トマト
田園は妥協の余地すら無く地平線の彼方まで続いていた。
見渡す限りのトマト畑だ。
この場所に立っていると、まるで世界中がトマト畑に覆われてしまったような気がした。広大な田園風景にはそんな理不尽な説得力があった。
逆説的に言えば、僕らにとっての世界なんてものは所詮見渡せる程度の広さでしか無いのかもしれなかった。単に今は、僕らの見える範囲が全てトマト畑であるだけなのだ。それ以外の物事はすっぽりと認識の範疇から抜け落ちてしまっている。
そんなことを想っていると、隣で彼女がストンと腰を下ろした。何かのスイッチを切ったような、唐突な座り方だった。
「もうじき日が暮れるわ」
彼女は弱々しく呟いた。口調には諦めが五割ほど感じられた。
此処に迷い込んで数時間が経っていた。もう、僕らの街がどちらの方向にあるのか、皆目見当もつかない。時間の経過は確実に僕らの中から方向感覚を奪ってしまっていた。
そもそも、本当にこの太陽が西に向かって沈んでいるのかどうかすら、今では疑わしかった。果たして今は本当に夕暮れなのだろうか。僕らを取り囲むトマト畑は、世界中の秩序あるものを吸収して貪欲に拡大を続けているようにも思えた。
冷たくなり始めた外気に指が悴み、僕は無意識にコートのポケットに手を突っ込んだ。その手に、何かが触れる。取り出して、その包み紙を開ける。キャラメルだ。ちょうどニつある。
無言で傍らに差し出すと、彼女は興味の無さそうな目で眺め、首を左右に振った。
「食べた方がいい」と僕は言った。「どのみち、今夜は此処から抜け出せそうにない」
彼女は無表情で黙り込んでいたが、やがてしぶしぶ僕の掌から一つを取った。
二人でトマト畑の中央に座り込み、無言でキャラメルを舐める。周囲にはたわわに実ったトマトが放つ甘酸っぱい香りが満ちていた。それは12月の外気と混じり合い、僕を少し混乱させた。もともと、トマトなんてものは12月に実をなすべきものではないのだ。
落ちていく太陽、何処までも続くトマト畑、冷たい空気、それでも漂う夏の香り。
不意に、僕の脳裏を様々な記憶が焼いた。それはまるでダムが決壊したかのような、強烈で速度ある回想だった。誰かが僕を罵倒し、誰かが僕に甘い言葉を囁く。ある者は僕を蹴り飛ばし、ある者は僕を抱き締める。
迸る記憶の奔流に、僕は瞳を閉じた。
もういい、と思った。やめろ、もういい。結局、僕はこうして此処に行き着けたじゃないか。たとえ楽園じゃないにせよ、僕は終点に着いたんだ。それでいいだろう?
ふと、左手にひやりとした感覚があった。目をやると、彼女の華奢な右手が僕の手を包んでいた。その冷たい掌が、僕の奥底の何かしらを揺さぶる。僕は何も言わずに、彼女の手を握り締めた。
「あ……」
不意に、彼女が顔を上げる。その瞳は沈みゆく太陽に染まり、橙色に輝いていた。
「何か、聞こえる」
なかば呆然としながら、彼女は太陽の沈む方向を睨む。僕もつられて目を凝らした。
立ち上がって耳を澄ませると、甲高い鳴き声が確かに耳に届いた。やがて僕の視覚は斜陽の中にシルエットを認める。小さな、本当に小さな影だ。
鳶、だった。
彼女はそれを眺めながら、微かな、本当に微かな笑みを見せた。その安堵はやがて僕の強張った指先に伝わり、胸の奥に確かな温度を残す。
悲観すべきことは、やがて何処か遠くの世界へと連れ去られる。
───救援が駆けつけたのだ。
2009/12/16.〈了〉