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また、誘拐されたい  作者: Rewrite
1/3

前編

他に作品の投稿を望まれていた方ごめんなさい。Rewriteです。

いきなり誘拐物が書きたくなったので、自分なりに時間をかけて書いてみました。

いつもみたいに短く区切ってないので、長い内容になってますが、どうか読んでみてください。

 

                           また、誘拐されたい




 私、花咲(はなさき)美里(みさと)は誘拐されたことがある。あれは今から約一年前、私がまだ中学三年生だった頃のことだ。

 私が誘拐されていた期間は、たったの二週間だった。

 そのせいで私は一躍有名人。テレビでも取り上げられて、あれから一年たった今でもたまにその時の話しを聞かれる。誘拐の話を学校の友達に聞かれて素直に答えると、みんな口を揃えてこう言う。


「いやいや、誘拐だけでもヤバいし、たった二週間っておかしいから」


 と。

 でも、私はそうは思わない。

 だって、あの長かったようで短かった二週間は私の生きてきた十五年間の中で、もっとも充実していて、楽しくて、思い出深い一時だったから。

 誰がどう言おうとも、誰がどう感じようとも、例え世間では私の受けていた行為は、ただの誘拐という犯罪の名前の一つだったとしても、私はあの二週間を忘れない。

 あの一時を忘れない。


 あの楽しかった日々を―――忘れない。


 誰かが言った。

 大切なものは、それを失うまで大切だと気付かない。

 上手い言葉だ。と、今の私は思う。昔の私だったら「なにそれ」と笑い飛ばしているだろうけど、それは違う。今だからわかる。

 大切なものは、大切な人は、失わないと気付けない。

 どんなに大切なのか気付けない。


 もし、その大切な何かを失って、手に入れることのできるものがあるのだとすれば、それはきっと『思い出』だけ、大切な『思い出』だけ。


 まだ入学したてで慣れない高校の、窓際にある自分の席に座って、外に咲く満開の桜を見ながら目の前に置かれたレターセットにペンを走らせる。

 そして、私は何でもないように一人呟く。


「また……誘拐されたい……」


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「……ここどこ……?」


 目が覚めたら、そこは至って普通の一室だった。

 ただ、私はこの場所を知らない。少なくても私の家ではない。


「もしかして私……いや、もしかしなくても私……誘拐された?」


 私、花咲美里はどうやら誘拐されたらしい。

 もちろん、今までに誘拐されたことなんて一度もない。家がお金持ちなわけでもない私が、どういう理由なのか知らないけど、誘拐されてしまったようだ。

 とりあえず今の状況を整理しようと、まずはここに来る前のことを思いだすことにした。


「確か私は学校が終わって、いつも通りの道を通って家に帰ろうとして、でも、なんとなく家に帰るのが嫌になって、公園のブランコに座って……あれ? ここから思いだせない」


 できるだけ鮮明に思いだそうと奮闘した私だったが、思いだせたのはここまでだった。もし、私の記憶が飛んでいるのでなかったら、私が公園のブランコに座っているときに何かあったということになる。


「でも、思いだせない。ん~、思いだせないのってなんだかむしゃくしゃする」


 頭を掻きながらどうにか思いだそうとしてみたけど、そんなことで思いだせたら学校のテストなんかで苦労などするはずもなく、なにも思いだせなかった。


「こんな状況だっていうのに、私意外と冷静なんだな。それとも、いきなりの状況に頭が付いて行ってないだけ?」


 そんなことを思いながら次にこの場所の確認を行うことにした。手足を拘束されているなんてこともなく、自由だったことをいいことに、私はこの部屋の中を歩き回る。

 フローリングの部屋のようで、部屋の真ん中には黒の絨毯が敷かれていて、その上に茶色で長方形のテーブルが一つ置かれている。部屋の一角には本棚が置かれており、そこにはマンガや、私の知らない小説がいくつか並んでいる。その隣には洋服ダンスが置かれていた。その反対側の一角には勉強机が置かれており、ここは学生の家なのかと私は考えた。

 窓際側の一角にベッドが一つ置かれていて、そのベットの反対側にテレビが置かれていて、ベッドに横になりながらも見れるようになっている。窓の外はベランダになっており、私はそこから自分の居場所を確認する為に外を眺めた。


「うわー……ここどこなんだろう? 見たことない……」


 しかし、私の期待は裏切られ、外の様子を眺めても自分が今どこにいるのかわからなかった。別に外の景色がおかしかったわけじゃない。普通の町並みの一角が確かに見えてる。ただ、私がこの場所を知らなかっただけだ。結局外を見てわかったことと言えば、少なくともここはどこかの山奥なんかではなく、どこかの町の一部ということと、ここがアパートの二階だということだけだ。

 それから私は隣の部屋に移動した。隣の部屋と言ってもそこは台所だった。


「なんにもない台所だな」


 簡単に見た感じだけど、この台所は台所としての役割を果たしていないように思う。置いてある調理器具はまな板と包丁とフライパンと鍋のみ。調味料なんかもあるにはあるけど、乱雑に置かれており、指定の場所はなさそう。水道付近には洗われていない皿が一枚とコップが一つ置かれている。汚いというほどじゃないけど、だらしないとは思う。なんとなく冷蔵庫の中身を確かめると、入っているのは一リットルの牛乳パックが一本とチーズかまぼこのみ。生活感の『せ』の字もない。


「なんていうか……ちょっとだらしないだけの普通の部屋だった」


 私が抱いたこの家の第一印象はこれに尽きなかった。

 黒の絨毯に茶色のテーブル、本棚、洋服タンス、勉強机、どこの家庭にもありそうな普通の家具たち。台所も特に目立ったところはなく、強いて言うなら台所に生活感の欠片もないということだけ。


「それじゃあこんな場所、さっさとおさらばしますか」


 私はそう言って台所の向こうにある玄関へと向かった。そして玄関のドアノブを回そうとして気付く、玄関が開かないことに。こういった知識は持ってないけど、おそらく犯人が外側から何らかの仕掛けを施していたのだろう。ホントにそんなことができるのかわからないけど。


「やっぱり見張りの人がいないからこういうことくらいしてるよね」


 起きたときに私を誘拐した相手がいないことと、私を何の拘束もしていないことに違和感は感じていたけど、こういうことだったらしい。私がこの部屋から逃げられないという自信があったから犯人は安心して部屋を留守にしたのだ。

 ベランダから逃げようにもここは二階で高さも結構あった。ケガの一つもしないでここから降りられる自信は私にない。

 つまり、私はここから逃げられない。ということだ。


「って、玄関から逃げられなくてもベランダ開いてるんだからベランダから助けを呼んじゃえばいいじゃん」


 すぐに頭の切り替えを行い、すぐさま行動を起こそうと、私は元の部屋へと足を戻そうとした。


 そんな時だった。玄関の扉が開かれたのは―――


「ただいまー。って……あっ! 起きたんだね! おはよう美里ちゃん!」


 私の前に現れたのはこの部屋と同じくどこにでもいそうな感じの平凡な男の人だった。見た感じ年は大学生くらい。チャラチャラした感じではなく、おとなしそうな感じで誘拐なんてできそうにない顔をしている。

 まあ、実際にしてるんだけど。


「えっと……お兄さんが私を誘拐した人……?」

「うん。そうだよ!」


 私が尋ねると、目の前の男はなぜかニコニコしながらそれを肯定した。私は誘拐犯に不意を突かれないよう警戒状態を解くことなく、相手の動きを伺いつつ唯一の逃げ道を見つめる。男の手によって開けられたあの玄関を。


「とにかく中に入ってよ。今近くのコンビニでジュースとかお菓子買ってきたから。一緒に食べよ! ほらほら早く!」

「えっ! ちょっと!」


 せっかく警戒していても動けないのでは仕方がない。運動部でもない、運動音痴な私がこの狭い場所で突然伸びた手を避けられるはずもなく、あっさり私は男に腕を捕まれ、強引に部屋に連れていかれる。

 男は部屋に戻って私を座らせると、ニコニコした表情のまま、コンビニ袋の中からジュースやらお菓子やらを取り出し、それらをテーブルの上に広げ始めた。


「さあ、食べて! お腹減ってるでしょ! あっ、足りなかったら言ってね。また近くのコンビニでお弁当でもお菓子でもなんでも買ってくるから!」

「は、はあー……」


 男のテンションに押され気味の私。どうにもこの男の考えが掴めない。

 私の想像だと誘拐っていうのはこんな感じではないはずだ。もっとナイフや包丁で脅されたり、親に脅迫電話をかけてお金を取られたり、ひどいときにはエッチなことをされたり、そんなイメージ。

 それに誘拐する犯人のイメージもこんな大人しそうで優しそうな感じの人ではなく、もっと怖そうだったり、チャラチャラしてたり、そんな感じのイメージだった。それなのに、この男はその私の誘拐のイメージのどれとも真逆の感じだった。

 本当に意味が分からない。もしかして普段おとなしそうな人ほど、暴走したときに何をするかわからないってあれ、本当なのかも。


 状況についていけない。警戒心も正常な思考も男のよくわからない行動によって若干奪われた。それでも残った部分が機能して、広げられたお菓子にも、渡されたジュースにも手を付けないでいるのに、男はニコニコとした表情のまま、私を見つめ続けている。

 私はそんな視線に耐えられなくて、ジュースを開けて一口含んだ。

 今思えば少し軽率な行動だったかもしれないけど、この変な空気に耐えられなかったし、ペットボトルの蓋の部分に開けられた形跡がないから大丈夫だと判断した。


「おいしい?」


 突然、男がそんなことを聞いてきた。

 本当に訳が分からない。さっきからニコニコしてるだけだし、特に私に何かをしてくるでもないし、両親に電話をして身代金を用意させているようにも見えない。なんか、丁重におもてなしされてるみたいに感じる。

 座っている位置だって私を台所側、つまり玄関に近い方に座らせて、自分はテーブルを挟んで反対側に座ってる。これじゃあ、私が逃げる気になったらお兄さんの邪魔なく逃げられる。

 本当にどういうつもりなのだろう。

 それからも男は何もしてくることはなく、ただただ私をニコニコ見つめ続けた。私はその視線から逃れようと、男の用意したお菓子やらジュースに意識を集中する。男は私がそんなことをしている際も時々「おいしい?」、「こっちもおいしいよ」、「他にも食べたいものとかある?」とか聞いてきた。

 私はそれを全部無視した。それなのに男は笑顔だった。


 少ししてお腹の膨れた私は、ベッドの上に横になった。簡単に言えば覚悟を決めたのである。


「お兄さん、世間ではロリコンって言われる人でしょ? それでたまたま一人でいた私を攫ったんでしょ? で、これから私にエッチなことするつもりなんだよね? だったら早くしていいよ。お兄さんも我慢の限界でしょ。どうせ中学生で女の私じゃお兄さんに力じゃ勝てないし、好きにしていいよ。抵抗しないから。あ、でも、痛かったら少しは抵抗するかも知れないからそれは我慢してね」


 それだけ言って私は目を閉じた。


 あー、最初は何をされるのだろう。やっぱり胸を揉まれたりするのかな。それともキス? あーあ、私のファーストキスはこんな形で終わっちゃうのか。それに、もう一つの初めても……。

 やっぱり痛いのかな? そういう動画も見たことないし、わかんないや。そういえば、最初は痛いけど、慣れると気持ちいいって聞いたことある。でもそれって相手が好きな人じゃなくても同じなのかな。正直、自分の体の中に他人の体の一部が入ってくるってだけで私的にもう怖いんだけど。


 ……でも、もうどうでもいいや。どうにでもなっちゃえ。

 どうせこのまま生きてたって碌な事なさそうだし、それならこんな人のためにでも役に立った方がいいのかもしれない。

 例え、このままこの人に殺されるのだとしても、私はそれを受け入れよう。

 怖くないと言えば嘘になるし、死にたいのかと問われればそうじゃないけど、それでもこれが私の運命で、生まれる前から決まっていた出来事で、受け入れるしかないというのだったら、私はそれを受け入れよう。


 お母さんたち……悲しんでくれるかな?


 …。

 ……。

 ………。


「……何してるの、お兄さん……」


 私が横になって様々なことに思いを馳せて数分。男は私に何かするどころか、私に触れてくることもなかった。おかしいと思って目を開けた私は、目の前に男の笑顔があって少し驚いたけど、それ以上になんにもされなかったことへの驚きの方が大きくて、声に出して驚くほどではなかった。質問の返事を待っていると、男は私の投げかけた質問にこう答えた。


「え? いやね、美里ちゃんの顔可愛いなーとか、眼を閉じてるところもラブリーだなーとか、細くて綺麗な指だなーとか、白くて雪のような肌だなーとか、そんなこと考えてただけだよ?」


 と。

 本当に意味が分からない。この男の考えが掴めない。

 いや、それは誘拐犯の気持ちなんかわかっちゃいけないんだろうけど、わかったらそれは私も犯罪者予備軍だってことになっちゃうんだけど、それでも、なんというか釈然としない。


「あのさ、お兄さん。私、今、結構覚悟を決めてベッドに横になったんだよ? ……何もしないの?」


 我ながら何を言っているんだと思う。何もしてこないのならそれはそれでいいことなのに、私は何を言っているのだろう。なにもされなかったんだからそれでいいじゃないか。もしかして手を出されなかったことに対して、私の中の女の部分が何かを感じたのだろうか。そんなのあるとは思えないんだけど。


「えーっ? 美里ちゃん、僕に何かしてほしかったの?」


 困惑する私に男は笑顔で言った。そしてその後にこう続けた。


「僕は何もしないよ。正確に言えば、美里ちゃんが嫌がることは何もしない、っていうのが正解かな。あ、でも家に帰してとかはなしだよ。あと、警察に連絡させてとかそういうのも。僕が捕まっちゃうからね。それ以外なら美里ちゃんが言うなら僕は何でも言うこと聞くよ」


 ホントのホントの本当に意味が分からない。

 この男は何が望みなのだろう。この男は私に何を望んでいるのだろう。この男は一体何を考えているのだろう。私にはなんにもわからない。理解できない。この男の目的はなに?


「もちろん美里ちゃんの家に連絡して身代金を請求もしてないし、今から連絡するつもりもない。君のことをどこかの人身売買なんかに売り飛ばすつもりもないし、エッチなことをするつもりもない。僕はただ君と―――美里ちゃんと一緒に生活したいだけだよ」


 私がある頭を必死に回転させて困惑している中、男は笑顔でそう私に言った。

 そして最後に


「というわけだから、これからよろしくね! 花咲美里ちゃん!」


 そう、私に笑いかけるのだった。


 こうして、私の突然始まった奇妙な、それでいてどこか不思議でおかしい、誘拐生活が始まった。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「……あのさ、お兄さん。私がこんなこと言うのもおかしいような気がするんだけど、いいの……?」

「え? なにが?」

「いや、携帯だよ。そりゃあ私からしたら携帯返してもらえるの嬉しいけどさ、私はこれでどこにでも連絡とれちゃうし、助けを呼べちゃうんだよ? それこそ両親に連絡したり、警察を呼ぶこともできちゃうんだよ?」

「あー、そういうことね。うん、それは大丈夫だよ。それは僕としては美里ちゃんに助けを呼ばれたら大変だけど、僕は美里ちゃんの事信じてるから。美里ちゃんはそんな子じゃないって。ほら、自分が信じてほしいならまずは相手を信じないとね」

「……」


 あれから少しして男は私に携帯を返してくれた。もしかしたら連絡の取れないように連絡先を消したり、私の知らないような方法で連絡の取れないようにされてるかも? なんて思ってたんだけど、確認してみたら連絡先はそのまま、ネットにもつながって、連絡もしっかりと取れるようだ。

 唯一変わってたところは私の連絡帳にこの男の名前が加わっていたことぐらいだろう。

 ちなみに名前は古賀(こが)雄二(ゆうじ)というらしい。

 ただアドレス帳には『こがおにいちゃん』という名前で登録されていた。


「お兄さん、ホントに私の事誘拐する気あるの?」


 今日何度目になるかわからないこの質問を男に投げかける。その答えを男は相も変わらずニコニコした笑顔で言う。


「うん! あるよ! 美里ちゃんとようやく二人っきりで一つ屋根の下で生活できるんだもん。そう簡単にこの幸せを手放す気はないよ!」


 本当にこの男の言うことはわからない。

 とにかく、今の私のこの男に対する見解をまとめるとこんな感じだ。

 1、とりあえず悪い人ではなさそう。

 2、私の両親に身代金とかは要求してなさそう。

 3、ロリコン。


 三つめがとにかく危ないような気がしてしょうがないけど、さっき私がすべてを諦めてベットの上に寝転がっても何もしてこないところを見ると、そこまで重症なロリコンではないのかもしれない。


「それにしてもやっぱり美里ちゃんはかわいいね! 前からずっと思ってたんだけど、目の前にいてもらって改めて実感したよ。白く透明な肌に、幼さを残した顔、まだまだこれからという少し成長を見せ始めてる胸、小さい子特有のぷにぷにとした柔らかく甘いミルクのような匂いのする体……。うん、考えるだけでも興奮するよ!」


 訂正。やっぱりこの人は重度のロリコンだ。


「えーっと……お兄さんって私のことが好きなの?」

「もちろん!」

「小さくてかわいければそれでいいロリコンなんじゃないの?」

「違うよ。僕は美里ちゃん一筋だし、美里ちゃんの隣にテレビとかで日本一かわいい中学生って言われてる女の子がいても僕は迷わずに美里ちゃんを選ぶよ。僕の中では美里ちゃんが日本一……いや、世界一かわいいし、これからも美里ちゃん以上にかわいい女の子には一生で会えないと思ってるよ。いや、出会えないって断言してもいいね。美里ちゃんのいない世界に僕はいらないし、誰もいらないよ」

