第四話:泣き虫で愚かな女のお話。
私の家はどちらかと言えば裕福な家だと思う。
それが確定的ではないのは別に謙虚な姿勢であるわけではなく、幼馴染みで親友メンバーのとある一人の金髪が財閥の御曹司だからだ。
どうしても彼の家と自宅を比較してしまうためにこういう表現しか出来ないのだが、多分私の家は裕福な方なんだろう。
◇
それは年が明けて少しした一月下旬の頃だっただろうか。
深夜もう遅く、丑三つ時も超えた時間。私はトイレのために夜中ベッドを抜け出して廊下を歩いていた時だった。
私の部屋の三つ隣、薄く開いた部屋の一室からは言い争うような声が聞こえていた。
この時期になると共働きの両親は仕事の関係でよくぶつかり合うようになるのはこの一年で重々承知した。
服飾関係の会社で営業コンサルの最高責任者であるお父様と、同じ会社でデザイナー長として働いているお母様。共働きなのは単純に二人共仕事に生きがいを感じているからだ。
二月上旬には会社一番の目玉であり大きな広告となるファッションショーがあるのだという。その日に向けて最終調整を行うのが今頃の時期なのだが、どうやら営業側とデザイナー側で求めている頂点が違うとかで毎度二人で話し合いを重ねては喧嘩するのが大抵なのだ。
お兄様は「大人は色々大変なことが多いんだよ、トモカ。だから邪魔しちゃ駄目だ」と言うのだから、ああいうのが大人っていうもんなんだな、と今の年になってもずっと思っている。
相も変わらず続く言い争いはまるで今にも離婚しそうな喧嘩のようだ。
お父様が来たばかりの去年はもっと激昂し合っていたから、まだマシな方だなと思いながらも私は部屋に戻ったものだった。
「トモカお嬢様」
「なに、サクラ」
「お嬢様は、奥様の事がお好きですか?」
次の日の朝方、欠伸を噛み殺しながら服を着替える私は、それを手伝ってくれていたメイドのサクラから奇妙な質問を受けた。
いや、質問自体は特に変でもなかった。が、ざらりと背筋を駆け上がるねっとりとしたノイズ音がその質問の意図をわからなくさせたのだ。
私は一度か二度、瞬きをして考える時間を稼ぐと、そのノイズ音がきっと喜ぶであろう返答をすることにした。
言うなれば、私は両親の絆を幼心に試したかったのだろう。
そして、この馬鹿なメイドにも、お灸を据えてやろうと思ったのだ。
ゆっくりと幼学校の制服の長袖に腕を通しながら、サクラには背を向け私は言い放つ。
その瞬間、あのざらりとしたノイズ音が嬉しそうに金切り声を上げる。本当に、本当に不快な音だった。
「とくに、すきでもないわ」
◇
その日、自宅に帰ると何時もは遅くまで仕事をしているはずのお父様とお母様がリビングで深刻そうに話し合っていた。
ただいま。と声を掛けると、どうやら私が帰宅していたことに気付いていなかったらしく、びっくりした表情の二人が私におかえり、と声を掛けた後、何やらひそひそと何かをお互い何度か喋り合ってから私に真剣な瞳を向けてきた。
「トモカ。……実はね、話しておかなくてはいけないことがあって」
「なあに、おとうさま」
「…………サクラが、この家からいなくなる事になったの」
「ふうん。……どうして?」
「……それは、」
「…………ううん、いいの。おはなししなくていいのよ、おとうさま、おかあさま。わたし、わかったわ」
「心が、聞こえたの?」
「……うん」
「そう。……ごめんね、辛い思いをさせてしまって」
「いいのよ、おかあさま。そんなおかおをしないで。おとうさまも、だいじょうぶよ」
かつ、こつ、と後ろからブーツの音がする。ざらりとしたノイズ音。誰かは分かっていた。だからこそ、大きな声で言い放った。
「わたしは、おとうさまのことも、おかあさまのことも、だいすきよ」
