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鈍色の卵

作者: 髙見青磁

 薄く眼を開けて上を見る。細い乳白色の空が横切っている。まさかこんな所で財布を無くしてしまうとは思ってもみなかった。街の入り口に立った時、僕のポケットには小銭が少し入っているだけだった。こんな不案内な都会で落とし物を探すのは大変だろう。今にも雨が降ってきそうだ。まずは交番を探さないといけない。僕は通りを西へと下って行った。

 間もなく昼時になるだろうか、この街の商店街はにわかに活気づいていた。焼き鳥にドーナッツなどが売られている。とある店先では餃子の試食販売が行われている。ふと自分の中で暴力的な空腹がゆっくりと食指を動かす。いいや、だめだ。食べちゃだめだ。人の欲望を潤すそれはとてもとても甘美な味がするけれど、一度口に入れたが最後、欲望のままに支配されてしまうに決まっているのだ。僕は電池の切れかかった時計のように不規則にふらふらとまた歩き出す。「生あります」という看板の下で女が卵を買っている。女のぷっくりとした指先が卵に触れる瞬間をどこかで見たような気がする。支払いを済ませて女がこちらへやってくる。

「その卵を譲ってくれませんか」

声をかけると女は曖昧な笑みをこちらに向けてきた。そして、卵の上に座るとおもむろに腰を振り始めた。僕は女がそうするのを黙って見ていた。ひとしきり腰を振った後で女はこちらを向いた。

「この卵は割れない卵になってしまいました。それでももらっていただけますか」

馬鹿な。割れない卵があるはずがない。僕は割れなくてもいいので譲ってくれるようにいった。意外にも女は素直に卵をこちらによこした。

「ところでこの辺に交番はありませんか」

卵を受け取りながら聞いた。卵はほのかに女の体温が混じっていた。

「この先を左に折れて200ギルテほど行くとあったと思いますよ」

女はまた曖昧な笑みをたたえてこちらを見ている。ありがとう、それじゃあと言って別れを告げると女はギシギシと笑って手を振った。

 どのくらい歩いただろうか、女の言う通り交番は確かにあった。小さな建物の中に警官が一人立っていた。

「あの、こちらに財布は届いていないでしょうか」

警官がこちらを向く。三白眼の瞳が常に天井を見ているようだ。

「分かりました。まずあなたがどちら様なのか証明していただけますか」

言っていることはよく分かる。だが、僕にはまず自分がだれであるのか証明する術を持ち合わせていない。財布に入っていたあの小さな身分証明書が唯一自分を証明できるものだったのだ。僕が何も言えずに困っていると警官は続けて言った。

「お困りのようですね。では財布が見つかった時のために連絡先を教えていただけますか。財布が見つかったその時に身分を証明できるものをお持ちください」

瞬間、光明が見えたような気がした。しかし、財布を引き渡すときに身分を証明するものが必要だ。僕はそれを無くして困っているのだ。何とかその窮状を警官に伝えようとした。だが、それも結局無駄だった。警官はその三白眼を相変わらず天井に向けているだけだった。

 誰も僕を証明してくれる人はいない。どこかに帰るべきところがあるのではないかと思ったがそれもすっかり忘れてしまった。僕は街をさまよった。一生懸命にさまよった。必死すぎて汗が出てきた。頭の中から、体中の毛穴という毛穴からとめどなく僕の体を湿らせている。ああ、これは炭酸カルシウムの汗だ。僕を濡らし続けている汗はやがて固まり、みるみるうちに殻を作ってゆく。曇天の空の色を反射して僕はついに鈍色の卵になってしまった。そして僕はこの街でいつか殻の割れる時をじっと待ち続けている。それを見て女がまた腰を振っている。そうだ、僕は生まれたのだ。いや、もしかしたら死んだのかもしれない。あの割れない卵を捧げ持ち、僕は儀式を、復活の儀式を待っているのだ。


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