第八話 微熱
「萌歌、ちゃんとハンカチ持った? スマホの充電はしっかりある? いざとなったら笛を吹いて周りに知らせるのよ」
玄関でリュックを背負う私に、お母さんが忙しなくあれこれ確認をする。
夏休みが始まって一週間。今日は校外学習の日だ。
朝、学校に集まって、バスで県内の山のふもとまで行き、登る。山頂のコテージでカレーを作って帰宅するだけの行事だ。夏休みの登校日もかねていて、今日さえ行けば夏休みが終わるまで学校の人間たちと会うことはない。
正直山登りなんてしたくないし、クラスの連中となんてもっと嫌だ。でも行かないと、変に目立って、後からずる休みをしていたんじゃないかと疑われてしまう。
別に私一人行ったところで影響なんてないのに、それ見たことかと糾弾してくる。
私はもうそんなことが起きないように、お母さんやお父さんの「嫌なら休んでもいいよ」という言葉に首を横に振ったのだ。
私は校外学習に行きたくない気持ちを悟られないようにして、「……い、いってきます」とお母さんに伝え、家を出た。
扉がしまったのを確認してから、ため息を吐いて学校へ向かって歩き出す。
今日の天気は晴れだ。朝見た天気予報では、梅雨明けの兆しが見えてきましたねなんて言っていた。いっそのこと、大雨でも降ってくれたら雨天中止になっただろうに。さすがに大雨の中、山登りなんてさせないだろうし。
いっそ、雨でも降ってくれたらいいのに。
そう思って、ふと終業式の日を思い出す。
あの日、結局団地付近の連れ去りと同じように駅まで清水照道に送られた。
駅に着く頃には雨は止んだけど、奴は髪まで濡れ、見ているこっちが寒く感じるほどだった。
時期的に、電車は冷房がこれでもかと効いている。絶対に風邪を引くと思っていたけれど、夏休みが始まり会うことはなかったから、どうなったのか分からない。連絡先も知らないし。
というか今日、またあいつのへらへらした顔を見なくちゃいけないのか。
私はうんざりとした気持ちで、学校へと歩き出した。
学校にたどり着くと、もう既に校門の前にはバスが停まっていた。
バスの正面にはそれそれクラス番号が割り振られていて、乗り降りする扉の前には各クラスの担任が立っている。でも並びは順番じゃなくてバラバラだ。担任である安堂先生の姿を探して歩いていると、ちょうど一番端から二番目の位置に立っていた。
先生はいつも河野由夏たちにくっついている人間に囲まれ、楽しそうに話をしている。話しかけ辛くて様子を伺っていると、先生は私に気付いた。
「あら樋口さんおはよう! バスの座席は自由だから、空いている席に座ってね」
投げかけられた声に会釈をして通り過ぎ、バスの中へと乗り込む。
安堂先生には、私が人となるべく話をしたくないことを伝えていない。
先生と私で面談をする、なんてこともないし。知らないだろうと思う。本当なら、ある程度説明をしておいたほうがいいものらしいけど、中学校の一件があって、知られないほうがいいんじゃないかと黙ったままだ。
でも、安堂先生は私について知らないけれど、そうしておいて良かったと思う。先生は基本的に、私や、クラスの中で権力のない人間を見ない。先生がいつも考えて気を遣うのはカースト上位にいる人間たちだけだ。私がどういった状況にあるのか説明して、何か改善されることなんてないだろうし、悪化するほうが想像に容易い。
今もなお、安堂先生は周りのキラキラグループを気遣う。バスの座席を見渡すと、後ろのほうにキラキラグループと思わしき派手な鞄たちがあり、中央には身を潜めるようにオタクの男子グループが集まっていた。後の面々はまだ来ていないか、鞄だけ置いてバスの外で会話をしているらしい。
オタクの男子立ちは入ってきた私に気付いた後、明らかに気が抜けた表情をして、また会話を再開する。
小学校のころ、男子たちは集団でゲラゲラ騒いでることが多かったけど、中学に入ってからは上下関係みたいなものがクラスの中にも出来た。
