聖女、寝て起きたら次の仕事
もしも悪夢を見ることができるのなら、それは体に余裕があるのだろう。
もしも夢など見ている暇がないのなら、それは体が悲鳴を上げているのだろう。
アンナリーザの体は、この数ヶ月ほどのリビングデッドとの戦いで、ボロボロになっていた。魔力がなんとか回復しても、回復したばかりの魔力はすぐ戦闘に注ぎ込まれる。国の結界も張らないといけない。でも、弱音も吐けない。
今、アンナリーザが弱音を吐いてしまったら、聖女が疲弊している。我々もここまでだ。
そう避難している信者たちが思ってしまったら、このかろうじて続いている避難生活も崩れ落ちてしまう。
恐怖に陥った人々は、自分にとって都合のいい言葉以外が信じられない。
綱渡りの状態で続いている避難生活は、聖女が神殿に残って信者たちを守っているという、この構図によってかろうじて成立しているのだから。
「……せめて、魔力が全快できたら」
本来ならば、カルミネの指摘通り、彼女が魔力を全快させた上で呪文詠唱をし、リビングデッドを一気に鎮めてしまえば楽なのだが。それにはコストがかかり過ぎる。
信者たち全員の安心と、彼女を四六時中守る騎士たちの安全を確保できない限り、彼女の魔力が全快しようがしまいが、これは机上の空論に過ぎないのだが。
その日も、アンナリーザは夢を見ることなくこんこんと眠り続け、揺さぶる震動と同時に目が覚めた。
「……リーザ様、アンナリーザ様……っ!」
「ん……なにかしら。ラビア」
「ああ、おはようございます。お休みのところ大変申し訳ございません」
ラビアもひと晩中、地下を守るために結界を張り続けるのに参加したのだから、魔力も体力も削られているだろうに。彼女は白い肌にいささか疲れを滲ませて、アンナリーザの眠っていた地下の最奥に座っていた。
「……神官長様がお呼びです。どうなさりますか? まだ魔力が回復してないのでしたら、もう少しだけでも眠ったほうが……」
「んー、平気。また結界を張れば、魔力は回復するから」
「アンナリーザ様、それはいくらなんでも、体に悪いです」
「わかってるけど。神殿には既に魔力供給できるだけの薬なんてないからねえ」
ラビアが心配そうにしているので、彼女の頭をかき混ぜてから、アンナリーザは手早く手櫛で長い金髪をといて寝癖を整え、地下から出た。
神殿の地上部。中庭では信者たちがひなたぼっこしているのが見えた。
避難生活中でも、一日一回は日の光を浴びないと体によくないと言ったのは、たしか神官のひとりだったと思う。実際、避難していた人々も、ひなたぼっこしている間は心穏やかに過ごしているようで、アンナリーザも安心した。
「せいじょさまー!」
小さな子供が中庭の花を摘んで手を振っているのに、アンナリーザも笑って振り返す。ひなたぼっこしている人々の引率をしている巫女見習いたちも、微笑ましそうに笑っているのを横目で見ながら、アンナリーザは神殿の奥へと向かった。
神殿の最奥には祭壇。普段、そこで彼女は祈りを捧げて国の結界を強化しているが、その手前には神官長が存在している。
神官長は本来ならばアンナリーザより十ほど年上くらいのはずなのだが、気の毒なくらいに老け込んで、髪にも髭にも白髪が目立った。もし年齢を公表しなければ、誰もが老人だと思うことだろう。
神官長は国王が決めたありとあらゆる国内の祭りを司っている存在なため、結界で閉じ込められた今もなお、神殿内から外部の仕事に追われていた。アンナリーザも気の毒にとは思うものの、聖女の彼女と神官長では、同じ神殿に所属という立場でも使命が違うため、手伝うこともできなかった。
「お呼びでしょうか、神官長様」
「アンナリーザ、昨晩も誠にご苦労でした。日々体力を削られている中で」
「いえ。仕方がございません。全ては信者を守るためですから」
「それはそうと、昨日は結界から吟遊詩人を拾ってきたと伺いましたが」
「ああ……カルミネですね。彼は基本的に無害ですので、滞在させても問題ないかと」
しゃべってみたが、彼は金に目がない吟遊詩人のように、ゴシップを暴き立てて酒場で歌うタイプではないようだ。あることないこと騒ぎ立てられるようならば、巫女や神官の監視を付けなければならなかったが、彼ははっきり言ってヘタレだった。
大したことないだろうと、食事係兼監視としてラビアを付けて放っておくことにした。どのみち結界を張られている以上は王都にすぐ戻ることなどできないし、王都に戻ったとしても、せいぜい恋愛の歌くらいしか歌わないだろうから。
神官長が「そのことなんですが」と口を開く。
「彼はこの聖都を包む結界の綻びから入ってきたとのことですが」