「……」


 少し驚いてしまった。

 私はてっきりこの男は、小さくてかわいい女の子なら誰でもいいとかいう人なんだと思ってた。男には悪いけど、私自身は自分のことをせいぜい中の上に入れればいいなぁ、くらいにしか思ってないし、周りから見たら私なんて中の下くらいのかわいさなんだろうなぁ、と思ってる。

 男の褒めたところは、私くらいの年齢の女の子なら大体の子が持っているものだ。白い肌も、幼さを残した顔も、まだまだ成長を残した胸も、柔らかい体もみんな持ってる。

 私個人が特別持っているものなんて、なにもありはしない。

 それなのにこの男は、私をこの世界中の誰よりもかわいいといい、この先の未来でも私以上にかわいい人になんて出会えない、出会うなんてありえないと言ってきた。ありえないなんてありえないと思ったりもしたけど、その言葉自体は素直にうれしかったし、こんな状況だというのに少しときめいてしまった。

 といっても、これは決して恋心ではない。これ絶対。


 ばれないように小さく深呼吸して男の方を見る。

 改めてこの男を観察すると、よく言えばいい人そう。悪く言えば平々凡々。髪は真っ黒で目にかかるくらいに前髪が伸びきっている。男にしては長い方だ。そして服はファッションとか興味ないんだなぁ、と一発でわかる服。黒のTシャツに黒めのジーパン、黒の靴下という全身真っ黒の漆黒ファッション。私もファッションには興味がないけど、その私から見てもダサい。体系は普通、痩せすぎでもないし太り過ぎでもない。ただ少し弱そう。

 うん。こんな男に恋心なんて絶対にない。


 それからまた少し経って、男が出かけようと言ってきた。

 近くの時計で時間を確かめると、針は午後八時を指していた。外はすっかり暗く、月の光と星の輝きが綺麗に町を照らしている。


「ねぇ、こんな時間に行く意味あるの? ていうか、私を外に連れてっていいの? 一応私誘拐されてるんだよね? あんまりそんな感じはしないけど」

「こんな時間に行く意味ならあるよ。昼よりは人目に付きにくいからね。あと、美里ちゃんを連れて行っていいのかって話だけどそっちはむしろ来てくれないと僕が困るんだ」

「……なんで?」

「とにかく行こうか。あんまり遅くなるのも困るからね」


 結局、男は私にどこに行くのか、何をしに行くのか何も言わないまま、「まだ春になったばかりで寒いだろうからこれを着てね」と、パーカーを私に着せ、帽子を少し深めに被せて玄関へと向かった。

 私も抵抗しても無駄なことはわかっているし、このまま何もわからずに、わけもわからないままこうしているよりも、何か行動をした方が気分が落ち着くと思って、特に何か言うことも、外へ行くこともこれ以上渋ることもなく、男の後に続いて外に出た。


「寒くない?」


 外に出るなり男がそう尋ねてきた。

 外は春先といえどもまだ少し肌寒い。春というよりは冬の延長戦といった感じで、少し前までに感じていた極寒の寒さに比べればどうってことない。なので私は軽く頭を縦に振って大丈夫だということを伝えた。


「それじゃあ行こうか。少し遠いけど僕車の免許持ってないし、自転車も持ってないから我慢してね」


 そう言って男は前を向いて歩きだす。

 このご時世に車はともかく自転車も持っていないという男の発言に少し驚かされたものの、私は特になにか言葉を返すでもなく男のあとを追った。


 見慣れない道を男に置いて行かれないように少し早く歩く。男はさっきから私の隣を歩いてくれているけど、念には念を。

 ただ歩いているのもつまらないので周りの景色を見ながら歩くと、私の知っている道ではないものの、どことなく見たことがあるようなそんな変な感覚が私を襲う。もしかしたら昔ここに来たことがあるとか、あんまり来ないだけの私の家からそう遠くない場所なのかもしれない。


 空を見上げれば星々が煌いている。小さくも確かにひっそりと輝いている星を見ると私は落ち着く。月もきれいな満月で私はこんな状況なのに得した気分になっていた。

 もしかしたらおかしいのは男だけでなく、こんな状況で落ち着いていられる私も同じなのかもしれない。


「ここが目的の場所だよ」


 あれから少し歩いて私が連れて来られたのは大型デパート。

 正直、さっきまでの男の態度は私を油断させるための行動でこれから私はどこか人気のない場所に連れていかれたり、船に乗せられて外国に連れていかれたり、気持ち悪いおじさんがいっぱいいるような場所に連れていかれるのかも、と、警戒も少しはしていたのだけど、連れて来られたのは何の変哲もない、あんまり外を出歩かない、世の中の流行りにも疎いこんな私でも知っているような本当にただのデパートだった。


「何か買うの?」


 ここに来た意味が分からず、私は素直に男にそう尋ねた。


「うん。美里ちゃんの服を買うよ」

「え……?」


 私が男の言っている意味が分からずに呆気を取られていると、男は笑顔を絶やさずに言う。


「せっかくこんなに美里ちゃんはかわいいのに僕なんかのダサい服を着せておくのはもったいないからね。だからここで美里ちゃんに似合う、むしろ美里ちゃんのためだけに生まれた服を買って美里ちゃんのかわいさをもっと際立たせるんだ」


 喜々としてそう語る男に若干引きながら、私は愛想笑いを返した。

 ただ、この男は意外と気が利くのかもしれないとも思った。


「でも、やっぱり美里ちゃんに僕の服を着てもらうのもありだな。僕の服に美里ちゃんの匂いが付くのはうれしいし、いつでもどこでも美里ちゃんを感じられるのはうれしいかも……」


 訂正。この人はただの重度のロリコンだ。


「絶対お兄さんの服なんて着ないから。それなら私はずっとこの制服でいいよ」

「そ、そんなぁ~……。でも、そうだよね。美里ちゃんには僕のダサい服よりもかわいい服だ。さーぁ! たくさん買うぞーっ!!」


 私の辛辣な言葉に深く落ち込むこともなく、この後の買い物に気合を入れる男。私的にはそんなに服に気を使う方ではないので、このまま制服のままでもいいんだけど、男はどうやらそれを許してくれそうにない。男の気合の入れように若干気おされながら、私たちは二階の服売り場へと足を運んだ。


「それじゃあ、いい服があったら覚えておいてね。美里ちゃんに似合ってて、かわいい服だったら後でまとめて買ってあげるから。三十分後にここに集合ね」


 それだけ言って男は足早に私から離れていった。

 どうやら私の服なのに最終的な決定権は私にはないらしい。まあ、お金は男が出してくれるようなので、理に適っていると言えばそうなのかもしれない。

 でも、私と別行動って本当に私を誘拐する気があるんだろうか。逃げる気になれば簡単に逃げられるし、助けだって呼べる。道だって携帯という文明機器がどうとでもしてくれるし、最悪周りの人に尋ねればいい。

 それがわかっていながら逃げない私は、やっぱり少しおかしいのだろう。


 一旦男と別れ、ほんの一時の自由行動。

 慣れないデパートの中を適当に眺めながら歩く。普通、私くらいの女の子はこういったデパートをに来ると、服屋や雑貨屋を喜々として回るみたいだけど、私には特にそういったことがない。むしろ面倒くさいとすら思う。


 この際だから話しておくと、私にはこれといった趣味というものがない。あと、友達もいない。正確に言えば友達を作る気がない、だけど。

 例えば趣味は音楽鑑賞という人がいる。音楽鑑賞と言っても人気のアイドルや今流行りの歌を聞いているような感じで、色々なところでイヤホンを耳に差していて音楽を聴いている。その人たちはその音楽が好きで聴いているのだろうが私は違う。私は周りの音の遮断や、今私に声を掛けないで、などといった意味で使う。似たような理由で本を読んだりもする。本の場合は単に私が好きというのもあるけど。

 このように私は趣味として何かをするのではなく、何かを拒みたくて他のことをしておく、ということが多い。もっと言えば、実際に音楽は聴いているわけでもない、音を流しているだけである。聴く音楽もニュースで聞くようなものや、クラスで他の人が話しているものばかりで自分で、『これ』と選んだものはない。本は別だけど。


 今買おうとしている服だって、私くらいの普通の女子は今私がしているように自分で足を運んで試着を繰り返して買うようだけど、私は適当に着やすそうな服をネットで買うだけだ。ネットで数回クリックをするだけで商品を家まで運んでくれるんだから本当に便利。


 学校では基本的には一人でいたいと思ってるんだけど、さすがに常にそういうわけにはいかず、そういう時はなるべく短い会話で済むように事務的な返事をしている。班行動をしなくちゃいけない時も私は常に受け身で、決まった内容をただ水の流れに任せて流れる笹船のようにすべてを受け入れる。他の人が楽しそうに話していても私は楽しい会話内容と感じないし、むしろ面白くもなんともないようなことでも笑ってあげないといけないのは疲れると思う。実際、私には無理だ。

 たぶん、これが私に友達のいない理由だと思う。

 周りを気にすることなく、気にしてもらおうともしない、とにかく協調性がない。いつからこうなったのかは今ではもう思いだせない。いつの間にかなっていた。というのが今の私の見解だ。

 そんな私の人間関係の薄さが、男が私を誘拐するのにはちょうどよかったのも事実だろう。

 そんなことを考えながら三十分間デパートの中を練り歩き、言われた通りいくつかの良いと思える服を見つけておく。


「おまたせー。それじゃあ美里ちゃんが選んだ服から見に行こうか」


 時間が過ぎて、待ち合わせ場所で待機していると、男が少し遅れて戻ってきてすぐに私たちは服を買いに向かった。


「―――美里ちゃん。さすがに僕でも怒るときは怒るんだよ?」


 私がい良いと思った服を男に言うと、男はドンドンとテンションを落としていき、三つ目を紹介したところでうなだれた。


「なんで私が怒られてるの?」


 男が言っている意味が分からずに首を傾げる。


「あのさ美里ちゃん、さっき僕は言ったよね。美里ちゃんに似合うかわいい服を買うって、なのに美里ちゃんが選んだ服ってみんな地味なのばっかりじゃない」


 男の言う通り、確かに私の選んだ服はお世辞にもかわいい服とは言い難い。動きやすいスウェットや無地のTシャツを中心に選んだ私のチョイスは男の言っていた『かわいい』とは確かに真逆の存在だったかもしれない。でも、私の普段着というのは大抵こんな感じのものである。かわいさよりも着ていて楽な服、みんなに見てもらえるような派手な服よりも、その他大勢に紛れてしまうような地味な服。それは何着かはオシャレに気を使った服も持ってはいるけれど、それを着るのは学校の修学旅行のような私服を着ることが必須であるイベントくらいだ。

 周りのクラスメイトが気合の入った服を着ているから、地味な服を着ている私が逆に目立つとかほんとにおかしい。


「お兄さんには悪いけど、私目立つのあんまり好きじゃないし、かわいいよりも動きやすい方がいいの。どうせお兄さんはヒラヒラした絵本の中で出てくる女の子が着ているような服とか、アニメや漫画で女の子が着てるようなスカート丈が異様に短かったりするみたいな感じの服を着てもらいたいんだろうけど、私は絶対に嫌だからね」


 なんとなく男のチョイスを想像できてしまった私はこの際だからきっぱり否定しておく。ただ、この様子は全然誘拐犯と被害者には見えない。本当に変な感じだ。


「そんなこと言わずにさ。僕だってその辺の男どもに美里ちゃんをジロジロ見られたくないから節度は守ってるよ。それにお金を出すのは僕なんだから何を言われてもその服は買わないよ」

「……」


 どうやらこの服は買ってもらえそうにない。まぁ、なんとなく想像は出来ていたし、ここは男の選んだ服も見てみよう。そう思った私はとりあえず男が選んだという服を見に行った。


「これと、これと、これと、これと、これと、これと―――」


 あるお店に入るなり、男はお店中からいろいろな服を根こそぎ私の元へ持ってくる。その大抵が私の予想通りヒラヒラした服だったり、やたらとピンクや白が多かったりと女の子女の子した服ばかりだ。

 ただ、驚くことにどの服もあまり派手というわけではなく、それなのにかわいらしい。普段ファッションに気を使わない私が、かわいいと素直に思ってしまうのだから、それは相当なものと言ってもいい。私の証言にこれっぽちの意味なんてないけども。


「お兄さん、なんでそんなに女の子の服選ぶの上手いの? 正直、驚いてるどころか少し引いてるんだけど……」


 成人男性が女子中学生に似合う流行りの服を的確に、それでいて私の好みすら考えてあの短時間で選んでいるというのは少し―――いや、かなり変だと私は思う。


「そんなー。僕はただ美里ちゃんに似合う服かつ美里ちゃんに着てもらいたい服を選んでるだけなのに」

「それにしたって多すぎるでしょ。あの短時間で十着以上持ってくるって結構な異常者だよ。それも自分とは性別も年齢も違う女の子の、しかも流行りの」

「それは僕だって勉強したからね。美里ちゃんには最高にかわいい服を着てほしかったからアニメや漫画、現実ではファッション誌にそういったテレビ番組、色々な方法で勉強したんだよ。すごいでしょ!」


 嬉しそうに胸を張る男を無視して、私は無言で男の服装を見る。黒のTシャツに普通のジーパン、ネックレスや腕輪などの装飾品はなし、髪はボサボサの真っ黒、その努力を自分の方に向ければとどうしても思ってしまう。


「その努力を少しは自分の方にも向ければいいのに……」

「え? 何か言ったかな?」

「う、ううん!! なにも、何も言ってない!」

「そう?」


 思ってた言葉が口に出てしまったことに驚いた私は咄嗟に両手を口元に充てて、ふさぐ。男は私が何かを言ったことには気づいてたみたいだけど、内容までは聞き取れなかったみたい。言い訳も上手くいったみたいだし、よかった。私は内心ホッと息を吐き、男が持ってくるかわいらしい服たちを眺める。


「……多すぎ……」


 そんな空気の中にすぐに溶けてしまうような小言を唱えながら。




 あれから一時間半後、私たちはようやく家の近くまで帰ってきた。

 なぜこんなに時間がかかったのかというと、あのあと男が「とりあえず持ってきた服全部着てみて!!」と、私を強引に試着室に押し込み、謎のファッションショーが始まったからだ。

 色々な服を着せられた。中には私的にはかわいらしすぎて恥かしい感じの服もいくつか混ざっていて、本当に長い時間だった。男は服を私が着た姿を一回一回写真に撮ってもいた。中にはポーズを取るように言われたものもあった。もちろん断った。

 小さなファッションショーが終わってから、その中から何着かを選び購入。下着も買ってくれると言い出し、最初は「下着も僕が!!」と言っていた男を強引に言いくるめて下着だけは自分で買った。

 しかし男は「確かに下着は見えないからこそロマンがあるよね!」などとポジティブな考えをしていたみたいで、転んでもただでは起きないみたい。

 そんなデパートでの嫌な出来事を振り返りながら、アパートの玄関前まで来て、ドアを開けようとノブに手を掛けたところで私は思いだした。


「お兄さん、このドア何か仕掛けしてるんでしょ? 私じゃわかんないからやってよ」


 アパートに行くときはあまりの状況の目まぐるしさに忘れていたが、この玄関は私を閉じ込めておくために何らかの仕掛けが施されていたはずだ。もしかしたら外からなら関係ない仕掛けかもしれないけど、ていうか一見何の仕掛けも見えないけど、何かしらしてあるのは少し前の私が証明している。

 あの時、確かに玄関のドアは開かなかった。


「え? 仕掛けって何のこと?」


 あの時の謎の答えを期待していた私に返ってきたのは、そんなとぼけた反応だった。


「何の事って、このドアなんか仕掛けしてあるんでしょ? ほら、私を閉じ込めておくために鍵じゃ内側から開けられちゃうから外側から何かしてたんでしょ? それとも外から関係ないの?」

「ごめん美里ちゃん、正直何を言ってるのか僕にはわからないよ」

「え?」


 なにやら話が噛み合わない。最初は嘘でも言って、からかってるのかと思ったけど、男の表情を見るに嘘を言っているようには見えない。


「で、でも、私が中から出ようとしたら玄関のドア開かなかったよ。ほら、今だって開かないし」


 男に自分の主張の証明をしようと、ノブを回しながら開けようとする。もちろん手前にも奥にも引いたし、あり得ないとは思うけど、引き戸の可能性も考えて左右にも引いた。さすがに上にあげるタイプのドアではないだろう。

 そして結果は私が主張した通り開かない。ガタガタと音を立てるだけで開く気配がない。


「……。あー、そっか! 美里ちゃんは知らないんだもんね!」


 私の行動を見て、少し悩むような仕草を取ってから男は手をポンと叩いてそう言った。意味のわからないままボーっと突っ立ったままでいる私を横に、男は私の代わりにドアの前に立つ。そして私と同じようにノブに手をかけ、回した。


「えっ!? なんで!? なんで開いたの!?」


 特に何かをしたように見えなかったけど、なんでか玄関のドアは開いた。まるで最初から開いていたように。鍵を開けていたようには見えなかったし、というか出かけるときに鍵を掛けてもいなかった。鍵も掛かっていないのに開かないドア。わからない。あと、不用心。


「ごめんね美里ちゃん。このドアを開けるのにはちょっとしたコツがいるんだよ」

「コツ……?」

「うん。ちょっと見てて」


 男はそう言うと、一度開けた玄関のドアを閉めなおし、一回私と同じように開かないことを証明するためにドアをガタガタと動かした。どうやら今の状態では開いてないみたい。


「実は僕の部屋の玄関だけ立て付けが悪いみたいで、普通に開けようとすると美里ちゃんがなったみたいに鍵がかかってなくても開かないんだ。でも、こうすれば……っと」


 男は再びドアノブを回した。するとドアはさっきみたいに何事もなかったようにすんなりと開いた。まるでこの家の主が帰ってきたのを喜ぶように。


「……ねぇ。どうやったの?」


 教えてくれるかわからなかったけど聞いてみることにした。もし教えてくれなくても、この男なら私が本気でぶりっ子したら簡単に教えてくれそうだし。何かあった時に逃げられるよう聞いておくことに越したことはない。ただ、もしもの時に私にぶりっ子ができない、というかしたくないところが問題なんだけど。


