第三話 潰れて消えて現れたもの
保健室で休んだ翌朝、私はいつもより早く学校に来た。下駄箱で周りに誰もいないか必死に確認して、出席番号最後の人間の靴箱を開く。中には派手な色のスニーカーが揃うように入れられ、持ち主である清水照道が校内にいることを示していた。
私はやや不安な気持ちになりながら、扉をそっと閉じる。一連の行為を誰にも見られていないかまた周りを見渡して、廊下へと歩いて行く。
何故私がこんな奇行をしているかと言えば、昨日、私が保健室で休んでいる途中で、ある問題に直面したからに他ならない。
というのも、私は授業を休んだことで、その内容が分からなくなってしまったのだ。
話しかける相手がいれば「ノートを貸して」と頼むことができるけど、私にはそんな友達もいないし、周りに話しかけることも出来ない。頭が良ければそんなもの必要ないかもしれないけど、小学校、中学校、学校に行けず授業を受けられなかった分もあって、勉強には全然自信がない。ついていくのがやっとだ。
だから保健室で横になっている時間の半分くらいは、休んだことの後悔だった。しかし不安を抱えながら、放課後目立つことがないよう自分の席に戻ると、机の中に一枚ルーズリーフが入っていたのだ。
私は普段ノート派で、ルーズリーフなんて持っていない。
何かの嫌がらせかと警戒しながら内容を確認すると、授業の内容が事細かに記されていた。先生の発した言葉もだ。誰かが間違えて私の机の中に入れたのかと思ったけど、ルーズリーフの右上、日付を書き入れる欄に学校の学年、組、そして私の出席番号が記されていた。
誰かが、私が受けなかった分の授業のノートを、取ってくれたのだ。
それがおそらく、さっき確認した靴箱の主ーー転校してきたことで出席番号が最後の生徒、清水照道なのではないだろうかと、私は考えている。
昨日の私の不在を知る人間は、おそらくあの男しかいない。私の前後、そして右、斜め位置の席の人間たちは、確かに私が欠席したことをすぐ把握する。しかしプリントが配られたり回収されたりでそいつらの字を見たことがあるけど、あのルーズリーフの字ではない。それに私のことを異物のような目で見ているし、そんな人間に対して親切な行いはしないだろう。清水照道も生粋のウェイのような男ではあるが、体調不良に見える人間を気遣い保健室に連れて行くようなところがある。奴については全然知らないけれど、清水照道がやったことだというほうが納得できる。
だからこそ、新たな問題に私は直面した。
多分だけど、ノートを取ってもらった。ノートを取ってもらったことが別の人間だったとしても、私はあいつに保健室に連れて行ってもらったのだ。体調不良じゃないとはいえ、お礼をしておく義務はある。
でも、上手く言える気がしない。
ただでさえ、話をし辛い相手だ。それに輪をかけるように清水照道の周りには人がいる。昨日廊下で奴と会った時、先生も私もいたけど、初めて奴が単独で動いているのを見たくらいだ。今だって奴はきっとロッカーのほうで河野由夏らと騒いでいるだろう。
相手は生粋のウェイで、リア充だ。奴の周りに少しでも近づいたら最後馬鹿にされるに決まってる。
というかなんでそんな奴が私に親切にするんだろう。クラス全員と友達にならないと気が済まないような奴なのか?
疑問に思いながら廊下を歩いていると、同じクラスで吹奏楽部の女子たちが不満げな顔で何かを口にしていた。どうやら朝練に向かう最中らしい。私は目を合わさないように俯き、すれ違う。するとその瞬間、奇妙な会話が聞こえてきた。
「昨日の清水君の歓迎会さあ、名ばかりの合コンだったよね」
「クラス全員なるべく参加っていうけど、結局河野さんのクラス団結アピールってやつだったじゃん」
聞こえてきた単語に反応をしないようにして、足を動かしていく。しかしそうしながらも愕然とした。
昨日、歓迎会があった? クラス全員、なるべく参加?
そんなもの、私は誘われていない。
誘われても行かないけど、心臓が嫌な感じに鼓動しているのが分かる。誘われなかったこと自体のショックではなく、誘われもしなかったという不安が大きい。
嫌な予感がする。これを機に、またあの時みたいなことが始まるんじゃないか。
胸が何かに駆られるようで痛い。教室に行きたくない。でも急かされるように足は速まり、黒板側から教室に入ると、そこはいつもと異なる光景が広がっていた。
いつもなら、黒板側には隠れるように控えめな男子たちが教卓のほうに集まり、静かに会話をしている。対照的に後ろ側のロッカーの方ではげらげらと河野由夏たちがいる。
しかし、今日は河野由夏たちが黒板側を占拠していて、いつも通り華やかな雰囲気の男女の輪を作り、動画か曲を流しながら笑って話をしていた。
その中には、当然清水照道もいる。不意に奴と目が合うと、清水照道は口を少し結び、何かを堪えるようにして視線を逸らす。私もそのまま逸らし、ロッカー側の扉から教室に入って席に着いた。
鞄を横にかけて、鞄の中から教科書やノートを取りだす。その中には昨日のルーズリーフを写した英語のノートもあって、それに目を移す。
昨日、私は奴に助けられた。
そしてそれから次の日になった今、なんで私はあんな顔されなきゃいけない?
