第一話 六月の転校生
朝の教室は、私――樋口萌歌がこの世界で嫌いな物のひとつだ。
教室、窓際の中央の席に座って、鞄からゆっくりと教科書とノートを取り出し、周囲の人間に気付かれないよう俯きながら周りを確認する。
窓の外は分厚い鈍色一色で、教室にいる人間はスマホや雑誌なんかを広げながら会話を繰り返していた。どれも内容は薄っぺらいものなのに、何が楽しいのかどこもかしこも笑い声が響いている。そんな人間たちを横目に朝の日課であるペンケースの整理を繰り返していると、後ろから耳を貫くような高い声が聞こえた。
「ねえ動画撮ろうよー!」
明るく、それでいてどこか嫌な感じをさせる声。きっと河野由夏だ。
四月、入学式で教室に集まった時から奴は全く変わらない。きっと今もその長い髪を靡かせ、ぱっちりした目を忙しなく動かしながらスマホを掲げているのだろう。
奴は入学当初から、スポンジが水を吸収するみたいに周りの人間を吸収していき、瞬く間にクラスの中心人物となった。それからは毎朝自分と似たような女を三人ほど引き連れ登校してきては、先生が来るまでの間、教室の後方を陣取りたむろしている。さらにその周りには、光にハエが集まるよう、運動部の馬鹿が集まってやたらとうるさい。
弱肉強食の食物連鎖をピラミッドの図のような、教室での力関係、階級をスクールカーストという言葉で表すと聞いたことがあるけれど、まさしく奴はそのカーストのトップにいるだろう。
「何この黒っぽいやつ。何か変なの映っちゃってるんだけど。ゴミ?」
「樋口さんじゃん?」
河野由夏が心底気分を害したような声を発すると、即座に阿るような返事が聞こえた。あの声は、千田莉子。芸人のような真似ごとをして、河野由夏に気に入られようと必死の痛い奴だ。あいつは多分ピラミッドの真ん中の、少し上のほうにいる。
「なんかこの間もチダリコの横になんかあるなと思ってたけどあいつかあ~。てっきりチダリコ憑りつかれてるのかと思った」
「いや憑りつかれてないし!」
けらけらと、河野由夏と千田莉子を囲う女の笑い声が聞こえる。周りの女たちは、千田莉子より少し上くらい、けれど河野由夏には及ばない立ち位置の人間たちだ。
「でも、お化けみたいなもんだよね。声聞いたことないし」
「分かるー! 自己紹介の時も頭下げて終わりだったもんね」
そして、私はそのカーストで最も低い、最底辺の立場にいる。
何故なら体育祭も終わり、入学から二か月が経過したにも関わらず、いまだ私はこのクラスの誰とも一分以上の会話をしたことがないからだ。当然友達なんていないし、お弁当も移動教室も常に一人だ。
それでも河野由夏たちが私の名前を憶えていたのは、教室の壁に自己紹介カードが貼られているからだろう。高校に入学して最初のホームルームで書いた、名前や誕生日、特技が記され貼られたカードたち。きちんと整列するようにそれらは貼られているけれど、このクラスの人数が奇数のためぽつんと空白がある。
「ちょっとチダリコ話かけてきてよ」
「ええ?」
「声どんな感じか聞きたいじゃん? アニメみたいな声だったりして。なんか名前も萌え~って感じだもんね」
こそこそ話をしているのか、聞かせようとしているのか分からない声の大きさだ。こういう時が一番苦痛だ。突然話しかけられるのも困るけど、少しでも私が反応していたら「聞こえてた」と馬鹿にされることが目に見えている。
……でも、このまま何もしなくて話しかけられるのも嫌だ。立ち上がってトイレに行くふりをして逃げようか。でもそれをきっかけに話をしてきたり、トイレにまで追いかけられたらどうすればいいのか
私は拳を握って、「放っておいて」と声に出すことを、心の中で練習し始める。心の中では、何の問題もなく言えた。でも、心の中で言えても、声に出して大丈夫じゃなかったことは何度もあるから気が抜けない。
「じゃあチダリコ行ってきまーす」
おどけた様な声に身体が強張った。
千田莉子と思われる足音が教室の雑音を縫うように聞こえてきた。頭が熱を帯び始め、滲んだ汗が首筋から背中を伝って急速に身体が冷えていく。
いやだ。怖い。
