01.始まりの邂逅(前)
目を覚ますと、そこは一度も行ったことの無い渋谷のスクランブル交差点だった。
一瞬夢かと思ったが、背に感じるアスファルトの感覚や、一切眩しさを感じない事に違和感を覚え、ゆっくりと起き上がる。
周囲には大勢な人。しかし皆誰もがチラリとも僕を見る事なく通り過ぎていく。
一面灰色の世界。空も、人も、ビルも、何もかもが灰色に薄汚れ、まるで僕だけ世界の裏側に来たかの様な……。
「は、我ながら詩的すぎるか」
独り言ちて何気なくポケットを漁るが、何も無い。財布も携帯もどうやら何処かに忘れてきたらしい。
さてどうするかと悩んでいると、女性が声を掛けてきた。
「思った通り、動揺しないんですね」
見れば、その女性は仕事帰りか何かなのか、スーツを着て僕の前に立っていた。
「初めまして、私は■■■■と申します。木崎歩さんですね?」
見るからにモテそうなルックスだが、残念な事に名前を聞き取る事は出来なかった。
しかし、何故僕の名前を知っているのだろう。
素直に聞いてみると。
「それがお仕事ですから」
見事な営業スマイルで答えられた。
成る程仕事か。であればこんな所で寝ていた僕に対して注意でもしに来たのだろうか。通行の邪魔をした訳だし。
「いえ、そういう事ではありません。というより、そんな事はどうでもいいんです。だってここは、歩さんが生きていた世界とは少しズレた世界ですから」
……今何か、聞き捨てならない事を言われた様な。
指摘すると、彼女は嗚呼、と思い出したかの様に告げた。
「木崎歩さん。二十七歳。貴方は先ほど息を引き取られました」
その言葉に暫く沈黙していると、彼女は気を利かせ経緯を話し始めた。
「帰宅途中にたまたま通り魔に出くわし、包丁で刺されそうになっている少女を庇って自分が刺され、失血多量で病院に搬送後死んだのですが、覚えておられませんか?」
残念ながら、全く。
「そうですか。お疲れ様でした」
深々と頭を下げられても、実感は少しも無かった。
両親からは数年前に勘当され、恋人はおろか友達すら居ない僕が死んだ所で、悲しむ人はいないだろう。
そう考えれば、未来ある子どもを守って死ねたのであれば、少しは僕の人生にも意味があったのかも知れない。
「でも、これっておかしな話なんですよ」
彼女は首を傾げた。
「貴方は本来、生涯孤独のまま死んでいく筈でした。本来ならこんな死に方をする予定では無いんです」
え、何。死ぬとかそういうのってやっぱり決められてる事なの?運命的な。
「そうではなくてですね。そもそもあの場所で、貴方が少女を助ける筈がないんです」
とんだ言われようである。そこまで冷酷無比な無感情人間ではないつもりだが。
「冷酷無比な無感情人間だから、両親も友達も居ないのでは?」
正論はいつだって人の心を傷つけるなあ。
でもまあ。
「そんな事はどうでもいい、ですか。まあその返答が来るのは予想してましたが」
よく聞いてください、という前置きの後、彼女は語り出した。
曰く、人の魂には『起源』と呼ばれる設計図によって作られている。
曰く、人はその魂の設計図である『起源』に沿った行動を取る。
曰く、人は『起源』に背く行為を行う事は出来ない。
曰く、何度生まれ変わっても、その『起源』が変わる事はない。
成る程、全く分からない。
「魚が突然空で生活しようとしないでしょう?鳥が深海で生活しようとしないでしょう?つまり、魂とはその者の絶対不変の在り方なんです」
具体例がイマイチピンと来ないが……そもそも起源って何の話?
