第十話 降り注ぐその名前は
……道を間違えた?
でも、きちんと初心者コースか山登りコースか確認して進んだはずだ。
山登りコースを選んでいるのなら、私みたいな人間が登れるはずがない。気のせいだと少し進んでいき、周りに全く人の気配を感じられず立ち止まる。
もしかして、ここはどのコースでもない? 迷った?
コースは二つしかない。けれど定められたコースが二つしかないだけで、別にそれ以外の道を通ると降ろされるとかそういうことはない。
あの看板を誰かが悪戯して、私は今全く別の場所を進んでいることもあり得ない話じゃない。頭の中に、遭難という文字が過る。
いや、まだ遭難してない。スマホを確認すると電波は良好で、圏外にもなっていなかった。もしこのまま上に登って道がおかしくなったら、戻ろう。戻って戻れなくなっていたら電話しよう。遭難していないなら、電話はしなくていい。
電話を掛けることを考え、ぎゅっと心臓が痛むのを落ち着けるように大丈夫だと深呼吸をして、画面に目を向ける。
時刻は山頂に集合するまで余裕がある。大丈夫だとまた深呼吸をしようとすると、画面に水滴がぽつりと落ちた。
雨だ。
反射で動くように鞄から傘を取り出そうとする。でも今日の天気予報は晴れで、予備のつもりで持ってきたから奥まって取れない。もたつきながら折りたたみ傘を出して差すと、瞬く間に大粒の雨が降り注ぎ始めた。
さっきまで薄ぼんやりと明るかった景色が一気に暗くなる。空はどす黒い雲が覆っていて、遠くからは雷鳴が聞こえてきた。折りたたみ傘には絶え間なく伸し掛かるような雨が降り注ぎ、足元に泥が跳ね隙間から靴を濡らしていく。
どこかで一旦雨宿りをしなきゃいけない。
不安を抱えながら進んでいくと、大きな岩と岩が重なり合って、人ひとり入れるくらいの隙間を作っていた。少しずつ岩場を登り、隙間に入るようにしてしゃがみ込む。靴下はすでに雨水と泥をたっぷりと吸っていて酷く重たい。いつの間にか遠くから聞こえていた雷鳴は大きく目の前に轟くようなものに変わって、目の前が激しく光るほどに近くなっていた。
このままだと、絶対山になんて登れない。山登りは中止になったかもしれない。早く下山をなんて話に、なっているかもしれない。
鞄からスマホを取り出して、画面のロックを解除する。電話を。電話をしなきゃいけない。今日の山登りのしおりには、緊急時の電話番号が書いてある。そこに電話をして、助けを求めるべきだ。そう思っても電話のアプリに指が向いていかない。
学校に、連絡を入れればいい。
でも電話を出来る気がしない。
間違いなく助けを呼ばなきゃいけない状態なのに、ボタンを押す気になれない。どうせわかってもらえない、無駄だ。通話はまだ始まっていないのに、繰り返し聞き返されるような声が聞こえてきて中学の出来事を思い出す。
安堂先生にバレて、また中学の時みたいになるんじゃないか。ただでさえ清水照道に馬鹿にされて玩具にされている今、安堂先生が私のことをクラスの連中に言ったら、また中学と同じ目に遭うんじゃないか。
せっかく、せっかく外に出られるようになったのに。学校に通えて、お母さんにもお父さんにも迷惑かけずに済んでいるのに。
そう考えると、今助けてもらうより、いっそこのまま雨が止むのを待って、自力で降りていくほうがよっぽどいいことのように思えた。それに、私がいないことなんて誰も気づかないかもしれない。点呼の時、私がいないことに安堂先生が気付いても、きっと河野由夏たちに話しかけられたらすぐに忘れる。大丈夫、電話なんてかけなくていい。
身を千々込めるようにして膝を抱え、ぎゅっと手のひらを握りしめる。
どうして、電話が出来ないんだろう。みんな、みんな普通にしているのに。そう考えると無性に死にたくなった。お母さんも、お父さんも普通にしてる。皆してる。なのに私だけができない。死にたい。もうこのまま、消えたい。助けなんて来なくていいからみんな私のこと忘れてほしい。
ぐっと喉が詰まっていくのを感じながら顔を伏せる。すると雨音と雷鳴の隙間を縫うようにして、人間の叫ぶような声が聞こえてきた。
私のほかにも、遭難してる人がいるのかもしれない。
顔を上げて周りを見ると、暗がりの中で雨が降りしきるばかりで景色は分からない。ただ時折大きく鳴り響く雷鳴とともに、ぱっと周りに光が照らされ、人影のようなものが遠目に映った。その人影は、雷が周囲を照らすたびに、徐々にこちらに近づいてくる気がして、次第に鮮明に浮かび上がってきた人影に、私は言葉を失った。
