神様かくれんぼ
僕には居場所がなかった。
小学一年生のとき、お父さんは家を買った。それはこれまで住んでいたマンションよりも広々とした家で二階や庭まであった。お父さんは「どうだ良い家だろ」と自慢げに言ったが僕は少しだけ不満があった。新しい家の近くには新しい家そっくりの家がいくつも建っていて何だか大きなおもちゃみたいだったからだ。
それでも最初の二年間は平凡に過ぎていった。お父さんとお母さんと庭でバーベキューをしたり、自分の部屋を貰ったりした。だけど、三年目の真ん中くらいからお父さんの帰りが遅くなった。お父さんは「偉くなって仕事が多くなったんだ」とか「家から会社まで遠いから遅くなるんだ」と言っていた。たまの休みになってもお父さんは昔のようにバーベキューをしたり、虫取りに行ってくれなくなった。
多分このころから僕の家はおしまいに向かっていたのだと思う。
それは寒い日だった。
お父さんの帰りを待てずに寝てしまった僕はひどい怒鳴り声と金切り声で目を覚ました。それはお父さんとお母さんの声だった。でも僕にはそれが他人のように感じられた。お父さんはひどく低い声でお母さんにひどいことを言い。お母さんはひどく感情的にお父さんを責めていた。僕は声が聞こえないようにと布団にもぐりこんだが二人の声は小さくならなかった。
それからしばらくしてガレージから車が出る音がした。
この日から僕はお父さんを見ていない。朝になって僕とお母さん二人だけの朝ご飯を見て僕はもうお父さんは帰ってこないのだと理解した。それから一年間はお母さんとの生活が続いた。おっとりとした性格だったお母さんは少しせっかちになり、そして怒りっぽくなった。僕は怒られないように宿題や忘れ物をしないように頑張った。学校では先生が「最近よく頑張ってるね」と褒めてくれたが、お母さんは僕に何も言ってくれなかった。
それでもたまにお母さんが優しくなるときがあった。職場の同僚だという男の人が来るときだ。男の人が来るとお母さんは「本当にいい子なんですよ」と頭を撫でてくれた。男の人は「そうかぁ。すごいね」と言ってくれた。だから僕は男の人が来てくれるのが嬉しかった。なぜなら彼が来るとお母さんの機嫌がいいからだ。
「おじさんずっとこの家にいてよ」
言ったのは僕だった。お母さんは少し困惑した顔をして、男の人はひどくうれしそうな顔をした。しばらくして男の人が僕の新しいお父さんになった。家にお父さんがいてくれればお母さんの機嫌がよくなる。そう思っていたのにそうならなかった。お母さんとお父さんは家に僕がいると不機嫌になった。
「本当にあの人にそっくりだわ」
「どうしてそんなこともできないんだ」
二人は僕の些細なことで怒った。コップの置き方がうるさい。小学校のテストで百点以外をとるなんて頭が悪い。だから、僕は頑張った。今まで以上に勉強を頑張ったし、家の手伝いもいっぱいすることにした。でも僕は怒られた。何をしても二人はダメだと言った。僕は出来損ないなのだと何度も言われた。
ようやく僕は気づいた。もう、この家に僕の居場所などないのだ。
それからは僕はできるだけ家にいないようにした。放課後は図書室で借りた本を公園で読んで、陽が沈んで文字が見えなくなってから家に帰るようにした。そんなある日、僕は公園で同級生たちがかくれんぼをしているのに気づいた。彼らから離れたベンチにいる僕には彼らがどこに隠れているのかよく見えた。
公園の傍に建てられたお社に一人、公園の外周沿いの植え込みの後ろに一人という具合に鬼から隠れた姿がこちらからは良く見えた。彼らは僕のことなど見えていないように何度もお互いを探し、隠れ、そして探しあっていた。
