第九話 水没
「じゃあ今からクラスごと出発時間をずらして山に登っていきます。頂上についたら自分のクラスの担任の先生のもとに集まるように」
バスに揺られ二時間。これから上る山のふもとで、学年主任の先生がクラスごと並んだ生徒たちに話をする。
けれど後ろに立ってる奴らは、こそこそ話をしたりスマホをいじったりで真面目に話を聞かない。
蔵井先生が適宜注意をして静かにするけど、近くにいるときだけだ。蔵井先生が他の奴らに注意をしに離れたとたん、べらべらと話を始める。
安堂先生も注意をしているけれど、生徒にのせられるだけで全然ちゃんと注意をしてくれない。それどころか蔵井先生に注意をされている。
他の登山客はそんな光景を横目に、なだらかな坂道を上って、山へと昇っていく。
何となくじめじめした気持ちになり、隣の清水照道を見ると軽く咳き込んでいた。
バスに乗っている間奴は静かにしていたけれど、黙ったわけじゃなかった。
時折思い出したように私に話しかけ、やれ景色がどうだとかちょっかいをかけてきて、酷く煩わしかった。
咳き込んでるのもきっと喋りすぎだろうと思うものの、やけに苦しそうだ。奴は私の視線に気付くと変顔をしはじめる。こちらを馬鹿にしているのだろう。くだらない。くたばれ。
しばらく真っ茶色にそまり、ざらつく地面を睨んでいると、クラスごと、順番に山登りへと出発しはじめた。
私のクラスは三組だから、三番目だ。
早く山登りが始まって、隣でにやけ面をするこの男を振り切らなければ。
「じゃあ次は三組~っ」
学年主任の先生の声掛けで、私のクラスの出発が始まった。
背負っていたリュックのひもを握りしめ、前を歩く生徒に続いていく。ふもとから頂上までは二つのルートがある。なだらかな坂道が続き、キャンプやハイキング、散歩として近所の人間にも親しまれる緩やかなルート。手ごたえを求めるような、岩や切り立った道、山に沿うような森が混じる厳しいルートだ。
今回体験学習で登るのは楽なほうだと聞いた。走るのは苦手だけど、坂道程度なら清水照道を振り切れる可能性もある。
それに出発の時は他の登山客に迷惑をかけない為に、クラスごと分散させただけで、ゴールは皆一緒じゃなくていいらしい。
登る間に別のクラスの人間たちが混ざって、誰がどこにいるのか分からなくなったあたりで人に紛れ込めば大丈夫なはず。
見上げると、前のほうを歩く生徒たちは、人と人との間隔がまばらに空きばらけ始めていた。
一人で黙々と上る生徒もいるけど、三人二人で並んで山登りをしている奴らのほうが圧倒的に多い。
うんざりしながら足を動かしていると、清水照道はにたにた笑いながら隣を歩いてくる。まだ前の人たちは団子のようにくっついているし、逃げられない。
「萌歌ペース早くない? そんな最初から飛ばして平気? こっから先がきついんじゃん?」
なんだこの、労わるような物言いは。腹が立つ。
馬鹿にしているのか。それとも優しくして後から馬鹿にする気なのか。どっちにしてもむかつく。陰キャに山登りは無理だとでも言いたいのだろうか。
確かに私は体力はないし足も遅いけど、小さいころはよく近所の山をお父さんとお母さんと一緒に登っていた。頂上でお弁当を食べたし、山に登れないわけじゃない。
清水照道をきつく睨むと、同時に後ろから声がした。
「照道ーっどこだー!」
後ろから寺田が叫んでいる。距離も空いているし、その間には人もいる。、寺田たちが急激にこっちに来ることはないだろう。わずかに安堵していると、清水照道が一切の反応をしないことに気付いた。いつもなら馬鹿みたいな返事をするはずなのに、まるで聞こえていないかのように黙々と歩いている。
「てるみちー! いないのー?」
今度は千田莉子の声だ。しかし清水照道は返事をしない。それどころか表情がどんどん能面のようになっていって、恐怖すら感じた。