「萌歌!」
怒鳴りつけるように、絶叫するように清水照道は大きく目を見開いてこっちに向かってかけてくる。
傘も差さず、いつかの時みたいにずぶ濡れだ。地面はぬかるんで、こんな場所は走ることなんて無謀なのに、何度も躓きながら走り、奴は息を切らしながら私の目の前に立った。
「なんでこんな危ないとこいんだよ。岩が雨水で滑ったら潰されて死ぬじゃん、ほら、行くぞ」
清水照道は私の傘を奪うようにしてさし、私に無理やり持たせてそのままどんどん進んでいく。
どう見ても奴の進む方向は正しいルートから外れるような、山の奥深くへと進んでいくものだ。どこに行こうとしているんだ。そう言いたいけれど奴の鬼気迫るような態度に何も言えない。そのまま進んでいくと、徐々に道が平たくなってきて、遠くには雷光に照らされ建物の影が浮かび上がった。やがて山小屋にたどり着くと、奴は南京錠をかけ閉じられた扉を蹴破った。
「お前……!」
「入って」
無表情で中に入るよう促され、小屋の中へと足を進める。中には暖炉と、机、椅子が並べられていて、休憩をするのを目的にしたような場所だった。清水照道は扉を閉めると、辺りは急に暗くなる。しかしすぐにパチンと、軽い音がして照明がつけられた。奴は「照明生きてんじゃん。良かったー」と明るい口調で、まるでさっきまで能面のように表情が無かったのが嘘だったかのようにへらへらと笑っている。そして頭を振り、水滴を飛ばすと髪をかき上げこちらを見た。
「つうか萌歌ちゃんどっか怪我してない? 気持ち悪いとか、頭痛いとか、吐きそうみたいなのは?」
「……な、ない」
「いや怪我してんじゃん」
清水照道は私の足元を見て顔を顰めた。視線を追うと確かに私の膝は擦りむき、血が滲んでいる。でも、軽くすった感じで切り傷になってるわけでもない。こんなの怪我のうちに入らない。中学の時突き飛ばされたときのほうが、もっと血がだらだら出ていた。だから何故奴がそこまで顔を顰めるのかと思っていると、奴は私の足元にかがんで、リュックからハンカチを取り出しぐるぐる巻きだした。
「は?」
「俺には別にいいけど、後から先生来たときはちゃんと言えよ? ……はい、でーきたっと。ちょっと待ってて、今現在地連絡するから、そしたらすぐ助け来るし」
そう言って奴は私の膝にハンカチを巻き終えると、電話をかけ始めた。すぐ繋がったらしく、私と一緒にいることや、現在地を伝えていく。どうしてこいつはこんな場所のことを知っていたんだろう。調べたとか? こんな場所、しおりにだって載っていなかった。疑問を感じながら奴が電話をしているのを見ていると、奴はスマホをポケットにしまいこちらに顔を向ける。
「多分だけど、四十分くらいはかかるって、その間二人っきりだね萌歌ちゃん」
その言葉に返事をせずじっと奴を見ていると、奴は首を傾げる。私に近づいてきて「まぁ座っておきなって」と椅子に座らせたと思えば軽く咳き込んで水を飲んだ。
「……何でだ」
「ん?」
「な……何で、きた」
「好きだからに決まってるじゃん?」
へらへら、馬鹿にするような笑いをしながら清水照道は唇に弧を描く。その様子に苛立って何故あの場所にいることが分かったのかを問いかけると、今度は含みを持たせるように笑った。
「萌歌ちゃんの居場所は、ぜーんぶ分かるから。運命共同体ってやつ」
「ふ、ふ……ふざけるな」
「……萌歌が先登ったのに、頂上にいなかったからだよ」
清水照道が、真面目な顔で私を見る。視線を逸らすと、奴は言葉を続けた。
「先登って、萌歌いなくて、上にいた奴らに聞いて回っても誰も萌歌ちゃんがどこにいるか分かんないみたいで、だから山ばーって下って、とりあえず探した。まぁ、見つかってよかったわまじで。完全に運命だよな。すげー心配したわ」
奴は「あー、水飲む?」「寒い?」とこちらの様子を伺いながら、部屋の奥の扉、出口とは別の部屋に向かって歩いていく。そして「この小屋開くの冬場だからさあ、毛布はあるはずなんだよね」と一人で呟きながら扉に手をかけた。横目で見ていると、次の瞬間清水照道の身体が糸を離した操り人形みたいにがしゃんと崩れ落ちる。
慌てて床に伏せる奴に近づくと、奴は激しく咳き込み、さっきまでへらへらしていた瞳が嘘のように虚ろで苦しそうなものに変わっていた。