「うん。まずは普通にドアノブを回して、ここで普通に引くんじゃなくて軽く上に持ち上げるんだ」

「持ち上げる……?」

「そう。軽く上に持ち上げるようにして引くと―――ほら!」


 さっきまでの心配は何の意味もなく、男は言葉で説明をしながら実演して見せてくれた。なるほど、聞いてみればかなり簡単な話だった。でも、今になって答えを聞くと、私―――鍵も掛かってないところから脱出もできなかったのか。


「あはは、この玄関のおかげで美里ちゃん僕の家から逃げられなかったのか。それなら僕はこの玄関に感謝しなくちゃね。僕と美里ちゃんのラブラブ生活を守ってくれたんだもん」


 私が落ち込んでいるのが見た感じでわかったのか、男は今までのようにニコニコと笑った。今日初めて、この男を本気で殴りたいと思う私だった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 家に帰ってきてからしばらくして、私たちはコンビニで買ってきたお弁当を食べて、今は座って休んでる。お兄さんはさっきから私の気を引こうと何かと話しかけてきてるけど、全部無視。

 変に話をして個人情報を出すわけにはいかないし、さっきのドアの件で落ち込んでいる私をニコニコして見ていたのは許さない。


「美里ちゃん、時間も時間だし、お風呂行ってきなよ。僕はテレビでも見てるから」


 無視を続ける私を見て、少し時間をおこうと思ったのか、男は私をお風呂に行くように勧めた。確かにこのまま拗ねていてもつまらないと思った私は、頭を冷やす意味も含めて、その言葉に甘えることにした。それにしても、体を温めにお風呂に行くのに、同時に頭を冷やしに行くというのはおかしい気もする。

 デパートの袋からさっき買ってもらったパジャマと下着とタオルを持って、お風呂場へと向かう。最終的に私自身の選択とはいえ、男に言われるままお風呂場へとやってきた私は、服を脱ぐ前に周囲の確認をした。


「あの人、なんかそうとうなロリコンっぽいし、もしかしたらカメラなんか仕掛けてるかも……」


 そう、私が服を脱ぐ前に確認したいのは隠しカメラだ。今言ったようにあの人は今まで私が出会った中で一番のロリコンだ。いくら私の嫌がるようなことはしない。なんて言っていたからと言って、さすがに誘拐犯の言うことを一から全部信じれるほど私もバカじゃない。

 なんだかんだいって、今まで特にこれといって何もなかったけど、この先もそうだとは限らない。もしかしたら明日にはどこか知らない場所に連れていかれているかもしれない。気持ち悪いおじさんに囲まれるかもしれない。あの男に乱暴されるかもしれない。そんなニュースで見たような誘拐された人達の顛末を想像して神経を研ぎ澄ます。


「……特に何もないかな」


 ざっと周囲を見回してみたところ、特にカメラが仕掛けられている様子はない。ただ、人間が視覚できる範囲には限界がある。なんかのテレビで普通には気付けない超小型カメラがあるなんて言っていた。


「でも、そんなの気付けないし、気にしててもしょうがないか」


 ないものは見つからないし、あっても見つけられないものはしょうがない。そう思った私は意を決して服を脱ぎ始める。脱いだ服を入れる籠に自分の服を綺麗に畳んでから入れる。普段、下着は一番上に置くけど、今日は男が覗きに入ってくる可能性があるので、服に上手く包んで隠した。

 できる限りの抵抗をした私は特に何もないまま、慣れないからか少し違和感のあるお風呂を楽しんだ。




「あ、上がったんだね! ―――うん、僕の見立てにミスはなかった……」

「うぅ……恥かしい……」

「恥かしいなんてことないよ! 最高にかわいいよ! 似合ってる! キュート! ビューティフォー!!」


 男が何を言っているのかというと、私の着ているパジャマの感想だ。さっきデパートで私は寝るときくらいはラフで楽な恰好をしたい、と言ったら男が今着ているパジャマを持ってきた。

 私が今着ているパジャマは、長袖長ズボンの、ここまでならおそらく一般的な普通のパジャマだ。問題なのはその柄。お兄さんはどうしても私にピンク色のパジャマを着てほしかったらしく、そこまでは私も了承した。しかし、お兄さんはそこからさらに柄にまでこだわり出し、最終的にハート柄で胸元にリボンのついた、袖口のひらひらした私の好みではないものを持ってきた。そして私の制止も聞かずにレジへと向かい、購入。買った本人でない私に返品をすることができるはずもなく、私のパジャマはそれに決定した。

 そして仕方なく、今そのパジャマに身を包んでいるわけだけど、恥かしくてしょうがない。普段私はこんな女の子らしいかわいい服なんて着ないし、家でのパジャマも、こんなリボンやひらひらのない普通のパジャマだ。こんなパジャマを着ているだけでも嫌なのに、私を見て男はなんか楽しそうに騒いでるしで

 、ほんと最悪。


「他の服に着替える」


 時間とともに頭が冷えて冷静になったところで、さすがにこの服を着ているのに限界きたので、着替えることにした。別に寝るときはパジャマなんて決まりはないし、普通の服で寝よう。


「えーっ!! ダメだよ美里ちゃん! せっかくかわいいんだからかわいい服着ないと! 外でだと僕以外の男にも見られちゃうけど、ここでは僕しか見てないんだから」

「それが問題なんだけど」

「そんな!? ね、ねぇ、一日、一日だけでいいからそれを着てよ? ね? お願い!」

「うぅ……。ま、まあ一日くらいなら……」


 本気で頭を下げ始めた男に少し引きながら、さすがに買ってもらって全然着ないというのも、パジャマとこのパジャマ作った人に悪い気がした私は、仕方なく今日はこのパジャマを着て寝ることにした。


 パジャマについての一悶着があった後、私の後に続いて男がお風呂に向かった。私はその間、適当にテレビを見て過ごすことにした。男がつけっぱなしで行ったテレビのチャンネルを変えてニュース番組に切り替える。


「私の事やってたりするのかな」


 特に不自由なく、というか下手をしたら家にいるのと変わらないくらい自由にしてるけど、私は今一応誘拐されているのである。脅されることもなく、辛くもなく、特に誘拐されているって感じがしなくても、誘拐犯は確かに近くにいて、家にも帰してもらえず、場所はよく知らない場所という状況は私が誘拐されていることを示している。

 そう思いつつ、ニュース番組をいくつか見てみたけど、私のことはニュースになってはいないようだった。


「さすがに半日くらいじゃニュースにはならないか。でも、さすがにお母さん辺りが捜索願くらいは出したかな。だとしたら小さなニュースにくらいにはなってもいい気がするけど」


 誰に言うでもなく、ただ空気に紛れて行ってしまう言葉をいくつか吐きながら私はその場に寝転がった。


「でもこれって誘拐っていうのかな。別に身動きを封じられてないし、っていうか自由過ぎるくらいだもんね。携帯も返してくれたし、服買ってくれたし、監禁されてもいないし、変なこともされてないし、身代金も要求されてない―――ほんとにこれって誘拐?」


 そんなことを考えながら、私はただただ天井を見上げながらお風呂から男が上がってくるのを待った。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「……あれ? 私寝ちゃってた……?」


 気が付くと、朝だった。

 窓からサンサンと輝く太陽の日が差し込んできている。眠気眼をこすりつつ、とりあえず上半身を起こそうとして、私はここが自分の部屋でないことに気が付いた。


「……そっか。私、誘拐されてるんだった……」


 見慣れない天井、使い慣れていない家具たち、今覚えば私の寝ていたこのベットも自分のベットとは少し感覚が違う、私のベットはもう少し柔らかい。そんな慣れないものだらけのこの部屋で、私は目を覚ました。


「やっぱり夢とかじゃなかったんだ……」


 少しだけ期待していた夢落ち。ちょっとしたスリリングな夢を見ていただけという事実。私はそれがほしかったのかもしれない。でも、現実はそう甘くなかった。


「夢じゃないならしょうがないよね。っていうか私、床で寝てたような……あの人がベットまで運んでくれたのかな?」


 そうそうに夢でないことを受け入れた私は、この部屋にいないのであれば台所にいるはずであろう男の元へと向かうついでに、顔を洗おうと立ち上がる。その時に、あのひらひらとした女の子らしすぎる恥かしいパジャマを自分が着ていることを思い出し、顔を洗う前に少しでも早くこの格好から普通の服に着替えることを決意。

 端に寄せられていた昨日買ってもらった服が入っている袋を見つけて、早々に適当な服を取り出す。


「これでいいかな。ほんとあの人なんで結構センスいいのに自分にはその努力を向けられないんだろ」


 私は昨日男が選んで買ったもののうち、下は七分丈のジーパン、上は特に目立った特徴はないのに控えめにかわいいTシャツを着た。

 うん。動きやすくて派手でもない、私好み。

 着替えて気分の入れ替えも済んだ私は、今度こそ顔を洗うついでに男に朝の挨拶でもと台所に向かう。


「おはようお兄さん。……って―――あれ?」


 台所に移動すると、そこには誘拐犯である男の姿はなかった。この家の構造的に、いるとすればあとトイレとお風呂場だけどトイレに入っているようには思えない。お風呂場も同じくなさそう。

 だとすれば―――


「出かけてる……?」


 それしかない。

 この家は私が寝ていた部屋とベランダ、台所にトイレにお風呂場、この五カ所しか場所はない。正確に言えばそれらを繋ぐ廊下があるけれど今回は除外。とにかくこの家に今、私を誘拐した男、古賀雄二はいない。

 私はゆっくりと居間に戻り、昨日寝る前にテーブルの上に置きっぱなしにしていた自分の携帯を手に取る。今私にとれる選択肢は三つ。このままここで携帯を使って警察に連絡をすること。110。たった数字を三つ押すだけで私はこの誘拐生活から解放される。

 もう一つはこのままここから脱出。昨日この家の玄関の開き方は聞いたし、とりあえずこの部屋から出てしまえばあとは携帯もあるしどうにでもなる。

 もう一つはこのまま何もせずに男の帰りを待つ。まぁ、この選択肢はまずないだろう。

 昨日のデパートでは、混乱してたのと、自棄になっていたからあんな結論を出してしまったけど、一日経って冷静になった頭なら、今この状態が非常にまずいことくらいわかる。この先もずっと男が何もしてこないとは限らないし、逃げられるのならば逃げた方がいい。これまでのことはただの小さな旅行ということにでもして、少し時間をかけてでも気持ちの整えて、またあのつまらない日常に戻ればいい。ただそれだけ。


「どうしよう。やっぱりもし男にまた捕まったことを考えて警察に連絡した方がいいかな。でも、ドラマだと私みたいな子供が電話しても悪戯だと思われたりして動いてくれないんだよね。お母さんに電話って手もあるけどこの場所がどこなのかはっきりとしてないとどうしようもないし、来てくれるかもわかんないし……。……やっぱり自力で逃げるしかないか」


 いろいろと思考を巡らせた上で、そう結論付けた私は携帯を持ったまま家を出ようと玄関に向かう。

 しかし、ことがそう簡単に運ぶはずもなく―――。


「あ! 美里ちゃん起きたんだね! 目覚め気分はどう? それにもう昨日僕が買った服を着てくれてるんだね! うん。かわいい! 最高にかわいいよ! もしかして玄関にいたのって出かけてた僕を出迎えてくれるつもりだった? だとしたらうれしいな、だって新婚さんみたいでなんかいいじゃない? あぁ、理想の生活が今ここに!!」


 出ようと玄関のドアノブを掴もうとした瞬間、ドアが開き男が帰ってきた。男は帰ってくるなり危ない言葉をを捲し立て、なにやらいい気分に浸っている。この男には、私がこの部屋から逃げようとしてたという考えはないのだろうか。

 ないんだろうな。


「それより美里ちゃん! コンビニでお弁当買ってきたよ! 一緒に食べよ!」


 男は家に上がると、コンビニ弁当の入ってる袋を見せて、私を回れ右させ、居間まで背中を押してきた。さすがに男がいる状態で逃げられるとも思えないので、私は潔く諦めてコンビニのお弁当をもらうことにした。


「それじゃあ食べようか。いただきます!」

「……いただきます」


 やけに楽しそうな、それでいて嬉しそうな男の顔に、なんでもう少し遅く帰って来てくれなかったのかと、若干の苛立ちを感じながら、私はコンビニ弁当に箸を伸ばす。お弁当に罪はない。


「ねぇ、お兄さん。お兄さんはいつもこんなものばかり食べてるの?」


 ちらちらと私の方を見て、目が合うとニコニコしながら箸を進める男を見ていると、なんだか嫌な気分なので、普段食事中は喋らない私だけど。気を紛らわせるために仕方なく男に声を掛けた。


「こんなものって?」

「いやだから、コンビニとかのお弁当とかだよ。スーパーとかデパートに置いてある既に調理済みのものばかり食べてるの? って聞いてるの」


 今更だけど、今日の私たちの朝食は男の買ってきたコンビニ弁当一つ。あとはお茶。それ以外にはなんにもない。手作りで作られているものなんて一つもない。

 まぁ、あの台所から手料理が出てくることの方が想像もできないけど。


「んー、そうだね。基本的にはそうだよ。極たまーにご近所さんが作り過ぎたものをおすそ分けに来てくれるくらい。あとは実家にでも帰らないと食べないかなー」

「自炊しないの? 私の勝手な一人暮らしの想像って自炊してるイメージが強いんだけど」

「そんなことないよ。むしろ僕みたいにコンビニとかのお弁当やカップ麺で済ませてる人の方が多いんじゃないかな。たぶん大抵の人は親とかが鬱陶しくて、早く一人立ちしたいって言って一人暮らしを始めるから、自炊とかその後のことは考えてないと思うよ」


 確かに男の話を聞くと、理に適っているように思えた。でもやっぱり私は毎日コンビニ弁当というのはよくないと思う。別にコンビニ弁当が悪いというわけじゃないけど、毎日だと栄養バランスが悪すぎる。


「ふーん、そうなんだ。でも、食費とかかさむんじゃないの?」

「まぁ、それなりにはね。でもちょっと前まではバイトもしてたし、実家からの仕送りもあるから一人ならどうにでもなってたんだよ」

「でも今は二人だよ。もしかして私、これからは自分で食べる分は自分で稼がないとダメなの?」

「そんなこと言うわけないよ! 美里ちゃんはずっと、ただ黙って僕の家にいてくれればいいんだ! それだけで僕は満たされる!」


 少しはまともな会話をしていたつもりなんだけど、どうしてこうも変に脱線してしまうんだろう。

 まぁ、全部この男のせいなんだけど。


「ねぇ、お兄さん。それならさ、今度から私が作るよ。コンビニとかのお弁当ってたまに食べるとおいしいけど、毎日だとなんか味気なくて素っ気ないし」

「えっ!? いいの!?」


 コンビニ弁当のほとんどを食べ終えたところで私がそう言うと、男はまだ食べている途中なのに箸をおいて、その場に勢いよく立ち上がった。私は男の声の大きさと突然の行動に驚き、少し後ずさる。


「べ、別にいいよ。家でもそうだったし……」


 私の両親は共働きだ。二人が帰ってくるのはいつも夜中。早くても十時を回らないと帰って来ない。それなのに朝も早くて、二人とも朝の六時にはもう家を出てしまう。私が学校に行くために家を出るのは八時。そのための準備を含めて起きるのは七時。つまり私が起きたときにはもう両親は仕事に出かけている。

 そのせいか、私はいつの間にか料理を覚えていた。

 確かお母さんが作り置きしてくれていた夜のご飯が少し足りなくて、小腹に入れるのにちょうどいい料理を作ったのが最初だったと思う。それからたまに物足りない時に自分で何かを作ってた。

 そして中学に進級したころに、私が簡単な料理くらいならできることを知ったお母さんが「美里、いつの間に料理なんて覚えたの!? それじゃあ、今度からはお母さんが仕事で忙しい時は自分でご飯作ってもらっていい? 最近お母さん仕事が増えて忙しくなってきちゃったの」なんて言ってきて、それからだんだん自分の食べるものは自分で作るようになった。

 自炊を続けているうちに、どうせ食べるならおいしいものをと、欲がどんどんと増していって、いつの間にか大抵の料理はできるようになっていた。


「いやー感激だなー! まさか憧れの美里ちゃんと同棲するだけでなく、手料理まで食べさせてもらえるなんて! 僕はなんて幸福ものなんだ!」


 私のために弁解させてもらうと、別に私は好きでこの男と同棲をしてるわけじゃないし、好きで手料理を振る舞うわけでもない。私がここにいるのは誘拐されているからだし、料理を作る提案をしたのだって、自分で作った方がおいしいものを作れるからだ。決してこの男を喜ばせるためじゃない。


「それじゃあ、早速今日のお昼ご飯からお願いするよ! あー! 楽しみだなー。早くお昼にならないかなー!」

「今、朝ごはん食べてるじゃん」


 私の突っ込みが届かないほど男は感激していた。それはもう涙を流すほどに。ほんとホジティブというか楽観的な人だ。男に対してそんなことを考えながら、私は食べ終えたコンビニ弁当の蓋を閉じる。


 私の誘拐生活二日目が始まった。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 朝ごはんのコンビニ弁当を食べ終わり、誘拐されているので学校にも行けない私は、後片付けだけして、今頃みんなは学校で勉強してるんだよね、なんか悪いことしてるみたいで落ち着かない。なんて柄にもないことを思いながら、居間でテレビを見ていたら男が話しかけてきた。