「はい……昨日も様子を窺ってきたのですが、確認ができませんでした。もし結界から脱出できるようであれば、せめて女子供から順番に外に逃がしたかったのですが」
「ええ。そのことです。そのカルミネ……でしたか。彼は魔力は?」
「いえありません。本当に普通の吟遊詩人です」
「……やはり、どうにもおかしいですね。結界に綻びが生じているにもかかわらず、王都がその結界をそのままにしているというのは」
それにアンナリーザは考え込んだ。
元々リビングデッドが発生してパニック状態になった信者たちは、我先にと王都から脱出しようとしたのだが、途端に皆、「ギャッ!」と悲鳴を上げ、聖都の全域を結界で閉じ込められたことに気付いたのだ。
入ることは自由で、出ることができないというなら、まだ納得はできるが。
でもそもそも国民をリビングデッドから守るために張った結界で、わざわざ国民が中に入るように見張りなしで放置するだろうか。結界の外のことは、閉じ込められて数ヶ月。当然ながらちっとも結界の外の情報が入ってこない。
「これはもう一度結界のほうにまで行って、確認を取ったほうがいいですね。カルミネが大丈夫そうならば、彼にも同行を頼みます」
「ええ、そうしてください。ただ、日が落ちない内に帰ってきてくださいね」
「わかっております。私もお勤めがございますから」
神官長はアンナリーザに対して心底同情的な目を向けたが、彼女は背筋を伸ばした。
やらなければならないことがあるときのほうが、なにもできないよりもまだマシなのだから。
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中庭でぱしゃぱしゃと水遊びをしている光景に、カルミネは少しばかり驚いた。
聖水は既に切れてしまってはいるが、純粋な水不足には悩まされていないらしい。泉が湧き出て、そこで水汲みをする神官見習いや巫女見習い、遊んでいる子供たちのほうに、カルミネは自然と足を運んでいた。
「やあ」
「あら……吟遊詩人の方ですか?」
子供たちを優しく見つめていた顔が一転、巫女見習いの吟遊詩人を見る目が厳しい。神職にここまで冷たくされたことがないため、自分以外の吟遊詩人がよっぽどあることないこと吹聴して回ったらしいと、カルミネはげんなりとする。
「アンナリーザ様に助けてもらったおかげで無事ですが……リビングデッド、数は減らないんでしょうか……?」
「……現在、リビングデッドを浄化する手段がございません。できないからこそ、我々は籠城するしかないんです」
「ええ。そこが少し不思議だったんです。聖水が足りない。まあわかります。浄化するための魔力が足りない。それも昨晩の戦闘を考えればわかります。が、そもそもリビングデッドはどうして神殿の中に入れるんでしょうか?」
そこがカルミネにとって一番の疑問だった。
リビングデッドが聖水に弱いのは、触れると浄化されてしまうから。呪いにより起き上がったリビングデッドの呪いを解いてしまったら、リビングデッドはもう起き上がることができない。それは浄化のための呪文にも同じことが言える。
だがそもそも神殿には結界が張られているはずだ。聖都だってそうだ。
だからこそ、現状聖都が王都からの結界によって閉じ込められている現状がまずおかしいのだ。本来ならば安全なはずの聖都ルーチェに、いったいなにがあったのかと。
巫女見習いも神官見習いも、顔を見合わせてしまった。昨日のラビアと同じような反応に、これはまた話が聞き出せそうもないか。とカルミネが諦めようとしたとき。
「いっぱい出たから」
泉で水遊びをしていた子供のひとりが言う。
「え、いっぱい出たって、なにが?」
「リビングデッド! こわかった!」
「でもせいじょさまがエイヤーって、呪文となえてたすけてくれた! かっこよかった!」
子供たちがキャッキャと語り出したのに、カルミネは途方に暮れた顔で、子供たちと巫女見習いたちの顔を見比べる。
やがて子供たちの保護者が「こらっ!」と子供たちを抱き抱えて地下に退散してしまった。それをポカーンとカルミネは見送っていると。
「カルミネ、ちょっといいかしら?」
アンナリーザの声に、慌てて巫女見習いと神官見習いが礼をするのに、カルミネも釣られて頭を下げる。
「ええっと……聖女様がなにか?」
「少し結界の綻びまで付き合って欲しいんだけど、いいかしら?」
よくないです。夜より弱っているとはいえど、リビングデッドが徘徊している街に出たくないです。
カルミネの根っからのヘタレ根性で出そうな声は、先程から反応の冷たい人々の視線により、有無を言わせてはもらえなかった。