後編
午前中にあげた作品の後編です。
「お兄さん、もうケガは大丈夫なの?」
「うん。もともとそれほどひどいケガじゃなかったしね。もうすっかり元通りだよ」
遊園地に行ってから一週間。私がお兄さんに誘拐されてから十日が経過し、私たちはなるべく目立たないように、ひっそりと普通の生活をしていた。
相変わらず私の捜索届も出ていないようで、町で警官に呼び止められたり、張り紙を見ることなんてない。それでも一応、帽子や伊達メガネとかでカモフラージュはしてる。そのおかげか知らないけど、周りの人に怪しまれることも、身長のことで呼び止められることも今まで一回もなかった。
普段の生活も、すっかりお兄さんとの共同生活に慣れてきて、生活習慣もお兄さんものに染まってしまった。朝起きる時間、夜寝る時間、ご飯の時間、そういった生活の一部が、だんだんとお兄さんと同じになった。料理の味も、前はこだわってなかったけど、今はお兄さんの口に合うように日々少しずつ改良を重ねて、結構自信が出てきた。
簡単そうに聞こえるかもしれないけど、お兄さんは私の出した料理なら何でも「おいしい、おいしい」って言うから、顔のちょっとした変化で判断するのは本当に大変だった。もちろん嫌いな食べ物も把握した。こっちも好きなものを探る時と同じ理由で大変だった。
お兄さんの方はと言うと、こっちは相も変わらずに毎日私に好きだ好きだ、と伝えてくる。何度冷たい言葉を返しても全く懲りるようすはない。そして、私もそのお兄さんの言葉でやる気を出しているのだから、面白い話だ。
お兄さんは、今まで私の周りにいた人たちとは違う。
私をちゃんと見てくれる。
ちゃんと見てくれてるから、良いことしたら喜んでくれるし、褒めてくれる。逆に悪いことをしたら怒ってくれる。私が冗談でお兄さんがコンビニに行ってる間に部屋の中で隠れてみたら、本気で大泣きしながら私を探してた。
あの時は嬉しさと申し訳なさが、私の心で喧嘩してて大変だった。
この辺りのこともすっかり詳しくなった。、
近くのスーパーやデパートの特売日、最寄りのコンビニ、近くの公園、普段はあまり使わないような裏道なんかもしっかりと把握してる。
近所の人とも仲良くなった。
最初は見つからないようにしようと思ってたんだけど、お兄さんと相談して、ずっと見つからないようにしてるのは無理だろうから、適当な理由を付けて堂々と近所の人にはしていよう。ということになった。
近所の人は、私をお兄さんの従妹だと思っていて、両親の都合でお世話になっている、ということになってる。今では、会ったら少し世間話をするくらいには近所の人とも仲良くなった。
最初はバレちゃうんじゃないかって本当に不安だったけど、少し髪形を変えただけでも全くバレなかった。少し安心した。
家にいた時の私からは想像もできないような顔で、色んな人と何を気にするでもなく話をして、孤独を感じることのなく、自分らしく生きている。その上、私なんかに愛を伝えてくる誘拐犯もいる。
私は、この生活に、満たされている。そう毎日思うようになった。
「私、もうずっとここで暮らしてたいなー」
「はははっ。嬉しいこと言ってくれるね美里ちゃん。やっと僕のお嫁さんになる決意が固まったのかな?」
「残念だろうけどそれはない。お兄さんと結婚なんてしません」
「美里ちゃん……。だんだんと小悪魔化してきたね……」
本当に私は変わった。
いや、変えてもらった。
目の前の誘拐犯。古賀雄二に。
少し前の私からは、想像もできない笑顔で笑うことができるようになった。前はせいぜいクスッ、くらいが笑いの限界だった私が、今は誰の目を気にすることもなく声を出して笑ってる。
毎日笑って、喜んで、不安になって、怖くなって、また嬉しくなって、たまに悲しくなる。そんな生きてるだけで当たり前のように行われる当たり前のことを私は今まで知らなかった。
違う。知ってて放棄してた。
愛されちゃいけない人間が楽しく生きてちゃいけないって、勝手に決めつけてた。
でも、今は違う。
お兄さんの観覧車での言葉が少しだけど、確かに私を変えたんだ。
「ねえ、お兄さんっ」
「ん? なに美里ちゃん。あー、そろそろ古賀美里に名前を変えたくなった? ダメだよー。気持ちは嬉しいし受け取るけど、それはもう少し先、美里ちゃんが結婚できる年になってからだよー」
「ちがうよ。そんな話じゃなくて、この前の観覧車での話」
「あぁ……観覧車の……」
私からの告白じゃないとわかって、顔を少し悲しそうにするお兄さん。
反応がいちいちおもしろい。
「それで、この前の観覧車の話って?」
「うん。私が言ってた愛される資格うんぬんの話なんだけど―――」
「ああ、それがどうかしたの?」
「私、まだ完全にお兄さんの言い分を理解はできないけど、信じてみたいとは思えるようになったよ」
この一週間。私だってただ無駄に過ごしていたわけじゃない。
私なりにお兄さんに言われたことを考えて、お兄さんにしてもらったことを考えて、お兄さんの気持ちを考えた。そこに私の考えを当てはめて、どっちが正しいのか、どちらが生きやすいのか、悩むだけ悩んだ。
実際は考える必要なんてなくて、答えはすぐに出ていたけど、それを認めるのに時間がかかった。
「私、これからは楽しく生きるよ。毎日笑って嬉しくなって、色んな人と関わって、たまに泣いたり、寂しくなる。そんな私らしい当たり前の生活を送るよ」
「僕の隣で?」
「お兄さんとは離れた場所で……。って思ったこともあったけど、お兄さんの隣で」
「え? ほ、ホントに?」
「疑ってるの? あんなに好き好き言ってくれてるのに? 私傷ついちゃうなー」
「いや、違うんだよ。ごめんね。ただ、珍しく美里ちゃんが嬉しいこと言うから……」
「だから今言ったじゃん。私らしい当たり前の生活を送るって。もう忘れちゃったの? ……まあ、今までの私を知ってるお兄さんからしたら変かもしれないけど、私、元々嘘つきじゃないし、言いたいことはバシッと言いたい派だもん。そりゃあ今までは人付き合いとかが面倒くさくて、何も言ってこなかったけど、心の中では色々思ってた。今はそれを意地を張ったりしないでちゃんと言ってるだけだよ。結婚はしてあげないつもりだけどね」
私は自分の頭に指をさして、忘れちゃったの? のジェスチャーをしながらお兄さんに笑いかける。
「そっか……」
「嬉しくないの……?」
しかし、私の言葉にお兄さんは笑ってくれなかった。それどころか俯いてしまった。どうかしたのかと思って顔を下から覗き込んだら、すごい難しい顔をしてた。まるで、テスト中に難問にぶつかったみたいに。
でもそれも一瞬で、私が覗き込んでいるのがわかったら、お兄さんはすぐに顔を上げ、話し出した。
「ううん。嬉しい、嬉しいよ。でも……」
「でも?」
お兄さんは私の方に向き直り、口を開こうとして、口を閉じた。そして吐き出しかけた言葉を押し込むように、大きく何かを飲み込んだ。
さっきからどうしたんだろうと思ってると、お兄さんは軽く頭を振って、いつもの表情に戻ってから話しかけてきた。
「美里ちゃんの可愛さがあったら、性格なんてどうでもいいかなって」
いきなりすぎるお兄さんの発言に少し呆気を取られたものの、さすがに慣れてきたのか、私はすぐに表情を作り直す。
「ありがとっ!」
「ほんとに美里ちゃん素直になったね。僕は前の辛辣な美里ちゃんも好きだったのに」
「別に私だって根っこから変わったわけじゃないよ。今だって心の中ではお兄さん気持ち悪い、って思ってるもん」
「ひどっ!?」
「あははははっ」
楽しい。うれしい。面白い。
私は今、充実してる。
「それよりお兄さん。なにかしようよ」
「いいよ、何する? って言っても、この家で遊べるようなものは大抵遊びつくしたと思うけど―――」
「そうだね……。トランプもジェンガもウノも人生ゲームも全部やっちゃったもんね」
一応誘拐犯と誘拐された人という関係である私たちは、外出はこの前の遊園地以来あまりしないようにしている。買い物はなるべく一気にするようにしてるし、外での遊びも、私が「そんなに外でばっかり遊んでたらお金がいくらあっても足りないよ。それに、私たちのことがバレる可能性も上がっちゃうし」と言ったら、お兄さんは反論をしてきたものの、最終的には「なんか最近の美里ちゃん、お嫁さんというよりお母さんみたい……」とか言いながら折れた。
そんな生活を数日間送っていたせいか、私たちは家でできる遊びのほとんどをやりつくしてしまった。最近では二人でババ抜きなんていう、聞いてるだけでも少し悲しくなるような遊びまでしたくらいだ。
二人で頭を悩ませるも、結局したいことも思いつかず、私も逆になんであんなこと言ったんだろうとか考えてしまった。このまま黙ってるのもつまらないと感じた私はテレビをつけた。映し出されたニュース番組につまらないという子供っぽい感想を抱きつつ、チャンネルを回す。
ニュース番組、食番組と、対して興味も沸かない番組を無視して、ようやく少しは興味の持てる番組を見つけた。
テレビでは四十代くらいのおじさんと二十代のお姉さんが二人で町を歩き、様々な観光スポットや隠れた名所なんかを伝えている。いわゆる旅番組というものだった。地元の人しか知らないようなおいしいお店や、効き目のあるお守り、よい景色の見れる場所など、今やってる他の番組に比べれば十二分におもしろい。
「旅行してみたいなー」
つい何気なく、そう零してしまった。
きれいな景色やおいしそうな名産品を目にしたからだろう。私は結構ドライな性格だと思ってんだけど、影響されやすい単純人間だったみたい。
「旅行か……いいね」
何気なく零した私の一言を、強引にお兄さんが拾い上げる。
「そうだ! 旅行に行こう!」
「いやいや、そんな京都に行こうみたいに言われても……。お金ないでしょ」
一週間以上お兄さんと生活を共にした私に、この家のことでわからないことはない。この家に何があるのか、どこにあるのか、逆に何がないのか、この家の金銭事情に関しても、もちろん把握している。把握どころか管理しているくらいだ。
といっても、お金のことに関しては、お兄さんがあまりに私のために贅沢なことばかりするから「私が管理します」って強引に決めたんだけど。でも実際、お兄さんに金銭的な余裕なんてほとんどなく、極めて普通の大学生くらいの金額だった。
この人、私がわがままばかり言う子だったらどうしてたんだろ? ほんとに生活できなくなるまでお金使って、最終的に借金とかしちゃいそうで怖い。
「お金は大丈夫だよ。そろそろ実家から仕送りが届くし、美里ちゃんが生活費の管理をしてくれてるから大丈夫。それに今回のお金の出どころは僕の美里ちゃんとの楽しい生活のため貯金から出すから、全然問題ないよ」
「なにその貯金……」
「名前の通りだよ! 僕が今までに生活費をコツコツ削って貯金してきた、美里ちゃんとの将来のための生活費とかじゃない、今回みたいな遊びとかで使う、美里ちゃんの頼みごとを叶えるための貯金」
「なんでそんなのがあるのさ。自分のために使いなよ」
「美里ちゃんが喜ぶことは僕の喜ぶことだからね。まさに一石二鳥!」
ピースをしながら笑いかけてくるお兄さん。
ほんと、なんで私のことそんなに好きなんだろ。私は全然魅力的でも何でもないのに。でも、ほんとの事を聞こうとすると、いつも適当に流されちゃう。好きなところを教えてはくれるんだけど、肝心の私のことをなんでそんなに好きになったのかが全然わからない。
「それよりさ、本当に旅行行こうよ!」
「えーっ。でもさ、生活費から出ないっていっても、元から生活は厳しいんだよ? 少しくらいなら大丈夫だけど、余裕があるわけじゃないし、その貯金も生活費に回したほうがいいんじゃない?」
旅行に行きたくないわけじゃないけど、むしろ行きたいけど、まずはこの生活を守る。それが今の私の最優先事項だ。そのためなら、私は心を殺して鬼になる。お兄さんの暴走を止められるのは私しかいない。
