第三話:世界に置いていかれた少年のお話。
世界というものは、案外脆いものだと当時の私は知っていた。……否、『知っているつもり』だった。
今振り返ると、知っていると思い込んでいるだけで絶対的に揺らがなかった"カミサマ"である前父親に成り替わる何かを、ずっと探していたのかもしれない。
それでも、当時の私は世界が簡単に終わってしまうことを知っていた。
無力な、ただの六歳そこらの世界なんてものは、特に崩壊しやすい。
◇
言うなれば、彼はその当時私の知りうる同年代の男子の中では完璧な存在だった。
頭脳明晰、運動神経抜群。小等部のサッカーチームに所属しており、幼学校では唯一のレギュラーメンバー。
性格も優しくて爽やかで誰にも分け隔てなく接する。顔も綺麗でその面持ちは少年というよりは中性的な顔立ちだった。
勿論異性から好意を寄せられることも、同性から信頼されることも当たり前。先生や保護者からも可愛がられる。そんな、完璧な少年。
──ヒロトはそんな子供だったように見えた。
「トモカちゃん」
「……なに?」
「みんなでおにごっこするけど、トモカちゃんもしない?」
「しない」
「そっか……じゃあしたくなったらまたこえかけて!」
当時の私は相当取っ付き難い人間だったのは今までの話の中で散々お察しの通りなのだが、彼はそのお得意の皆一緒に仲良く精神の元からか、声を掛けられることが非常に多かった。
それも更に面倒だったのは、彼自身本気で「皆楽しくやれる」と心の底から思い込んでいるタイプの人間であり、その発言に裏も表も無いことだ。
だからと言って私の中の意思が変わる訳でもなく、どちらにせよ断るに決まっているのだが、彼はめげなかった。
ヒロトという少年は、そういう子供だったのだ。
◇
その日の夜は、変に寒かったのを覚えている。
自宅に帰ってからも何故か身体の奥底が気持ち悪く騒ついていて、早く寝ようとベッドに潜り込んで何度寝返りを打っても、全く眠気なんて来なかった。
そうこうしているうちにどうにか睡魔が自分の意識を攫って行こうとしたのが分かった、その瞬間。
慌てた誰かの足音が自身の部屋に近付いている気配で目が醒めた。
目を擦りながら起き上がった私と、性急なノックの音の後に自宅へ住み込んでいるメイドのサクラが部屋に飛び込んだのはほぼ同時だった。
「トモカお嬢様! 奥様がお呼びで……」
「こんなじかんに……?」
「はい、あの……どうやら、トモカお嬢様のご学友であるヒロト様が……」
話はこうだ。
サッカーチームの練習が遅くなってしまったヒロトは、すっかり暗くなってしまった夜道を歩いていたところ、見知らぬ男に声を掛けられた。
どうやら道を聞いてきたらしいその男は、ヒロトに待ち合わせの場所であるという公園の名前を挙げ、そこまで連れて行って欲しいと頼んできたそうだ。
ヒロトは持ち前の人の良さからか、その男を公園まで連れて行き、そして、そこで居合わせた数人の男達に人気の無い公園奥の公衆トイレまで引き摺られ、強姦された。
その後偶然通り掛かった通行人が公衆トイレから聞こえる叫び声に運良く気付き通報をしたが、警察が到着した頃には既に男達の半分は居なくなっており、ヒロトは散々凌辱された後だった。
心身共に衰弱しきっていた彼はすぐに病院へ搬送されたが、駆けつけた彼の母親は彼の状況と容態を聞いてヒステリックにこう叫んだという。
「そんなことされるなんて私の息子じゃない! 気持ち悪い!」
そして、それをヒロトは病室で偶然にも意識が覚醒した瞬間に聞いてしまったのだ。
◇
「トモカちゃん」
「……なに?」
「おにごっこしない?」
「しない」
「かくれんぼは?」
その後ヒロトは二ヶ月の入院の後、幼学校に復帰した。
しかし、彼の世界は崩壊したままだった。
結局彼の母は彼を気持ち悪がった結果、彼の祖母に預けて行方をくらませたそうだし、彼自身が続投の意思が無かったが故にサッカーチームも辞めた。
以前に比べて元気も明るさも無くなってしまった彼は、教室の隅でぼうっと天井を見上げるだけになってしまったが故に、何度か話し掛けてきた他のクラスメイト達も反応を返さない彼に辟易したようで、次第に一人ぼっちになっていった。
そんなとある日。秋も落ちかけた夕暮れ。
他の子達が外のグラウンドで駆け回っているのを私は冷めた目つきで教室から眺めていると、あの事件から全く話し掛けてすら来なかったヒロトがふらりと私の元にやってきてはそう声を掛けた。
私は彼のざらりとノイズの混じった声を聞きながら、薄く瞼を閉じて、それからまた開いた。
「しない」
「……そっか」
「うん」
私の返答に口を噤んだヒロトは、それでも何故か私の元から去ろうとはせずに立ち竦んでいた。
外に向けたままの視線を一度本に落としてから、私は座ったままで彼を見上げると、彼はその大きな瞳から大粒の涙をぽたり、ぽたりと落としながら笑っていた。
「トモカちゃんは、つよいね」
「……そうね」
「ぼくには、むりだよ」
「……そう」
「…………うん」
不意に、彼が駆け出す。涙の跡をそこに残したまま教室から飛び出した。
私はその行き先がわかっていたし、不用意に彼を止めることもしなかった。
彼の声を、彼の気持ちを分かっていて、止められるほど私は責任感も力も無かった。
彼がその選択をするなら、その意思を尊重しようと思ったのだ。
それから数分後。
小等部の中庭にある大きな鯉池にヒロトが溺死していた。
苔がびっしりと積もった飛び石で足を滑らせて落ちてしまったのではないか、と皆がヒロトの死を悲しんでいた。
(もう、ぼくなんていなくなっちゃえばいいんだ)
「ああ、本当……なんてくだらない感情なのかしら。」