「例えば『殺害』の起源を持った魂は、確実にそれを行います。ただそれは犯罪として人を殺害するのか、生きる為に動物を屠殺するのか、それはその人の生き方次第ですが……起源が『殺害』である以上、何かを殺さなければ生きられません」
「起源が『正義』なら、警察官になったり検察になったり、或いは独裁者になってしまったりとかそういう事?」
成る程。つまり「こうしなければならない」という規則がある訳か。ただそれをどう守るかはその人次第って事。
理解が早くて助かりますと頭を下げられた。
「今のは極端な例ですが、そういう事です。勿論理性である程度抑える事が出来るのですが……それと相反する行為は、基本的に行う事は出来ません」
そして今その説明を僕にするという事は、少女を助けた行動が、その『起源』に相反する行為だったという事か。正直話半分で聞いているのだが、まさか死んでまでダメ出しを食らうとは思わなかった。
「貴方は、あの場で少女を助ける筈がない。それは貴方が一番良くお分かりではないですか?」
その言葉に、思わず声を失った。
灰色の世界。全ての人が他人に無関心な世界。風もなく、音もなく、寒くもなく暑くもない。存在しているのは僕ら二人だけのような世界で、僕は思わず冷や汗をかく。
この女、何を知っている。
「貴方と戦闘行為を行うつもりはありません。そして、貴方の胸中の疑問に答えるならばこうでしょうか。私は貴方の全てを知っている」
瞬間、僕は彼女の首に手を伸ばし、力を込める。大きくも小さくもない僕の掌だが、精々女性の首を絞め、骨を折る程度の事は可能だ。
だからそうした。出来る事をするのは当然の事だから。
骨が軋み、セロリを捻じ切る音が鳴る。
女は一瞬の抵抗を見せたが、その場に崩れ落ち、そのままピクリとも動かない。
……反射的に殺したが、さてどうするべきか。
周囲を行き交う人は何も反応しない。今この瞬間、人が人を殺したというのに。
という事は、おかしいのは世界ではなく、自分か。
「いえ、正確にはどちらも、ですか。言ったはずですよ。ここは少しズレた世界だと」
背後から聞き覚えのある声。振り返れば先ほど殺した筈の女。
「この世界は貴方が今まで生きていた世界とはほんの少しだけ位相がズレた世界。ほんの少しでも、致命的にズレている以上決して干渉し合うことは出来ません」
死者が生者に干渉出来ないように、と言葉を結ぶ女。
「……お前は、何者だ」
「それは此方の台詞です。いきなり殺そうとするなんで」
殺した筈の女に文句を言われるとは思わなかった。
「成る程、それが貴方の『禁句』という訳ですか。覚えておきましょう」
そういって彼女は何事も無かったかのように話し出した。
「貴方は起源は『怠惰』七つの大罪と呼ばれるものの一つ。怠け者の称号。執着もなく、全てをどうでもいいと諦められる諦観の象徴。それが貴方の起源です」
七つの大罪とはまた随分仰々しい起源だこと。
「いえ、人を人たらしめる起源なので、同じ人は多数存在します。というか起源が被ることなんてそんなに珍しくもありません。『怠惰』だけなら約三万人程でしょうか」
本当に全然珍しくも無かった。全世界の人口は七十億を超えるという。そりゃ七十億個も起源があるとは思えないし、当然といえば当然か。
「つまり『怠惰』を起源に持つ僕が、あの場で少女を助けるのはおかしい。って話か」
成る程、魂の設計図である起源が『怠惰』であるならば、あの場で少女を助けずに見殺しにするのが道理である。と。
「そんなにおかしな話か」
「そんなにおかしな話なんです。何故なら、貴方はあの少女を助ける時、無意識に行動した」
嗚呼、何となく思い出してきた。
夜道を行く男。バッグから包丁を取り出し、歩く少女の背に突き立てようとする。
それが見えたから、ただ何気なく追いかけ、その前に立ち塞がった。
別に少女と面識があった訳ではない。寧ろ顔も見てはいない。
ただ、このままでは少女が死ぬのがわかったから。
「起源に相反する行為を行う際には、強い理性が必要です。無意識下でできる行動ではない」
「人として褒められるべき行為をした筈なのに、何でそんな目で見る」
「不可解であり、理解不能だからです」
何となく責められているような気がする。
「魂の設計図たる起源に背き、人たらしめる大罪に反目する人間。その魂はいずれ、輪廻の渦に悪影響を与えかねないのです」
「なら、どうする」
「輪廻の渦に戻して生まれ変わりをさせる訳にはいきません。かと言ってここまでのレアケースを放置しておく手はない。だから、貴方を別世界に転移させます」
別世界?それが、ここか。
「いいえ、ここは貴方の世界から少しズレただけの価値のない場所。貴方の行く場所は、人も、物理法則も、科学技術も何もかも違う別世界。三人の神が管理する世界。もし貴方が本当に価値があるのなら、私達がその価値を認めましょう」
今更自分に価値があるとは思えないし、わざわざ認められようとも思わない。
「尚、転移を了承しない場合、輪廻の渦に悪影響を及ぼす恐れがあるとして、その魂は完全分解。完全消去を実行します」
このまま本当の意味で死ぬか、別世界で生きるか。
話は完全にファンタジー決め込んでるし設定も盛り沢山で意味不明だが、結局はどちらを選択するか、か。
別に未練はない。ただ自分から死にたいかと聞かれれば、そんな事はない。
全てに未練を抱く事が出来ず、どうでもいいと過ごしてきた結果、大切な筈のものまで手放してきた人生ではあったが、じゃあ自分の命もどうでも良いかと聞かれればそうではない。
「違います。ただ貴方が、自殺をする事すらもどうでも良いと投げ出してきただけです。生きているのに生きてはいない、生ける屍。それが、木崎歩という人間です」
否定は出来ないし、する気もない。それは間違いなく、木崎歩という人間を表すに相応しい言葉だからだ。
「もし別世界で生きるならば、その為の術を与えましょう。もし困難に立ち向かうならば、その為の目的を与えましょう。もし」
ーーもし、貴方が『起源』に届き、屈服させるならば