「いいのいいの。たまには楽しいことしないと人生つまらないよ。そりゃあ贅沢ばかりしてれば楽しいってわけじゃないけどさ、しないままってのも嫌じゃない。どうせなら幸せになれることに使えるお金は、そのために使おうよ」
確かにお兄さんに誘拐されて気づいたことの中に、楽しいことは勝手にはやってこない、っていうのがある。幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだね。という歌詞の曲があるけど、その通りだ。幸せは勝手に来てはくれない。来るのはあくまできっかけだけで、後は自分が歩いて掴みにいかなくちゃいけない。きっかけをくれるんだったら、そのまま幸せをくれた方がいいのに。
「確かにそうだけど……。でもダメっ! 最近、っていうか私がこの家に来てからお兄さん贅沢しすぎ。私の服に外食にカラオケ、それにこの前遊園地に行ったばかりじゃん。私も料理しやすいように色々と調理器具とか買っちゃったし、いくら仕送りが近いからって贅沢はダメ!」
危ない危ない。危うくまたお兄さんの話術に騙されるところだった。お兄さんは私のことになると盲目になるから、私がしっかりしないと。
「それにお兄さん。調理器具も食材も全然なかったし、どうせ私が来るまで毎日外食かコンビニ弁当だったでしょ。ってことは私が来るまでも贅沢ばかりしてたんじゃないの」
「し、してないよ……」
「なら、ちゃんと私の目を見て言ってよ」
私がそう言うと、お兄さんはちらちらとこちらを見ながら言った。
「照れちゃう……」
「乙女かっ!」
くだらない会話を挟みつつ、私たちは少しの間旅行に行く行かないについて話し合った。
「うー……いやだいやだいやだぁーっ。行くのーっ。美里ちゃんと一緒に旅行行くのー。楽しい思い出を作るのーっ!」
最初に理屈なしに駄々をこね始めたのは、まだ中学生女子の私ではなく、大学生のお兄さんの方だった。子供が床に寝そべって手足をばたつかせるというドラマなんかでしか見たことがないような駄々のこね方。
私は笑いよりも先に呆れの方が出てきてしまって、大きくため息をこぼす。
「全くもー、これじゃあどっちが子供かわかんないよ」
「大学生だって子供だもん! 二十歳じゃないもん!」
本当にこの人は大学生なんだろうか。なんだろうな。この前保険証を見せてもらって年齢は確認したし。
「いいかげん止めなよ。わかったからさ」
「え!? それじゃあ……」
「うん。いこっ、旅行。私も行きたくないわけじゃないし」
私が旅行することに賛成すると、お兄さんは顔をすぐに輝かせた。たまに見せるこういう子供っぽい顔が私は好きだ。でも気づかれると、その表情をしてくれなくなるか、ずっとその表情を作ってくる気がするから絶対に言わない
「それじゃあ早速パンフレットとか貰いに行ったりしようよ。あと、ネットで情報見てー。あー、やることがいっぱいだ!」
お兄さんが笑顔で出かける準備をする中、実は旅行が楽しみなことがバレて、からかわれたくない私は、ひっそりと笑みを零した。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「それじゃあ出かけよう! 僕らのハネムーンの行き先を探しにっ」
「天気があんまりよくないね……。パンフレットもらいに行くの来世にしようよ」
雲ひとつ浮かんでいない、気持ちの良い快晴の空を見上げながら私は言った。
「えっ? それって来世でも僕と旅行したいってこと?」
私の小さな嫌味なんて無視をして、ポジティブなところだけをお兄さんは拾い上げた。ある意味才能だと思う。
「ううん。違うよ。ハネムーンになんて行かないよっていう意味。それに来世ではお兄さんに会わないでも幸せになるつもりだし」
「えー、ひどいよ美里ちゃん。さっきまでの素直な美里ちゃんはどこに行っちゃったのさ」
「きっと、旅行が楽しみすぎて、お兄さんを置いて一人で行っちゃったんじゃないかな」
明後日の方向を見ながら、少し本音の混ざった返事をした。
これが今の私の精一杯。
「あっ、やっぱり楽しみなんだ。素直じゃないなー、美里ちゃんはー。やっぱり僕とハネムーンに行きたいんじゃない」
「行きたくないよ。お兄さんと旅行には行きたいけど、ハネムーンには行きたくないし」
「僕の隣にいたいって言ったのに?」
「あれはこのままの関係でいたいって意味だよ。結婚したいなんて私言ってないよ」
調子のいいお兄さんに舌をベーっと出して笑いかける。お兄さんはそんな私の姿ですら可愛いと言い、写真を撮るために携帯を取り出そうとしていた。そんな姿を取られたくはないので、私は急いで舌を戻す。
旅行の話が決まってから、早速外に情報を仕入れに行こうと、玄関を出た私たちのテンションはまさに正反対だった。私との旅行が楽しみで仕方ないお兄さんと、旅行自体は楽しみだけど、楽しみにしてるのを気取られたくない私。同じ方向を確かに見ているはずなのに、少し違う方向を見てる私たち。
まだまだ私がお兄さんのような人になりきれていない証拠だ。
なんだかんだありながらも、私たちはお互いに冗談だと分かりあっているから、笑い飛ばして今度こそ出かける。初めて会った時は必死になってお兄さんの歩く速度に合わせようとしていた私も、今では何も気にすることなくお兄さんの隣を歩けている。
お兄さんの歩く速度が私と同じになったのか、私の歩く速度がお兄さんと同じになったのか、それとも二人の速度が少しずつ歩み寄ったのか、私にはわからない。でも、それがうれしい。
青く澄んだ晴天の下を、ゆっくりと歩くこの時間。なんてことのない当たり前の日常を私は幸せだと感じている。
「ねえねえ美里ちゃん。どういうところに旅行に行きたい?」
「どういうところって?」
突然聞かれた質問の意味が分からず、私は首をかしげる。
「例えば、温かいところか寒いところとか、温泉があるところとか、もっと広く言えば国内国外とか、いろいろあるじゃない? 情報を仕入れるのにも、まずはある程度、条件を考えといた方がいいかなって思ってさ」
言葉にしてもらってようやくお兄さんの質問の意図を理解した私は、顎に手を当てて空を眺めつつ、思考を巡らせる。
「んー……。私は寒いの苦手だから行くんだったら沖縄みたいな温かいところかな。あと、海外はパスポートないし、今の私とお兄さんじゃ作れないからなし、温泉はあったらいいなーってくらいだし。暖かければ私はどこでもいいかな」
「そっかー。じゃあとりあえず国内の南西の方に行くのは確定として、あとはパンフレットとかで観光スポットとか見て決めようか」
「うん、そうしよ」
まだまだ何も決まっていない旅行に思いを馳せながら、私たちは商店街の方までやってきた。普段行くスーパーやデパートとは違う雰囲気を珍しく思いながら、二人でパンフレットを探す。
「美里ちゃん。あったよ」
数分歩くと、すぐに目的のものは見つかった。ツアーなどの紹介もしてくれるお店の前に、たくさんのパンフレットが並んでいたので、私たちはさっき決めた『とりあえず暖かそうな場所』っぽいパンフレットだけをもらうだけもらって、中の人に声をかけられる前にその場を後にした。
人との会話に慣れてきたとはいえ、自分から話されに行くほど私もまだ人との会話を楽しめはしない。お兄さんも、私にはこんな嬉しそうに話しかけてくるのに、近所の人との会話は楽しそうだけど少しぎこちない。つまりはお兄さんも私も程度の違いはあれどコミュ障なのだ。
お店の人に話しかけられずにその場を後にできた私たちは、少しでも多くの情報を求めて、また商店街を練り歩く。
大きな声で客寄せをする八百屋さん。「お姉さんきれいだね、おまけしちゃおう」と言いながら、笑顔で袋を渡す魚屋さん。買ってくれたお客の子供にコロッケをサービスするお肉屋さん。
「ねえねえ美里ちゃん。あのコロッケ僕らも食べない? あの子が食べてるの見て、すごく食べたくなっちゃったんだけど」
そして、それにつられてコロッケを食べたがる大学生。
いろんな人たちのいろんな行動。さして興味のない光景のはずなのに、知り合いなんてどこにもいないのに、どこを見ても飽きない。
商店街ってこんなに楽しい場所だったっけ?
結局この後、お兄さんは私の返事も聞かずにお肉屋さんにコロッケを二つ買いに行った。両手にコロッケを持って戻ってきたお兄さんから一つコロッケを受け取り、頬張る。サクッとした感触の後にアツアツのジャガイモが口の中を支配した。ようするに、おいしい。
「おいしいね、美里ちゃん」
黙々とコロッケを食べ続ける私に対し、感想を共有したいらしいお兄さんが話しかけてくる。私はおいしいものは黙って、そのおいしさを噛みしめたい方なんだけど、お兄さんは違うみたい。同じ気持ちを共有して同じ幸せに浸りたいみたいだ。
本当に私たちは正反対だ。
明るい性格のお兄さんに、一人を好む私。怖いのが苦手なお兄さんに、怖いのが好きな私。おいしいものを共有したがるお兄さんに、一人で黙々と楽しむ私。楽しいことを自分から探し、見つけ出せるお兄さんに、ただただ来るものを受け入れる私。誰かと話すのを楽しめるお兄さんに、鬱陶しいと思う私。良いことを探そうとするお兄さんに、悪いことばかりに目を向ける私。誰かを愛そうとするお兄さんに、愛されることを拒む私。
お兄さんの考えは、いつも私の考えとは違って前を向いている。それに比べ私は後ろを見続けている。
私が最近周りの見え方が変わったのは周りが変わったんじゃない。私が、私の見方が変わったんだ。興味のないものに興味が出てきた。悪いことよりも楽しいことを探し始めた。前を向くお兄さんに手を引かれ、少しずつ前を向き始めた。
ここ数日、私はこんなことばかり考えている。
お兄さんに変えられた部分をずっと振り返っている。
「美里……ちゃ……美里ちゃん……?」
「えっ? ごめん、考え事してた。何か言ってた?」
すっかり自分の世界に入り込んでしまっていたらしい私を、お兄さんの声が引き戻す。
「いや、別に何も言ってないよ。ただ、美里ちゃんがさっきからずっと、ぼーっとしてるからどうしたのかなって思ってさ。大丈夫?」
「そうなんだ。大丈夫だよ。別に変なこと考えてたわけじゃないから」
「そう? それじゃあ何を考えてたの?」
お兄さんが興味深そうに聞いてくる。私の口からお兄さんの望む答えが返ってくるはずもないのに。
「ほんとになんてことないことだよ。ただ、幸せって何だろうって思っただけ」
幸せ。
とても曖昧で不可解な感情。
楽しいともうれしいとも違う。それらの上位互換かと言われればそれも何か違う気もする。よく聞く言葉の割に私はこの言葉の真の意味を理解できていない。
「僕の隣に居れることじゃない?」
真剣に考える私にお兄さんが茶々を入れてくる。そんなお兄さんに手をクロスさせて、それを否定した。
「それだけは絶対に違うから」
「ツンデレだー」
こんな冗談を言いながらも私たちは旅行のパンフレットを探し続け、商店街を回り終えた頃には予想以上のパンフレットが集まっていた。
「よーし! 商店街での情報収集はこれくらいにして、あとは家でネットとかも使って旅行先を決めようか!」
「そうだね。疲れたしもう帰ろう」
「えーっ。そんなんじゃ旅行を楽しめないぞー」
「今体力を使ったらそれこそ旅行を楽しめないよ。私は今体力を節約しているのです」
何気ない会話を交わしながら、少し赤みの交じり始めた空の下を歩く。
私はこんな平凡なことが幸せなのかもしれないと思った。
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家に帰ってきて少しの休憩を挟んだ私たちは、早速さっきもらってきたパンフレットとネットを使って旅行先を決めることにした。パンフレットで行先の候補を挙げ、その行先の観光スポットをネットで調べる。
