第五話 望郷の夕焼け
「じゃあ皆、さようなら」
今日の授業がすべて終わり、帰りの支度を終えた鞄を肩に背負う。
一時間目の音読以降、清水照道が何か言ってくるのではないか、という私の警戒は杞憂として終わってくれた。
授業終了以降、清水照道はいつも通り私の存在に触れず、河野由夏らと騒いでいる。
きっとあの件は一過性のものだったのだろう。
安堵しながら教室を出て、人目を避けるように廊下の端を歩いて下駄箱へと向かっていく。すると、下駄箱に通りかかったところで「おーい」と今日散々聞いた声が後ろからかかった。
無視を貫き歩みを進めると、ぱたぱたと喧しい足音とともに、「樋口さんちょっと」と人を馬鹿にしたような声が響く。
渋々振り返ると、やはり清水照道がへらついた顔でこちらに向かって駆け寄ってきた。その後ろには河野由夏、千田莉子、寺田、そしてその他もろもろの、クソキラキラグループがくすくすと笑いながらこちらを見ている。
下駄箱に隠れて、バレていないつもりなのか、バレても平気だと見下しているのか、どちらにしても不愉快だ。
「樋口さん、一緒に帰ってくんない?」
くんない。
そう答えてやりたいけど、どもっているところを目の前にいるこの男や、河野由夏たちに見られたくない。
首を横に振って否定を示すか、今この場でそれをしたら不自然に見えるか。結論が出せず沈黙していると清水照道は「迷ってる感じ? なら連れ去っちゃお」なんて道化じみた声を発しながら勝手に私の腕を取り、すたすたと下駄箱まで歩いていく。そして迷うことなく私の下駄箱から靴を取り出すと、揃えるようにして床に並べた。
「お嬢様、お靴を履き替えて差し上げましょー、なんて」
清水照道はそう言うと、私の足首をつかみ、勝手に上履きを脱がす。そして靴に履き替えさせると「はい」と上履きを差し出してきた。
「……え」
「持ち帰るんだろ? ほら」
促すように、ずいと上履きをまた差し出された。何でこいつは私が持ち帰ることを知っているんだ。戸惑いながら上履きを受け取り、それを入れるために用意している靴入れに入れて鞄にしまう。清水照道はへらへらしながら、自分も靴を履き替え、乱暴に靴箱の扉を閉じると私に向き直った。
「じゃ、帰ろ樋口さん」
こちらを見透かすような、目つき。
今すぐ突き飛ばして、ここから逃げたい。
でも逃げてしまえばどうなるか、私は知っている。明日さらに酷い目に遭わされるだけだ。だから、私に選択肢なんて、最初から与えられてない。
こんな奴、消えちゃえばいいのに。
心の中で呪いながら一歩進むと、清水照道は満足げに頷いた。そして私の後ろのほう、こちらを見張っているクソキラ連中に勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
私は憎しみを抱きながらも、校門へ向かって歩き出した清水照道について行ったのだった。
「一緒に帰った記念ってことで、撮っていい?」
そう言って、清水照道は黒いケースに入ったスマホをこちらに向ける。
背後に視線を感じながら学校を出て、大体三十分が経ったけれど、全然学校の最寄りの駅に着く気がしない。
学校を出る時に「樋口さん電車通学でしょ?」と言われ頷いて以降、さっきから訳の分からない路地を、ただぐるぐると歩いているだけだ。
私のような人間と歩くところを見られたくないからと思っていたけど、時折人通りの多いところを歩いたり、店に入ったかと思えば、ぐるりと一周して出てきたりとよく分からない。
こいつは一体何を考えているんだ。
鞄の紐をぎゅっと握りしめながら、私の前を愉快そうに隣を歩く清水照道の真意を探っていると、奴は道の端によりスマホをインカメラモードにして、私の肩を抱き寄せた。
「初めて帰り記念ーっと」
カシャン、と電子音が響く。
「よし、最高じゃん! 絶対誰にも送らないようにしよ。悪用されたらやだもんな」
清水照道はわざわざスマホの画面をこちらに向け、撮った写真を見せてくる。