「美里ちゃん。今日どこか行きたいところあるかな?」


 本当は誘拐犯と会話なんてしたくないけど、無視をすると逆に鬱陶しいほど声をかけてきたり、無言で見つめてくるので、仕方なく返事をすることにした。


「どうしたのいきなり。……別に行きたいところなんてないよ。ていうか私をあんまり外に連れてくのはお兄さん的にはまずいんじゃないの? 私一応誘拐されてるんでしょ。私が逃げるかもしれないよ」

「まあまあ、そんなこと言わないで僕とどこかへ出かけようよ。昨日みたいに帽子を深く被ったりすれば案外ばれないし、僕だって場所くらいは選ぶしね。あと美里ちゃんが逃げるっていうなら僕が美里ちゃんが逃げないように手を繋ぐよ。それでも危なそうなら手錠でも買うね」

「……」


 なんでだろう。この男が言うと本気でやりそうだから困る。


「あぁ、でも手錠でお互いの手を繋ぐっていうのいいね。そうすれば美里ちゃんとどこでも一緒。トイレでもお風呂でも一緒。―――いいな」

「そんなナイス提案みたいな顔しても嫌だよ。そんなことされるくらいなら私は舌を噛み切って死んじゃうから」

「えーっ! それは困るよ! あー、でも人間って手足を拘束されているときに舌を切って自害、なんて結構ドラマとかであるけど、あれって案外死なないんだってね」

「いや、私から言っといてなんだけどいらないよそんな知識……」


 男から聞きたくもない少しグロイ豆知識を聞かされたあと、結局男に言われて私は外に出かける準備を始める。今のまんまだと外で目立つので、あんまり目立たないように地味目の色のパーカーを羽織り、帽子を少し深めに被る。

 あと問題があるとすれば身長だけど、男が「案外身長って気にされないんだよ。あまりにも小さいと警察に言われちゃうけど、美里ちゃんは152㎝で中学生女子の平均より少し小さいくらいだからきっと大丈夫」なんて自信満々に言っていた。

 私からしたら、なんで私の身長をしっかり知ってるの? とか、女子中学生の平均身長を知ってるの? とかいろいろと気になるところがあったけど、どうせロクでもない返事が返ってくること間違いなしなので、グッと堪えた。


 沈んだ気持ちで外に出ると、起きたときに差し込んできた朝日のおかげでわかっていたけど、雲一つない快晴。こんな日は緑の芝生に寝転がって、まったりとしていたい。なんて私は思わない。こんな日でも私は家でゆっくりとしていたい。強いて言うなら本でも読んでいたい。

 きっと学校に行ってたとしても、私はいつもと変わらずに一人でいることを望んで、本でも読んでいたことだろう。勘違いされたくないので一応言っておくと、別に私は晴れの日が嫌いなわけじゃない。暖かい日差しは気持ちがいいから好きなくらいだ。ただ、そのために外に出るのが面倒くさい。


 この仕方がなかった外出で、春の温かい日差しを浴びれたのは、唯一良かった点だろう。しかし、こんな気持ちのいい快晴の中で、気持ちの悪い要素が一つ。もちろん誘拐犯の古賀雄二である。

 この男がいるだけで私は落ち着かない。

 まぁ、誘拐犯の近くで落ち着けって方がおかしいのかもしれないけど。


「はあ~。いい天気だねー。絶好のデート日和だね! 美里ちゃん!」

「いや、デートじゃないから」


 なにやら男はこれがデートだと思っているらしいけど、私はそうじゃない。

 私の初めてのデートがこんな意味の分からないロリコン誘拐犯となんて私は絶対に認めない。いくら私がいろいろなことに冷めているとはいえ、小説の中のような恋愛に憧れたりしているのだ。

 まあ実際、本当に憧れているだけで、小説のような出会いが現実にあるなんて思ってないし、あっても私は誰かを好きになるつもりはないので、恋愛に発展させるつもりもない。私は生涯孤独に生きると決めている。

 だからこれは絶対にデートなんかではない。これ絶対。


「それじゃあ行こうか。二人の愛を育みに!」

「……」


 決意固めた私の想いを踏みにじった、やけにテンションの高い男に対し、私は無言という言葉を返して足を動かし始めた。




 まず最初に男に連れられてやってきたのは、アパートから徒歩二十分ほどの場所にあるゲームセンターだった。結構大きなゲームセンターらしく、入り口付近にあった案内板によると、二階建てな上に屋外でバスケ、一階ではフットサルなんかもできるみたい。ゲームセンターから少し離れたところにはピッチングマシーンもあって、野球の練習もできるようになってるみたいだ。

 ただ、運動があまり得意でも好きでもない私はそれらに興味がない。男の方も同じらしく、すぐ横にフットサルのできるスペースがあるのに、見向きもしなかった。言っちゃ悪いけど、確かにこの男が上手くボールを扱っている姿はお世辞にも想像できなかった。むしろボールに遊ばれてる姿の方が想像しやすく、その光景を想像してしまった私は、吹き出しそうになるのを必死でこらえた。


「それじゃあ中に入ろうか。せっかくなんだし楽しもうよ!」


 楽しそうに声をかけてくる男に、どうせ何を言っても無駄なんだろうな。と悟った私は、特に何も文句を言わずに頷き、男の後に続いた。

 中に入ると、ゲームセンター特有の騒音が響き渡っていた。パチンコの玉がはじける音、スロットのストップ音、コインゲームのコインが落ちる音、そんなたくさんの騒音が私の耳を責め立てる。ただ一階はクレーンゲームやプリクラばかりで、まだマシな方らしい。この騒音の本格的な原因は二階にあるらしく、上の方がここより騒がしいらしい。それでも滅多に、というか全くゲームセンターなんかに来ない私からしたら、一階でも十分にうるさい。正直もう帰りたいくらいだ。


「ねぇねぇ美里ちゃん! なにかほしいものとかない? 僕が取ってあげるよ!」


 ゲームセンター内のうるささに私がうんざりしていると、男がニコニコしながら話し掛けてきた。聞こえにくかったけど、どうやらクレーンゲームでほしいものがあるなら取ってくれると、言っているらしい。

 どうにか男の言葉を聞き取ることのできた私は、適当にゲームセンター内をうろついて、たくさんあるお菓子やぬいぐるみの中から熊のぬいぐるみを指さした。理由は特に大したことはなく、柔らかくて抱き心地が良さそうなので選んだ。他に強いて挙げるとすれば、お腹の辺りに携帯くらいなら入りそうな小さなバックを抱えてて、小物入れとしても使えそうという私好みのデザインだったことくらい。


「任せて! 僕、クレーンゲームは得意なんだよ!」


 私はこの中だったらこれが欲しくて、取れないなら取れないで別に構わないくらいの気持ちだったんだけど、男にとってはそうではないらしく、意気込んでクレーンゲーム機に百円を投入した。


「……」

「あーっ!! あと少しだったのに! 待っててね美里ちゃん! あともう少しだから!」

「……」

「くーっ!! これアームが弱すぎるよ! あ、店員さーん、これ少し動かしてもらってもいいですかー!!」

「……」

「お、おかしい……。なんで取れないんだ―――」


 男が意気込んでクレーンゲームに百円を投入し始めてから約三十分。景品のぬいぐるみはまだ機械の中にある。


「つ、次こそは!」


 クレーンゲームの泥沼にハマって抜け出せなくなり始めた男が、再びゲーム機に百円を入れる前に、私は制止の声をかけた。


「お兄さん、もう止めなよ。取れないって。気持ちだけ受け取るからさ」

「大丈夫だよ美里ちゃん! これで取れる気がするんだ!」


 私の制止の声も聞かず、まだまだ懲りていないらしい男は、手に握った百円を再びゲーム機に投入する。男が今入れた百円は三十枚目。金額にして三千円目の百円だ。

 お金が入ったことによって元気を取り戻したクレーンゲーム機は、にぎやかな音を鳴らしながら男が自分を操作してくれるのを待つ。男は様々な角度からぬいぐるみを眺め、狙いが定まったのか操作を始めた。首をちょこちょこ動かしながらアームを動かして、慎重にぬいぐるみに目測の標準を合わせる。目的の場所までアームが移動したらしい男がボタンから手を放し、アームは自動的に下に動き始めた。その様子を真剣な面持ちで男は見守っている。かくいう私も今回の結果はどうかな、くらいには興味があるので、アームから目を離すことはしない。男が緊張からか唾を飲み込む中、結果は失敗。

 男は失敗の悔しさに呻き声を上げながら、近くの両替機に向かった。そんな男の背中を見送りながら、私は冷静に男の失敗の理由を考察する。

 そして私の考察の結果、確かにあのクレーンのアームは見ている限り弱そうなんだけど、それ以上に―――


「お兄さん下手過ぎ……」


 あの男の腕が単純に悪いという結果に行きついた。

 毎回ぬいぐるみの真ん中にアームを上手く持っていくことができず、毎回少しずつズレている。ああいうのはしっかりと真ん中を捉えて、クレーンで若干ぬいぐるみを押しつぶす感じで、下の方から持ち上げるのが基本なんだと思うけど、あの男にはそこにたどり着くまでの腕がなかった。

 たぶん、私にほしいものを聞いてきたのも、クレーンゲームが得意なんて言ってたのも、私のことを喜ばせるための嘘だったんだと思う。じゃなかったら、さすがに頭がおめでたすぎる。


「と、取れた! 取れたよ美里ちゃん!」


 結局、男がぬいぐるみを取るのに、あれからさらに三十分を費やし、お金も倍の六千円を費やした。それだけのお金があれば、このぬいぐるみが二つくらい買えそうとか、この時間を使えばもっといろいろできたんじゃないかとか、色々思うことはあったけど、今は純粋にこの男が私のためにこんなに頑張ってぬいぐるみを取ってくれたことが嬉しい。

 最初は全く期待もしてなかったし、そこまで欲しいものでもなかったけど、誰かが自分のために必死になってくれるのは、それだけで嬉しいものだ。いくら心の荒んだ私でも、それくらいの心はまだ持ち合わせている。

 本当に、この努力ややる気をもっと別の方向に、自分と同じくらいの女性に向けられればいいのにと、私は思わずにはいられなかった。


 よろよろと歩いてきた男からぬいぐるみを渡された私は、素直にお礼をして早速ぬいぐるみの抱き心地を確かめた。ざっとした感想だけ言うと、綿が柔らかく、表面の布もきめ細かくて抱きやすかった。

 うん。悪くない。


 思ったより出来の良いぬいぐるみに、つい頬を少しほころばせた私を見て満足したらしい男は、クレーンゲームに全神経を注いで疲れ切ってしまったのか、近くのベンチに腰を掛けて飲み物を飲み、小休憩を始めた。もらう物をもらった私は、男に何も言う権利などなく、男の体力が回復するまでぬいぐるみの抱き心地を楽しんだ。

 数分で男の体力が回復し、私たちは大雑把にゲームセンターの中を見て回った。平日の昼間ということもありお客は少なく、遊び放題だったにも拘らず、私たちは特に目ぼしいものがなかったという何とも残念な理由のもと、ゲームセンターを後にした。

 ちなみに、男は私とやたらプリクラを取りたがっていたが、私がプリクラを取るなら、今度隙を見て警察通報すると言ったら、男は泣く泣く折れた。プリクラよりも、私との生活が勝ったらしい。


 ゲームセンターの次に連れてこられたのはカラオケボックスだった。

 男が「美里ちゃんの歌声が聞きたいんだ! きっと天使のような歌声なんだろうなぁ。そう、例えるなら平成の歌姫!」なんて言いながら私をカラオケボックスに連れてきた。

 ちなみに私は、歌がそんなに上手い方ではない。かといって下手なわけでもないと思う。今言ったのはあくまで全部私の主観の話だから、実際のところはどうかもわからない。

 私は特に音楽に興味なかったし、周りからの遮断手段としてしか音楽を聴いてこなかったので、レパートリーも少ない。さすがにニュースや歌番組で取り上げられている有名な曲のいくつかは知ってるけど、正直気が重い。

 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、男は終始ニコニコしながらカラオケボックスの個室まで歩いた。


 個室の中に入り、私は男が座った正反対の位置に腰を下ろした。男は若干悲しそうな顔をしたけど、すぐに「でも、正面なら美里ちゃんの歌っている姿をちゃんと見れる……」なんてコソコソ言っていたので、同情の余地もなかった。

 一旦腰を下ろしたものの、ドリンクバーを頼んだのに飲み物を持ってきていないことを思い出した私は、男に「僕が飲み物取ってきてあげるからその間に美里ちゃんは歌う曲考えてて」なんて言われないうちに、逃げるように個室を後にした。男も私の意図に気付いたのか、すぐに後を追ってくる。


 逃げるように個室から出て、わざとゆっくりと歩いてドリンクバーまで向かい、帰りはさらにゆっくりと歩いて個室まで戻る。もちろんこの間も、男は私の隣をニコニコしながら歩いていた。スタートがあればゴールもあるということで個室に戻ると、男は自分の分の飲み物を置き、私がわざとゆっくり歩いていたのを知ってるはずなのに、それを特に責めることなく、座って早々よくわからない機械を渡してきた。

 渡されたのはタッチパネル式の機械、画面に曲名やら歌手やらジャンルなんて書いてあるから、おそらくこれで曲を入れるんだろう。初めて来るから本当によくわからない。


「さぁさぁ美里ちゃん! 歌おう! そして踊ろう!」

「いやいや、歌うのはしょうがないにしても踊らないから」


 男の妙に高いテンションに気おされながら、結局歌わざる終えないと悟った私は、最初の画面にあるランキングというところを押して、その中から最近の流行りの曲、なおかつ私の歌える曲を適当に選んで入れた。


「あ、それ今流行りのアイドルの歌だよね! 美里ちゃんそのグループ好きなの? 僕も結構好きなんだよね! あっ、でも一番好きなのは美里ちゃんだから安心してね。僕は美里ちゃん一筋だから!」


 男の発言を華麗にスルーして、私はこの曲の最初の部分をいつでも歌えるように軽く思い出す。男の言う通り、私が入れたのは今流行りのアイドルの歌だ。アップテンポの曲で歌詞は恋愛系。この前見た歌番組で聴いて、アップテンポで、聴いていて気持ちがいいな、と思ったので自分の携帯に入れていた。

 でも、私は別にこのグループが好きなわけではない。むしろこのグループの他の曲はほとんど知らないし、これから聴く予定もない。私にとって音楽は周囲の音の遮断行為の一つでしかないのだ。


「美里ちゃん。始まるよ! 頑張ってね」

「やれるだけはやるけど、あんまり期待はしないでね。歌ったことないから」


 私の音楽に対する価値観を知らない男は、ここに置いてあったらしいマラカスを両手に持ち、私に期待の目を向ける。私はその目を無視して返事だけ返し、画面を見つめ、歌の入りを間違わないように集中する。

 気づけば前奏が終わり、画面に歌詞が並び始める。うろ覚えの歌詞を必死に目で追い、私は歌った。


「だからー、わーたーしはー、あなたのことが、すーきー……っ」


 男が途中途中合いの手を入れてきたり、なぞの踊りを披露していたけど、それらを全部無視して私はどうにかこの曲を歌い切った。初めて人前で歌う緊張感と、それと相反する謎の達成感で、歌なんて普段歌わない私は、たった一曲を歌っただけで結構疲れた。

 こんな感じの曲を何曲も、大勢の人を喜ばせるために大きな声で歌って踊るアイドルっていう人達のすごさを、今日私は初めて知った。


「いやー美里ちゃん最高だったよ! 僕すっごくテンション上がっちゃって、今もいろいろやってたから疲れちゃったよ……。あはは……」

「なんで歌ってないお兄さんが私と同じくらい疲れてんのさ。それにそんなに歌上手くなかったでしょ……。アイドルとか歌手の人たちの方がよっぽど上手いよ」


 男の褒め言葉に、私は素直な意見を返した。


「そんなことないよ。僕にとって一番のアイドルは美里ちゃんだし、歌だって全然下手じゃなかったよ。それに歌が下手でも自分が満足できればそれでいいんだよ。アイドルとかはみんなを楽しませるのが仕事だけど、美里ちゃんは仕事じゃないんだから。自分が歌いたい曲を歌いたいように歌えばいいんだよ」

「……」


 なんだろう。

 男の今の言葉がなぜだか私の胸を動かした。もちろんそれは物理的な意味じゃなくて精神的な意味で。本当になんなんだろう。なんで今私は、この男に心を動かされたんだろう。何に心を動かされたんだろう。

 今の私にわかるのは、今の男の言葉がなんだか、温かくて、心地よくて、気持ちの良い、言葉だったということと―――嬉しかったというだけ。


「そ、そんなに褒めてくれるんならも、もう一曲歌おうかな……」


 気が付けば私は、柄にもなくそんな言葉を口にしていた。


「え? もう一曲歌ってくれるの! 嬉しいな! 僕も頑張らなくちゃ!」


 私の言葉に男は、さっきまでの疲れた発言はどこに行ったのかと、問いたくなるほどテンションを上げた。私はそんな男を横に次の曲を入れ、歌い始める。

 結局この後、一時間ほど私のリサイタルが開かれた。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 人生初のカラオケにして、ミニリサイタルを経験した私と男は、カラオケ店を後にした。次の行き先を求めて目的地のない散歩をしていると、ふと、近くの公園の時計が目に入る。針は、そろそろお昼の時間だということを示していた。お腹に目をやると、なんだか少しお腹が減ってきたような気さえする。


「ねぇ美里ちゃん。今日の朝にさ、今日のお昼は美里ちゃんの手料理って話をしてたけど、今日はこのまま午後も遊ぶためにも、どこかでお昼食べちゃおうよ」


 私の心が読まれたのではないかと、疑いたくなるようなタイミングで、男が昼食の提案をしてきた。男の提案に異論のない私は、素直に頷き、一つだけ残った懸念材料についてだけ尋ねた。


