深夜のここはどこ
戦争はようやく終結した。
国境を侵したユーガムカル王国の軍は、無事我らがアルルカイルカ王国が退けたのだ。長く前線への補給を担ってきたこの拠点も引き上げが決定し、タスティ=タルティは嬉々として転移陣の起動準備を始めていた。
まともに王都へ帰還するのは、いったい何年ぶりだろう。
――なのに。
「クラスノはこっちを手伝え! テュリアは兵たちの援護を頼む!」
「わかった」
「ええ!」
未だ身を隠していたユーガムカルの残党が、最後に一矢報いようとでも考えたのか、この拠点を襲撃したのだ。
終戦協定だって締結されたはずだった。
戦いはもう終わったのだと油断していたこちらも悪いのだろうが、それにしたって、今まさに転移陣の起動をスタートした、このタイミングはない。
「タスティ、ふたりじゃ無理だ」
「だが、テュリアがこっちに来たら兵たちがやられる」
チ、と舌打ちをして、タスティと呼ばれた魔法使いは杖を構えた。
ほんの少し意識を逸らすだけで、瞬く間に魔力が暴れ出す。
クラスノの言葉はもっともだ。本来、転移陣の起動には三人の魔法使いが必要なのに、今、それに専念できるのはこの場にふたりだけ。本来ならテュリアもいるはずなのに、襲撃者を相手にするだけでいっぱいいっぱいだ。
さらに言えば、この拠点に配置された魔法使いはたったの五人。残りのふたりも、ここではないどこかで残党どもを相手にしているはずだ。
手が足りない。
「クラスノ、もう少しだけがんばってくれ」
タスティの杖を握る手に力が籠もる。
無茶なのはわかっている。けれど、転移陣なんて暴走させてしまったら、最悪、このあたり一帯が吹き飛ぶことにすらなりかねない。
王都にいる大御所魔法使いなら、ふたりでもなんとかできるのだろうが……。
「クラスノ。君は結界を……」
「だめだ、間に合わない」
いきなり弾けた光で、視界が真っ白に染まる。
この状況、ユーガムカルはいったいどう落とし前をつけてくれるのか。
そんなことを考えたのが、最後だった。
* * *
ゆっくりと目を開けると、薄暗い空間だった。
垂れ下がった布の隙間から弱々しい光が差し込んで、タスティの周囲を仄暗く照らし出している。
げほ、と小さく咳払いをして、タスティはゆっくりと身体を起こした。
見慣れない、小さな部屋だ。
外の光源が何かはわからないが、松明やろうそくではないだろう。明滅がなく揺れてもいないのは、魔法の光だからだろうか。ともかく、その光のおかげで室内は辛うじてものの形が判別できる程度の暗さではある。
床から伝わる感触は、石ではなく木のようだった。表面には柔らかくつるりとした感触だ。なめし革か何かが張ってあるのか。あまりなじみのない感触に、タスティは少しだけ困惑する。
少しずつ目が慣れて、あたりもだいぶ見分けられるようになってきたが……それにしても、ずいぶんと雑然とした部屋だな、と軽く眉を顰めてしまう。いや、雑然というより、適当に放り込まれた物品が無秩序に山を成しているようでもある。およそ整理整頓からは遠く離れたありさまだ。
それに、ろくに掃除もされていないのか少々ほこりっぽいし、やや臭う。
思わずくしゅんとくしゃみをひとつして、タスティは慌てて周囲を伺った。
ここがどこだかわからない以上、用心してもし過ぎることはない。
「んー……」
突然聞こえた人の声に、タスティはびくりと振り向いて身構えた。
無意識にたぐり寄せた杖の感触を確かめて、声の方向を透かし見ると……。
『人? 人事不省……? いや、寝ている……のか?』
大きな布の塊に寄りかかる小さな人影が、わずかに身じろぎをした。見える限りから判断するに女性のようだ。
しかも、うっすらと見える体付きから判断するに、女性だ。まだ、若いようでもある。
――妙齢の女性がなぜ、こんなところで寝ているのか。
『あの……』
おそるおそる声を掛ける。
彼女の寄りかかっているものは、見ようによっては寝台か何かのようでもあった。膝くらいの高さの柔らかい台に、毛布とおぼしき布が乗っている。
その上に積み上がった衣服のような布の山からは、とてもそうとは判断し難いのだけれど。
ともかく、ここがどこなのかは、彼女が知っているだろう。
上体を寄りかからせて眠り込む女性の肩を、タスティは失礼にならない程度に揺すってみた。
『お尋ねしたいことがあるのだが』
だが、タスティの手はピシリとはね除けられた。
結構な力で振り払われ、思わずびくりと姿勢を正す。やはり見知らぬ婦人にむやみに手を触れるなんて、失礼だったか……けれど、その相手は相変わらず突っ伏したままだった。むにゃむにゃと何か言っているようだが、はっきりとは聞き取れない。
つまり、寝ぼけて振り払われただけ?
『あの、すまないが、起きてはいただけないか。おそらくは、非常事態でないかと思うのだが』
タスティはもう一度そっと女性の身体を揺り動かした。
しばしの後、ぴくりと震えて彼女が上体を起こしたことに、タスティはほっと息を吐く。
「――ねむいの」
『え、あの』
「あとにして。安眠妨害」
『は? ええと』
ものすごく不機嫌そうな顔で振り向いた彼女はそれだけを呟いて、またぱたりと突っ伏してしまった。
すうすうと穏やかな寝息とともに、だ。
言葉はもちろんわからなかった。しかし――
『すみません』
それ以上、タスティは何を言うこともできず、ただひっそりと彼女の目覚めを待ち続けたのだった。