満面の笑みを浮かべた清水照道と、俯く私。
どう考えても、最高の写真ではない。
しかし手慣れたような操作でキラキラしたクソフレームをつけて、明るさを調整し、楽しそうに編集していく。そうして私や、自分の周りに、馬鹿らしいキラキラをつけながら、清水照道は「あのさあ」と切り出した。
「ちょっとついて来てもらいたいとこあんだけど、まだ時間ある?」
「……え」
「雰囲気最高の場所あるんだけど、樋口さんと一緒に行きてえなーって思って」
そう言って清水照道は私の腕を掴むと、一気に走り出した。
意味も分からず足が縺れると、私の腕を掴む奴はそれをカバーするように速度を上げる。時折後ろをちらちら確認しては、速度をまた上げる。その速さは何かを振り切りようにも感じられて、また頭に疑問が浮かんだ。
なんだこいつは。一体何がしたいんだ。
玩具に感情なんかないだろと舐めているのか。
景色は目まぐるしく変わり、街並みから住宅街へと、そして人気のない道へと変わっていく。並んでいた建物は家々に変わり、それらは木々へと移ろいで行く。
私をどこへと連れて行こうとしているんだ。
清水照道はやがて後ろを振り向くのを止め、走ることに集中し始めた。私の様子を伺うけれど、すぐにそのふざけた顔より茶色い髪が靡いていくのが視界を埋める。
「こんぐらいならあいつらも着いてこられないだろ」
ただただ引かれるままに足を動かしていると、履き捨てるような声が聞こえた。
その声色は、忌々しいものを口にするみたいな言い方で、確実に同じ仲間内の人間に対して発した声には聞こえない。
こいつの言う「あいつら」は、きっと下駄箱でこちらを笑っていた河野由夏たち……ウェイのクソキラ連中に対する言葉のはずだ。でもなんでその連中に対して、履き捨てるような物言いをするんだ?
こいつの目的が、全くつかめない。
一緒に帰ろうとこいつが誘ってきたとき、私を馬鹿にする為だと思っていた。
でも今、馬鹿にされる恐怖ももちろんのこと、得体のしれない人間に腕を引かれるという恐怖のほうが勝り始めている。
このままついていっても、いいことなんて起きない。むしろ嫌なことしか起きない気が学校を出る前からしていた。けれどこの男が、私の想像を越えた、違う何かをしてきそうな気がしてならない。
「……ちょ、ちょっと」
目の前を走る男に、意を決して問いかけようとすると、清水照道は不自然に足を止めた。
「ついたよ、俺のお気に入りの場所」
清水照道は私の腕から手を離す。「樋口さん、ほら見てよこの景色」と言って、前方を指で示した。
言われたとおりにして視界に入ってきたのは、赤に近い、血のようにも見える濃いオレンジと、べったりした黒い木々。そしてその景色を囲うように新部られたベンチたちだ。
清水照道の連れて来たかった場所というのは公園のことらしい。
ベンチと、水飲み場、トイレだけが置かれた簡素な公園で、遊具と言われるようなものは何一つなく、子供もいなければ、周囲に人の気配がない。音もほとんど無く、烏の鳴き声もしない。
何だここは。
遠くに見えるのは、古びた団地だ。同じ団地がいくつも並び群れを成しているみたいで、新しさはなく威圧感がある。
「結構景色良くね? いいでしょ」
清水照道は嬉々として周囲をぐるりと見渡す。視界は、開けていると思う。周囲とはわずかに高低差があるのか、高台のようになっている。けれど周囲は木々が生い茂り後ろに団地の群れもあることで、空も、その下のの街並みも見えているのに開かれた感じは無い。
こいつが、この場所を好きだということに対して、酷く違和感を感じた。
私がこういう場所を好きだといえば、満場一致でらしいという答えが並ぶだろう。
しかし清水照道は生粋のウェイの人間だ。日差しに生き、毎日がパーティーですみたいな人種のはずだ。人の好みは自由だとは思うけど、どうもしっくり来ない。それにお気に入りの場所だと言いつつ清水照道はスマホを操作して、まるで何かを監視するように鋭い眼を画面に向けている。