現に清水照道がオタクの男子のグループの前を通ると、オタクの男子たちは俯いて息を殺すし、馬鹿の寺田が鬱陶しい絡み方を男子たちにしても、男子たちは「すいません」とへりくだったような態度だ。
そうした態度を取られて、寺田や河野由夏たちは当然のようにしている。きっと、自分が世界の中心にでもいる気なのだろう。
きっと奴らは後ろの席に座る。騒がれても嫌だし、かといって安堂先生の近くも嫌だ。しばらく考えて、先生の座る席とは反対の席を選んで座る。どうせ私の隣に座る人間なんていないから窓側だ。私は早速持ってきていた本を取り出した。
校外学習があって暇になるからと、勇気を出して買った本。まだ読み慣れていないから新鮮な気持ちだ。挿絵があるページは何となく見られるのが嫌で、手早くめくっていく。
「萌歌ちゃん剣持って眼鏡かけてる奴がお気に入りなの?」
かけられた声に勢いよく本を閉じる。隣を見ると、さも当然のように清水照道が座っていた。制服じゃない、私服の姿だ。いかにもリア充のような格好で、奴は耳につけたイヤホンを取り外しながら私の本を興味深そうに見つめている。
「前も読んでたやつ、眼鏡かけてたよな。そん時は杖持ってたけど。どうしよう俺伊達のやつ買っちゃうかな〜」
「ど……どけ、何で、とー、隣に座ってくるんだ」
声を潜めながら睨むと、奴はそんな視線もろともせず「俺酔いやすいし? 前のほうじゃないときついんだよねえ」なんてけらけらと笑う。これ以上話をしていても埒があかない。座席を変えようとすると、奴は膝に肘をのせるようにして通せんぼをしてきた。ぶつかった膝が、やけに熱くて気持ち悪い。
「まぁまぁ、静かにしてるからここにいて? 寝たいならちゃんと照道くん黙ってるから」
このままじゃ通れない。座席を変えることもできない。いっそこいつの丸まった背中を踏み倒して移動してやろうか。そう思ったけれど河野由夏たちがゲラゲラ騒ぎながらバスに乗ってきた。そして私と清水照道を見るなり、歪に口角を上げた。
「えー照道樋口さんの隣なのー?」
「そう、ちょうど萌歌が窓際座ってたから、詰めて逃げられなくしてみた」
「照道こわ、ストーカーっぽいよ? 今ゾワッとした」
「何言ってんたよ押してダメならって言うじゃん?」
「いやそういう時引くんだって」
河野由夏はいかにも高そうな靴を履いて、笑いながら後ろの席へと歩いていく。
その後を千田莉子、寺田、その他がついていった。
自分に話題の矛先が向けられなかったことに安堵しつつ、今清水照道をどかそうとするなら確実に奴にネタにされると考え、私は移動を諦めた。
せめて奴が視界に入らないよう窓に目を向けると、窓の外に保健室の先生と萩白先輩の姿が見えた。先輩は今日もマスクをしながら、バスの近くに停めてあった乗用車に乗り込んでいる。
服は制服じゃなくて、柔らかな色合いのパーカーにジーンズ姿だ。横顔しか見えなかったけれど、間違いなくあの姿は萩白先輩だろう。
でも、今日は一年生の行事のはず。二年生と三年生は休みだ。登校日でもない。
何もすることがないから、私は休み時間の間、廊下に張り出されている学年共通の予定表をよく見ていたし、間違いはない。
それに、養護教諭の先生は引率の先生のリストに入っていたから、体調が悪くなった先輩を移動させているわけでもないはずだ。
疑問に思っていると、安堂先生が乗り込んできて点呼を初めた。
先生は河野由夏に「先生今日の服かわいいー! 気合入ってんじゃん」と揶揄され、恥ずかしそうに笑い、点呼を中断して河野由夏と会話をしていく。
どうして先生はこんな感じなんだろう。
白けた気持ちになって、俯く。そういえば隣の清水照道は、騒ぐ気配がない。恐る恐る視線を向けると、奴は安堂先生に冷え切った目を向けていた。
しかし私の視線に気づいてか、顔をぱっと明るくして「なあに? 何か飲みたい? 間接になっちゃっていいならスポドリあるよけど」と鞄を漁りだした。
さっきのは、目の錯覚か。
私はため息を吐いて、窓の外の動かない景色をぼんやり眺めたのだった。