じっと彼らを観察していると一人の男の子だけが鬼になっていないことに気づいた。ヨシキ君と呼ばれる彼は毎回、お社の方に隠れに行く。それは鬼になる子供も知っているらしくお社の方を探しに行くが見つけられずに帰ってくる。何度もその様子を見ているうちに僕はヨシキ君がどこに隠れているのか知りたくなって読んでいた本をベンチに置いてお社の方へ向かった。
お社には貴船神社と書かれた額が飾られていたが、雨風のせいかひどくくすんでいた。僕はヨシキ君が来たと思われるほうをぐるりと回ってみる。クーラーボックスくらいのお賽銭箱と学校のウサギ小屋ほどしかないお社を慎重に探ってみるがどこにも人の気配はない。お社の前にはお供え物と思われる缶ジュースがいくつか置かれているが、中に入れるような入り口はない。周りにも小さな木がいくつか生えているが人が隠れられるような大きさはない。
ヨシキ君は消えていた。
そうとしか思えないほど、ここには何もなかった。
どうしてだろうと首をかしげていると十七時を知らせるサイレンが鳴った。この辺りの子供たちはこのサイレンが響き渡るとと家に帰り始める。かくれんぼをしていた同級生たちは口々に「も―帰るよ」と叫んで公園からそれぞれの家へと帰っていく。僕はそれをぼんやりと眺めてから、陽が沈むまではもう少し本を読んでいようとベンチに戻ろうと足を浮かせたときだった。
お社の木壁が外れて中から一人の少年が出てきていた。それはヨシキ君だった。彼は社の中から身を乗り出したところで僕に見られていることに気づいたらしくひどく嫌な顔をした。
「がり勉。なんか文句でもあるのかよ」
ヨシキ君は外していた壁板をもとのように戻すとばつが悪そうに僕を睨みつけた。
「いや別に文句はないけど……。そんな場所に隠れていたんだね」
「すごいだろ。俺が見つけたんだ」
少しだけ嬉しそうに笑ってヨシキ君は「ちょっと待ってろ」と言ってお社の正面に戻っていくと二本の缶ジュースをとって帰ってきた。そのうちの一本を僕のほうに投げるとヨシキ君は「口止め料」と言って僕から目線を外すと缶ジュースを開けた。
僕はこれがお供え物だと知っていたからどうしていいかわからずに困惑した。
「飲めよ。誰も見てない」
少しだけ僕は悩んだが、ヨシキ君からもらった缶ジュースを開けた。プシュっと気持ちいい音がして缶が開く。僕はそれに口をつけると一気に飲み干した。ジュースは温かったけど甘く美味しかった。
「ありがとう」
僕がお礼を言うとヨシキ君は「飲んだんだから黙ってろよな」と言って走り去っていった。考えてみればめちゃくちゃな理屈だと思う。だけど、僕はヨシキ君と秘密を共有できたことが嬉しくて缶ジュースの缶を宝物のように握りしめていた。
それから、ヨシキ君とはたまに話すようになった。
ヨシキ君からすれば僕が秘密を誰かに話していないか見張るつもりだったのかもしれないし、単純に共犯者は友達と思っていたのかもしれない。どちらであっても僕は秘密を誰かに話す気はなかった。少なくともこの秘密を守っている限りはヨシキ君とのつながりを感じられたからだ。
反対に家に帰ると僕は誰ともつながりを感じられなくなっていた。お母さんはもう僕を怒ることさえしてくれない。見えないよう。いないもののように僕は無視された。唯一、認識されるのはお父さんが僕を怒るときだけだ。お父さんはこの世のすべての悪が僕にあるかのようになんにでも罪を見つけた。お母さんはそれに同意するときだけ僕を見てくれた。
助けてほしい。でも僕はそんなこと一言も言わなかった。
きっと言えばお母さんはもっと僕を嫌いになることが分かるからだ。お母さんにとって一番はお父さんでそれ以外はいらないものなのかもしれない。だとすればもう僕はとっくの前にいらない子になっているに違いない。それでも僕はお母さんが好きだったし、迷惑をかけちゃいけない。
僕はただ黙って二人の怒りを受け入れた。