ぎゅっと目を閉じると同時に、大きく扉をあけ放つ音が聞こえた。
「ほら席付いてー!」
担任の安堂先生の声だ。
先生が来たということは朝のホームルームが始まる。もう千田莉子が話しかけてくることはないだろう。
身体に込めていた力が抜けていくのを感じていると、波を引くように千田莉子の足音も遠ざかっていった。ほっとして顔を上げると、先生の隣に明るい髪色をした見慣れない生徒が立っていることに気付く。
すらりと、かといって華奢でもない立ち姿。長めの前髪は左右に分けられ、ピンでバチバチと留めている。はっきりとした眉と目は、私を射抜くように捉えていた。私はこの生徒に見覚えがないのに、相手は食い入るようにこちらを見てくる。
「安堂ちゃんその人だれー? 転校生?」
河野由夏が笑みを浮かべながら教卓へと近づいていく。安堂先生は先ほど席についてと言ったはずなのに、彼女に対して「そうよ」と明るい調子で答えた。
担任の安堂先生は明るく優しい女の先生だと言われているけど、河野由夏に対しては甘い。教室内での力関係は、河野由夏のほうが上だ。先生はいつも笑ったり曖昧な注意しか彼女にしない。
しかし、今日は時間が押しているのか、河野由夏が「名前は?」と転校生に話かけたところで遠慮がちに先生は「ごめんね、それは朝のホームルームでやるから」と注意をした。
「はーい」
明るい調子で河野由夏が自分の席に席についた。奴の座席はクラスの中央、そして最後尾。
四月までは出席番号順で生徒は座っていたけれど、月が替わった直後、先頭の座席に座っていた彼女の一言で突如席替えが行われた。安堂先生は「皆がちゃんとクラスの子の名前と顔がはっきり覚えるまでは」と渋っていたけれど、彼女の「皆もう覚えてるよね?」という言葉に、異を唱えることが出来なかった。
そして席替えの結果が分かるまで、河野由夏は「一か月に一回くらい席替えしたいよね」と言っていたけれど、結果が出て彼女が「この席最高じゃん」と言って一か月が経過した今、席替えが行われる気配は全くない。
「じゃあ、早速だけど、紹介するわね。新しくこのクラスに転校してきた清水くん。清水くん、自己紹介してもらえる?」
安堂先生が声をかけると、扉のそばに立っていた転校生――清水という生徒は教卓へと歩いて行き、黒板の前に立った。
目新しい存在に教室全体がざわめき、徐々に静かになっていく。すると頃合いを見計らうようにして、転校生は口を開いた。
「えっと、清水照道です。マジで入学して二か月経った後転校するとは思ってなかったんで、自己紹介とかマジでなんも考えてないです! あー趣味は笑える動画見ること! 基本月末は通信制限かかってます! とりあえずこの高校卒業することは、留年しなきゃ? 決定してるんで、よろしくお願いしまーす!」
へらっとした、明るい口調胡散臭い目つき。
さっきまでのこちらを鋭く貫くような瞳は一体何だったのか。人のことを馬鹿にしているのか。まだ私は、一言も話をしていないというのに。
眉間にしわを寄せていると、清水照道は一瞬こちらに目を向けた後、前を向いた。
「じゃあ席は由夏ちゃんの隣ね」
「あっ! だから私の隣、机と椅子あったんだ! てっきり私が使っていい席だと思っちゃった」
「もう。そんな訳ないでしょ由夏ちゃん。清水くん、あそこの席座ってもらえる?」
「はーい」
先生の言葉に、清水照道が教室の後方へ向かって歩いていく。教室は「結構かっこよくない?」「いいかも」と盛り上がっていた。それは河野由夏も同じようで、奴に笑いかけている。
「私河野由夏、よろしく。由夏って呼んでいいよ」
「おっ。じゃあ由夏さん? マジでいろいろ分かんないから超よろしくお願いします」
おどけたような話し方だ。くだらない。けれど河野由夏の琴線には触れたらしく「由夏さんってなに? うける!」と楽しそうにしていた。
「だって転校初日で呼び捨てにしたらしばかれそうじゃん? お前河野さん呼び捨てにしてんじゃねえよって連れてかれそう」
「そんなんないって、うける」
