晴天
あとがきあります。
晴れの日が嫌いだ。
雲一つない、青空。ひとかけらの雲すら見えない茹だるような夏の日。安い扇風機すら壊れ、エアコンのない団地で過ごすには苦しすぎて図書館で過ごしていた俺は、家に帰って両親二人がこの世界から逃げたことを知った。
もう、声を発することもない。母さんは食品工場で働いていて、父は昼は会社の営業、夜は清掃員として働いていた。働いても働いても、お金は無くなるばかり。どうして二人はこんなに働いているのにお金がないのかと思っていたけど、簡単な話で、父は騙され借金を背負わされて、お金を返すために働き、生きるお金なんてどこにもなかっただけだった。
普通といわれる食事は給食で、あとはスーパーで安く売られる揚げ物や、菓子パンが中心。何かしら無くなっても、新しく買ってもらうことなんて出来ない。服も新しいものではなくて、誰が着たか分からない使い古しを特に思うこともなく着ていた。
貧しくても、家族が仲良くあれば幸せ。
そんなことを、学校の授業で習った。でも父さんは普段は優しいけど、お酒を飲むと別人のように荒れる。お金なんかないのに一週間に一度、週末に必ずお酒を買って飲み、暴れては母さんを殴る。
そして母さんはといえば、いつも笑顔を浮かべているものの、何かしらの細かな琴線があり、そこに触れると烈火のごとく怒り、徹底的に俺の存在を否定する。学校では、皆俺を見て、道を開ける。鼻をつまんで、触れないようにする。席替えをしたとき、俺が座っていた席を女子が泣きそうになりながら雑巾で拭いて、先生は難しい顔をしていた。
生きているのではなく、死んでないだけ。
でも、両親二人が逃げて、施設に引き取られて、生活は変わった。施設の人間は定期的に俺をカウンセリングして、食事や服を与える。施設の人間は色んな境遇を持っていて、俺のような人間は多かった。
ただ違うのは、両親二人が俺を残して心中を図ったこと。
周りの人間は皆生きていて、ある者は親のことを「殺したい、死んでほしい」と言っていたし、ある者は「お母さんのところに帰りたい」と言う。色々いた。それから、俺はある夫婦に引き取られることとなった。
俺の母親になる人は、教育委員会の上のほうにいて、子供たちに明るい未来を作りたい頑張っている人で、父親になる人は、それを支えながらも自分の夢に向かって頑張っている人だと聞いた。
実際、二人は俺に優しく接してくれたし、殴ることもしなかった。存在を否定するような言葉も言わない。食事を与えてくれるし、服も買ってくれる。お風呂も毎日入れるし、者が壊れても新しいものを用意してくれる。
学校は、引き取られるにあたって転校した。転校先では、俺の扱いは驚くほどよくて、「皆と仲良くできるといいね」なんて言われていたから、「皆と仲良くできる人」の真似をすると、前に遠巻きで見ていた輪の中に、驚くほど簡単に入れた。
愛してくれていた、のだとは思う。家族と思ってくれていたかは分からないけれど。でも、ふとした瞬間見える歪みみたいなものは確かにあって、俺を受け入れようとする苦しみみたいなものが確かに見える瞬間があった。
二人が俺を引き取って、なんの意味があるんだろう。理由なんてないのかもしれない。目に見えた利点がないのだから、いつかきっと、捨てられる。飽きられる。だからなるべく期待をしないように努めて過ごしていると、俺の母親になりたいと言ってくれた人は死んだ。
本当に急だった。事故でもなく、誰かに何かをされたわけでもなく、身体の不調で。
それからだ。少しずつ俺の父親になろうとしてくれた人は、おかしくなっていった。
俺を見ると、母さんのように睨んでくる。どうしてあいつは死んだのに、お前は生きてるんだ。本当はお前なんか引き取りたくなかった。俺を見るたびに、呪うようにそう言った。
でも、家から追い出すことはしない。一度籍にいれた養子を出すのは面倒なことなのか、世間体を気にしてかは分からない。ただそれから父親になろうとした人は家を出て、代わりに金だけが俺のいないときに机に置かれるようになった。食費や、雑費はテーブルに。他の生活費は勝手に支払われていて、俺は死なないことだけは保証された。