しばらくして何も決まらなかったので、出かける前に大雑把に決めた条件だけだと、候補が多すぎるということになり、条件を一つ増やした。それは綺麗な景色が見たい。お寺やお城を見るのもいいけど、一つくらい幻想的な景色を見てみたいと思って私が提案した。お兄さんは美里ちゃんが言うならもちろんオッケーと反対することもしなかった。
そこまで情報を詰めても、中々行先は決まらない。
別にどこも行きたいと思わないとわけじゃない。むしろ逆で、どこも魅力的過ぎてどこに行けばいいのかわからない状況なのだ。お兄さんが「ここなんてどうかな」と言ってくると、私が「それならここも良いんじゃない?」と返して、かれこれ一時間もこうしてる。
「綺麗なものって言うと、高いところからの景色とかだよね」
さすがに少し疲れてきたのか、お兄さんが伸びをしながら聞いてきたので、私も軽く身体を伸ばしながら答える。
「そうだねー。あとは満開の花とかも綺麗じゃない? お花畑とまでは言わないにしても、今の季節だと……満開の桜とかさ」
「桜かー。確かに満開の桜がたくさんあるところは綺麗だよね。でも、もうこの辺りだと満開の桜は終わっちゃってるよね?」
今は四月の十日。確かに満開の桜を見るにはもう遅い。テレビでもこの近くのお花見シーズンは終わったみたいなことを話していた。
桜は春のイメージだけど、実際に全力で綺麗に咲いているのは、春からしたらホント一瞬だ。綺麗に咲いたな、と思ったらすぐにその花びらを散らし、すぐに次のために力を蓄える。つまり桜はもう来年のために動き出している。
「あっ、美里ちゃん美里ちゃん。こっちではもう満開は見られないかもだけど、温かい方だとまだ遅咲きで桜が綺麗に見れるところが結構あるみたいだよ」
正直もう諦めかけていたところに、お兄さんからの朗報が入った。
「京都とか、大阪の方にもあるみたいだね。東京とかにもないことはないみたいだけど、あっちの方が綺麗に見れるところが多いみたい。京都とかなら観光地も多いだろうし、ちょうどいいんじゃない? ほら、温泉旅館も結構あるみたいだし。まあ、美里ちゃんの望みだった暖かい場所かって言われると少し微妙だけどね」
私が悩んでいる間にお兄さんがどんどんと魅力的な情報を口にする。ここまで口にされたら、私の荒んだ心の中にも綺麗な桜が咲いて、京都に行きたくなってくる。
「京都か……確かに旅行先の定番にもなるくらいだし楽しそうだよね。いいかも」
「じゃあ旅行先は京都に決定! 明日明後日で準備して明々後日には京都に行こうよ!」
「え!? いくらなんでも早すぎない!? もっと念入りに情報を集めてさ、確実に楽しい旅行にしようよ」
いくらなんでも、すご過ぎるお兄さんの行動力を抑制しようと、私は必死になる。お金をかけて旅行に行ったのに、楽しくなかったなんて嫌だ。
「いいのいいの! そういうのも旅の楽しみだってよくテレビでも言ってるし、京都自体が観光名所みたいなものなんだから京都に行った時点でもう楽しいよ! ほら、昔の人だって思い立ったら吉日だって言ってるし」
「ダメだって。昔の人が言ったことだからって、全部正しいとは限らないでしょ。ほら、二度ある事は三度ある、と三度目の正直って明らかに矛盾してる諺だってあるじゃん」
昔の人には失礼かもしれないけど、昔の人の言うことは、矛盾してるところが結構ある気がする。さっきの二度あることは三度あると、三度目の正直以外にも、果報は寝て待てという諺があるのに、三百六十五歩のマーチでは幸せは歩いてこない、だから歩いていくんだねと歌っている。この二つは待っているものが少し違うけど、結局は良いことは勝手に向こうからくると言ってるのと、良いことは待ってても来ないということを言っている。
このように、昔の人の言ってることでも矛盾しているところは確かにある。だから私は結局のところは自分が信じたことを信じるしかないと思っている。そして、今回の旅行の日取りに関しては、桜の都合もあるけど、それに合わせて
しっかりと時間をかけて取り組むべきだと思っている。
「クリックっ」
「ん? お兄さん何やってるの?」
私が昔の人に対して大変失礼なことを考えている間、なにやらパソコンとにらめっこしてて静かだったお兄さんがいきなり喋ったので、私は気になってパソコンの画面をお兄さんの後ろから覗き込む。
そこにはチケットの予約が完了した。と書かれていた。
「ちょっ! お兄さん何勝手に予約してるの!? しかも本当に明後日の朝じゃない。準備とかどうするのさ」
勝手に新幹線のチケットを取ったお兄さんを怒鳴りつける。しかしお兄さんは、怒られているのにもかかわらず笑っていて、反省してる様子は微塵もなかった。私が急いでチケットのキャンセルをしようとパソコンに視線を向けると、お兄さんがそれを悟って、パソコンをシャットダウンしてしまった。
「これで美里ちゃんはチケットのキャンセルはできないよ。パソコンのパスワードは教えてないからね」
憎たらしい顔でお兄さんが笑う。こんなにもお兄さんの笑顔にイラついたことはない。
お兄さんの言う通り、私はパソコンのパスワードを知らない。前にお兄さんが「教えとこうか?」と言ってくれたけど、私にパソコンを使う予定はなく、調べものにしても携帯があるから大丈夫だと思って、それを断ってしまった。
今更教えてくれるとは思えないし、もうどうしようもない。私は過去の私を恨んだ。
「それじゃあ早速、旅行の準備をしようか。美里ちゃんの言う通り時間もないしね」
とにかく楽しそうなお兄さんに対し、旅行自体は楽しみだけど、先行き不安な私。結局いつも通り、私はお兄さんに押し切られた。大きな溜息を吐き、仕方ないと頭を切り替える。
こうなってしまった以上、その現状で最高に楽しめるように頑張るしかない。私は今まで入れることのなかった気合を入れる。
「私が頑張らなきゃ」
私の戦いが始まった。
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突然決まった京都への旅行。準備期間は京都の観光名所調べも含めて二日半。あまりにも短すぎるその準備期間を無駄にすることなく過ごしたい私は、とにかくてきぱきと動き、旅行の準備に回せる時間を増やした。
料理は手を抜くことはなく、でも簡単なものを。掃除も最低限目に見えるごみだけ。買い物もあまり遠出をしないようにして、お風呂の時間も無駄にはせずに頭を働かせた。そのおかげか旅行準備に回せる時間は結構増え、京都旅行まで残すところ半日というところまで来てしまったけど、ほとんどの準備と下調べは終わった。
といっても今できる範囲だけだし、私がなにか見落としている可能性もある。そういう時のお兄さんなんだけど、お兄さんは私が旅行の準備ばかりで構ってくれないからつまらないと、拗ねてしまっている。今だって部屋の隅で体育座りをして膝に顔をうずめている。
そんなお兄さんを横目に、私は再び旅行用のバックの中身を確認する。
「着替えと着替えの予備、新品の歯ブラシに、念のためのシャンプーとリンス、ハンカチとティッシュ、観光名所について調べたメモに……」
忘れ物をしないように作った持ち物チェック表と見合わせながら、私は着々と持ち物を確認する。
「パジャマは向こうの旅館の着物を着るから大丈夫だし、携帯とかの小物は明日家を出るときに確認すればいい。……よし、大丈夫そうかな」
何度も何度も確認したバックの中身に自信を持ち、バックを隅に寄せる。なのになぜか不安が消えてくれない。こういう時に一人での確認はなぜか信用ならない。どうしても忘れてるものがあるんじゃないかと思ってしまう。
私は再びお兄さんの方に目を向ける。お兄さんはまだ体育座りをしていた。
私は大きくため息を零し、確かに旅行の準備ばかりでお兄さんを構ってあげられてなかった自分にも非があると思うことにして、お兄さんに話しかける。
「ねえ、お兄さん。旅行の準備ばかりで構ってあげられなくて悪かったけどさ、私はお兄さんとの旅行を楽しくしたかっただけなんだよ。だから許してよ」
嘘偽りのない紛れもない本心だ。
私はまだ一週間前の遊園地での出来事を忘れ切れていない。お兄さんは気にしてないと言ってくれたけど、私は私をどうしても許し切れていない。だからこそ、今度は失敗しないように念入りに旅支度をしている。
勝手な押し付けかもしれないけど、これだけはお兄さんにもわかってほしかった。
「許すから一緒に遊んで」
顔を上げるでもなくそう答えたお兄さんに、子供っぽいなーと感想を抱きつつ
、私は荷物の確認をしてほしいという旨だけを伝える。
「……確認したら、遊んでくれる?」
「うんうん。確認してくれたらもうやることないから夕食までなら遊んであげる」
私は半ばやけ気味に答える。
正直私も、お兄さんとのこの空気にもう耐えられないのだ。それに私だってお兄さんと遊びたくないわけじゃない。ただ、急に決まった旅支度で忙しかっただけなのだ。
「それじゃあ早速遊ぼうか!」
突然お兄さんがテンション高く立ち上がる。
私は驚いて、数歩後ろに下がって転びそうになったけど、何とか踏みとどまった。後ろにはテーブルがあったので、もう一歩後ろに下がっていたら間違いなく転んでいただろう。助かった。
「もうお兄さん驚かせないでよ。転びそうになったじゃん。それに遊ぶのはバックの中身を確認してからだよ」
「ふっふっふっ。美里ちゃん。美里ちゃんは僕がただ部屋の隅で拗ねているように見えてただろうけど、僕は僕で確かに旅行の支度をしてたんだよ。バックの中身だって、昨日の夜に三回も確認してる。もちろん二人分ね」
「うそっ!? だって寝てた時音なんてしてなかったよ。たぶん……」
寝てる時のことだから確信めいた自信ではないけど、昨日の夜に変な音はしていないはずだ。私は神経質らしく、ちょっとした音とかでも目を覚ますので、お兄さんがバックの中身を確認してたなら、その音で目を覚ましたはずだ。
「いや、ちゃんと確認したよ。なんならバックの中身を見ずに中身を言えるし、証拠もあるしね」
「証拠?」
いくら問い詰めても自信満々のお兄さん。証拠もあるらしいので、その証拠を見せてもらうことにした。
「昨日は商店街を歩き回ってから家でずっと京都について調べてたからね。美里ちゃんもいつもよりも疲れてたんだと思うよ」
そういってお兄さんはポケットから携帯を取り出し、私の方に画面を向けた。
なんか嫌な予感がするけど、バックの中身を確認したかの証拠写真だというのなら確認するしかない。
「な……っ!」
「美里ちゃんの寝顔……可愛かった」
携帯の画面に写っていたのは寝てる私だった。お兄さんはわざわざ携帯を操作して保存した日付まで見せてくる。確かに昨日の夜の日付と時間だった。
「消して」
「嫌だ。美里ちゃんのお願いでも絶対に消さないよ。一生の宝ものにするんだ。美里アルバムの記念すべく一枚目にするんだ」
「美里アルバムって何!? とにかく消して!」
お兄さんに飛びかかり携帯を奪おうとする。しかし私の身長では尺が足りず、力も勝てるはずもないので、簡単にお兄さんは私の拘束から逃げた。それでも私は自分の黒歴史になりかねない写真をどうにかするべく、お兄さんを追い続ける。
そして、私とお兄さんの体力が同時に尽きて、二人で横になった時のお兄さんの顔と言葉で私は気づく。
「あー、美里ちゃんとの追いかけっこ楽しかった」
いつの間に遊びに付き合わされていたことに。
それから少し二人で休憩して、念には念をの精神で、私の目の前でお兄さんにバックの中身を確認させて、簡単な夕食を取り、お風呂にもちゃんと入って、私たちは明日を全力で楽しむためにも、いつもより少し早く寝ることにした。
まだ対して眠くもないのに部屋を暗くして、布団をかぶる。それでも眠気は中々やってこないので、もっと深く布団をかぶる。そこまでしても中々眠気はやってこない。
遠足の前日に楽しみすぎて眠れない人がいるって聞いたことがあるけど、もしかして今の私がそれなのだろうか。そうだとしたら、今までそんなことはありえないと思っていた私は、なんてバカな勘違いをしていたのだろう。