「別にいいけど……お兄さんお金大丈夫なの? 多少お金に余裕があるって言ってたけど、私の服に私の食費、クレーンゲームに費やしたお金と、さっきのカラオケで結構お金使っちゃってるんじゃないの?」

「あー、お金なら大丈夫だよ。まだ余裕あるし、せっかくの美里ちゃんとのデートをこんな簡単に終わらせたくないからね」

「いや、デートじゃないから」


 結局、男の言葉に押し切られて外で昼食を取ることにした私たちは、その辺を適当にぶらついて、昼食が取れそうな場所を探した。男はこの辺りに住んでるんだから、お店の場所くらい知っているものだと思っていたら、「普段はコンビニやスーパーのお惣菜ばかりで、外食はほとんどしないから、おいしくておしゃれな場所を知らない」と言った。それに対して私は、「別に特別おいしい場所とかじゃなくても有名なファミレスとかでいいよ」、と返したら、男はそれはダメだと否定した。


「そういえば、さっきカラオケで美里ちゃんが歌ってた曲の「だからー、わたしはー、あなたのことがー、すーきー……っ」の部分、自分に言われてるみたいでよかったなぁ。あーぁ、録音しとけばよかった……。ねぇ……」

「絶対に言わないよ。歌いもしないから」

「やっぱりか~」


 次からは歌う曲にも注意しよう。そう心から思う私だった。


 しばらく歩いていると、お昼にしては少し遅いくらいの時間になってしまった。時間はすでに二時を回っており、さすがに私もお腹が空いてきて、お腹がならないか心配になってきた。

 もし、この男にお腹の音なんて聞かれたら、「美里ちゃんはお腹から出る音もかわいいねー」とか言われて、からかわれるに違いない。意地でも耐えて見せる。


「ねぇ、特に行く当てないならあそこのラーメン屋さんにしようよ。空いてるみたいだし、ラーメンならすぐに出てくるでしょ」

「うーん、そうだね。ごめんね美里ちゃん。僕、この辺のおしゃれなお店わからなくて……本当にラーメンでいいの?」


 男は少し考えてから、申し訳なさそうな顔をして謝ってくる。別に男は誘拐犯なんだから私に謝る必要なんてないと思うし、おしゃれなお店を探してくれてたみたいだけど、私的にはそんな緊張感のありそうな場所よりも、気軽に入れるファーストフード店とかファミレスの方がいい。

 ラーメン店はそのどちらでもないし、今まで入ったことないから、少し入りにくい感じだけど、この際しょうがない。お腹の音を男に聞かれるよりはマシだ。


「別にいいよ。どうせ私はお金ださないんだし。それにお兄さん一応誘拐犯でしょ。私に無理やり言うこと聞かせればいいじゃん」

「そんなこと絶対にしないよ。最初にも言ったと思うけど、僕は基本的に美里ちゃんが嫌がることはしないよ。警察に電話させてとか、家に帰してっていうのは無理だけど、それ以外のことなら基本的には美里ちゃんの意見を優先するつもり」


 そう、男は真剣な顔で言った。

 今までに見せたことがないこの男の真剣な顔。本気で私の嫌がることはしたくないという決意の感じ取れる真剣な顔。いつもニコニコしてて、ヘラヘラしてるだけのだらしない男。くらいにしか男を見ていなかった私はその男の表情に少し驚いた。

 そんな男の真剣な顔に呆気を取られていると、男が今自分がどんな顔をしているのか気付いたのか、それとも私の表情から読み取ったのかわからないけど、いつものニコニコした表情に戻った。


「美里ちゃんがいいならあそこのラーメン屋さんに入ろうか。―――すいませーん」


 新しい男の一面を見た私は、男のあの真剣な顔が頭から離れないまま、昼食を取ることになった。




 ラーメン屋さんで昼食を取った私たちは、近くのスポーツ店で一番安いバドミントンのラケットを二本とシャトルと呼ばれる羽を購入して、近くの運動公園までやってきた。運動公園ということだけあって、遊具があるだけの公園ではなく、自分でボールなりバットなりの道具を持ってきたら野球やサッカーもできる広い公園だ。現に私たちが来た時には、小学生くらいの子供たちが一つのボールを一生懸命操っていた。


「それでなんでバドミントンなの? 他にもいろいろ公園でできることってあるよね。フリスビーとかキャッチボールとか」

「うーん。べつにこれと言って理由はないよ。ただ美里ちゃんと一緒に体を動かして遊びたいなーと思って、スポーツ店に入ったらバドミントンのラケットが見えただけだから、本当に理由はないよ」

「理由がないならないで別にいいけどさ。私、バドミントンなんてやったことないよ」

「大丈夫! 僕もないから!」

「なにその自信……」


 男の謎の自信に、私は笑いそうになるのを堪えながら、意識を他に移そうとラケットをくるくる回して遊ぶ。誘拐犯と一緒にいるのに笑うなんて絶対にありえない。もし笑ったら、私がこの誘拐犯といるのを楽しんでるみたいになってしまう。それだけは避けなければならない。

 そんな私の葛藤も知らず、男は楽しそうに口を開いた。


「それに僕からしたら運動してる美里ちゃんを見れる、一緒に遊べる、美里ちゃんの汗をかいた姿が見れる、汗のにおいを嗅げるでおいしいことだらけだから、全然打てなくても問題なーし!!」

「……もしもし、警察ですか? すいません目の前にロリコンが……」

「あーっ!! 待って待って! 冗談、半分くらい……いや、一パーセントぐらい冗談だから待ってー!」


 警察に電話をするフリをした私を、男が言い訳にもなっていない言い訳を口にしながら全力で止めに来た。私は男から逃げて、適当なタイミングで実は電話をしてなかったと男にあっかんべー、ってしてやった。

 これは今までのささやかな仕返しだ。私を誘拐して、恥ずかしい格好をさせた男への罰。その代償としてこれくらいの悪戯は許されるだろう。私がしたり顔で男を見ると、男が心の底からホッとしたような顔をしたので、私はそれを見て笑った。


「あっ! 美里ちゃん、今笑ってたよね!? 笑ったよね!?」

「っ!」


 男に言われて、自分が今笑っていたことに気付き、咄嗟に口元を塞ぐ。

 しかし、もう後の祭りで、男は私の顔をニコニコしながら見て、言った。


「よかったー、美里ちゃん僕といても全然笑わないし、っていうか、いつもつまらなそうにしてるから心配だったんだー。学校帰りとかに美里ちゃんのこと見に行ってもいつもつまらなそうな顔してたし、笑えないのかと思って心配してたんだよー。本当によかったー」

「いや、私だって笑えるよ。人間だもん。確かに笑ったのは久しぶりだったけど……」


 こう返事をしたのの、男の心配も、そう的外れなものじゃない。男の言う通り私はいつもつまらない顔をしていたし、さっき自分でも言った通り、こうして笑ったのは本当に久しぶりだ。私のそうした事情を知っているなら、この男のように、私が笑えない人間なのかもしれないと思っても、おかしくないのかもしれない。


 それに自分でも、最後に心から笑った日のことを思い出せない。

 家で好きにしていても、学校でクラスメイトの話を聞いていても、他のみんなが笑っていても、お笑い番組を見ても、心から本気で笑うことができず、いつも愛想笑いで乗り切ってきたのが私。


 それなのに―――

 今笑ってしまうまで、本当に笑う気が一切なかったのに、それなのに今、心から私は笑った。笑うことができた。

 なんでだろう。

 なんで今、私は笑うことができたんだろう。

 ―――わからない

 自分自身のことなのに、なんにもわからない。


「よーしっ! なんか気分が乗ってきたし、バドミントンしよバドミントン!」


 私の心情も知らず、なにやらテンションの上がったらしい男は、ラケットとシャトルを手に持って、サーブのポーズを取る。ポーズといっても目の前にシャトルを持って、それに何度かラケットを合わせただけ。そこから男はラケットを少しだけ引いて、振るというよりも当てるようにラケットを動かした。

 結果―――


 スカッ


 シャトルは宙に舞うことなく、重力に従って地面へと落ちた。男は見事に空ぶったのである。


「おっかしいなー。……それっ! そりゃ! とりゃ! ふんにゃーぁ!!」


 ミス、ミス、ミス、ミス。


 何度も何度もサーブしようとして空ぶっている。何度も空ぶっているのに男は真剣な顔をしてシャトルを持って、大きな奇声を上げながらラケットを振るう。

 何度も、何度も、何度も―――

 それを見ていたらまた笑いたい衝動がこみ上げて、男が五度目のサーブを失敗したところで私の笑いのダムは決壊した。


「あははははっ! お兄さん面白すぎ! さすがにサーブミスり過ぎでしょ! 下手だなー。あははははっ!!」


 私がなんで今こんなに笑えているのかはわからない。

 あんなに笑おうとしても笑えなかった私が、笑わないようにして笑っている。ただ男がラケットを空振っているだけなのに、たったそれだけなのに、私はそれを面白いと感じている。

 なんなんだろう。この心から湧き出てくる、不思議な気持ちは何なんだろう。

 でも、今はそんなことどうでもいいか。せっかく笑えてるんだから、今は笑えるだけ笑っておこう。


 この後、結局私達は男のサーブ練習だけして、夕食の食材を買いにスーパーに向かった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「味は……うん、こんなものかな。こっちもそろそろできそう。あと五分ってところかなー」


 今日一日遊んで、帰りにスーパーで食材の買い物を済ませた私たちは、現在家にいる。男がはしゃぎ疲れたのか居間で横になっている中、私は今日男が買ってくれた新品のエプロンを着て調理中。正直私も慣れないことだらけで疲れてるけど、朝に約束しちゃったし、自分で作る方がおいしいものを作れる自信があったので、少しくらい面倒でも特に気にしてない。

 ちなみに男は、居間で横になっているといっても、私のエプロン姿を後ろから眺めてニヤニヤしている。スーパーからの帰り道も「あー、美里ちゃんの手料理が食べられるだけじゃなくて、美里ちゃんのエプロン姿まで拝めるなんて……。神様、ありがとうございます!」と、割と本気で神様にありがたがっていた。

 正直、結構気持ち悪い光景だった。でも、それ以上におもしろい光景でもあった。


「ねぇ、お兄さん。普通にテレビでも見てたら? 正直ずっと見てられるとなんかやりにくいというか、嫌なんだけど」


 本気でずっと見てられるとやりにくいのと、意地悪を言いたかっただけという気持ちを半分ずつ込めて男に言った。もちろん、口を動かしている今も、手はしっかり動かしてる。


「そんなこと言わないでよ美里ちゃん。僕の気持ち知ってるでしょー。せっかく美里ちゃんの新妻姿が見られるこの絶好の好機を逃すなんて、僕にはできないよ」

「私新妻じゃないからね。結婚してないし、お兄さんとするつもりもないし」

「う……っ。さすがに素直に率直でそう言われると結構傷付くね……。でも、僕は美里ちゃんを愛してるよ!」


 私の冷たい言葉に、男は少しへこんだ様子を見せたものの、すぐにいつもの笑顔を見せた。その顔を見て、私は思う。

 どうしてこの男はいつも笑っているのだろう。私がどんな態度をとっても、この男は笑って怒ることをしない。それはどうしてなのだろう。

 きっと、私がどんなにひどいことをしても、この男は笑うだろう。叩いても、蹴っても、罵っても、きっとこの男は笑う。私が特に何も考えずに出してしまった言葉でも、この男はきっと真正面から受け止めて笑うだろう。

 私は今まで、こんな人に出会ったことがない。


「はぁ~。まぁ、これ以上言ってもしょうがないだろうし、もういいよ。それにもう盛り付けるだけだしね」


 自分の中に生まれた疑問に、答えを見つけ出すことができないまま料理を完成させてしまった私は、結局最後まで折れることのなかった男に呆れつつ、そう言葉を返しながら、作った料理をこの家にあるお皿に盛り付けていく。本来は量を二人分に分けて、お皿も二枚に分けたかったけど、分けれなかった。理由は至って単純で、この家にはお皿が一枚しかないから。今日の外出の帰りに、お茶碗と汁椀だけは私の分を買ってもらったけど、さすがにお皿まで男の懐に頼むのは申し訳なくて、言わなかった。その結果、この家にはお皿は一枚しかない。


 適当に料理を盛り付けたお皿を、居間のテーブルの方に持っていく。

 ちなみに男は最後まで私を手伝うことはせずに、テーブルに肘を着いて、両手に顎を乗せながら、楽しそうに私の配膳する姿を見ていた。


「はあ~! おいしそ~! ねぇねぇ、食べていい? 食べていい?」

「それは作ったんだから食べてくれないと困るよ。他の人に食べてもらったことないから、おいしいかどうかの保証はしないけどね」


 私は自分の作った料理を食べてもらったことがない。料理を始めた理由だって、お母さんの作っておいてくれた物だけじゃ足りなくて、勝手に作っただけだし、自分のためにしか料理を作ったことがない。私が料理ができることを知っている両親にすら、手料理をふるまったことは一回しかないくらいだ。その一回だって、両親が私の料理の腕を確認するための、試験のようなものだった。その時の感想だって「うん、これだけできれば大丈夫」の一言で、おいしいとは―――言ってくれなかった。

 結局のところ私が言いたいのは、私的にはおいしいけど、他の人的にもおいしいかは本当にわからないということだ。だから正直、この料理も味にそれほど自信はない。

 今だって、別にどうってことない、って感じを装ってるけど、男の口に私の料理が合うのか正直不安だ。


「またそんなこと言ってー。あんなこと言うってことは普段から結構料理してるんでしょ? それに美里ちゃんが作ってくれた物なら、僕はたとえそれに毒があってもおいしいって食べ切ってみせるよ」


 こんなことを男は言ってるけど、念には念を。

 私はさらにそこに念を足すように、男に釘を刺しておく。


「さすがに毒は入れてないけど、本当に期待はしないでね。さっきも言ったけど、他の人に食べてもらったことないから」

「そっか~。それって美里ちゃんの手料理を始めて食べるのは僕ってことだよね。うれしいなー。美里ちゃんの初めての一つをもらえるなんて」

「なんか嫌だからその言い方止めて。それに初めて食べたのは作った本人の私だし、二番目はお母さんとお父さんだから」


 男の気持ち悪い発言に丁寧に返事をしてから、私はテーブルを挟んで男の真正面に座った。

 ちなみに今日私が作った料理は、ご飯にお味噌汁にハンバーグにサラダという割とありふれた感じの普通の料理だ。ハンバーグにチーズも卵も乗せてないし、お味噌汁も豆腐とわかめ、サラダも一般的な野菜を水洗いしてから、切って並べただけ、隠し味なんかも全く入れていない。強いて言うなら炊飯器がないから、お米だけはレンジでチンしたくらいだろうか。


「それじゃあ、いただきます。まずはハンバーグからもらおうかな……」


 男が以外にもいただきます、と両手を合わせてから、お皿の枚数上大きめのを二人で食べるようにしたハンバーグへと箸を伸ばす。私は不安なのを気取られないように注意しながら、男の反応を窺う。


「ん~! おいしい! 美里ちゃんが僕のために一生懸命コネてくれたハンバーグ、愛情がこもっててすごくおいしいよ!」

「その言い方なんかヤだなー、別に愛情も込めてないし。おいしいって言ってくれるのは素直に嬉しいけど、なんか最初ので結局プラマイゼロだよ」

「えー、だって美里ちゃんが作ってくれた料理だよ? 僕からしたら酸素よりも大事なものだよ。でも、僕はこの世界に美里ちゃんさえいてくれれば酸素も水も食料もいらないけどね!」

「いやいや、さすがにその三つはないと生きていけないよ。お兄さんが生きてられたとしても私が無理だから」


 オーバー過ぎる男からのおいしいという言葉を聞けて、私はホッと一安心。正直嬉しかった。でも、それを男に気づかれるのはなんか癪だったので、私はすぐに顔を少し下に向け、顔を隠した。

 幸い男は「おいしいおいしい! 美里ちゃんの愛はおいしいなー」なんて言いながら私の作った料理を食べ続けている。これなら少し緩んでしまった顔がバレることもないだろう。二つの意味で安心した私は、自分の分の箸を取り、料理へと箸を伸ばした。一口サイズにハンバーグを切って、自分の口元へと運ぶ。


「……ん?」


 ハンバーグを口に含んで私は違和感を覚えた。それは味に対する違和感ではない。材料はいつも通りのものを選んで買ったし、料理の課程だっていつも通りだった。家の調理器具で味が変わるはずもないし―――おかしい。


「いつもよりおいしい……」


 口に含んだハンバーグは、いつにもましておいしかった。さっきも言った通り、料理の材料も課程もなんにも変わってない。変わったところがあるとすれば、調理器具と場所とレンジご飯だけ。でも、それが料理のおいしさに影響を及ぼすとは、とても思えない。レンジご飯はともかく、他の二つは料理人でもない私に大きく影響を及ぼすことはないはずだ。だとすれば何が原因なのだろうか?