冬が終わって学年が一つ上がった。ヨシキ君とは相変わらず少し話すくらいだったけど。僕はそれでもよかった。ただ、困ったのは長い休みだった。家に僕がいるとお父さんたちの機嫌が悪くなる。だから、僕は夏休みになると家にはほとんど近づかず公園でじっとしている日が増えた。
日差しをさけて木陰のベンチに座っても汗が噴き出てくる。たまにどうしようもなく喉が渇いて公園の水飲み場の水をがぶ飲みする。夏の陽は長く沈み切るのを待つのは大変だった。それでも家に帰ろうとは僕は思わなかった。
公園ではたまにヨシキ君たちが遊んでいた。かくれんぼをしていることもあれば、鬼ごっこだったり、高鬼だったり日によってそれはまちまちだった。ある日、いつもの面子が足りなかったからかヨシキ君がかくれんぼに誘ってくれた。
「今日はケイスケがいないからお前も混ざれよ、がり勉」
乱暴な誘いだったが僕はそれが嬉しかった。
ほかの子たちは僕が加わることに少しだけ困惑していたけど。反対はしなかった。じゃんけんで負けた子が公園の一番大きな木に向かって「一、二。三、四――」と数え始める。僕はどこに隠れたらいいのだろうと少し考えてお社の方へ走る。お社につくとちょうどヨシキ君が壁板を外していた。
ヨシキ君はじっと僕をみつめたあと「こい!」と短く言った。僕はせかされるように外れた板の間から社の中に入るとヨシキ君がぱっと板をはめなおした。最初は真っ暗で何も見えなかったが、目が慣れてくるとお社の壁には大小さまざまな隙間があってそこから外の光が入り込んできていた。
どうやらここはお社の祭壇の真下らしい。階段状になった板の上には、お社の神様が祭られているのだろう。僕は少しわくわくした気持ちになっていると「お前、本当に話さなかったな」とヨシキ君がぶっきらぼうに言った。
「うん、約束だから」
「そうか」
しばらく黙ったあとヨシキ君は少し声を潜めた。
「ここにいると神様の気持ちになれる」
「神様に?」
僕は神様がいるなんてあまり考えたことがなかったのでヨシキ君の言うことがよく分からなかった。ピンとこない顔をしていたのがばれたのかヨシキ君は「待ってりゃ分かる」とそっけなく言葉を吐き出してじっと誰かがお社の前に立った気配がした。
光がさしていた板の隙間に陰できて、鈴を鳴らし、手を叩く音がした。
僕が驚いて声を出しかけたのでヨシキ君がぱっと僕の口をふさいでシーと仕草をとった。僕は何度も何度も首を縦に振るとヨシキ君がゆっくりと手を話した。耳を澄ましているとお社に何かお願い事をする人の声が小さく聞こえた。
それは嫁とそりが合わない、というお婆さんのものでお願いというよりも愚痴に近いものだった。お婆さんが去ったあとヨシキ君は「面白いだろ」とにっと微笑んだ。確かに誰かの願い事を聞くというのは面白い。僕たちはそのままお社の中にいるとまた誰かが前に立った。
好奇心で耳を澄ませると女性の声がした。
「お陰様で新しい子供を宿すことができました。ありがとうございます」
お供え物だろうか何かを祭壇に置く音がする。ヨシキ君が「ラッキー」と小さく呟いたが僕の耳は女性の声を一切聞き漏らすまいと集中していた。
「どうかあの子との縁が切れますように。どうしても私にはあの子が愛せません。似ているのです。顔が、仕草が、どうしてもあの人に似ていて。それが憎くて憎くて仕方ないのです。どうか、私とあの子との縁を切ってください」
女の人は最後にそう願うと足早に去っていった。
僕は夏の暑さなど忘れて震えていた。僕はあの女の人を知っていた。その声が好きだった。彼女が幸せならそれでよいとさえ思っていた。それなのに彼女は僕のことを憎んでいた。別にお父さんに似たかったわけでも真似をしていたわけでもない。ただそうなっていただけだ。
愛してほしいと願いました。