クラスの雰囲気が、清水照道を受け入れていくのを感じる。きっと奴は、クラスのカーストの上のほうに位置するのだろう。きっと教室のみんな……ピラミッドの下層の人間は、はっきりとそれを感じているに違いない。奴に自分の立ち位置を脅かされるのではと考える人間もいるだろう。
でも、私には関係ない話だ。転校生が今更一人増えようと関係ない。あの男とも会話をすることはないのだから。私はそのまま、教室から目を逸らすように窓に目を向け、曇り空を眺めていた。
「……た、だいま」
学校が終わり、夕日を背に受けながら私は家の扉を開いた。
玄関には私の水色のスリッパと、お父さんの緑色のスリッパが壁に沿うように置かれている。お父さんは、新聞社で新聞を作る仕事をしていて、帰ってくるのが不規則だから大抵私が学校に行く時も、家に帰る時も、お父さんのスリッパは動かない。
靴を脱ぎ、自分のスリッパに履き替えていると、ぱたぱたとお母さんが赤いスリッパを滑らすようにこちらへやってきた。
「萌歌おかえり。今日はカレーなの。楽しみにしててね」
確かに、玄関には香辛料のような、独特なつんとした匂いが香っている。
匂いを辿るようにリビングへと歩いていくと、お母さんは台所に立ち、私が帰ってきたことで一時停止されたであろうカレー作りを再開した。
とんとんと、包丁で何かを切る規則的な音が響く。
そのまま何の気なしにリビングのソファに座ると、お母さんは「手を洗ってから」とこちらを振り返った。洗面所で手を洗ってからソファに座りなおすと、お母さんはほんの少し息をのむようにしてから「学校は」と呟く。
「どう? 入学してもう二か月経つけれど……嫌なこととか、気になることはある?」
お母さんが私を見る。料理をする手は完全に止まっていて、私は静かに首を横に振った。
「そう……。でもね萌歌。嫌なことがあったらすぐにお母さんとお父さんに言ってね。私たちが一番大切なのは萌歌なんだから。嫌なことがあったら逃げてもいいのよ。受け止める必要はないの」
「……だー、だ、……大丈夫」
私が言葉を発すると、お母さんの目はより一層不安を帯びたものに変わった。
お母さんは、私がきちんと学校に通えているか、いや……学校でなにかされていないかと不安なのだ。
何故なら私は小学校中学校と、かなりの日数学校に通わなかった時期がある。一度目は、小学校三年生の時だ。その頃は一年ほど休んで、結局転校した。二度目は中学二年生の頃だ。それから約二年が経っているけど、思い出すだけでも吐き気がする、
そんな出来事があった私は、小学校と同じように転校をして、転校先の中学に通うことも出来ずフリースクールへと通い、高校を受験した。高校は通信制の高校を受験する話もあったけど、今の高校が駄目なら通信制の高校に入ろうという話になって、今に至る。
つまり今まで私は、学校で、勉強をすることよりもずっと多く嫌な目にあってきたのだ。だからお母さんは不安に思っている。
また私が嫌な目にあっているんじゃないかと。
確かに私は今、学校が好きじゃない。むしろ嫌いだ。でも、中学や小学校の時より環境的にはましだと考えている。あの頃は酷かった。毎日叩かれたり、押されたり、悪口を言われ、真似をされた。物を壊されたりすることだってあった。そう考えると、何もされていない今の環境は、ましだ。
「ねえ、萌歌。あなたまたいじめに……」
お母さんの言葉を遮るように、首を横に振る。
そして私は何度も声に出そうとして、空気を吐くことを繰り返しながら「大丈夫」と念押した。そのまま話を変えるために、今日の転校生のことを話題に出そうとするけれど、上手くいかない。お母さんは私の言葉をきちんと待っていて、その様子は私がすらすらと声を出すのを懇願するように見えた。
「……きょーう、転校生が、きーたよ」
「そうなの? 女の子?」
「お、お、男」
「この時期に、珍しいわね……」
お母さんが複雑そうな表情でカレンダーを見た。そこには日付を知らせる文字列の上に、切り取るように撮られたスターチスの花が咲いていた。
「仲良くなれるといいわね」
そんなこと出来ない。誰であっても。それはお母さんにも分かってほしいと思う。
私はお母さんを不安にさせないよう、曖昧に頷きながらカレンダーを見つめていた。