 ……そういえば、もう一つだけいつもと違うところがあった。


 それは―――


「あっ、そっか……。私、今まで、誰かのために料理を作ったことも、誰かと一緒にそのご飯を食べたことも、その人においしいって言ってもらえたことも、初めてなんだ……」


 私は家でいつも一人だった。

 朝起きれば両親は仕事に行っている。学校から帰って来れば両親は仕事中。夜寝ようかなって思ったとき、ようやく両親が帰ってくるぐらい。話そうと思って下に行っても「ごめんね美里。お母さんたち明日も早いの。お風呂入ってそのまま寝たいから、話なら又今度にしてちょうだい」、「悪いな美里。母さん、お風呂に行ってくるからその間に簡単な夕飯頼むよ」なんて会話とも呼べない会話だけをかわすだけ。

 もちろんご飯を食べるときも一人だった。朝も一人、お昼も一人、夜も一人。いくら料理の腕を上げても、それを一緒に食べてくれる人がいなかった。

 感想を言ってくれる人なんていなかった。

 ―――最後に誰かと一緒にご飯を食べたのはいつだっただろう。


 もう―――覚えてない


「ん~! やっぱり美里ちゃんのご飯はおいしいよ! 僕はもう死んでもいいね! ……って、美里ちゃんなんで泣いてるの!?」

「……え?」


 気が付けば、私は大粒の涙を流していた。

 男に言われるまで気が付かなかったその大粒の涙は、止めどなく溢れ続ける。それは水を一杯に入れたバケツを真っ逆さまにひっくり返したみたいな勢いで、何度袖で目元を拭っても、どれだけ上を向いても、まるで際限を知らない涙は無尽蔵に溢れ続ける。


「わわわっ!! あーっと、えーっと、は、ハンカチだ!!」


 私が泣いているのを見て、状況が把握できていないなりに男は立ち上がり、あるのかもわからないハンカチを持ってこようとした。

 瞬間、ものすごい鈍い音。


「いったぁーーーっ!!」


 涙で視界が悪いながらもどうにか何が起こったのかを確認した私は、右足のつま先を抑えてゴロゴロとのたうち回る男を目にした。

 どうやら、慌てて立ち上がった時にテーブルの足に自分の足をぶつけたらしい。

 その瞬間、私は笑った。

 さっきまで出てきた涙は笑いによるものからに変わって、今は素直に男ののたうち回る姿が面白い。


「あっはっはっ! な、なにやってんのお兄さん。さすがに面白すぎるよ。動画とってもいい?」

「あれ? 美里ちゃん、元気になってる? って、痛い!! 美里ちゃん止めて! まだ足痛いからつま先触らないで! 本当にお願いだから! 他ならどこ触ってもいいから! むしろ触ってほしいからー!!」

「うわはははははっ!」


 それから少しの間、私は男のことをいじり倒した。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 あれからしっかりとご飯を食べて、なんでいきなり泣き出したのか嫌って程聞かれて、カメラがないことを確認してからお風呂にも入って、男がお風呂からあがってくるのをテレビを見ながら待って、特に意味のない会話をしながら時間を過ごし、気が付けば時計の針が十二時を指していた。


「もうそろそろ寝ようか、もう遅いしね。今日はたくさん遊んだから僕も久しぶりに疲れたよ」

「そう? 私は別に疲れてないよ。確かに眠いけど、そんなに疲れは感じないなー」

「美里ちゃん、それは若さだよ。若さって武器なんだよー。二十歳を超えるとだんだんと身に染みてくるんだ。だから美里ちゃんは永遠に十三歳でいてね!」

「そりゃあ私だってずっと十代でいたいけど、さすがに無理だよ。それこそこの世の常識から変えなくっちゃ」

「それなら僕が変える! 神だろうが、女神だろうが、総理大臣だろうが大統領だろうが倒してやる! そして、女の子の結婚年齢を十三歳まで下げるんだ!」

「うわー……目が本気だ……」


 男の真剣過ぎて逆に怖い目に軽く引きながら、私は男の分の布団を敷いてあげる。


「いやー、でも、同棲二日目にして僕たちも結構いい夫婦になってきたね。美里ちゃんと一日出かけて、美里ちゃんの手料理を食べて、美里ちゃんにお布団を敷いてもらう。もう、僕の夢の大半が叶ったといっても過言だよ」

「過言なの!? どんだけ私にしてほしいことあるのさ!」

「それはそうだよ。僕が今までそれだけ美里ちゃんとのことを妄そ……想像してきたと思ってるの? 今日までの出来事の何百倍でも足りないくらいだよ」

「今、妄想って言おうとしたよね……」

「それに……僕の一番叶えたい願いは絶対に叶わないからね……」


 楽しいやり取りの最中に、ふと、見せた男の寂しそうな顔。

 私にはその寂しそうな顔の意味はわからなかった。


「あはは……変な話しちゃったね。さあさあ、美里ちゃんが僕のために布団も敷いてくれたみたいだし、僕は美里ちゃんの愛に包まれながら寝ることにするよ」

「うわー……お兄さん。さすがにキモいです」

「ひどいなー、僕はこんなにも美里ちゃんを愛してるのに。あと、結構傷つくから敬語は止めてね」

「いらないです。そんな犯罪臭ぷんぷんの愛。敬語は普通にしてくれたらやめます」


 それだけ言って、私はベッドに寝転んだ。


「それじゃあ電気消すね。おやすみ、美里ちゃん。今夜もかわいい寝顔見せてね」

「嫌です。早く寝てください」

「冷たいなー」


 しばらくして、男のすうすうという寝息が聞こえてきた。

 私は今日までのことを振り返る。


 私、花咲美里は昨日の夕方、学校帰りに誘拐された。誘拐犯は古賀雄二という特にこれと言って特徴のない、平々凡々な大学生。いや、大きな特徴があった。重度のロリコン、これは絶対に外せない。

 今の私の現状は、特にこれといって不自由なく生活している。むしろ自由過ぎるくらいに。携帯は帰ってきた。外にも連れてってくれる。いろんなものを買ってくれる。本当に誘拐する気があるのかと問いたいくらいに自由にさせてくれる。

 誘拐場所は不明。駅にも行ってないし、さすがにこの辺りの建物を見ただけじゃここがどこなのかまではわからない。ただ、少し見覚えがあるような気もするので、昔来たことがあるのかもしれない。それを考えると、家からそう離れていない場所。


「今わかっててまとめられる情報っていったらこれくらいかな」


 誘拐初日と特に変わり映えのしない情報。

 昨日と変わったことがあるとすれば、私の心に少しの―――いや、大きな変化があったくらい。

 今日、私は笑って、泣いた。

 しばらくの間本気で笑うことなく、クラスメイトの女の子と話していても、お笑い番組を見ていても、周りのみんなが楽しそうに笑っているときも、愛想笑いだけで乗り切ってきた私が笑った。

 どんな感動的な話を聞いても、どんな悲しい話を聞いても、どんなにつらい目にあっても泣かなかった私が久しぶりに大粒の涙を流した。

 きっと、これは全部男のせい。


 今日、男とずっといてようやく私は気が付いた。

 この男には気を使う必要がない。素直な、そのままな、素の私をしっかりと見てくれている。真正面から受け入れてくれている。

 いつも周りのことを変に気にして、言いたいことがあっても言わない私が、この男にならなんの気も使わないで言いたい放題言える。

 それが何でなのかは今でもわからない。

 ただ、今の私に言えるのは―――この男は誘拐犯だけど今までで一番私を見てくれているということだけ。

 クラスメイト、学校の先生、お父さんにお母さん、近所に住んでいる人たち、その誰よりも私のことを見ていてくれている。そのままの私を見てくれている。

 だからきっと私は、あの男に言いたい放題言えて、好き放題やれるのだろう。


 あの男は今日、本気で私を喜ばせようとしてくれた。

 上手くもないのに嘘までついて、クレーンゲームで何千円もかけてぬいぐるみを取ってくれた。


 あの男は今日、本気で私を褒めた。

 カラオケボックスで歌が上手くなかったでしょ。と言った私に「そんなことないよ。上手かった。それに美里ちゃんが歌いたいように歌えばいいんだよ」と私を褒めて慰めてもくれた。


 あの男は今日、本気で私を怒った。

 私が「誘拐犯なんだから無理やり私に言うことを聞かせたらいいじゃん。って言ったらあの男は「僕は美里ちゃんの嫌がることはしない」って本気で怒った。

 あの時は怒っているとは思わなかったけど、きっとあの男なりに私の考えなしの言葉に怒っていた。


 あの男は今日、本気で私を心配してくれた。

 料理を作って、おいしいって言われたことと、誰かと一緒に食べるご飯のおいしさに感動して涙を流した私を、本気で心配してくれた。


 今日一日、あの男は本気で私に向きあってくれた。


「お兄さんとなら、私は私らしくいられるかもしれない……」


 私は今日一日、息苦しく感じた時間はなかった。

 いつもは家にいても、学校にいても、どこに居たってどこか息苦しさを感じていたのに、今日は全くそれを感じなかった。

 それはきっとこの男のおかげ。

 この男がそれを私に感じさせないようにふるまってくれていたおかげ。


「って、さすがにそれは過大評価し過ぎかなー」


 あれこれ考えているうちに時刻は深夜一時。

 さすがに私も眠くなってきた。


「もうそろそろ寝よう。また明日ね、お兄さん……」


 私は安らかな深い眠りへとその身を任せた。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「ん……んん……まぶしい……朝か……」


 昨日同様、朝のまぶしい日差しに強制的に目を覚ませられる。

 それでもすぐに眠気が消えるわけもなく、私は寝転んだまま重たい眠気眼を擦ろうと、目元に手をやる。


「んん?」


 自分の目元に当たるはずだった手が何か違うものにぶつかった。

 なんだろうと思った私は重たい眼を強引に引き上げる。

 そして私の瞳に映ったのは―――


「……わっ!! び、びっくりしたー……何してるのお兄さん。気持ち悪いくらいニコニコして」


 手が当たっていたのは私の顔の真ん前でニコニコとしてるお兄さんの顔だった。結構ドアップだったので、正直本当に驚いた。人生で一番驚いたといっても過言じゃないかもしれない。って、さすがにそれは言い過ぎか。


「いやね、起きたら美里ちゃんがまだ寝てて、かわいい顔してるなーって思って、少し寝顔を見てたらもっと近くで見たくなっちゃって、気付いたらこんなに近くで。あははは」

「笑い事じゃないから。……念のために聞いておくけど、キスなんかしてないよね……?」

「……」

「なんで黙るの!?」

「あはははは。冗談だよ冗談。さすがに美里ちゃんのファーストキスを知らない間に終わらせちゃおうなんて九割九分九里しか思ってないよ」

「それってほとんど百パーセントなんだけど……」

「中学生なのに九割九部九里の意味がわかるなんてすごいね美里ちゃん」

「嬉しくないよ。それより朝ごはん作ってあげるからどいてよ。顔も洗いたいし」


 朝からとんだびっくりに見舞われた私は、昨日の夜に自分が考えていたことはやっぱり全部間違ってるんじゃないかって思い直しながら、台所へ向かう。

 水道の前に立ち、冷たい水を手に集めて一気に顔に持っていく。冷たくて気持ちいい。

 でも、起きたときにお兄さんの顔が目の前にあったことにびっくりして、眠気は完全に覚めていたので、眠気を飛ばす効果はほとんどなかった。


 昨日買ったばかりのエプロンを首からかけ、まだ慣れない台所に若干苦戦しながら朝食を作り上げる。

 トースト、目玉焼きにハム、レタスにミニトマト、これだけ。

 それなりの量に適度な色合い、これくらいで私的には丁度いい。

 もしお兄さんが足りなそうだったら、もう一枚トーストを焼いてあげればいいだろう。


「お待たせ、足りなかったら言ってね。もう一枚トースト焼くから」

「そんなこと言われたら僕、ずっと足りないって言っちゃうよ? 美里ちゃんの作ったものならどんなものでも、どんな量でも食べ切れる自信があるからね」

「それならそれだけで我慢して、それか食べ過ぎて倒れてくれてもいいよ。その間に私は帰るから」

「つれないなー美里ちゃんは。いただきます」

「いただきます」


 もうまるで自分の居場所のようにお兄さんの前に座って、私は朝食を取った。


 こうして私の誘拐生活三日目が始まった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「そういえばお兄さん大学生だよね? 私は誘拐されてるから学校には行けないとしても、お兄さん大丈夫なの?」


 ふと、そんな考えが頭に浮かんだので、質問してみた。

 私から話しかけられたのが嬉しいのか、お兄さんはニコニコした表情で答える。


「大丈夫大丈夫、単位の計算くらいしてるから。そんなことより、ねぇねぇ美里ちゃん。今日はもっと遠くまで出かけない?」

「もっと遠くって……具体的には?」


 突拍子もないお兄さんの発言にも慣れてきた私は、顔色一つ変えずにトーストを口にしながら、淡々と質問を返す。


「うーんそうだなー。そうだ! 遊園地! 遊園地に行こうよ!」

「……私はべつにいいけど、ホントにお金大丈夫? あとでご飯食べるお金なくなっちゃったとか、私嫌だからね」

「その時は僕が犯罪をしてでもお金を稼ぐよ!」

「いや、もう誘拐って犯罪してるじゃん」

「何言ってるのさ、美里ちゃん。これは誘拐じゃなくて同棲だよ」

「……もういいよ」


 これ以上このブラックジョークにどんな言葉をどう投げつけても、お兄さんはそれを全力で受け止めちゃうんだからどうせ無駄だと悟った私は、言い返すのを諦め、トーストをかじる。


「それで、遊園地っていってもどこに行くの? 私ここがどこなのかすら知らないんだけど」

「そうだねー。やっぱり東京の遊園地がいいんじゃないかな、有名だしね。あと、一応教えておくと、ここは美里ちゃん家の最寄り駅から三駅離れたとこだよ。見覚えない?」

「うすぼんやりと、知ってるかも……ってくらい」

「そっか。まあ、三駅も離れてたらそれなりに距離もあるもんね。仕方ないよ」


 基本的に食材や学校で使うものの買い物くらいしか買い物をしない私は、あんまり隣町なんかのことに詳しくない。電車を使うにしたって、もう少し遠くの大きなデパートのある駅まで行っちゃうからわからない。

 ただ、この辺りを見てなんとなく見たことがあるような気がしたのは、きっと小さい頃にでもこの辺りに来たことがあるのだろう。それか電車に乗っていたときに何か目立つものを見たとか。まあ、正直もうここがどこだとかどうでもいい。


「とにかく、今日は遊園地に行こう! 行きます! もう決めました!」

「はぁー……。どうせ私が何言っても無駄だろうからいいよ。それじゃあ朝食の片づけして、出かける準備したらすぐに出よ。ああいうところって混むんでしょ? 今から行くのですら少し遅い気がするし」

「そうだね。早く出かけよ! よーし! 行くと決まったら早くしよーそうしよう!」

「はいはい。食器片づけてからね」


 私が使った食器を丁寧にまとめていると、昨日は何もせずに、私の姿をニヤニヤしながら眺めるだけだった男が、率先して手伝い始めた。台所から布巾を持ってきて、食事の終わったテーブルの上を手早く拭いていく。

 私が食器を台所で洗っていると、なにやらハンカチやポケットティッシュ、財布などを用意しだし、早くも出かける準備を進めていく。

 どれだけ楽しみなんだろ。


「って、そういう私も結構楽しみだったりして」


 遊園地に最後に行ったのは、たぶん小学生の頃の遠足の時。

 身長制限を考慮した先生たちによる乗り物の厳選、乗る順番、帰る時間なんかを決められていて、自由行動の時間がなかったけど、小学生にとっては楽しい遠足。でも、今思えばつまらなかった遠足。あの時、すでに私は今の私と同じような考え方だったので、きっと楽しめてなかっただろう。

 ただ長いだけの、周りのことを変に気遣わないといけない遠足。ただ場所の変わっただけの学校。今思いだそうとするだけでもつまらない。


 でも、今日は違う。

 今日は遠足なんかでなく、クラスメイトや学校の先生、両親のような変に気を使わないといけない相手のいない、私の好きなように行動できる遊園地。それもタダ。

 心躍らないわけがない。

 私だって、ちゃんと心はあるんだから。

 それを昨日、気づかせてもらったんだから。


「それじゃあ準備もできたし行こうか! 遊園地!」

「おーっ!」

「おっ? 美里ちゃん、さっきは別に遊園地なんてどうでもいいなんて言ってたけど、楽しそうだね」

「うっ……。い、いいじゃん。楽しみにしたって。久しぶりの遊園地なんだから」

「もちろん! むしろ楽しんでくれないと困っちゃうよ」


 お兄さんは私をニヤニヤしながら見つめ、楽しいのはまだ先なのに、楽しそうに言ってくる。そしてその笑顔が少しムカつく。


「あーもう! そんなこと言ってないで早くいこ! 時間なくなっちゃう」


 照れくさくなった私は強引に話を切ろうと、お兄さんを無視して玄関に向かう。


「美里ちゃん。……今日は精一杯楽しもうね!」

「当たり前だよ。お金払って遊園地まで行って、楽しくなかったとかありえないもん。そんなのお金の無駄だよ」

「変なところで現実的だね……。でも、そんな美里ちゃんも僕は好きだよ!」


 今日も楽しい一日になりそうだ。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 あれから私達は最寄りの駅まで歩き、何回かの乗り換えを得て、目的の遊園地までやってきた。

 大きなお城に華やかな装飾、愉快なキャラクターの着ぐるみに、楽しそうなアトラクション。どこを見ても、その全部が私の視界を埋め尽くす。それらを見ているだけで、つい昨日まで心の枯れきっていた私でもテンションが上がった。

 それも、今私の隣にいるお兄さんのおかげだろう。ありのままの私を受け入れてくれるお兄さんと一緒だから、私はこんなにもワクワクしている。

 きっとお兄さん以外の誰と来ても、もし私一人で来ても、こんなに心躍ることはなかったと思う。絶対に途中で電車を降りて家に帰っている―――というか、行こうとすら思わなかったはずだ。


「着いたーっ! どこから行く美里ちゃん!」


 こんなにワクワクしているのは私だけじゃないらしく、お兄さんも目を輝かせながら、まずはどのアトラクションに行くか相談を持ち掛けてきた。案内板を見ることすらも楽しさのあまり忘れてしまっていた私は、周囲をきょろきょろと見まわし、一つのアトラクションを指さす。