「お、おい、呼ばれてるぞ」
声をかけると強い目を向けられたら、怯む。清水照道はため息を吐いてから声を張り上げた。
「……照道ここー!」
「ちょっと来てくんねえ? 河野が呼んでるー」
清水照道がまた私を見た。今度はこちらの様子を窺う、私の選択を待つ目つき。選ぶ権利なんて私にはない。それなのに奴は考え込んでいる。その時間が苦痛で、私は迷う肩をわずかに押した。
「い、け」
「でも」
「……わっ、わらわらここに来られても、め、め、迷惑だ、いけっ」
そう言うと、清水照道は「そのほうが安全か」と呟いて足を止め、逆走を始めた。なんだかその表情がやけに頭の中に残っていくような気がして、私は奴を振り切るように前を見据えて歩いたのだった。
◇
一つ一つ、石と小枝を地面に沈めるように歩いていく。
清水照道と別れて大体一時間、団子みたいに固まっていたり、三人くらいで歩いて邪魔な生徒を追い越して山を登っていくと、ふもとの景色は生い茂った木々に隠され、周囲は霧に包まれ始めた。
きちんと初心者コースである確認をして、分かれ道を進んでいく。私の前を歩く生徒は見えず、後ろも歩く生徒がうっすらと見えるだけ。
でも油断は出来ない。のろのろ歩いていたら、後ろから来た清水照道たちに馬鹿にされるに違いない。「待っててくれたの?」なんて言って、絶対馬鹿にしてくる。
ああいう奴はいつだってそうだ。こっちの事情なんて考えない。あいつは心配みたいな顔をしていたけど、きっと演技だ。心配してるふりをして、近づいて利用する。人の前に立ちたがる奴はみんな等しくクソなんだ。
中学の時だってそうだった。小学校のころ私は話の仕方が変だと馬鹿にされて酷い目にあった。だからお母さんが私が話をするのが苦手だと言うことを中学に入学するときに学校側に説明してくれたけど、でも、それが駄目だった。
一年の時、教室で私は「樋口さんは上手く話ができない子なんだよ」と入学式から教室に戻ってすぐに発表された。そのまま黒板の前で自己紹介をさせられた。「だからみんな樋口さんを受け入れてあげてね」なんて言っていたけれど、あの瞬間まさしくクラスのみんなと私が切り離された瞬間だった。
次は二年の後半だ。一年の時の発表は二年になっても付きまとい、私は「うまく話せない子、一年の頃の自己紹介で変な喋り方をしたやつ」として周知され距離を置かれていた。
そんな時、クラスで中心にいる奴の作文が、夏に開かれた国が主催している高校生のコンクールか何かで賞を取ったのだ。
その題材が私だった。
私は自分が題材にされていたことを全く知らず、夏休み明け、先生が皆の前で発表し愕然とした。私はそれまで奴とは一度も話をしたことがなかったし、書いてもいいかなんて聞かれていなかった。
呆然としていると、秋にスピーチコンテストがあり、そこで作文は国の偉い大臣とかの前で読むと担任が説明し、通例では作文を書いた本人が読むものだけれど、ここは私が読むべきだとみんなの前で言い放ったのだ。そうすることで、私と同じ悩みを持つ皆を元気づけられると笑って。
そんなこと、出来るわけがない。何度首を横に振って、嫌だと言ってもなかったことにされて、なら始業式が始まる前に皆の前で読めばきっと大丈夫だと、この場には私の味方しかいないのだからと、そう言って先生は私を黒板の前に立たせ、読み上げるであろう作文を持たせた。
顔を上げれば、好奇の目が一瞬にして私に集中した。皆そろえた様に唇に弧を描いているように見えて、二つ並んだ白目に丸い点がぎょろぎょろとこちらを覗いている。
その光景を前にしたとき、心臓がばくばくして、足が震えて、背筋がとにかく寒くて、気が付いた時には胃液がせり上がってきて、どうしようもなくなった私は盛大に吐いた。