母さんも、父さんも、俺を殺そうとはしない。そして父親になろうとしてくれた人も、俺を殺さない。
そうしないのは、もしかしたら俺が生きていないからではと思うこともあった。ならばいっそ、全て終わりにしたいと感じて、でも動く気力もなくて。
ただ無感動に生きていた時だ。萌歌と出会ったのは。
その日は土砂降りの雨が降っていた。梅雨の時期で、確かに風は湿りを帯びているはずなのに、季節外れの寒気が入って、皆寒そうに駅と、前にあるバスロータリーを行き交っていた。俺は行けと言われている塾の帰りで、傘を差しながら駅に向かっていると、後ろから悲鳴にも似た声が聞こえた。
振り返ると、女子高生が、立ち眩みにより大きく体制を崩し、派手に転倒して、持っていた鞄の中身を盛大に床に広げた。
一番近くにいた人は舌打ちをして「邪魔だなあ!」と怒鳴りつけて去っていった。皆見ているけど、助けはしない。俺も助けようと思わなかった。可哀想、だとは思う。でも自分の手を濡らしてまで、地面に落ちたペンケース、もう使えないルーズリーフ、弁当箱を拾おうとは思わない。派手に転倒したことで泥だらけになった女子高生を、自分の服を汚してまで助けようとは思わない。
俺が母さんや父さんと住んでいたころ、どうしてみんな自分たちを助けてくれないのかと思ったけど、こういう気持ちだったんだなと、俺はその時初めて理解した。
でも、泥まみれで泣きそうになりながら自分の荷物をかき集める女子高生に、手を差し伸べた人がいた。
その人――少女は、口を大きく引き結び、ひどく傷つき、もどかしそうにして散乱した荷物を拾っていく。差していた傘は転がり、逆さとなって雨を受けているのに、気にも留めず少女は荷物を拾う。お礼を言われても、頑なに返事をしない。
やがて荷物をすべて拾い上げ、女子高生を支えるように立ち上がらせると、少女は傘の水を捨て、逃げるように走り去った。
髪の毛も、着ていた服もずぶ濡れで、服のあちこちには、助けたせいで泥がついている。自分の身を汚してまで誰かを助けようとする姿が頭にこびりついて、消えなかった。
それから、約一年が経過した。入学していた高校で、俺が引き取られた子供であるということや、その経緯が同じ中学に通っていた人間の嫉妬によってバラされ、俺は義父に強く求められていた進学校を転校することとなった。
転校しても、することは変わらない。明るい、人に好かれるふりをして、過ごす。それが望まれた姿だから、そうするしかない。でも、正しいはずなのに、頭の中で雨の中、人を助けようと懸命に動く少女の姿が浮かんでくる。
あんなふうに、助けてもらいたかった。
身勝手な感情が浮かんでくる。少女を見てから、よく晴れた日に必ず思い出していた母さんと父さんの姿が、あいまいになった。代わりに聞こえないはずの雨音が聞こえて、雨に濡れているような感覚がする。決して不快ではなくて、俺はただ戸惑っていた。
晴れは嫌いだ。でも、曇り空は嫌いじゃない。そして、雨も。
新しく転校することになった学校は、中学が同じ人間のいない、俺の母親になろうとした人と交流していた人が校長をしている高校に決まった。隣の市だけど、同じ中学の人間はいないと分かっていて、義父は「くれぐれも余計な真似はするな」とだけ言って、俺の前を去った。
そうして転校した高校に、教室に、少女――萌歌がいた。
観察を続けてみると、萌歌は人と話すことを目に見えて避けていた。いつも俯いて、人と目を合わせることに怯え、休みの時間、寝たふりをして机に伏せる。
何か、見えないものに傷つけられている萌歌を見ていると、どうしようもなく胸が締め付けられて、苦しい。どうにか助けになれないか調べて、萌歌は吃音であると知った。
言葉を発するときに、詰まったり、連続したりするらしい。そして、ネットサイトを調べるうちに見つけたのは、いじめの記事だ。話し方を真似されて、いじめられるというもの。