人がこちらを異物としてみたり、軽蔑してみたり、馬鹿にしている目つきは今まで何度も間近で見てきたからよく分かる。でも清水照道の顔はまるで私が何かをやったかのような、苦しんでいるような目つきだ。
ちらりと前を向いて奴らを見ると、河野由夏が肘を千田莉子の二の腕にぶつけるようにして押した。千田莉子は小刻みに頷いて、「あのさあ」と演技がかった声を発する。
「清水ってさ、彼女いんの?」
「え、チダリコ照道に興味あんの? うける」
千田莉子の問いかけに、周りの男子が囃し立てるように笑う。清水照道は遮るように「それがマジでいねーんだよなあ……! 超寂しいの。この夏なんとかってのもう毎年繰り返してるかんね」と大げさにうなだれて見せた。
「じゃあどんな人がタイプ? なんなら当ててあげようか?」
河野由夏が勝気に笑い、「年上系でしょ?」と清水照道に指を指す。
「いや俺年上年下は無い派だわ。生粋のババア大好きマンの寺田と違って」
「うんうん……て誰がだ! 俺は年下派だよ!」
「ロリコンをカモフラージュに使うなよ」
「いやロリコンじゃねえし!?」
野球部の寺田が大声で首を横に振る。背も高い分、視覚からも聴覚からも煩い。視界から抹消するように机の中に教科書やノートをしまう。
また動画撮るだの文句言われるのも嫌だし、校内を歩いて人通りのないところを見つけようと私は立ち上がった。
「俺のタイプ、実はこのクラスにいんだよね」
「ええ〜誰? もしかして由夏とか?」
清水照道の言葉に、千田莉子が無邪気な子供を全面に押し出した語り口で目を輝かせる。その仕草や動きが、自分の面白さを認めさせようと必死に見えて寒さすら感じた。
河野由夏に媚びを売ればクラスでの立ち位置が約束されるからなのか、友達としての河野由夏がそれほどまでに魅力的なのかは分からないが、そこまでする必要があるのか疑問だ。河野由夏からすれば、さぞかし気分がいいだろうけど。
しかし、次の瞬間、私は河野由夏の瞳を見て戦慄した。
その瞳は氷のように冷たく、白けるようにして媚びを売ってきているはずの千田莉子を見ている。
千田莉子はその視線が場所的に見えていないらしく、河野由夏に冷たい目を向けられながらも笑って清水照道に「誰だよ〜」と笑いかけていた。
他人事とはいえ、同じ場所にいるのも辛い。私は扉への足を速めた。しかし「樋口さん」とはっきりとした声が聞こえてきて、反射的に呼ばれた方へ目を向ける。
「樋口さん、だよ」
清水照道がへらへらとした、嘲笑するような目でこちらを指さしていた。
奴の言葉に教室が静まり返り、時間が止まったような錯覚すら覚える。河野由夏ですら目を丸くし、きょとんとした顔で私を見ている。
普段騒がしい野球部の奴らも、口をぽかんと開けたまま私や、清水照道を見ていた。
教室の隅でアニメや漫画の話をする男子たちも、ひっそりと何かの会話をしている女子たちも、私か清水照道に注目して固まっている二種類しかいない。私もどうしていいか分からない。頭が真っ白で、たた周囲を見ているだけだ。
そんな私たちをよそに、最も早く動き出したのは千田莉子だ。奴は大きく仰け反りながら「びっくりした〜ちょっとガチっぽいテンションだから返事に迷ったわ」と清水照道の肩を叩く。先ほどまで千田莉子を睨んでいた河野由夏も合わせるように「本当だよ」と笑い出した。清水照道はすかさず「マジだって、一目惚れだから」と馬鹿にした笑いをしながら私に背を向け、大げさな手ぶりや身振りをする。
「ねえ、樋口さーん。照道樋口さんのこと好きだってー!」
それまで皆と同じように固まっていた寺田が、腹から響かせるような声を発した。
清水照道以外の目が、こちらに集中する。何かを言うことを、求められている。心臓がばくばくして、声が出せない。無理だ。何も言えない。
胃からせり上がる吐き気を感じていると清水照道が「やめろよ、告白はちゃんとするからお前がすんな!」と寺田の口を塞いだ。私は咄嗟に教室を出て、走って逃げたなんて笑われないよう、教室を通り過ぎるまで歩いてから廊下を全速力で駆け出していく。鞄を下げ、登校してくる人間をすり抜けていく。朝練から戻ってきて、汗を拭きながら教室に向かう生徒とすれ違いながら、トイレへと駆け込む。朝という時間帯もあってか、髪を整える生徒はいない。
そのまま一番奥の個室に飛び込んで、鍵を乱雑に閉めて呼吸を整える。
もう。周りには誰もいない。それなのにげらげらと笑う声が、耳に木霊する。それがいつのものなのか、昔のものと混ざっているのか分からないけど、今確かに分かるのは、清水照道があいつらと同類だということだ。
もしかして、保健室に連れて行ったり、ノートを取ったのは馬鹿にするためだったのかもしれない。いや絶対にそうだ。だって、そうじゃなきゃ家族以外で私に親切にしようと考える人間なんて、この世界にいない。
元から、あいつはおかしかったんだ。私が上手く話せないことについて、奴は何も言ってこなかった。
ああいうタイプの奴は私が上手く話せないと、必ず真似をして馬鹿にする。私がどれだけの苦労をして言葉を伝えようとしているか考えもしないで、馬鹿にして楽しい玩具だと認識する。
頭の中がぐちゃぐちゃで、お腹の奥もぐるぐるして気持ちが悪い。ばしんと、握りこぶしを太ももに落とす。
なんなんだあいつは。最悪だ。やっぱりあいつも、敵だ。
何度も何度も。私は太股を叩く。全部を誤魔化すみたいに。
昨日、そして朝に抱いていた清水照道への感謝の気持ちが、クレヨンの黒で絵をぐしゃぐしゃに潰すように消えていく。私はそのまま授業開始の鐘が鳴るまで、ずっと一人でそうしていた。