「えっとねー。あれ、トロッコシューティング!」

「よーし、早速いこ! 少しでも今日を楽しむために!」

「おーっ!!」


 入口から急いで目的のアトラクションの場所まで来た私たちは、そのままの勢いで列の最後尾に並んだ。しばらくして私たちの番が回ってきて、受付のお姉さんに私とお兄さんの二人分の光線銃をもらった。


「うわー、結構雰囲気もあって楽しみだね美里ちゃん」

「うん。なんか思ってたよりも本格的ですごいね。光線銃もおもちゃ屋さんとかに売ってるような安っぽいのじゃないし」


 私たちがそんなやり取りをしていると、お姉さんがやってきて簡単なアトラクションの説明をしてくれた。簡単にまとめると、トロッコに乗って、四方八方からたくさん出てくる化け物をとにかく二人で協力しながら撃っていく。

 命中した数が光線銃で計算されて、ゴールした時にどれくらい化け物を撃ち倒せたかっていうシンプルなルールらしい。


 説明を聞いて、大体のルールを把握した私たちは、お姉さんの案内でトロッコに乗る。光線銃を撃つのをやりやすくするためか、座るタイプではなく立つタイプ。目の前には呪われていそうな禍々しい感じのお屋敷が上手く作り上げられていた。

 私たちはこれから、あのお屋敷の化け物を退治しに行くのだ。

 私たちが雰囲気を楽しんでいると、お姉さんの「それではハンターさん。よろしくお願いします!」という言葉と同時にトロッコがゆっくりと動き出した。


 目の前のお屋敷の入り口をトロッコが通り、場所がお屋敷の中に変わったと思ったら、トロッコが止まる。どうやら一部屋ごとに止まっていく形式みたい。

 目の前には二階へ続く不気味な階段。右を見れば二つのドアと変な銅像、左を見れば不気味な絵画に穴の開いた床、下はトロッコのレールの部分以外深紅の絨毯。アトラクションとしてはトロッコで移動だけど、設定としては徒歩で移動してるらしい。雰囲気も禍々しくてすごく怖い。


「あ! 美里ちゃん! 化け物が出てきたよ!」

「え!? うそっ!? どこどこ?」

「あそこっ。えいっ!」


 私が化け物を発見できずに周囲を見回していると、お兄さんが見事に化け物を撃ち落とした。どうやら敵の化け物は映像で映し出されるらしい。撃たれた化け物は、変な奇声をあげて消えていった。


「いいなー。私も早く撃ちたい」

「あはははは。結構楽しいねこれ。なんかちゃんと戦ってるって感じがしてすごい楽しいよ」

「次は絶対私が撃つから」


 楽しそうにしているお兄さんを見て、早く撃ちたくてしょうがない私は、光線銃を構えて、とにかくキョロキョロと周囲を見回す。

 すると、どんどんと化け物が湧いて出てきた。コウモリの化け物、骸骨の化け物、何かに乗り移られている人形などなど、たくさんの化け物が姿を見せては撃ち落とされるか逃げていく。

 私はとにかく視界に入った化け物から優先に撃ち落とそうと、光線銃を乱射する。


「美里ちゃん。僕がこっち半分倒すからそっちの半分任せてもいいかな?」

「いいけどお兄さんはいいの? 倒した数が私と大差になっちゃうかもよー」

「僕は美里ちゃんが楽しんでくれればいいからね。僕はそのついでに精一杯楽しむよ」

「じゃあ勝負ね。たくさん撃った方が勝ち」

「面白そうだね。いいよ、勝負だ」


 それから、とにかく私は勝ちを目指して光線銃を撃ちまくった。




「……くやしい」

「はははは。僕もまさか勝てるなんて思ってなかったよ。倒せるまで一匹一匹を狙ってたから本気で美里ちゃんと大差になってると思ったもん。まさか逆になってるなんてね。でも、美里ちゃんもかわいく頑張ってたよ!」

「慰め入らないよ! ていうかかわいく頑張るって何! ……あーっ、くやしーっ!」


 トロッコシューティングを終えた私たちは、次のアトラクションを目指して歩いている。そしてトロッコシューティングの勝敗は聞いての通り、私の惨敗。お兄さんにダブルスコアをつけるつもりが、逆にダブルスコアを決められてしまった。


「絶対に勝てると思ってたのに。お兄さん運動神経とかそういうの鈍そうだし」

「うーん……。あっ、たぶん僕はいつも美里ちゃんのハートを射抜こうと狙いを定めてたからじゃないかな! 暇さえあれば僕はいつでも美里ちゃんのハートを射抜こうと銃を構えてたからね」

「……そういうのいらないから」

「冷たいなー、美里ちゃんは。でもそこがいい!」


 安定のお兄さんのロリコン発言をスルーして、私は気分を入れ替えるべく、次に乗るアトラクションに思いを馳せる。

 だってここは遊園地。コーヒーカップ、観覧車、お化け屋敷、ゴーカート、ジェットコースター、メリーゴーランドとたくさんのアトラクションがあるんだから。


 私たちが次にやってきたのは、遊園地では定番中の定番のお化け屋敷。

 ここのお化け屋敷はどうやら廃病院を舞台にしているらしく、ざっと見たところ外観はボロボロの看板、壊れかけたドア、建物に絡みつく無数のツタといった作り物とは思えない物たちがこの廃病院の不気味さを上手く醸し出している。


「け、結構本格的なんだね……」

「……もしかしてお兄さん。お化けダメな人……?」

「い、いや! そんなことないよ! 今だってお化け屋敷って言ったらかわいい女の子と二人で入って男が頼れるところを見せて、怖がる女の子に抱き着いてもらうってことは、僕は美里ちゃんとくっつくことができるんじゃないかって頭の中でひたすらに考えて、頭の中一杯にしてたところだよ!」


 色々と捲し立てたお兄さんだけど、明らかに怖がってる。

 まず、普通に震えてるし、いつも以上に私に近寄ってくるし、「美里ちゃんが怖いなら手でもつなごうか!?」とか手を震わせて言ってくるし、さっきからしきりに、中でお化けがあんまり強く脅かしてこなくなる有料のお守りを見ている。

 怖いなら怖いって言えばいいのに。そうしたら私だって少しは考えるし。

 まぁ、たぶん、一人でもここに入ったけど。


「怖くないって言ってる割には震えてるんじゃない、お兄さん」

「そ、そんなことないって! これは武者震いだよ! イヤー、タノシミダナー。ハヤクハイリタイナー」


 いつもペースを持ってかれっぱなしでなんだか悔しかった私は、ここぞとばかりにやり返す。お兄さんのオドオドしてるところ見れてすごく楽しいというか、おもしろい。

 あんなこと言ってるけど、今でも私の手をチラチラ繋ぎたそうに見てるし、隙あればお守り売り場の方へと足を向けようとしてる。

 その後結局、三十分ほどで私たちの番が回ってきて、お兄さんはお守りを買うことはなかった。


 中に入って最初は、受付で説明を受けるみたいで、血に濡れたナース服を着た女の人が変な部屋まで誘導してくれた。そこで背もたれのない椅子に二人並んで座らせられ、まず写真を撮ると言われた。

 私たちを椅子に座らせたナースさんは「そのまま座っててくださいね」とだけ言ってカメラの方へ。

 そしてナースさんが「それじゃあ、撮りますね」とシャッターを切った瞬間、私たちを襲ったのはフラッシュの眩い光でなく振動だった。


「あわわわわっ!! 地震! 美里ちゃん! じじじじ、地震だよ! 早く逃げなきゃぁぁぁぁぁああああああっ!!」


 隣に座っていたお兄さんが振動と共に立ち上がり、慌てたように騒ぎながら私の手を引いて逃げ出そうとする。


「お兄さん。今の地震じゃなくて振動……椅子を揺らすだけのギミックだから……」


 今言った通り、今のは地震なんかじゃなくて椅子を揺れすギミックだ。

 たぶんカメラのシャッターを切ると、椅子が揺れるように設定してあったのだろう。


「あはははは。そうだよね。いやー、美里ちゃんを守らなきゃって思って少し神経質になり過ぎてたよ。あははははは……ははは……」


 あの様子は明らかにそんな感じではなかった。絶対に怖がってた。


「それではこの後はお二人でお進みください。もし、途中で抜けたかったりしましたら途中途中に非常口のマークがあるのでそこから抜けるか、お化け役の係員にお声がけください。そうすれば安心して抜けられます」


 ナースさんからの最後の説明が終わり、ここからはお兄さんと二人で進むことになる。と言ってもナースさんの話しだと、一本道で分かれ道なんかはないみたいだし、特に迷子になることはない。

 ナースさんに見送られ、ブルブルと震えているお兄さんを無理やり引っ張ってようやく自由行動。

 最初は廊下。不安定で時々消えたりする明かりを頼りに一本道を歩いて行く。

 そこまではよかった。

 それからというものの―――


「ウワァァァァァァァッ」

「うわぁぁぁぁぁぁぁあああああっ!!!」

「オ……ガガガ……ギギギ……」

「ぎやぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああっ!!!」

「ウゴゴゴゴ……ゴゴ」

「おぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁァァァっ!!!」


 といった具合に、私はお化けよりお兄さんの叫び声の方に驚くことが多かった。

 お化けをみるなり叫ぶお兄さんが、私より先にお化けを見つけることが多く、私がお化けを見るよりも早く叫び声をあげるから、私的にはお兄さんの悲鳴の方が怖い。お化けより怖いのは人間っていうのは、よく言ったものだ。


 それからもお兄さんの叫び声に驚きながら進んでいき、お兄さんの叫び声にお化け役の人の方が逆にびっくりするという面白エピソードも挟みながら、私たちは最後のところまで来た。

 かなり広めの何もない空間に、少し離れたところにはgoalの四文字が見える。

 でも、こういう何もなくて広い場所って―――


「アハハハハ。モウオワリカ。タノシカッタネ、ミサトチャン」


 半ば放心状態のお兄さん。

 あーあ、がんばれ。

 私が心の中でお兄さんにエールを送った瞬間、部屋の中心くらいにいた私たちを血にまみれたナース服を着たナースさんと、メスを持って奇妙な笑い声を上げながらこちらへと後ろから走ってくる何十人というお医者さん。


「あぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 私はお兄さんに強引に引っ張られてゴールまでたどり着くという最後を迎えた。

 腕が痛かった。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 お化け屋敷を出て、お兄さんが落ち着くまで近くのベンチで小休憩を取った私たちは、入り口付近でもらった遊園地の案内を見ながら次にどこに行こうかという話し合いを始めた。


「つ、次はどこに行く? ここからだと……ゴーカートとコーヒーアップ、あとジェットコースターが近いみたい……だけど」

「そうだなー……。ジェットコースター! ジェットコースター乗りたい!」

「おっ! いいね! やっぱり遊園地に来たら絶叫マシーン! ジェットコースターだよね!」


 数あるアトラクションの中からジェットコースターに乗ることにした私たちは急いでジェットコースターのところまで走った。

 楽しい。まだまだ遊園地を堪能しきれてないのに、こんなに楽しい。胸がわくわくして止まらない。こんな気持ちは初めてだった。


 ジェットコースターの列の最後尾に並び、一時間弱。私たちはようやくジェットコースターに乗ることができた。お兄さんと一緒にジェットコースターに乗り込んで、職員のお姉さんの言う通りに安全装置を下ろす。

 少しして、ジェットコースターがゆっくりと動き始めた。


「それでは、恐怖とスリリングな時間をお楽しみください」


 そう言ってくれたお姉さんの姿が徐々に後ろに遠ざかり、急な坂を上り始める。


「もう少しだね。美里ちゃん、怖くない?」

「うーん、正直怖い。高いし、これからすごいスピードで落ちるのかと思うと心臓がバクバクする」

「怖かったら僕に抱き着いてね! 僕ずっと待ってるから!」

「いや、どうやって抱き着くの。安全装置で体動かないのに」

「僕が安全装置を外して美里ちゃんの近くに寄る!」

「死んじゃうから止めて」

「あ、もうそろそろだよ」


 お兄さんとくだらない話をしていると、コースターがもうそろそろ頂上に上りきろうとしていた。横から少し地上を見ると、人がアリみたいに小さく見える。そして私が視線を前に戻した瞬間、視界が一気に下に動いた。

 ものすごい音を立て、多くの風を切りながら絶叫マシーンは坂を下る。しっかりと目を閉じずに前を見ていても、自分が今どこを走っているのかわからない。ぐるぐる回って、直線を駆け抜けて、またぐるぐる回る。怖いという気持ちより、楽しいという気持ちの方が上回った。


「うわーーーーーーーーーーーーーーーっはははははははははっ! ねぇお兄さん! 私ジェットコースター乗るの今日が初めてなんだけど、楽しいね!」


 あまりの興奮に、隣にいるお兄さんに聞こえるかどうかわからないけど話し掛ける。返事はなし。今度は聞こえるように隣を向こうとお兄さんの方へ視線を向けると―――


「いーーーーーーーーやーーーーーーーああああああああああああっ!! ぎゃああああああああああああああああああああああああああっ!! 死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ、死んじゃう死んじゃう死んじゃう! あぎゃああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!」


 いい大人が本気で泣きそうになりながら叫んでいた。


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「もうお兄さんってば絶叫マシーン苦手なら最初にそう言ってよ。言ってくれれば私だって我慢したし、無理して乗ることないのに」


 ジェットコースターを降りて、気持ち悪そうに口元を抑え、顔を真っ青にしながら足をガクガクと震わせているお兄さんの背中を摩りながら、再び近くのベンチに腰掛けた。


「あぁ……美里ちゃんに触れてもらえて幸せだよ。僕、この服と背中一生洗わない……」

「いやいや、汚いから洗いなよ。それに、なにそのアイドルと握手したすごいファンの人みたいな反応」

「僕にとっては美里ちゃんはアイドルみたいなものだからね。そのファンの人とはいい友達になれそうだよ」

「いや、私の想像上の架空の人物だから。それより大丈夫? さっきよりはマシみたいだけど」

「あはは……美里ちゃんエネルギーをもらったから大丈……うっぷ……」


 降りた直後よりはまだよさそうな顔をしてるけど、まだ少し顔色が悪い。吐き気もするみたいで、さっきから何回か吐きそうになっている。今はどうにかなっているみたいだけど、この後も大丈夫かと言われると、少し不安そうだ。


「お兄さん、飲み物買ってきてあげるからお金貸して」

「え……でも」

「はいはい、でももへちまもありません。それに、気持ち悪いなら飲み物飲んだ方がいいよ。別に逃げるつもりないし、飲み物代だけお金くれればいいから。それなら私一人で帰るのも不可能でしょ」


 正直言えば携帯を持ってるし、近所の人に事情を話して、警察でも呼んでもらえばいいからお兄さんの安心できる要素はこれっぽっちもないけど、たぶんお兄さんはこうでも言わないとお金をくれない。

 お兄さんは私のためなら平気で無理をしようとする、そんな気がする。私は別にそんなの望んでないのに。

 それに、お兄さんがこのまま気持ち悪そうにしてるのを見てるのも嫌だ。

 私はお金をもらおうと、お兄さんの前に右手を出す。でも、お兄さんは渋っていて中々お金を渡してくれない。


「はぁ~……くれないなら勝手にもらっちゃうから」

「え!? ちょっと美里ちゃん!?」


 私はお兄さんが財布を入れているズボンの右ポケットに手を入れて、お兄さんの財布を抜き取る。そして、お兄さんに取り返されないようすぐに財布の中身から千円を抜き取った。


「それじゃあ千円持ってくね。ちゃんとここで待っててよ? 居場所わかんなくなっちゃうから」


 私はそれだけ言い残して、お兄さんを置いて近くの売店に向けて走った。



「えーっと……確かこの辺に……あった!」


 お兄さんと別れて、ジェットコースター乗り場に行く途中に見ていた、とても薄い記憶を頼りに、私は売店を探す。そして合っているかもわからない記憶を元に、私はどうにか売店にたどり着くことができた。


「うわー……やっぱり結構混んでる……」


 遊園地なんかでは売店やトイレが混んでいるイメージはあったけど、思ってた通り売店は混んでいた。私が最後尾に並んだ時点で前に十人以上の人が並んでいた。それでもここか、レストランくらいしか飲み物を売っている場所がない遊園地では、少し時間がかかっても妥協するしかなかった。

 心の中でお兄さんにもう少し我慢しててね、と声を掛けて、私はちょっとした行列に並び、自分の番が来るのを待つ。


「よし、飲み物買えたし早く戻らないと。もうお兄さんと別れてから十分以上たってるし、お兄さん心配してるよね」


 携帯で時計を確認して、あまりにも時間が経っているのに驚きつつ、私はお兄さんの元へと走った。息を切らしながらも自分の出せる精一杯のスピードで、飲み物を零さないように細心の注意を払いながら。

 そして、お兄さんの元へと帰る途中、私は変な男三人組に話し掛けられた。


「ねぇねぇ、君、一人? よかったら俺らと遊ばない?」


 最初に話し掛けてきたのは、三人の真ん中を歩いていた金髪でトゲトゲ頭の、ドラマなんかでいろんな女の人に声を掛けて、遊んでる感じのなんかチャラい人。


「そうそう、一人よりみんなの方が楽しいよー。ちゃんといろいろ俺らが奢るしさ」


 次に話しかけてきたのは、色々と服を着崩してるヤンキーみたいな人。眼も鋭くて、身体つきも結構いいみたい。この中で一番力がありそう。


「俺ら大学生なんだけどさ、君は? 小っちゃくてかわいいけど高校生? 学校は? もしかしてサボり? それとも創立記念日とかいうやつ?」


 最後に話し掛けてきたのは、ぽっちゃりとしていて色々と大きな人。ぽっちゃり、なんてかわいい言葉を使ったけど、顔はすごい怖い顔をしていて、正直目も合わせたくない。力も結構ありそうで、捕まったらもう逃げられなさそう。