吐いてはいて、先生が駆け寄って私の背中に手をまわした瞬間どんどん吐き気が止まらなくなって、皆が私のことを避けて教室の、黒板側とは正反対の方向に皆が寄って、校内を歩いていた先生たちが状況がおかしいことに気付いて、教室に入ってきた。
後のことは、もう地獄としか言いようがない。ゲロまみれの私は入ってきた先生たちに運ばれて、保健室に連れていかれたあと病院に行った。その後は、悲しそうな顔をしたお母さんが迎えに来て、一緒に帰った。その夜、お父さんは私に部屋にいるよう言って、しばらくすると玄関のチャイムが鳴って、担任と、作文を書いた奴の声、そしてお父さんとお母さんの話声が聞こえた後、声を荒げる二人の声が聞こえた。
担任の先生は、きっと私が誤解をしているから会わせてほしいという一点張り、最後にはお父さんが出ていくよう伝えて、担任たちは出て行った。
そして次の日、私は学校を休んだ。
お母さんもお父さんも、行きたくなったら行けばいいと言ってくれて、でもこのままだと高校の受験に響いてしまうことは自分が一番よく分かっていて、嫌だったけど始業式から一週間経った頃、学校に行かなければと朝起きて、制服を着て、教科書をもって、玄関を出ようとした瞬間、急激に吐き気が込み上げてきて、吐いた。
何度吐いても吐き気は収まらなくて、玄関をぐちゃぐちゃにして、お母さんが背中をさすってくれても全然吐き気が収まらなくて、結局救急車で運ばれた。それからまた、一週間くらいたって、今度こそ大丈夫だと自分に言い聞かせて玄関の手すりを握ると、また駄目だった。
それからは、もう学校に行くのは無理かもしれないという話になって、お母さんたちと学校が話し合いをして、三か月間私は家にいた。
それから担任ではなく別の先生が家に来て、プリントや授業をまとめたものを家に届けてくれて、家に来たとき両親経由で渡してくれれば、内申点の評価をすると言われた。
学校に行けない間、私はお母さんと近所の散歩を初めて、慣れてきたら図書館で勉強をしたり、病院に行ったりしていた。
そうして少しずつ、少しずつ外に出る機会を増やし、学校に向かうことのないまま三年生になった頃。私は高校の受験をしたいと言った。
このままだとお母さんにも心配をかけ続けることになる。お母さんとお父さんの不安げな表情や、心配そうな顔を見たくはなかったし、ネットで高校について調べると、通信制の高校を見つけたことも大きい。中学のいない高校を選んで、それでも駄目だったら通信制の高校に切り替えればいいと逃げ道を発見して、私は少しだけ前向きになれた。
それから、お母さんやお父さん、ネットで有志の人がアップしている勉強の動画を見たりして、高校受験の勉強をした。
出席日数に不安がある分試験では絶対にいい点数を取らなければいけなくて、小学校虐められてまともに授業が受けられなかったし、中学で授業を受けていない分勉強は大変だった。
受験票の提出はお母さんがしてくれたけど、試験は自分がしなきゃいけない。受験当日の朝、服を着替えて、朝ご飯を食べて、鞄をもって、靴を履き替えて。そして玄関のドアノブを握ったとき、足は震えたけど吐きはしなかった。お母さんは嬉しそうに笑って、試験すら受かってないのにおめでとうと喜ばれた。
そんな経緯を経て、この高校に入ったわけだけど、まさかあんな奴、清水照道が六月になって現れるとは思っていなかった。クソ、本当にクソだ。
嫌な気持ちが拭えないまま黙々と山を登っていると、景色が変わったことに気付いた。今まできちんと道になっていたはずなのに、どこか獣のようで転がる大きな石は無くなり、代わりに小ぶりな岩がごろごろと斜面に鎮座している。地面は雨なんて降っていないのに湿っていて、ぬかるんでいる気がしてならない。