なんとなく寝返りを打つと、目の前にはお兄さんの寝顔があった。さっきの写真の仕返しにお兄さんの寝顔の写真を撮ろうとしたけど、それで起きちゃったら可哀想だからやめた。
また撮りたくなる前に再び寝返りを打って天井を見る。染み一つない天井は何の面白みもなく、羊の代わりにもなりはしなかった。仕方なく目をつむり、一応科学的にも理由があると言われている、羊を数えたら眠くなるということを信じて、私は羊を数え始めた。
そして羊の数が、もうそろそろ百を超えるかというところで、私にもとうとう眠気がやってきた。私はそのまま羊をできるだけ数え続け、気が付けば眠りに落ちていた。
しばらくして、夜も深まった頃に私は変な音に気が付いて目を覚ました。
隣を見ると、お兄さんがいない。トイレかと思って寝なおそうとしたら、案の定お兄さんはトイレだったらしく、部屋に戻ってきた。
安心して寝ようとしたら、お兄さんがなにやらガサゴソと周囲を漁り始めた。さすがにこんなに眠くても、すぐ近くでガサゴソされたら気になって眠れない。仕方ないので、重たい瞼を擦って私は少し起きることにした。
「お兄さん何やってるの?」
声をかけると、お兄さんはビクッと体を震わせてからこちらを振り返った。
「ごめんね美里ちゃん。起こしちゃった?」
「んん。まあ、そうだけど。なにしてたの?」
「トイレに目を覚ましたんだけど、今になって入れ忘れてたものに気が付いたから、それを取りに来てたんだ」
「そうなんだ。でも、入れ忘れてたものなんてあったっけ?」
「うん。っていっても、僕が個人的に持っていきたかったものだから気にしないで。僕ももう寝るから美里ちゃんももう寝な。起こしちゃってごめんね」
「うん……別にいいけど。お兄さんも明日早いんだから早く寝なよ、おやすみ」
お兄さんに謝られ、もう眠かった私は、お兄さんの言葉通りに眠りにつくことにした。横になってすぐにお兄さんが布団に入る音も聞こえてきて安心した私は、寝る前とは違って眠気が体を支配していたので、簡単に眠りにつくことができた。
次の日の朝。珍しく私は太陽の光ではなく、目覚まし時計の音で目を覚ました。理由はもちろん今日が京都旅行の日だから。
起きてすぐにパッチリと目を開けた私は、そのまま体を起こして洗面所に向かった。冷たい水で顔を洗い、まだ少し残っていた眠気を強制的に取り払う。いつもならここで少しゆっくりとしてから朝食の準備をするんだけど、今日はのんびりしていられない。私はすぐに簡単な朝食づくりに入り、今日からの旅行に気合を入れる。
「今日から京都旅行だ。楽しむぞーっ!」
数時間後、私たちは電車を何回か乗り継ぎ、目的地の京都までやってきた。
人込みをどうにか避けて改札を抜けると、目の前に飛び込んできたのはザ・和風な景色ではなく、以外にも近代的な街並みだった。後ろを振り返ると駅も見事に近代的で、本当にここはお寺や神社の多い和風の街なのかと疑ってしまう。
周りを見渡せば、京都駅周辺のシンボルとも言われている京都タワーがいの一番に目に飛び込んでくる。その姿は東京タワーにも負けないという意思が、ひしひしと感じられた。
「いやー、本当に京都まで来たね」
「うん。でも、ネットで調べてたからなんとなく知ってたけど、駅周辺は以外に都会してるんだね」
「まあ、東京がすごいだけで京都だって都会だしね」
重たい荷物を持ちながら京都に来た悦に浸る私たち。
どこを見ても珍しくて、どこから見たらいいかわからない。
「ねえ、美里ちゃん。最初は荷物を預けに旅館に行くって言ってたけど、京都タワー見てっちゃわない?」
「ダメ。京都タワーは最終日の最後に見るって決めてるの。最後に京都タワーの頂上から京都を見渡して、思い出を振り返りながら帰りたいもん。それに重たい荷物を持ちながらの移動は疲れるでしょ」
今言った通り、私の予定では京都タワーは最終日の最後に行くことに決めている。展望台からの景色ももちろんだけど、京都タワーの中には他にも驚くような施設がたくさんあるのだ。それに、駅から近いからお土産を買って帰るのにも調度いい。京都タワーは私が調べた限り、京都旅行の最後に行くのにもっとも良いと思える場所だ。
「うーん。美里ちゃんの言う通りだね。荷物も重たいし」
私の言い分を理解してくれたらしいお兄さんに笑顔で頷き、まず最初に向かう、今日からお世話になる旅館に行くためのバス停を私たちは探し始めた。さすが京都駅周辺といえるほどバスがたくさん行き来していて、目的のバス停を探すのに十分近くかかってしまった。
「これに乗れば旅館の近くまで行けるんだよね?」
「うん。旅館の方は僕が念入りに調べて決めたから間違いないよ。行き方もばっちり記憶してる。バスもあと五分くらいで来るみたいだよ」
胸を張りながら自信満々に語るお兄さんに、それならバス停の場所もしっかり把握しておいてほしかったな、などと図々しいことを思いながら、ようやく来たバスに二人で乗り込む。
心地よいバスの揺れに身を任せること三十分、そしてバスから降りて歩くこと数分。私たちはようやく目的の旅館に着くことができた。
「うわー、すごく立派な旅館だね」
「でしょでしょ! 美里ちゃんが気に入ってくれると思ったんだー」
念入りに調べたというお兄さんの言葉が、嘘ではないということが理解できるほど立派な旅館。大きくて立派なのに、あまり存在を主張していない、静かで厳かな見た目は、まるでここだけ時間の流れが他とは違ってゆっくりしているようにさえ感じられる。
あまりにも立派すぎる旅館に私が呆気を取られていると、それを特に気にした様子のないお兄さんが「中に入ろう」と、私の背中を押す。こんなところに私なんかが泊まってもいいのだろうかという、後ろ向きな考えをしながら旅館の中に入ると、私たちに気づいた女将さんが一人こっちに来てくれた。
「ようこそいらっしゃいました」
素敵な着物を着こんだ女将さんが、綺麗に腰を曲げて挨拶をしてくれるものだから、こちらもお辞儀をしなくてはという、謎の思考に行きついた私はこちらこそよろしくお願いしますと頭を下げる。
緊張しすぎて頭が回らなくなってきた私がお兄さんの方に目をやると、お兄さんも軽く頭を下げて女将さんに挨拶をしていた。これは絶対に私と同じでお兄さんも緊張してる。でも、こんなに綺麗な人に丁寧に挨拶をされたら誰だってこうなると思う。
「本日ご予約の古賀雄二様と古賀美里様でしょうか?」
こんな緊張してガチガチな私たちをバカにするではなく、笑顔で対応してくれた女将さんが、私たちが予約した本人か確認をしてきた。お兄さんが年上らしく、緊張しながらもそれに返事をして、私たちは部屋に案内された。
ちなみに私の名前が花咲美里ではなく古賀美里になっているのは、兄妹にした方が都合がいいからだ。本当の名前を使って変に怪しまれても面白くない。
女将さんの案内で部屋まで来た私たちは、女将さんから最後の案内を受ける。
「こちらがご予約されたお部屋になります。お風呂はここから出て、右手の方に進んでいただければ、すぐにございます。朝食は朝の八時、ご夕食は夜の八時が基本となっているのですが、それでよろしいでしょうか?」
「は、はい」
「ご昼食の方は必要ないというご予約ですが、そちらもよろしいでしょうか?」
「はい」
「了解いたしました。それでは一泊二日、京都旅行をお楽しみください。失礼いたします」
女将さんが再び綺麗なお辞儀を見せて、部屋から出て行った。
私たちは緊張感から解放されて、大きく息を吐く。
「はあー、緊張したー」
「ホントだねー。思わず私の名前違うとか言っちゃいそうだったもん」
「それは本当に危なかったね。助かったよ……」
緊張感から解放された私たちは、部屋の隅に荷物をまとめて置き、電車とバスでの長い移動と、女将さんとの緊張感のある会話で疲れてしまったので、少しの休憩を兼ねた今日の行き先の確認をすることにした。
十分ほどで確認が終わり、十分休憩も取れたので、私たちは早速京都の観光名所を回ることにした。
まず最初にやってきたのは、諺にもなっている京都の観光名所の中でも有名な清水寺。清水の舞台から飛び降りるなんて諺があるけど、どのくらい高いんだろうとか思ってたら想像以上に高くて驚いた。
「こんなに高いところから飛び降りたら絶対に死んじゃうよね。確かにここから飛び降りるくらいなら、大抵のことは何でもできそうな気もするよ」
私が素直な感想を漏らすと、お兄さんは「実はね、美里ちゃん」と、口を開いた。
「昔の人は本当にここから飛び降りてたみたいだよ」
「そうなの! こんなに高いところから?」
「うん。それなりの人が飛び降りてたらしいけど、以外にも死んだ人より生きてた人の方が多かったんだって。飛び降りの理由は確か、飛び降りて生きて帰れば願いが叶って、もし運が悪かったとしても極楽浄土にいけるってジンクスがあったとか、そんな理由だったはずだよ」
意外と博識だったお兄さんと、諺の由来らしいものの両方に驚きつつ、私は改めて清水の舞台から下を覗く。
「ここから飛び降りるなんて絶対に無理」
私は改めて絶対にここから飛び降りるくらいなら、現実で頑張った方がマシだと思った。そして、少し怖くなってきた私は足早に清水の舞台から距離を取る。
「ちなみに最近でも何人か―――」
「言わなくていいよ! なんか怖いから」
お化けとかは怖いくせにこういう現実味のある怖い話は平気なのか、お兄さんがイキイキと清水寺のうんちくまだ語ろうとしたので、私は全力でそれを阻止した。そして、ここから少しでも早く違う場所に行きたかった私は、清水寺をしっかりと目に焼き付けてから、お兄さんの手を強引に引っ張って移動した。
清水寺内を移動した私たちが次に来たのは、音羽の滝というところだ。
「えっと……音羽の滝は学問成就、恋愛成就、延命長寿の後利益がある水があるんだって」
「おっ? 美里ちゃんもしっかりと京都について調べてきたんだね」
「そりゃあそうだよ。せっかくの旅行だもん。楽しくするために下準備はばっちりだよ」
褒められて気分を良くした私は、お兄さんをそのご利益のある水のところまで案内した。
「へえ、三か所から別々に水が流れてるんだね」
お兄さんの言う通りご利益のある水は、それぞれ少し高いところから別々に流れている。勢いも普通に想像するような滝みたいじゃなくて、ちょろちょろと少量の水が流れている感じだ。
「三条の水っていうんだって。左から学問成就、恋愛成就、延命長寿のご利益があるらしいよ」
「みんな飲んでるみたいだし、飲んでもいいんだよね。それじゃあ僕もせっかくだから飲んでいこうかな。美里ちゃんも飲むでしょ?」
「うん、もちろん飲んでくよ。でも、お兄さん気を付けてね。飲み方がちゃんとあるから」
「そうなの?」
今私が言った通り、音羽の滝の三条の水には決められた飲み方があるらしい。私はそれを調べてメモしたものを取り出して、お兄さんに正しい飲み方を教えてあげる。
「えっと、三条の水を全部飲んじゃダメなんだって、全部飲むと欲深いって思われちゃうみたい。だからどれか一つを選んで、一口だけ飲むみたいだよ」
「全部飲んじゃダメなのはわかるけど、なんで一口だけなの? たくさん飲んだ方が効果ありそうじゃない? やっぱりそれも欲深いって思われちゃうの?」
「それはね……何口も飲むと、ご利益が飲んだ分だけ分散されちゃうんだって。二口だけ飲んだらご利益が二分の一、三口飲んだら三分の一みたいになるらしいよ」
「そうなんだ。それじゃあ僕は延命長寿にしようかな」
私の説明を聞いて、お兄さんが延命長寿の水を一口含んだ。私もさっさと選んでご利益を得ようと、三つの小さな滝を眺める。
学問に恋愛に長寿、正直言ってどれもそこまで興味がない。学問は別に最低限あればいいと思ってるし、恋愛も、最近前向きに生きられるようになったばかりの私には、まだ早すぎるし、興味もない。長寿も、私は別に平均的に生きられればいいと思ってるし、中学生だからまだ生の実感があまりないのが手伝って、ほしいとは思えない。
「この中だったら学問成就かな」