どんな表情をしているのかはわからない。
だけど、そのノイズ音がぶわりと怒りに膨らんだのは良く分かった。
それが途轍もなく滑稽で、私は笑みを隠しきれずに二人へ笑いかけた。
◇
二度同じことを言う事になるが、私の家はどちらかと言えば裕福な家だと思う。
ファッション業界の常に最先端を走る大企業の営業コンサル、そこの最高責任者であるお父様と、デザイナー長のお母様。どちらもエリートだ。
そんな二人の元に生まれたお兄様は医者志望。都内有数の進学校で主席。私はエスカレーター式の同じ進学校の幼学校へ通っている。見目も悪くない家族。外から見れば大変羨ましく出来上がっている完璧な家庭に見えるだろう。
そんな家庭に、割り込んで入ってこようとする輩が居ない筈無かった。
サクラは今年の夏に家へ住み込みで入ってきたメイド。どうやら元々お母様の立場を乗っ取ることが目的だったらしい。
私達に取り入って信頼を得た後、お父様を陥落させて不倫。その後お母様を家から追い出して、自身がお父様の後妻として結婚する予定だったのだとか。
あまりにも周りのノイズ音が酷く、すぐに気付けなかった私の落ち度も幾つかあるけれど、結局彼女はこうして皆の信頼を次々と勝ち得た矢先、この時期恒例の両親の喧嘩を「実はあんなに酷い喧嘩をする程不仲」という風に受け取ったようだ。
今のタイミングならきっと楽にお父様を略奪出来るだろう。そう踏んだサクラは、私にああ聞いたのだ。
「お嬢様は、奥様の事がお好きですか?」
彼女に計算ミスがあったとするならば。
そもそもお父様はお母様含め私達家族を大変溺愛してくれているという事。
あとは、私が彼女の心が聞こえるという事を知らなかったという事くらいだろうか。
◇
サクラが解雇されて一ヶ月後。
私は珍しく幼学校からの帰り道を徒歩で帰っていた。
何時も迎えに来てくれている執事が本当に本当に珍しく体調を悪くしてしまったとかで、代理の迎えを寄越そうかというお父様の提案を蹴って歩く事を選択した。
勿論その選択は意味があるものだ。
私は歩き続けていたその足を止めて、くるりと振り返る。
そこにいた人影に、ああやはりな。と一人ごちた。
「なにしているの、サクラ」
「お嬢様……流石ですね」
「わかりやすいのよ」
「こういうことは素人でして。すみません」
メイド服以外の服を纏ったサクラは、お世辞抜きでも美しいなと思った。
元から眉目秀麗な面持ちの彼女ではあったが、こうして真っ白なワンピースを着ているとその肌の透明度や黒く長い髪が映えてもっと綺麗だなと感じたのだ。
そんな彼女は手に一本のナイフを握っていた。
鈍色に光るそのナイフを見つめて、ああ、ようやくか。と何となく思ったのは、多分墓に入るまで誰にも言わないだろう。
「お嬢様が裏切るとは私、全く思いませんでしたよ。お嬢様はいつだって聡明で賢く素直な子だと思っていましたのに」
「すなおよ。すなおにうそをついたの。」
「ええ。お陰でまんまと嵌められました。……きっと聡明で賢く素直なお嬢様の事ですから、この後の私の行動も予測出来るのでしょう?」
「わかっているわ」
「へえ……ではどうして逃げないのです?」
「サクラが……」
「私が?」
「……あなたが、ないてるからよ」
「……っ、」
サクラが頬を伝う涙に気付いてそれを指で触れてから、呆然と私を見つめる。
本当に自分が泣いていると気付かなかったらしいサクラは、その場で地面に膝を折ると、崩れるように私を抱き締めて声を上げ、泣いた。
ざりざりと聞こえていたノイズ音が遠ざかって、ただただサクラの声が私の身体の中で何かを呼ぶように響いていく。
(お許しください、お嬢様。私は、あなた達家族の一人に、なってみたかったのです)
「ああ、本当……なんてくだらない感情なのかしら。」