萌歌は、備え付けのロッカーを絶対使わない。教科書を学校に置く様子もない。上履きを毎日持ち帰るし、歩いているときひどく距離を開ける。教室に入るとき、必ず周りを確認する。その行動について、見覚えがあった。
同じクラスの、千田莉子。小学校の時に同じクラスだったあいつは、そういう手段でよく人をいじめていた。やり方はとても厄介で、いじめの主犯を意図的に誘導して、人をいじめさせ、友達を作る。萌歌のふるまいを見て、そんなやり方ばかりしていた千田莉子のやり口を思い出した。
ロッカーに置いていた荷物は、捨てる。上履きは鋏で切る。歩いていると突き飛ばす。教室の扉を開くと、水をかける。
なんとなく嫌な予感はしていて、どうしたものか考え、悩んでいたころだった。
「樋口さんってさぁ、何かキモくない? 名前と合ってないっていうか」
放課後、帰っている途中に千田莉子が言い放った言葉だった。河野由夏が「確かにねえ」と言いながら爪をいじり、寺田たち野球部の面々が同調する。
千田莉子の目的は、はっきりわかった。また小学校のときのように、人を使い、今度は萌歌をいじめさせる気だと。
幸い、奴は俺を小学校が一緒だった汚いクラスメイトとは認識していない。
いじめが好きなような奴は注意されたから、「はいやめます」なんてことは絶対にしない。実際千田莉子を告発した人間は、倍いじめられて不登校になった。
庇えば庇った分だけ、巧妙に詰って楽しむ。そういうものだ。俺は男子で、萌歌は女子。着替えやトイレなど別れることは沢山ある。何処までもついて行くことは出来ないし、当然萌歌の全てを把握することは出来ない。
萌歌を、守りたい。嫌な目に、遭わせたくない。でも担任は頼れそうもない。河野由夏の顔色ばかり窺っている。千田莉子には注意が出来そうなものの、主犯にされるであろう河野には効かない。
どうするか、悩んで。迷って、考え抜いた末に、俺は最悪な手段を使うことにした。
「聞いてたでしょ、さっきの話」
窓辺に広がる快晴を横目に問いかけると、俺の前に立つ萌歌は顔を歪めた。
「どっ……どういう、意味だ」
樋口さんネタ。最悪の手段について、ネタだと信じ疑わない河野由夏と会話をしているところを、萌歌が聞いた。さっき言い放った俺の言葉に対して、憤りを感じているのだろう。手のひらを握りしめて、こちらを睨んでいる。
「意味が分かったところで、何も変わらないから。……じゃあ、先教室戻ってるな、萌歌ちゃん」
いつも通り、皆に求められる笑顔を浮かべて、傷つく萌歌の前を通り過ぎていく。とれる手段は、これしかない。今のバイトの分と、夏休みのバイトの分。それがあれば、監視カメラとレコーダーが買える。それをつければ、萌歌がいじめられても証拠をきちんと残せる。きっとそれを教師に渡しても、意味がない。校長やそれより上の存在に知らせても、何もしてくれない。
だから、ネットにのせる。萌歌の顔だけを、見えないようにして。
そうすれば、きっと拡散されて、世間が動く。いじめた奴はきちんと処分される。それまでの間、どうかこれ以上萌歌が傷つかないようにしないといけない。
でも、いじめられないように傷つけるなんて、絶対に許されない。これから先、一緒にいることは望めない。何もいらない。萌歌がいじめられないのなら。一緒に笑う未来も、隣に俺がいなくてもいい。そう感じることすら、まるで自分に酔っているんじゃないか、そう言い訳して、萌歌と今一緒にいようとしているんじゃないかと感じて、気持ちが悪い。
窓に目を向けると、あの夏に見た青が広がっている。
ろくでもない、青。早く雨が降って、消えればいいのに。
俺は全部を呪うようにして、行きたくもない場所へと駆けたのだった。
別の自作の話をしますが(当然ヤンデレハッピーエンドです)
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