悩んだ結果、私は学問成就のご利益をもらうことにした。理由は単純に、この三つの中だったら、学問が一番マシだと思ったからだ。恋愛には純粋に興味がなく、寿命は元の寿命がわからないのに、どうやって伸びたかどうか確かめるんだと思ったら、残ったのは学問だった。実際、頭が良くなって損することはないはずだし、間違った選択ではないと思う。
「ねえ、美里ちゃん。なんで学問成就の水を選んだの?」
ありがたい水を飲み終え、私より先に水を飲んでいたお兄さんの所に戻ると、そう質問してきた。まあ、どうせ聞かれるだろうとは思ってたので、素直に答える。
「別にこれと言って理由はないよ。ただ恋愛には興味がないし、寿命は本当に伸びたかわからないから、学問成就にしただけ」
「うわー、美里ちゃん、こんな時でも現実的ー」
「どうせ夢のない女ですよ。お兄さんこそなんで延命長寿の水を選んだの? てっきり私との関係が上手くいくようにとか言って、恋愛成就の水を飲むんだと思ってたのに」
実を言うと、私が三つのご利益について説明した時に、お兄さんは真っ先に恋愛成就の水を選ぶと思っていたので、少し悩んでから延命成就の水を飲みに行ったことが少し気になっていた。ここは私も教えたんだからお互いさまということで、ぜひとも聞いておきたい。
「んー。……少しくさい話になっちゃうんだけどね、僕は恋愛は神様に頼らないで自分でどうにかしたいんだよね。運命の人がいるとは思ってるけど、っていうかそれが美里ちゃんだけど、出会ってからは神様に頼らずに自分でどうにかしたいっていうか……。あはは、やっぱりくさい話になっちゃったね」
驚くほど真っすぐで純粋な理由がお兄さんの口から出たので、少しの間私は惚けてしまっていた。お兄さんは自分で言ったことが恥ずかしいらしく、照れたように笑って目を背けたので、私が感心しているのに気が付いていない。
「誘拐なんてしちゃう人なのに、意外と純粋というか、真っすぐなんだね」
「あはは、美里ちゃんだけにはね」
お互い少し恥ずかしい気分のまま、私たちは清水寺を後にした。
次に私たちがやってきたのは銀閣寺。
知ってはいたけど、本当に銀色じゃなかった。
入場料を払ってから中に入り、お兄さんの銀閣寺は慈照寺という名前もあるという話を聞きながら、綺麗な庭園を歩く。庭園は苔と木々たちの綺麗な緑一色で、とても幻想的な場所だった。
苔と言ったらあまり綺麗なイメージのなかった私にとっては、苔のイメージが大きく変わって、見せ方によってはどんなものでも綺麗に見えることを知った。
銀閣寺内を少し移動したら、洗月泉という場所に着いた。
ここも清水寺の三条の水のように、少し高いところから水が少量流れてきていて、違うところと言ったら三か所に分かれないで一か所に水がまとまってるのと、下の泉の部分にお金が投げ込まれているところだ。
私が事前に調べてきたメモによると、洗月泉という名前は泉に映った月を眺めようとしたところから来ているらしい。昔はそうだったのか知らないけど、今は参拝時間が五時までなんだから月を見れないのは当たり前だ。
お金が投げ込まれている理由はよくわからなかったけど、たぶんこれも何かのご利益があるんだろう。
「せっかくだから僕たちも小銭を入れていこっか。何円入れる?」
「何円って、普通こういうのはご縁があるようにって、五円玉を使うんじゃないの?」
「うん、まあ普通はそう聞くけど、人によっては二十五円入れて、二重にご縁がありますようにって、お願いする人もいるみたいだよ」
「へえ、そうなんだ」
京都に来て以来、やたらと博識なお兄さんの知識に驚かされている。私の知ってる限り、お兄さんはそういったうんちくみたいなのを調べていた様子はないので、元から持っていた知識だろう。
銀閣寺を大方回り終えた私たちは、今日最後の予定の観光スポット、金閣寺に向かうことにした。
バスで軽く移動して金閣寺に着いた私は、想像以上に綺麗な金閣寺に驚いた。
金箔で綺麗に彩られてるのは知っていたけど、まさかここまで綺麗だとは思ってもなかった。正直言って私は、折り紙に一枚入っている金色の奴が、たくさん貼ってあるような感じだと勝手に思っていたので、呆然としてしまった。
もちろん折り紙の金色が本物の金箔だと思っていたわけじゃない。でも、見え方としては似たようなものだと思っていたのだ。それを、金閣寺は簡単に上回ってきた。
「想像以上に輝いてる……綺麗……」
自分でもいうのもなんだけど、私は少し感傷に浸ってしまった。
人が本当に綺麗なものを見たときに、言葉を失うなんて思ってもなかったけど、本当に忘れたように失うみたい。現に私は、この一言以外金閣寺に対する感想は一つも浮かんでこなかった。
「ほんとだね。これが一回焼かれちゃってるなんて想像もできないよ」
私と同じように金閣寺に見惚れていたお兄さんが、私の金閣寺に対する感想に共感してくれながら、驚くことを口にした。
「え? 金閣寺って一回燃えてるの?」
驚きつつも、金閣寺から目を離さないで質問すると、お兄さんも金閣寺から目を逸らすことのないまま、答えてくれた。
「うん。いつだったか正確には覚えてないけど、一回放火されて焼けちゃってるんだよ。だから、今僕らが見てるのは二代目の金閣寺だね。ちなみに別名で
鹿苑寺っていうんだよ」
「こんなに綺麗な建物を放火した人は何を考えて放火したんだろ」
「んー……。さすがにそれは僕にもわからないかな」
私の疑問に真面目に頭を悩ませてくれたお兄さんが、苦笑しつつ答える。
実際、答えが返ってくるとは思ってなかったし、今はこの綺麗な金閣寺を目に焼き付けることに夢中になってるから、答えなんてどうでもよかった。
その後、十分近く金閣寺に見惚れ続けた私たちは、旅館に戻る時間のことも考えて、そろそろ他も見て回ることにした。
金閣寺があんなに金色に輝いてるから少し見劣りしてしまうけど、周りの景色もとても綺麗だ。たくさんの緑が癒しを与えてくれるし、金閣寺周りの鏡湖池と呼ばれる池が、金閣寺と緑を反射して、幻想的な絵を作り出している。
私のような素人の心も動かすんだから世界遺産というのは本当に偉大だ。
「そろそろ暗くなってきてるし、帰ろうか」
「うん、そうだね。今日はもう十分に京都を堪能したよ」
お兄さんに声をかけられ、若干まだ物足りない気持ちを残していたものの、まだ明日があると思うことにして、素直に旅館に帰ることにした。
旅館に帰り、笑顔の女将さんに迎えられた私たちは、部屋に戻って少し休憩してから早速温泉をいただくことにした。両手にタオルと備え付けの浴衣を持って二人で移動する。
「私はてっきりお兄さんは混浴のある温泉旅館もするものだと思ってたよ」
「あはは、何言ってるのさ美里ちゃん。それは僕だって美里ちゃんと一緒に温泉に入りたいけど、それ以上に他の男に美里ちゃんの柔肌を見せるつもりはないよ」
「柔肌って……」
あまりにも笑えない顔でそう話すお兄さんに、若干引きつつも何とか言葉を返す。
「それじゃあ、またあとでね」
「はいはい。覗かないでね」
「約束はできないかな」
「してよ」
不安に言葉を残して暖簾の向こうに行ってしまったお兄さんを見送り、私もせっかくの温泉を楽しむことにする。服を脱いで浴場に入ると、誰もいなかった。
「こんな温泉を独り占めか。なんか贅沢……」
そんな感想を漏らしながら掛け湯をして、タオルをお湯につけないようにしてから湯に浸かる。気持ちいい。
空を見上げれば満天の星空に満月。不満なんて一つもなかった。
今日一日の疲れをしっかりと取るためにも、たくさん温泉を堪能しよう。そう思って、かれこれ私は一時間近く温泉を楽しんだ。
温泉から上がってからは特になんていうことはなく、卓球台があるから卓球をしようとお兄さんが言い出したから卓球をして、部屋に戻って女将さんの運んできてくれた旅館のおいしい料理を食べて、今日のことを少し話してから、ふかふかの布団で寝た。
京都旅行も残すところあと半日。明日も今日と同じくらい楽しいことがあって、綺麗な景色が見れると思ったら、中々眠れないかな、なんて思ってたんだけど、精神とは違って身体の方は疲れていたみたいで、布団に入ったとたんに眠気が来て、ぐっすりと眠ることができた。
次の日の朝。昨日ぐっすりと眠れたおかげか、目覚まし時計よりも私は先に起きることができた。二度寝をするのは勿体ない気がしたので体を起こし、窓から京都の景色を見る。
「今日も楽しまなきゃ」
今からワクワクが止まらない。
私が目を覚ましてから一時間後にお兄さんは目を覚ました。私がもう、ご飯を食べたら出かけられる準備万端の格好でいたことにお兄さんは驚き、「美里ちゃん早いね」なんて言いながら、女将さんが朝食を持ってくる前に着替えと出かける準備を済ませた。
そして、まるでタイミングを計ったかのように女将さんが朝食を運んできてくれた。昨日の夕食同様、旅館のおいしい料理に舌鼓を打ちつつ、今日の予定をまとめた私たちは、朝食を食べ終わってすぐに女将さんにお礼を言って、旅館を後にした。
「京都府立植物園ってところに行くんだよね」
「うん。調べた感じだと四月の下旬までは桜が見ごろみたい。もう少ししたら桜祭りっていうのがあるらしいんだけど、今回はお預けだね」
「もう、だからちゃんと調べてからにしようって私は言ったのに」
「ごめんね。でも、早く美里ちゃんと旅行行きたかったんだもん」
私が軽く攻めると、お兄さん笑いながらそう言った。
そんな顔をされたら、私も何も言い返せない。それどころかこっちが悪いことをしたみたいに感じてくる。
これ以上この空気に耐え切れそうになかった私は、強引に話題を切り替える。
「そういえばなんで植物園を選んだの? そりゃあ植物園っていうくらいだから桜は綺麗だろうけど、他にもいろいろあったよね?」
「うん。確かに美里ちゃんの言う通り、探したら結構いろいろ桜が綺麗に見えるところはあったんだ。でも、そこから一か所に中々決められなくて、お寺は金閣寺とか見るからいいかな、一本の綺麗な桜の木を見るよりたくさん見れた方がいいかな、とか条件を絞っていったらここがぴったりかなって」
「ふーん。結構いろいろ考えてくれたんだね。ありがと」
「そりゃあ、美里ちゃんの為だもん」
一生懸命私のために考えて選んでくれたことに、素直にお礼を言うと、お兄さんは今までで一番嬉しそうな笑顔で笑った。なんで自分がした側なのに、こんなに喜んでるんだろう、というのは少し野暮だろうか。
この後も、なんてことのない会話をしているうちに目的の京都府立植物園に着いた。
「わあー。ほんとにすごい桜」
一生懸命に調べて、自信満々にお兄さんが語っていた植物園がどんなものだろうと思っていた私は、素直にお兄さんの選択は正しかったと思った。
まず、お兄さんの言う通り桜がたくさんあって綺麗。それも一種類じゃなくて何百種類もの桜が一か月以上も咲き誇っているらしい。昨日もたくさん桜を見て来たけど、ここの桜はなんというか、格が違った。
別に他の桜を悪く言うつもりはないけど、こんなにたくさんの綺麗な桜を見せられたら、誰だって私と同じように感じると思う。
それに、ここのすごいところは、植物園という名前だけあって桜以外の花も見ることができるところだ。八つのジャンル分けをされた花々や木々が、目と心を楽しませてくれる。それも、季節ごとに違った楽しみ方をさせてくれるらしいのだから本当にすごい。
後から知ったことだけど、金閣寺をイメージして作られていたところもあったみたいだ。
こんな四季折々に違う感動を与えてくれる植物園が、格安で入れるというのだからさらに驚きである。
色々な花々と木々を堪能しながら、植物園を一周し終えた私たちは、植物園を名残惜しく思いながらも時間に追われ、京都府立植物園を後にした。
「はあ~。もう京都タワーに行って、お昼食べたら旅行も終わりか。思ってた以上に早かったな」
「そうだねー。でも、そう思えるほど楽しかったってことじゃない? ほら、楽しい時間は早く感じるっていうでしょ」