でも、お母さんは僕を愛してくれない。僕にはそれがようやくわかった。僕は初めて泣いた。ヨシキ君は僕がなぜ泣いているのか分からずオロオロしていたが、僕が説明すると「そうか」と小さくうなずいた。
「まぁ、でもわからないぜ。お前のお母さんもああいってるだけで、お前がいざ消えたら慌てて探しに来るかもしれない。そうだ。お前はこのままここで隠れてろよ。夜になってもお前が家に帰らなかったら、きっとお前のお母さんも探してくれるさ。そしたら、俺がこっそりここにいるって教えて連れてくるからさ」
ヨシキ君は自信ありげに微笑んだ。
僕はそうだと良いな、と彼の言葉にうなずいた。そして、神様にお願いをした。
大人たちがいなくなった僕をいつ探しに来てくれるのか分からなかったので、僕はじっとかくれていなければならなかった。僕は隠れているのに鬼のように「もーいいかい」と何度も訊ねた。だけど、その声に答えてくれる声はない。
空の星が煌めく時間になって、お社の方に来る人影があった。一つは小さな陰で、もう一つは小柄な女性のものだった。
「早くこっちだよ」
ヨシキ君が先導するように前を走っている。女性はひどく慌てた顔をしていたがそれは僕がよく知るお母さんの顔だった。ほんのわずかな時間、会っていないだけなのにひどく久しぶりにお母さんの顔を見た気がして僕は胸が締め付けられそうになった。
「この中だよ。ほら早く会ってあげて」
ヨシキ君が中にいる僕に聞こえるように大きな声で言う。
「本当にこの中にあの子がいるの?」
「ホントだよ。あいつ泣いてたんだ。だから……お願いだよ」
「このことはあなたしか知らないの?」
「俺だけだよ。だから早く」
「そう。ありがとう」
それはとても冷たい感謝だった。お母さんは板を外していたヨシキ君の首に何かを押し当てた。浮き輪から空気が漏れ出すような音がしてヨシキ君は地面に倒れ込んだ。彼は何か言いたげに口をパクパクと動かしていたけどすぐに動かなくなった。
お母さんはヨシキ君を足で横にどけると木板を外して狭い隙間に屈みこんだ。
「そこにいるの? いるならお母さんと帰りましょ? あの人も心配してるわ」
お母さんの手元にはヨシキ君の首をかき切った包丁が握られていた。
僕は「もういいかい」ともう一度だけ訊ねてから、お社の中に屈みこんでいるお母さんの頭に大きな石を打ち付けた。鈍い音がしてお母さんがこちらに振り返ろうとしたけど僕は何度も腕を振り下ろした。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十……」
お母さんだったもの最初は動いたり何かを叫んでいたけど、十を過ぎたあたりからあまり動かなくなって最後は殴るたびに鳥のような変声を出すだけになった。僕はようやく「もういいかい?」と訊ねたが「まだだよ」という声はしなかった。
僕はお母さんをお社のなかに必死に押し込んでから、外に倒れていたヨシキ君に近づいた。彼は涙を流していた。首はぱっくりと開いておりそこからは魂が抜けだしたような虚ろが見えていた。
「ごめんね」
僕はヨシキ君に謝った。
彼はお母さんが僕を本当は愛していると信じてくれていた。でも、僕はそれが信じられなかった。だからお社の外で隠れていた。きっとお母さんは僕がこのまま帰ってこないほうが幸せだと思ったからだ。結果は僕の思った通りだった。
ヨシキ君の死体を運ぼうとしたが、うまく力が入らずに動かせなかった。
「もういいか」
自分から出た言葉に僕は驚いた。
驚きながら僕はひどく冷たい頭で動かなくなった彼の身体をお母さんと同じように社の中に押し込むと板をはめ込んだ。目の前から目障りなものがなくなって僕はとてもさっぱりした気持ちになった。
「もういいよ」
僕は真っ暗な公園へ歩き出した。