に駆け寄って、呼吸が正常なことだけ確認して安堵する。
マリーゼを邪魔者扱いしながら、医師はポーションのフタを開けて、ヨーク卿の脇腹にまるで血を洗い流すように、たっぷりと流しかけた。
すると血が止まり、みるみる傷口が閉じていく。
「あ、あ、傷が、ふさがった。びえ~ん」
マリーゼはヨーク卿のふさがった傷口に頬を付けて、泣きじゃくる。
マリーゼの様子から、男爵が倒れたことにも気が付いていないのかもしれない。
「こっちは終わった。ご令嬢のお陰で、ちっ、まあいい。そっちは、仰向けにして」
(このお医者様、今、舌打ちしましたよ)
執事や使用人は信じられないものを見たと言う顔だが、口には出さない。
ただ言われた通りに、倒れた男爵を仰向けに寝かせた。
「脈拍正常、呼吸正常、心臓正常、頭は打っていないようだ。軽い脳振とうだと思います。ベッドに寝かせて下さい。直ぐに目を覚ますでしょう」
医師は気絶している男爵の診察をして、テキパキと指示を出していく。
「お父様」
マリーゼが、ヨーク卿の周りに人がいないことに気が付いて、後ろを振り向いたら、今度は男爵が、倒れているではないか。
マリーゼは転びそうになりながら、倒れ込むようにして、男爵の前にひざまずく。
「お父様~、マリーゼを置いていかないで」
マリーゼは、今度は男爵にしがみついた。
「ちっ」
(また、舌打ちしましたよ)
どうやら、大騒ぎをするマリーゼが、診察の邪魔だと思われている。
「治療は終わりました。私は帰るので、お嬢様への説明はお任せします」
医師は患者の治療だけすませると、そそくさと帰っていった。
「お嬢様、旦那様はヨーク様の血を見て驚いて倒れられたようです。お医者様が診察して、問題ないそうです」
「どこも悪くないのね?」
「はい」
「良かった。お父様を部屋のベッドに運んでさしあげて」
本当であれば、男爵の側で看病したいが、ヨーク卿の方が重症だったので、マリーゼはヨーク卿の側を離れる気にはなれなかった。
「かしこまりました」
ヨーク卿を運んできた使用人の3人が、今度は男爵を抱えて部屋を出ていった。