京都旅行の終わりを目前にして、少し気落ちしていた私にお兄さんはそういった。確かに京都に来てからというものの、楽しいことと驚きなことばかりだった。むしろ、何にも思ってない時間の方が少なかったようにすら思う。
でも、どんなに楽しい時間にも終わりはある。ずっと続いてほしいと願っても時間は止まってはくれない。
「それに、別に今回の旅行で楽しいことが終わっちゃうわけじゃないでしょ。また、すぐにでも楽しいことが待ってるよ。それこそ旅行でもね」
確かにお兄さんの言う通りだ。
私は、楽しいことは探せばいくらでも見つかることを知ったばかりじゃないか。それなのに、今回の旅行で楽しいことが終わると考えるのは大きな間違いだ。
「そうだね」
だから私は、そう短くお兄さんに答えた。
それに、まだ京都旅行は終わったわけじゃない。まだ、京都タワーが残ってる。せっかくの観光スポットをこんな暗い心持で回るのは勿体なさすぎる。
そうこうしているうちに移動は終わり、京都タワーの目の前まで私たちはやってきた。
「えっと、ここの頂上で京都全体の景色を見てからお昼を食べて、お土産を買うんだったよね」
「うん、そうだよ。なんか京都タワーの中にレストランがあるみたいだから、昼食はそこで食べよ」
京都タワーは驚くほどに充実している。
頂上から京都全体を見渡せるだけでもすごいのに、私が言ったレストラン、他にも、お風呂にホテルに理髪店、さらには神社まであるらしい。下手な観光施設なんかよりもよっぽど充実してると言わざるえない。
しかもそれが、京都駅の近くにあるというんだから便利だ。
中に入り、エレベーターを使って最上階の展望台に向かう。
高いからそれなりに時間がかかるものだと思ってたんだけど、たぶん一分もかからずに展望台まで来ることができた。
「わあー……すごい」
こんな呆れるほど何も伝わってこない感想を漏らしつつ、近くの双眼鏡を覗く。お兄さんはそんな私は笑いながら見守ってくれていた。
いくつかある双眼鏡を全部覗き終え、自分が行った場所や通った道を、まだそんなに時間も経ってないのに懐かしいなんて思いながら景色を楽しんだ私は、さっきから私の後ろで立っているだけで、双眼鏡を覗こうとしないお兄さんに声をかける。
「ねえ、お兄さん。なんで双眼鏡覗かないの? 確かに自分の目で全体の景色を見るのもいいけどさ、双眼鏡使った方がもっと細かいところまで見えるよ?」
「あー、うん。でも僕はなんていうのかな……。こう全体が見渡せる方が好きなんだよね」
なぜかぎこちない返事をしてきたお兄さんをおかしいと思っていると、答えはすぐにわかった。
「もしかして……高いところ苦手だった?」
「えっと、まあ、そうかな……」
視界を少し下にずらせば、答えはすぐにわかることだった。
本当に少しだけど足が震えてる。私が京都の景色に夢中になっていなければ、すぐにでも気づけただろうことだ。
「もう。前に苦手なことは苦手って言うように言ったじゃん。そうすれば私も考えるって。ほら、もう十分景色は堪能できたから下でご飯食べて、お土産見て回ろ」
「あはは……。ごめんね。言おう言おうと思ってたんだけど、あんなに楽しそうな顔をしてる美里ちゃんに苦手って言いづらいくて」
「もういいから。ほら、ちょうどよくエレベーター来たよ」
平気そうにしてるけど、若干まだ足が震えているお兄さんの手を強引に引っ張ってエレベーターの乗り込む。そして、思っていた以上に広いレストランで昼食を取って、残った時間はお土産を見て回ることにした。
駅近くで観光名所ということもあって、お土産は充実していた。その中から今回の旅費の残りで何を買うのか、本当に迷いに迷った。お兄さんと相談しつつ、お土産を選び終えたころには、もう帰る時間になっていた。
「いやー、本当に楽しかったね。時間が早く感じたよ」
「そうだね。どこ行っても新鮮だったし、お寺は幻想的だったし、今日行った植物園の桜も綺麗だった」
駅に着いて、もうそろそろやってくるはずの新幹線を待ちながら、お兄さんと京都旅行を振り返る。
どこの、どの時間を思い出しても、楽しい思い出しか浮かんでこない。この旅行中、私は常に笑っていたように思う。楽しくて笑って、嬉しくて笑って、面白くて笑って、綺麗なものを見て笑って、とにかく笑い尽くしだった。
そんな時間が、もうそろそろ終わろうとしている。
「そんな顔しないでよ美里ちゃん。この先だって楽しいことはいくらでもあるよ」
顔に出しているつもりはなかったのに、まるで心の中を覗いたんじゃないかってタイミングでお兄さんが言う。
「私の心を読んだ?」
「うんっ」
「ふっ……」
お兄さんのしょうもない冗談を最後の笑いにして、私たちは京都を出た。
京都を出てから数時間。新幹線と電車を乗り継いで、少し慣れ始めた町まで戻ってきた。
「はぁ~……。なんか見慣れた景色を見ると帰ってきたって感じがするね」
改札を抜けてそうそうにお兄さんが伸びをしながら言った。私もまだ長い時間この町にいたわけじゃないけど、帰ってきたという感じがするから、不思議なものだ。
「そうだね。私もまだ二週間しかこの町にいないけど、なんというか安心感があるよ」
二週間。そうだ、私はお兄さんに誘拐されて、もう二週間も経つんだ。
言葉に出して気づく二週間という時間。いつもは空っぽな一日を長く感じ、二週間なんておかしいくらい長く感じていた私にとっては、この二週間はあまりにも濃厚で、嘘みたいに早く感じた。
人間は楽しい時間ほど早く短いと感じて、つまらない時間ほど遅く長いと感じる。もし、これが本当のことだとしたら、私の今までの人生はつまらないもので、今は楽しいということになる。
でも、今までの時間を否定するのは、なんか嫌な感じがする。だから、こう思うことにした。今まで私が退屈だと感じていた時間は、この楽しい時間のための布石だった。やっぱり必要な時間だったんだと。
「それじゃあ、帰ろうか。僕たちの家に」
「うん。私ももう疲れちゃった。……ゆっくりしたい」
長旅で疲れ切った体が休息を求めている。見慣れた町に帰ってきて、安心したからなおさらだ。早く家に帰りたい。それで、京都での思い出を二人でだらだらしながら振り返って、笑いあいたい。考えるだけで顔がにやけそうだ。
歩き慣れた道を同じスピードで歩き、もうそろそろ家に着く。
もう少しで、お兄さんと京都の思い出話ができる。私の心はもうそれだけでいっぱいだった。
「お兄さんっ。家に着いたら二人でまったりしながら思い出話しようよ」
あまりにも楽しみすぎて、私は考えていたことを口にしてしまった。
でも、お兄さんのことだから、笑ってオッケーしてくれて、今日は美里ちゃんも疲れてるだろうからコンビニ弁当にしちゃおうか、とか言ってくるに違いない。
そんな風に返事を予想をしながら、私は胸を躍らせて返事を待った。
しかし、お兄さんの返事は私の想像とは違って、なんというか曖昧なものだった。
「……僕もそうしたいんだけどね。もう……時間みたい」
「……え?」
お兄さんが言っている意味がわからずに、私は首を傾げた。
そして、お兄さんが私の疑問に答えてくれない内に、家への最後の曲がり角を曲がる。そこで、ようやく私はお兄さんの言葉の意味を理解した。
「……警察」
最後の曲がり角を曲がった先、つまりは私たちの住んでいるアパートの前にはパトカーが数台止まっていて、警官もそれなりの数がいた。パトロールにしては厳重すぎるし、アパートで他の犯罪が起こった可能性もないことはないけど、ほぼゼロに等しい。そんな考えをするくらいなら、私たちのことがバレて警察が調べに来たと考える方が自然だ。
「お兄さんっ! 逃げよ! 早くしないとお兄さんが捕まっちゃうよ」
警察がいることがわかった私はお兄さんの手を強引に掴み、とりあえず元来た道を戻ることにした。これからどうするかという、ここで簡単には答えの出ない難題を考えるよりも、今は目の前の危機を脱する方が先だと考えたからだ。
今はとにかく警察の目を掻い潜って、迅速に人目のつかない安全な場所を探す必要がある。
それなのに――――お兄さんは動こうとしない。
「なにしてるのお兄さん! 早く逃げないと!」
こっそり逃げないといけないとわかっていたけど、お兄さんがあまりに動かないものだから私は少し声を荒げてしまった。空いている方の手で口元を覆っても、もう遅い。
でも、失敗したと思っていてもしょうがない。今はここから早く離れないといけない。私は再度お兄さんの手を強引に引っ張った。
「美里ちゃん……。もう遅いんだよ。時間切れなんだ……」
時間切れって何? そう問いたい気持ちをぐっと堪え、私は諦めまいと前に向き直る。
そして、ここまできて私はようやくお兄さんの言ってることがわかった。
少し離れたところから私服の男が一人と女が一人、明らかに私たちの方へ向かって歩いてきていた。それも無言で。
もし、二人組がなにか喋っていれば私はカップルか、ただの通行人だと思っただろう。もしくは携帯ををいじっていたり、違うところを見ていれば私は二人組を気にも留めなかったはずだ。
じゃあ、なぜ私がその二人組を気に留めているのか。
簡単だ。
私たちを逃がすまいという視線をひしひしと感じるからだ。
でも、まだ諦めるには早い。二人組とはまだ距離があるし、反対側に向かって全力で走ればアパート前の警官を巻いて逃げることができるはずだ。一瞬でそう考えた私は後ろを振り返る。そして、私なんかが考える浅はかな作戦は、なんの意味もなさないことを思い知らされた。
振り返った先には―――警察官が二人立っていた。
「っ!」
何を言っていいのかわからずに私は息を呑んだ。本当に驚いたとき、人は言葉を口に出すことができないというのはどうやら本当だったようだ。ただ黙って固まっていることしかできない。
そんなことをしてる場合じゃないことはわかってる。逃げなきゃいけないってわかってる。でも、もう逃げ場がない。八方塞がりどころか、全方位包囲されている気分だ。
結局、そのまま動くことのできなかった私たちに警官が話しかけてきた。
「古賀雄二さんですよね?」
「……はい」
警官の質問に、いつになく神妙な面持ちでお兄さんが答える。その顔に、いつもの笑顔は一切ない。笑顔どころか感情すらないように見える。
お兄さんの名前を確認し終えた警官が視線を少しずらし、今度は私に鋭い視線を向けた。そして、ポケットから一枚の写真を取り出し、私と見比べた。
「君は……花咲美里ちゃん……だね」
「ち、違います……」
どうせすぐにバレてしまう嘘を、私はついた。
今の私にはこれぐらいしか抵抗する術がなかったからだ。
しかし、そんな些細な抵抗を無駄にしたのは、他でもないお兄さんだった。
「いいえ、違います。この子は花咲美里ちゃんです」
私はお兄さんの発言に驚き、顔を見る。
しかし、お兄さんはこちらを向いてくれない。いつもみたいに笑いかけてくれない。私がお兄さんのことを見てるのはわかってるはずなのに、こちらを見向きもしてくれない。まるで他人みたいだった。
そこには―――私の知らないお兄さんの顔があった。
「古賀雄二、花咲美里誘拐事件の犯人として逮捕する」
刑事ドラマなんかでよく聞くセリフに、お兄さんはなにも言葉を返さずに両手を合わせて前に出した。それを確認した警官がポケットから手錠を取り出して、お兄さんの手に掛ける。
手錠を掛けるガチャリという音がやけに耳に響いた。
「それじゃあ、署まで一緒に来てもらう」
なんの抵抗もしないお兄さんを、手錠を掛けた警官が力強くパトカーに向かって引っ張っていく。もう一人の警官もお兄さんが逃げないようにしっかりと後ろからお兄さんを監視している。
なんで?
なんでお兄さんが捕まらないといけないの?
お兄さんは、私にいろいろ教えてくれたいい人なのに。
こんな私なんかのために必死になってくれた人なのに。
私に生きる楽しさを教えてくれた人なのに。
どうして捕まらないといけないの?