不審に思い見つめていると、奴はこちらを見ることなく「他の奴突然来たりしないから安心してていいよ」と、教室での状態が嘘みたいな、驚くほど淡々とした声で呟いた。
相手が私だから盛り上げたり笑わせる必要がないというのは十分理解できるけど、その声があまりに温度がなく、一歩退く。
すると清水照道はその距離を埋めるようにこちらに近づき、私に向けてスマホを見せてきた。
「ほら、クラスの奴、俺ら探してるみたいだけど、駅の通りにいるっぽいから」
ぼそりと「だから絶対ここなんか来ない」と続けて、馬鹿にするように低く鼻で笑う。その笑顔が苦しそうで、自分で首を絞めているみたいに見えて、私は手のひらを握りしめた。
「……お、お、お前の目的は……な、……何だ」
「樋口さんと仲良くすること!」
私と、清水照道の間に、まるで秋風のような冷たく強い風が吹いた。枝から零れるように落ちた葉が、隙間を縫うように通り過ぎていく。
「そ、そ、そーんな訳、ない……だろ」
私と、仲良くなりたい人間が学校の中にいる訳ない。
学校はクソみたいな場所で、通ってるやつらはみんなクソだ。人の気持ちも知らないで、勝手に話し方を真似して笑いものにしたり、馬鹿にしたりする奴らしかいないところだ。
清水照道を睨むと、奴は怯むこともなく自嘲気味に笑って私を見る。
「いいよ」
「……は?」
酷く、遠いものを見るように清水照道は私を見る。私の背後には夕日が沈みかけているらしく、奴の明るい髪に、温かみのある色が差した。対照的に周りの景色は黒く沈み、どんどんと色を失い影になっていく。
「萌歌は、それでいいから」
まるで自己完結をするように言ってから、清水照道は続けてまた静かに囁く。私はその言葉が聞き取れたものの、こいつがそんなことを言うはずもないと思いなおして、結局意味が分からないまま奴を見ていた。
◆
鞄を背負いなおしながら歩き、空を見上げる。昼間は白かった雲が夕日を受けて、灰色や鬱陶しさのないピンク色に染まりながら浮かんでいた。
今日は、本当に長い一日だった。あいつのせいで。
あの後、清水照道は私に「ベンチに座ってなよ」なんてベンチに座らせた後、黙ったままだった。
その後、二十分くらいしてから唐突に「あいつら帰ったっぽいから帰るか」と言って、あっさりと私を解放した。
てっきりそのまま解散になるかと思ったけど、結局駅どころかホームまで来て、あの団地に囲まれた公園が幻であったかのように、ずっとへらへら笑っていたのだった。
あいつは一体何なんだ。
六月の変な時期に転校してくるような人間にも見えないし、馬鹿みたいに明るいかと思えば訳のわからない廃墟じみた団地の近くの公園に人を連れていく。
憑りつかれてんのかあいつは。
というか、明日には私で遊ぶこと、飽きてくれてないだろうか。
あいつに構われていたら、きっとどこかで私がどもっていることが河野由夏らにバレてしまう。
……いや、清水照道の前で、私は何度も詰まったりしていた。あいつは特に反応を示すこともなかったから私も気に留めていなかったけど、私は今日、あいつと話をした。
また、前みたいに馬鹿にされるんじゃ……。
足が止まり、地面を見つめる。体から一気に血の気が引いて、体温がすべて地面に吸い込まれていくような錯覚を覚える。
明日、絶対河野由夏たちは今日のことを聞くだろう。そして清水照道はそのまま話をする。嘘をつく必要がない。
……でも、清水照道は、今日の音読のとき、変な動きを見せた。
音読を続け、私が読み上げていないのに、読み上げたと言った。
私が音読を嫌がっていることを、察したかのように。
しかし、先生に怒られないために嘘をついたと考えることができる。けれどあいつが、先生に怒られることを気にするような人間だろうか……?
明日が来ることは怖い。でも、心が恐怖に占められることもなく、私は明日も無事に学校に通えることを祈りながら、夕焼けの道を歩いていた。