「お兄さんっ!!」
気が付けば私は涙を流しながら、警官に連れて行かれるお兄さんの背中を追いかけようとしていた。みっともなく涙を流し、無様に手の伸ばし、縋るように背中を追いかける。
そんな私を、さっき後ろから来ていた私服の女性警官が引き止めた。
「混乱してるのね。大丈夫、もう大丈夫よ。もう悪い人は捕まったの。あなたは自由よ」
そう言って、女性警官は私の肩に手を置いて話しかけてきた。
何が大丈夫なの? どうして大丈夫なの? 大丈夫じゃないよ。
お兄さんが悪い人? 何言ってるの? お兄さんは良い人だよ。
あなたは自由? 自由って何? 自由なんていらない。
そんな数々の言葉を発することができず、私は警察の人に要りもしない慰めを受けながら、小さくなるお兄さんの背中を眺め、ただただ声をあげて泣き叫ぶことしかできなかった。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああっ!!」
四月十四日。
私が誘拐されてからちょうど二週間。
誘拐犯、古賀雄二は捕まり、私、花咲美里は自由になった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「美里。ご飯できたわよ。今日は張り切ってハンバーグを作ったの。あと、近所の人が美里にってリンゴもくれたのよ。一緒に食べましょ」
見慣れ、過ごし慣れた自室のドアの向こうからお母さんの声が聞こえる。聞き慣れたはずの親の声が妙に優しく聞こえるのは、きっと気のせいだ。
あの人たちが私とお兄さんの生活を奪ったんだから。
「……。ご飯ここに置いとくわね。ちゃんと食べなさいよ」
私からの返事がないことで諦めたのか、お母さんはそう言い残し戻っていった。
お兄さんが誘拐犯として逮捕されて三日。
私はこうしてひたすら自室に籠っている。やわらかいベッドに身をゆだね、お兄さんとの生活を思い出し、枯れることのない涙で枕を濡らしながら、ただただなにもない無駄な時間を過ごしている。
部屋を出るのはトイレに行く時ぐらいだ。それも、両親に見つからないように慎重になりながら部屋を出る。後は今みたいにお母さんが運んできた料理を取る時と、食べ終わった皿を部屋の外に出す時くらいしかドアを開けない。
何も食べたくないほど落ち込んでいるのに、私の意見を無視して体は勝手にお腹を減らす。だから私はお母さんが運んできた料理を口にする。
何年もまともに食べてなかったお母さんの料理の感想は特にない。まずいとは言わないけど、おいしいとも思わない。それでも、体は栄養をほしがるので仕方なく私は右手を動かす。
「……」
食べ終えた食器を適当にドアの向こうに出し、再びベッドに横たわる。
私はこの三日間、とにかくお兄さんの無実を証明するために必死だった。
お兄さんが逮捕されてすぐに執り行われた事情聴取で、お兄さんが私に何もしていないことや、身代金などの目的もなかったこと、私はお兄さんと暮らせて楽しかったこと、とにかく思いつく限りのお兄さんを擁護する情報を警察に話した。
でも警察は私がまだ混乱していて、まともに話を聞ける状態ではないと、私の話を受け付けなかった。
警察がダメなら両親に話そうとした。
私が戻ってきてからお父さんとお母さんは会社に休みをもらい、常に私と一緒にいようとしたので、話すのは簡単だった。
ただ、私が何を話しても、二人は今まで私のことを蔑ろにしすぎたとか、これからは私と一緒にいられる時間を増やすとか、謝罪を繰り返すばかりで話し合いにならなかった。
警察も両親もダメなら誰に話せばいいのか迷った私が次の相手に選んだのは、私が家に戻ってきてから毎日代わる代わるやってくるクラスメイトだった。
今まで私になんの関心もなかったはずのクラスメイトが、毎日二三人ずつやって来ては、ドアの前で何か喋って帰っていく。たまにお土産を持ってきてくれる子もいた。その中の一グループに私はお兄さんとのことを話した。
結果は、ただ心配されただけだった。
帰る方向一緒だから今度からは一緒に帰ろ。学校で待ってるから。そんなほしくもない言葉だけを残してクラスメイトは帰っていった。
警察も、両親も、クラスメイトもダメ。そんな絶望的状況の中、私が最後に助けを求めたのはご近所さんだった。もちろんお兄さんのアパートのご近所さん。
あのご近所さんたちなら、私たちの関係を知っているはずだ。誘拐犯だとかそういうのを抜きにして、私たちが楽しくやっていたことを証言してくれるはずだ。
何度も二人でいるときに声を掛けられた。笑って話してくれた。そんな人たちがお兄さんと私を裏切るはずがない。それにご近所さんたちが証言してくれれば、それは有益なお兄さんの無実を証明する情報になるはず。私はそう思って家を飛び出そうとした。
結果、家を飛び出す前に私の心は折れて砕け散った。
理由は単純で、私が家を出る前に両親が居間で見ていた、私の誘拐に関するニュースだった。
内容はかなりお兄さんが悪く見えるように脚色されていて、事実とは全く違った。それだけならよかった。問題はそのあとに放送されたご近所さんたちの反応の方だった。
「結構暗い感じの子だったから心配はしてた」
「女の子の方も普通にするように命令されてたのか、笑顔がぎこちなかった」
「たまにうるさかったから、虐待でも受けていたかもしれない。早く助けてあげればよかった」
「……」
最後の希望ともいえるご近所さんたちの反応は、概ねこういったものだった。
テレビや新聞は、とにかくお兄さんを悪い人間にしようと必死になっている。やれ誘拐犯だ、やれエロ目的だ、やれ金目的だと、お兄さんの気持ちも思いも知らないくせに好き勝手に言いたい放題。
なんで何も知らないくせに人の悪口を言えるんだろうか。
なんでお兄さんの気持ちも知らずに勝手を言えるんだろうか。
自分たちは私に何もしてくれないくせに何を偉そうに語っているんだろうか。
勝手なことを並べ立てる大人たちに不快感を覚えながら、私はお兄さんを助け出せずにいる自分に腹が立った。
これが、この三日間で私が起こした行動のすべてだ。
あとは食事とトイレと、涙を流すことしかしていない。
お兄さんのことを思い出しては涙を流し、お兄さんを求めて手を伸ばせば空を切り、お兄さんの体温を求めれば胸が寒くなり、お兄さんの声を求めれば何も返ってこない。
辛い、苦しい、悲しい、空しい、寂しい、そんなこの世の負の感情すべてが詰まったような感情が私の中をぐるぐると回っている。その感情は消えることなく、時間とともに増し、どんどん私を苦しめる。
泣いてどうにかなるならいくらでも泣く、叫んでどうにかなるなら声が枯れるまで叫ぶ、そんな覚悟があったって現状は良い方向には絶対に進んでくれない。
何が悪かったんだろうか?
私が誘拐ではなく、自分の意志でお兄さんの所に行ったと言えばよかったのだろうか。私が途中で逃げ出せる状況にいたにも関わらず、お兄さんの優しさに甘えて居座ったのが悪かったのだろうか。それとも、私とお兄さんが出会ったこと自体が悪かったのだろうか。
「信じたくない……」
信じたくなかった。
例え、私とお兄さんが出会わなければこんなことにならなかったんだとしても、私はお兄さんと出会いたかった。恵まれた環境に私がいたとしてもお兄さんと出会いたかった。時や状況が変わったとしてもお兄さんと出会いたかった。
出会わなければよかったなんて思いたくなかった。
「ああ……ああああ……あああああああああああああああああああああっ」
頭を抱え、ベッドの上をのたうち回る。
「美里っ! どうしたのっ!? 何かあったの!?」
「おい美里! どうした? 何かあったならお父さんに話してみろ。ちゃんと聞いてやるから。なあ、美里!」
ドアの前でお母さんとお父さんが呼んでいるのが聞こえる。
でも、そんなことどうでもよかった。
私が今ここにいてほしいのは、お母さんでもお父さんでもない。
お兄さんだ。
お兄さんだけなんだ。
お父さんとお母さんを無視し続け、しばらく泣き叫び続けた私は、疲れて寝てしまうまで叫び、苦しみ続けた。
家に戻ってきて四日目の朝。
私はとにかく何でもいいからお兄さんと私を繋ぐものを求めた。
「―――そうだ! クマのぬいぐるみ!」
思いついたのはゲームセンターでお兄さんが何回も失敗してまで、私のために取ってくれたクマのぬいぐるみだった。お兄さんが私に生活用品のような必要なもの以外として、初めて送ってくれたプレゼントのぬいぐるみ。
私は今、それがほしくてたまらなかった。お兄さんとのつながりがほしかった。
だから私は、私を心配して会社を休み続けている両親にバレないように家を抜け出した。
まず最初に向かったのはもちろん駅だ。
私の家からお兄さんの家までは三駅ほど離れている。歩いていけない距離でもないけど、電車が使えるなら誰だって電車を選ぶだろう。
特にこれといって趣味のない私の財布にはそれなりにお金が入っている。私にとってのお金の使い道は、外でのどが渇いたときにジュースを買うのと、家にない食材を買い足すくらいなので、当然といえば当然だ。
切符を買い、改札を抜け、電車に三駅ほど揺られ、改札を抜ける。
「ここからの道も……うん、覚えてる」
いつもお兄さんに付いてばかりだったとはいえ、私もこの辺りの土地には詳しくなった。三日ほど時間が過ぎたところで忘れるはずもない。私はお兄さんのアパートまでの道のりを歩いた。
少しして、お兄さんのアパートの近くまで来た私は、パーカーのフードを深くかぶり、顔を見えないようにしてから周囲の確認をした。今回の目的の中で一番問題なのは間違いなく、アパートからぬいぐるみを持ち出すという今の現状だ。ご近所さんに見つかればすぐにバレて騒がれてしまうだろうし、警察に見つかるなんて問題外。味方なんていないのだ。
アパートの様子を軽く伺うと、お兄さんの家は調べ終えているのか警察の姿はなかった。これは運が良かったとしか言えない。もし警察がお兄さんの部屋を調べに来ていたり、部屋の前を封鎖なんてしていたらどうしようもなかった。
「なら、気を付けるのは近所の人だけか。正直、こっちも運だよね」
今現状で誰もいなくても、突然部屋から誰かが出てくる可能性がある。ただそれは私にはどうしようもないことだ。神様にでも願う他ない。
私は念入りに周囲を再確認してから、意を決して走り出した。
「よし、誰にも見つからずに来れたっ」
運よく誰にも見つからずにお兄さんの部屋の前まで来れた私は、最後の運要素であるお兄さんの部屋の鍵が開いているかというところまで来れた。
ドアノブに手を当て、軽く持ち上げ、引く。
―――開いた。
あまりの嬉しさに声を出しそうになるのを必死に我慢して、最小限だけドアを開けて体を滑り込ませる。
ここまで来てしまえばあとは簡単だ。ぬいぐるみを回収して部屋を出るだけ。もし見つかってもそのまま逃げてしまえばいい。もうここに来る必要はないんだから。
「ぬいぐるみは……っと」
京都へ行く日の朝の記憶を頼りに、私はぬいぐるみの元に向かう。
「―――あった」
隠していたわけでもないぬいぐるみは簡単に見つかった。
正直、警察に回収されていたりしないか不安だったけど、杞憂だったようだ。
私は安心してぬいぐるみを回収して、もし警察が何かの用件でここに来ないとも限らないので、さっさと逃げることにした。
「ん? 今なんか変な音がしたような……」
クマのぬいぐるみをつかんだ時に、なにかを握りつぶした時のような音がした。その音の正体が気になり、私はクマのぬいぐるみを観察する。
「特におかしなところはないみたいだけど……」
クマのぬいぐるみにおかしなところは見当たらない。中身にしたって綿だから変な音はしないはずだ。
あと、残すところがあるとすれば。
「―――ポーチの中」
このクマのぬいぐるみにはポーチが付いている。
ポーチといってもクマのぬいぐるみに合わせたサイズなので、そんなに大きくはない。せいぜいポケットティッシュが一つ入るくらいの大きさだ。でも、逆に言えばポケットティッシュくらいのものなら何でも入ることになる。
私はこのクマのぬいぐるみを結構大切にしていた。そして、持ち主である私はこのポーチに何かを入れた記憶はない。
だとすれば、このポーチに何かを入れた可能性のある人物は一人しかいない。
「―――」
息を飲み込み、緊張しながらもポーチのボタンをはずし、中身を取り出す。
中に入っていたのは――― 一枚の紙だった。
「なんだろうこれ? ―――手紙?」
小さく折りたたまれた紙を開くと、そこには文字が書いてあった。
『
美里ちゃんへ
美里ちゃんがこの手紙を読んでるってことは、僕がうっかりをやらかしてなければ、僕はもう美里ちゃんの隣にいないと思います。理由はもちろん警察に捕まったから。
ここから先の内容は、僕の勝手な想像で書いてるからもしかしたら美里ちゃんが思ってもないことが書いてあるかもしれないけど、一応読んでみてほしい。
まず最初に、もしかしたら優しい美里ちゃんは僕のこと助けようとか考えてるかもしれないけど、そんなことはしなくていいよ。
僕は助けられるような立場じゃないから。誘拐っていう犯罪を犯した誘拐犯だから、ちゃんと罰は受けないといけない。僕は自分でも悪いことをしたんだってわかってるから、反省をしなくちゃいけない。もう、話し合いもできない僕の言い逃げみたいになるけど、それを理解してほしい。美里ちゃんにもわかってほしい。
次に、たぶん美里ちゃんの両親や警察が僕を変に見ていたり、ニュースや新聞は僕のことを好き勝手に言ってると思う。もちろん悪い方向に。
難しいかもしれないけど、そのことで周りの人を恨んだり、憎んだり、嫌いにならないでほしい。僕はそんなことを望んでないから。
だから、遊園地から帰ってきた辺りの美里ちゃんみたいに、周りの人と笑顔で挨拶したり、なんてことない会話で笑ったり、綺麗なものを見て喜んだり、ちょっとしたことで嬉しくなってほしい。
たくさん笑って、いっぱい楽しんで、すごく嬉しくなって、たまに泣いて、時々寂しくなって、ちょっと辛くなる。そんな、生きていれば当たり前に行われることをこれからもしていってほしい。
できないなんて言わせないよ。だって、この数週間、僕は美里ちゃんがそれをこなしてるのをちゃんと見てきたからね。
今の美里ちゃんなら、たくさんの人を好きになれるはずだし、たくさんの人に好きになってもらえるはずだよ。遊園地の時みたいに言うなら、たくさんの人に愛されて、たくさんの人を愛せるようになってるはず、かな。
とにかく、今の美里ちゃんならそれができるはずだし、それが見えるはずだよ。
もし見えないなら、周りをちゃんと見てみて。
きっと、今の美里ちゃんの周りには美里ちゃんを心配してる人がたくさんいるはずだよ。ご両親はもちろん、学校のクラスメイトや先生、それにご近所さん。みんながみんな美里ちゃんを心配してくれてるはずだよ。
賢い美里ちゃんならもうわかるよね? そのみんなの心配は、美里ちゃんが好きだからしてくれるものだって。美里ちゃんに少なからず好意を抱いてくれてるからだって。わかるよね。見えるよね。
だから、美里ちゃんもそれを受け取って、返せるよね?
愛されて、愛せるよね?
信じてるよ。
気づいたら、手紙の半分くらいが埋まってるから次の話を最後にするね。
最後の話、それは美里ちゃんが知りたがってた、なんで僕が美里ちゃんを誘拐したか、だよ。
それはね―――美里ちゃんが僕と似てたからだよ。
信じられないとか、絶対にないとか思ってるかもしれないけど、本当なんだよ。
僕の家に来て、美里ちゃん僕に聞いたよね? 大学行かなくていいの? って。
あの時、僕は大丈夫って言ったけど、本当は大丈夫でも何でもなくて、ただ単純に大学に行きたくなかっただけなんだ。
恥ずかしい話、僕は大学で虐められててね、毎日殴られたり蹴られたり、パシリにされてはお金をもらえなかったりで、本当に嫌な毎日を送ってたんだ。
それで、そんなある日の大学帰りに、僕はこんなに生きてるのが辛いなら死んじゃおうかなって考えたんだ。その時だよ、美里ちゃんを初めて見かけたのは。
クラスの子だったのかな? と帰ってて、なんか楽しそうに喋ってた。でも、その中で美里ちゃんだけが、笑ってるのに笑ってないように見えたんだ。
楽しそうにしてるけど、つまらなそうに見えた。その原因が知りたくて、僕は死ぬのを辞めて、美里ちゃんことを調べ始めた。
それで、毎日調べていくうちに家族とうまくいってないことを知った。日に日に誰かと帰ることが減っていくのを知った。最終的に一人になったことを知った。
それで思ったんだ。
僕みたいな人をこれ以上増やしちゃいけないって。
なにもかもが嫌になるような子を見逃しちゃいけないって。
美里ちゃんみたいな女の子が僕みたいになっちゃいけないって。
だから僕は、どうせ捨てる命なら、誰かを幸せにすることに命を使おうと思った。
美里ちゃんを幸せにするために頑張ろうと思った。
結果的に、僕は美里ちゃんに命を救われたんだ。
美里ちゃんが知らなくても、そう思ってなくても、僕は美里ちゃんに救われた。
それからの毎日は楽しかったよ。
毎日美里ちゃんのことを調べて、どうやったら美里ちゃんを幸せにできるかを考えて、僕に何ができるのかを考える。そんな生活を送ってるうちに、どんどん美里ちゃんのことが気になって、気づけば好きになってた。
一人でいるのが本当は寂しいのに、頑張ってそれに気づかないように振る舞ってる美里ちゃんが、なんだかかわいく思えたんだ。
それからしばらくして、美里ちゃんは僕と違って、周りの人に嫌われてるわけじゃないことを知った。
でも、どうしたらいいのかわからなくて、ずっと考えた。
どうやったら僕は美里ちゃんにそれを伝えられるのか、美里ちゃんに対するみんなの気持ちを届けられるのか、これまでないくらいに必死に考えた。
それから少しして、僕は自分のミスに気が付いたんだ。
僕が美里ちゃんにそれを伝えることはできないけど、気づかせてあげることはできるんじゃないかって。
その結果が、美里ちゃんを誘拐することだった。
僕が美里ちゃんを誘拐して、周りのみんなが美里ちゃんを心配してくれれば、美里ちゃんがみんなの思いに気づいてくれる。
そう考えたんだ。
結果はどうだったかな?
ちゃんと気づいてくれたかな?
さっきはあんな大口を叩いたけど、本当はすごく心配だよ。
美里ちゃんは優しいから、僕っていうパーツが邪魔をして、みんなの気持ちを素直に受け止められないんじゃないかって。
遊園地以来、美里ちゃんが僕に少し依存してるように思えたから、すごく心配だよ。
でも、僕は信じてる。
僕が好きになった美里ちゃんを信じてる。
最後まで信じぬいて見せる。
なんだか自分語りが長引いちゃったけど、これで本当に最後!
美里ちゃん。これからの美里ちゃんの人生に僕はいらない。
だから―――忘れてほしい。
ううん、忘れて。
お願いじゃないよ。
命令とも少し違うけど、それと似たようなものと思ってくれていいから。
だから忘れて。
さっき、これで本当に最後って書いたけど、もう一つ書きたいことができちゃったからもう一つだけ。
美里ちゃん。幸せになってね
誘拐犯、古賀雄二より
』
「……」
涙は、とうに枯れたものだと思ってた。
三日間、泣きに泣き続け、体中の水分すべてを流す勢いで泣き続け、涙腺というダムの中は空になっているものだと、勝手に思い込んでいた。
「ああ……ああ……」
枯れてなどいなかった。
無尽蔵にあふれ出る涙を袖で拭う。それでも拭いきれないから上を向く。
ここにいるのを誰にも知られたくない私は、必死に声を押し殺し、涙を止めようと必死になる。そんな私を無視をして涙はあふれ出る。
「―――無理だよ」
どうしても無理だった。
泣くことだけじゃない。
誰も恨まず嫌いにならないこと、これからの人生を楽しく生きること、お兄さんを忘れることも、無理。
どうしたってできない。
できるはずがない。
私はお兄さんにたくさんのものをもらった。
私はお兄さんにたくさんのことを教わった。
私はお兄さんにたくさんのことで救われた。
そんなお兄さんのことを悪く言う人たちを許し、お兄さんが苦しんでいるのを知ったうえで楽しく生活し、あまつさえ、その恩人のことを忘れるなど、私には無理だった。
「お兄さん……お兄さん……」
何度呼びかけようと、返事はない。
どんなに、あのニコニコとした笑顔を思っても、優しい声を思っても、温もりを思っても、何も返ってこない。来るはずがない。
願うだけでなんでも叶うなら、どんなにいいだろう。
思うだけでなんでも叶うなら、どれほどうれしいだろう。
「無理だよぉ……私はそんなに強くも、賢くもない……」
私は全然強くない。
お兄さんは私を信じてくれると言った。
ちゃんとできると保証してくれた。
でも、私は私に自信がない。
これまで逃げ続けた人生だ。
嫌なことから目を逸らし、聞きたくないことに耳を塞ぎ、みんなの思いに心を閉ざす。
そんな生活を送ってきた私に、何ができるというのだろうか。
何をしろと言うのだろうか。
「でも、やらなくちゃいけないんだよね……」
その答えは、お兄さんが手紙に残してくれた。
「今すぐには無理でも、少しずつ……」
その答えを、お兄さんは教えてくれていた。
「私は幸せになる。なってみせる」
その答えを、お兄さんは望んでいる。
「頑張ろう。前を向こう。下は見ないで上を見よう」
クマのぬいぐるみを胸に抱き、私は静かに立ち上がる。
気づけば、涙は止まっていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
あれから一年の歳月が過ぎ、私は高校生になった。
慣れない制服に袖を通し、慣れない学校の校門を抜け、慣れない教室で、自分の席についている。そんな慣れないものだらけの空間で、私は席が窓際なのをいいことに、外に咲く満開の桜を見ながら、大切な人宛てのレターセットを机に広げる。
「おはよー、美里ーっ。ん? 何してんの? 手紙……もしかして……ラブレターっ!?」
「おはよー、遙。あと、ラブレターじゃないから」
彼女の名前は遙。
高校に入学して、まだ間もないのに私たちが名前で呼び合うほど仲がいいのは、私たちが高校からの友達でなく、中学時代からの友達だからだ。
お兄さんの手紙を読んで、私が少しずつ前に歩き始めて最初に友達になったのが、遙だった。
人懐っこい性格と、良くも悪くも素直な性格が私にとって話しやすくて、すぐに友達になった。最初は私が色々と不甲斐ないせいで、今の距離感になるまでに、半年近くも費やしてしまったけど、今ではそれもいい思い出だったりする。
「えーっ。ラブレターじゃないのー。つまんないなー」
「つまんなくて結構。私が遙を楽しませることしかしないなんて思わないでよね」
「あーん、美里冷たーい。でも好きー」
「はいはい」
ベタベタと抱き着いてくる友達を少し面倒に思いながらも、頭を撫でてなだめる。
この一年で、私は自分でも驚くほど変わった。
要らなくていいと思っていた友達を作り、毎日笑うようになり、たまに悲しくなったり、怒ったりもするようになった。
ほとんど会話のなかった両親とも、今では毎日嫌になるほど会話をする。
今日は学校で何があったの? とか、小学生じゃないんだから、と言いたくもなるような質問を毎日してくるのだ。ただ、私はそれを不快に思っていない。むしろ嬉しいと思っている。
ご近所さんとも仲良くなった。
これと言って会話をするわけじゃないけど、顔を合わせれば笑顔で挨拶をして、ちょっとした話をする。それくらいには仲良くなった。
友達もできた。
今喋ってる遙以外にもたくさんできた。中学を卒業する頃にはクラスメイト全員と打ち解けられて、最後の集合写真も笑顔で迎えることができた。
卒業式の日は、これでみんなとの学校生活もこれで終わりかと、泣いたりもした。
「ねえ、美里ー。ラブレターじゃないなら、それなにー? 教えてくんろー」
「えー、ダメ。内緒」
「いけずー」
しつこく手紙の内容を尋ねようとしてくる遙を適当にあしらい、頭の中でどういったことを書こうか悩んでいると、別のクラスメイトがおずおずと話しかけてきた。
「あのー……花咲さんって、あの花咲さんだよね?」
「ん? 誘拐された経験がある花咲さんを求めてるならそうだけど」
「えっと、そのー……大変だったね」
「そうでもないよ。ちゃんと今こうしてるしね」
誘拐されて以降、私は何度も誘拐についての話をされた。
警察、マスコミ、クラスメイト、先生、ご近所さん。たくさんの人に話を聞かれる。別に私はそれを嫌だと思ってはいない。むしろ、嬉しいとさえ思う。
上辺だけかもしれないけど、私のことを思って話しかけてきてくれているんだから嬉しくないわけがない。
中にはもちろん、面白半分で聞いてくる人もいるけど、それはそれで仕方のないことだと思ってる。自分の近くに誘拐された経験のある人がいたら、気になって当たり前だと思うからだ。
「そういえば自己紹介まだだったよね。知ってるかもしれないけど、花咲美里だよ」
「私は遙、季節の春じゃなくて、遙か彼方の遙ー」
「えっと、私は―――筑紫……です」
「筑紫か。うん、よろしくね」
「よろしくー」
「は、はい。よろしくお願いします」
お互い自己紹介を交わし、私に新しい友達ができた。
ねえ、お兄さん。
私、お兄さんが望んだようになれてるかな?
お兄さんが教えてくれたようにできてるかな?
心の中で、返事もくれないお兄さんに声をかける。
私は、お兄さんが残した手紙の内容のうち、一つだけ守らないことに決めた。
それは、お兄さんのことを忘れてほしいということ。
だって私は。
「お兄さんになら、また誘拐されたいって思ってる悪い子だからね」
「美里なんか言った?」
「ううん、何にも」
「そっかー」
お兄さん。
私、今―――
幸せだよ。
友達から視線をはずし、窓の外の満開の桜を眺めながら、小さくつぶやく。
「また、誘拐されたい」
完
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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