 誰も彼もお兄さんとはかけ離れていて、同じ大学生とは思えないほど怖い顔をしている。笑顔で話し掛けてきてるけど、お兄さんの気持ち悪くても温かみのある笑みなんかとは比べ物にならないくらい怖い。

 いや、怖いなんて言葉じゃ足りない。下卑た笑い。というのがきっと正しい。


「あ、あの、人を待たせてるんで。ごめんなさい!」


 このままじゃマズいと思った私は、強引にこの場から逃げてしまおうと、言葉と共に男たちの脇を抜けるように走りだした。でも、ここまで全力で走っていた私よりも、ずっと歩いていたはずの男たちの方が体力は残っていて、すぐに追いつかれて腕を掴まれ、囲まれてしまった。


「なんで逃げるのー? 俺ら君になんかした? してないよね?」

「そうだよ。俺たちは君が一人で寂しい思いをしてるんじゃないかなーって心配になって、わざわざ声を掛けてあげたってのにさ、それはないんじゃない?」

「そうそう。どうせ待たせてる人って同い年の彼氏かなんかでしょ? でもさー、遊園地で女の子一人で歩かせてるような冷たい彼氏よりー、俺らと遊ぶ方が楽しいよー。高校生なんかと違ってお金持ってるしー、いろんな遊びも知ってるしねー」


 腕をつかまれ、囲まれて、逃げ道も塞がれて、どうしようもなくなった私は声を出そうと口を開ける。


 ―――でない。


 怖くて声が出ない。

 口を開けても、唇がプルプル震えるだけで声が出てくれない。せめて目線だけでも助けを求めようと、男たちの隙間から周りの人たちに目で助けを求める。でも、私は助けを求めて絶望した。

 みんなこっちを見てる。私が困っているのをしっかり認識している。助けられる距離にいる。助ける理由だってある。明らかに様子がおかしい光景だってわかってる。

 それなのに……それなのに……誰一人として私を助けようと動き出してくれる人はいなかった。スタッフの人や、警備員の人を呼んでくれる気配もない。中には見て見ぬフリをして、逃げるように去っていく人もいた。


「あっれ~、どうして震えてるのー? あ、もしかしてトイレ? 俺らが案内してあげるよ。俺らさっきトイレ見たし」

「お? あっくん、かっちょいいっ! チョー親切! 優しさの塊ーっ!」

「こんな親切な俺らに会えて君マジでラッキーだよ。さ、トイレ向こうだから行こー」


 最後の最後まで諦めずに私は周りに助けてほしいと、目で訴える。でも、現状は良い方向には変わらず、ただただ悪い方向に進むのみ。男たちに囲まれ、腕をつかまれ、怖くて声を出すこともできず、ただ恐怖と不安に体を震わせる。

 だからせめて少しでも不安を忘れられるように、恐怖から目を反らすように、現実から逃げるように、私はゆっくりと目を閉じた。


 あぁ……もうダメなんだ……。


「ま……待て! みみみ、美里ちゃんから手を離しぇ……っ!」


 絶望が心の中を満たしそうになる寸前、聞き覚えのある暖かい声に、目を開いた私は目を疑った。だってそこには、私を待ってくれているはずのお兄さんが立っていたから。

 自分とはまるで正反対の生き方をしている男三人を前に、声を震わせ、体も震わせ、どう見たってやせ我慢だってわかるくらいに腰が引けている古賀雄二が立っていたから。


「あぁっ!? なんだてめーっ!」


 ヤンキーっぽい男がドスを利かせて、お兄さんに言い放つ。


「びょ、僕は……美しゃとちゃんの……お兄ちゃんだ……っ」

「あんだと……? この子の兄貴だーあ? はあ~……なぁなぁお兄様よー、いい年して妹離れもできてないわけ? 正直キモイっつーの!」

「あー、キメーキメー。シスコン兄貴キメー。ってか、妹がいい男三人に誘われてるの見て邪魔するってマジ意味不だわ」


 男三人組がお兄さんをバカにするように貶し始める。言葉の暴力で、その人の気持ちや尊厳すら踏みにじって、まるでその人に存在する価値はないみたいなひどい言い方で、お兄さんを罵った。


「い……いいから、美里ちゃんからその汚い手を……離せ!」


 ドスの効いた汚い言葉に、お兄さんが震えた声のまま言い返す。

 私のために、私なんかのために……。

 お兄さんが勇気を振り絞って私を助けようとしているのを見ても、周りの人たちは動こうとしない。まるでなにかのパフォーマンスを見ているように、目の前で起きている事をただただ他人事のように見つめている。

 それはまるで劇を見ている観客のように。今自分たちが見ているのは何かの劇なんだというように。実際は劇なんかじゃ全くなくて、演技でも何かのアトラクションでもなくて、たまたま起きてしまった不幸な偶然なのに。周りの人たちだってそれをわかっているはずなのに。

 なんで動いてくれないの―――


「う……うわーぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 お兄さんが情けない叫び声のような声を上げながら、私を囲んでいる男三人に向かって突貫した。今まで一回も喧嘩をしたことがないようなお兄さんが、どちらかと言えばいじめられてたりしそうなお兄さんが、きっと自分とは真逆で一番関わりたくないような人たちに、私のために立ち向かってくれている。


「うっわっ。うわー、だって。だっせー、それでも男かよ」

「情けねえ奴。おい、やっちゃおうぜ。キモイしウザいしさ」

「そうだな。そーれっ!」

「うっ……」


 なんの策もなしに突貫したお兄さんは、喧嘩慣れしていないのもあって、すぐに太った男に蹴り飛ばされて、うめき声を上げながら転んでしまった。


「少し社会ってやつを教えてやるよ。これも社会勉強ってやつだ。次のテストに出るからしっかり覚えとけよ。あははははははは」

「おらっ! そらっ! どっせい!」

「お前ら、好き放題やるのは勝手だけどよ、殺すなよ」


 私の腕を掴んだまま離さない男が、他二人にそんな自分勝手なことを言う。


「大丈夫ですって。俺らはこいつに社会ってやつを教えてやってるんですよ。妹とは結婚できないとか、そんなん」

「そーそー。あっくんだってこいつキモイしウザいでしょ。俺らがいろいろやってあげたら顔面整形が上手くいくかもよ」

「なんだよそれ、めっちゃおもれー」


 社会勉強とか言いながら、ヤンキー風の男と太った男が、無抵抗の丸まったお兄さんを一方的に蹴り倒す。

 お腹を、お尻を、横腹を、脇を、頬を、顔面を、足を、膝を、ありとあらゆる場所を一方的に蹴り続ける。そうかと思えば頭を思いっきり踏んだり、手を踏みつぶそうとグリグリしたり、それは本当に一方的な暴力で、暴虐だ。

 言葉の暴力と、身体的な暴力。罵られ、蹴られ、罵られ、蹴られの繰り返し。

 人を人とは思わないような悲惨な光景が、目の前で繰り広げられている。


「うっ……げほっ……ぐはっ……がはっ……」


 お兄さんが殴られる。蹴られる。罵られる。バカにされる。顔はもう痣ができるほど殴られていて、口元はもう血だらけ。服ももう男たちの靴の泥まみれで、汚れに汚れてる。

 助けに入りたくても、リーダーっぽい金髪の男に腕を掴まれて動けない。周りの人たちも、ただの観客。


 もう、見ていられなかった。


「もう……もうやめて!」


 気が付けば私はそう叫んでいた。

 傷付くお兄さんが見ていられなくて、私なんかのために頑張るお兄さんの姿を見ていられなくて、どんどんボロボロになっていくお兄さんを見ていられなくて、私はそう叫んだ。叫ぶしかなかった。それしかできることがなかった。


「わ、私は一緒に行くから……ひっく……その人には何もしないで……。これ以上……何もしないで……」


 涙を流しながら私は男たちにお願いした。

 いや、懇願したって言った方が正しいのかもしれない。

 私は無力だ。


「マジ? やっと俺らのかっこよさと優しさに気付いた?」

「ちょっとカッコいいとこ見せすぎちゃったかなー。な?」

「あー。俺らはちょっと社会勉強を教えてあげただけなのにな。俺らってチョーいいやつ」


 男たちが調子のいいことを言い始める。でも、今はそんなのどうでもいい。これ以上お兄さんが傷付かなければそれで……お兄さんが助かればそれでいい。

 私はもう、色々なものをお兄さんにもらった。私は何も返せないのに、お兄さんはたくさんのことを私に教えてくれた、思いださせてくれた。

 灰色の世界を色めかせてくれた。

 もう、それだけでもまんぞ―――


「は……はな……せ……」


「……アッ……!」


 お兄さんが太った人とヤンキー風の男のズボンを掴んだ。まるで逃がさないとでもいうように。


「アッ……!」


 ヤンキー風の男がお兄さんをにらみつける。一瞬ひるんだように見えたお兄さんは、すぐに軽く首を横に振り、見たこともないような形相で相手をにらみつけた。


「お前らなんかに……美里ちゃんは……渡さない」

「てめーっ! なめた口きくのもいい加減に―――」


 男が腕を振り上げる。


「コラーっ!! そこの三人組! 止めなさーい!!」


 遠くから声が聞こえる。

 涙でゆがむ視界の中、私は少し離れたところから走ってくる警備員の人を見た。

 遅い。


「やべっ! こんな野郎に時間かけ過ぎた。にげるぞ!」

「オッケー!」

「待ってくれよー」


 男たち三人が、いとも簡単に逃げていく。

 さっきまで離そうともしなかった私の腕を迷わずに離し、自分のことだけを考えて逃げ出した。

 でも、そんなことよりも、私は思う。


「遅い……遅すぎるよ……」


 助けが来るのが遅すぎる。

 そう、思わずにはいられなかった。

 目の前には傷だらけのお兄さん。体だけでなく、心もボロボロのお兄さん。

 周りの人たちが早く助けを呼んでくれれば、こうはならなかったのに。

 誰かがお兄さんを手伝ってくれれば、もっと簡単に終わったのに。


 いや、違う。


 私が調子に乗って、お兄さんのためとか言って、お兄さんから離れてしまったから。一人になってしまったから。


 私のせいだ……。


 私のせいでお兄さんが傷付いた。


 私のせいで―――


 私は自分のことが前以上に嫌いになった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 あれから数時間が経過した。


 あの後私たちは、警備員の人に事情を尋ねられ、お兄さんはすべてのやる気を使い果たしたのか眠ってしまっていたので、私が全部答えた。もちろんお兄さんは誘拐犯だけどそのことは隠し、私のことも適当にぼやかして話した。色々あって混乱していたけど、上手くごまかしながら話せたと思う。

 その後はスタッフさんたちのご厚意で、スタッフさんたちの休憩スペースでお兄さんが目を覚ますまで眠らせてあげた。


「私のせいで―――私のせいで―――私のせいで―――」


 何度も同じ言葉をつぶやく。心の中で反芻する。

 私のせいでお兄さんが傷付いた。

 その事実が目の前にあって、眼を背けることすら許されない。

 お兄さんの体は酷くボロボロだった。

 顔はほぼ全体痣だらけ、お腹も青くなっているところが多く、命に関わるようなケガこそしていないものの、全身痣と打撲でひどいありさまだった。その様子がひどく痛ましげで、涙が止まらない。

 私の服の袖は、もうびしょびしょだった。

 誰かのために泣いたのはいつぶりだろう。……いや、泣いたのはいつぶりだろう。

 最近は感情を押し殺していたから、全然覚えていない。

 本気で悲しんだのも、本気で嬉しかったのも、本気で辛かったのも、本気で喜んだのも、本気で泣いたのも―――全然覚えてない。

 本気で笑ったのだって、本当に昨日が久しぶりだった。


 あれからどれだけの時間が経ったんだろう。

 ずっと一人で泣き続けて、いよいよ出す水も無いと体が言い始めた頃、ふと、そんなことを思い、時計を探した。首を少し動かした位置に時計はあって、針は夕方の五時を指していた。

 窓を見れば、さっきまで白い光だったはずなのに、少し光に赤みが増していた。私たちが休憩室に来たのが午後過ぎだったから、かれこれお兄さんはもう数時間は意識を失っている。

 そう思うと、もう出てこないはずだと思っていた涙が再び溢れ出す。

 手をグーにして、たくさんの感情を必死に抑え込む。助けてくれなかった周りの人への怒り、あのチンピラ三人への怒り、他にも色々あったと思う。それを私は心に必死に押しとどめた。

 だって、元の原因は―――私なんだから。


 目から出た涙は重力に逆らうことなく私の頬を伝い、行く道を失えばさらに下を求めて落ちる。落ちた涙の行く先はお兄さんの顔の上だった。

 はっとした私は、急いでもう涙を吸いすぎて、雑巾みたいに絞れば涙が絞れるんじゃないかってくらいにびしょびしょの袖で、目元を拭う。


「……美里ちゃんの涙……しょっぱくておいしいね……」


 声がした。

 小さくて、聞くつもりがなかったら聞き逃してしまいそうなほど小さな声だけど、確かに声がした。周囲を見回しても、今ここで休憩しているスタッフさんはいない。

 ここにいるのは私とお兄さんの二人。ということは……。


「お兄さんっ!!」


 私は思わずお兄さんに抱き着いた。

 この人が誘拐犯だとか、ロリコンだとか、そんなことは関係ない。

 私は自分の意志で、自分の選択でお兄さんに抱き着いた。


「おおっ! 美里ちゃんの方から僕に抱き着いてきてくれた! ……ああ~美里エネルギーが僕の体を満たしてく……」


 私はさっとお兄さんから離れた。


「あれ? もう終わり? もう少し二人の愛を確かめ合おうよ。美里エネルギーを補給させてよー」

「いやです、無理です、お断りです。起きてくれた時は本当に嬉しくて抱き着いちゃったけど、そんなこと言われたら流石に私だって引きます。一生ものの愛だって一瞬で覚めます」

「えー、そんなことないと思うけどなー」


 お兄さんは笑った。

 絶対に体中痛いはずなのに、笑顔で居られるような状況じゃないのに、やっぱり、お兄さんは笑った。

 私が謝ろうとすると、お兄さんはそれを悟ったように首を横に振って、また笑う。そして、私がわからないとでも思ったのか、改めて口にした。


「大丈夫だよ。全然気にしてない。美里ちゃんは悪くないもん。だからいつも通りの美里ちゃんいてよ。いつも通り、さっき僕が起きたときみたいなことを言ってよ」


 そう言って笑った。私はその笑顔にまた救われた。お兄さんが無事だという証明の笑顔と、お兄さんが私を許してくれたという笑顔に救われた。

 だから私は、せめてお兄さんのお願い通りに、なるべくいつも通りにしようと思った。


 お兄さんは、笑顔というたった一つの表情で、私に色々と伝えてくれる。

 さっきまであんな暗く濁った感情が私の中で渦を巻いていたのに、それを浄化するように笑うお兄さんを見て、私は素直に尊敬した。

 それは、私には絶対にできないことだから。

 辛いことから目を逸らし、耳を塞いで逃げてきた私にはできないことだから。だから尊敬し、同時に憧れた。どんなことがあっても笑顔で許せるお兄さんをすごいと思った。


 いつまでもこうしてるわけにはいかないと、私が目元に溜まったままの涙を袖で拭うと、お兄さんは上体を起こした。


「それじゃあ行こうか。外の明るさ的に夕方だよね。まだまだ遊ぶ時間あるよね?」

「な、なに言ってるの!? お兄さんケガしてるんだから安静にしなくちゃダメだよ! 今日はこのまま家に帰るよ!」

「そ、そんな~……。せっかく美里ちゃんとのデートだよ? あんなことがなかったら笑顔で終われた一日だよ? それなのに、辛い思い出で締めくくりたくないよ」

「そ、それはそうだけど……」


 お兄さんの言うことも一理ある。

 私だってあんなことを遊園地の思い出にはしたくない。

 もっと……さっきのことなんてなかったって思えるような、すごい思い出は欲しい。せっかくの遊園地の思い出にしては、さっきの出来事は嫌すぎる。

 それに、お兄さんにいつも通りにしてて、と言われたからには、私もそうしたい。いつも通りに返事をしたい。

 でも……でも……


「やっぱりダメ! ケガしてるんだから絶対安静!」


 確かにあんなことで今日の遊園地を終えるのは嫌だけど、元はといえば私が自分勝手に行動して招いた結果があれだ。お兄さんが許してくれたといっても、お兄さんにケガをさせちゃって、嫌な思い出を作っちゃったのは私の責任だ。事の発端である私が、被害者のお兄さんに無理強いをすることはできない。

 それがいくら、被害者であるお兄さんの頼みであっても、私は心を鬼にして、譲れないところは譲らないようにしないといけない。それが、今の私にできるお兄さんへの最大限の償いだ。


「んー、美里ちゃんは頑固だなー……」


 お兄さんが、やれやれといったように顔をしかめる。そしてすぐに何かを思いついたのか、口を開いた。


「それじゃあ最後に観覧車に乗ってこうよ!」

「観覧車?」

「そう、観覧車!! 観覧車なら乗って座って景色見て話しするだけだし、遊園地の定番だし、恋人たちが最後に乗るアトラクションって言ったらやっぱり観覧車でしょ!」


 お兄さんの言う通り、観覧車なら乗ってしまえば座って景色を見つつ、話をしているだけでいいし、体に負担がかからない。そして、いつも通りの私は観覧車に乗りたいと思っている。お兄さんの提案は、いつも通りいるように言われた私と、ケガをしているお兄さんの妥協点にも思えた。


「確かに観覧車なら体にも悪くないかも……」


 気が付けば私は、そう口にしていた。


「でしょでしょ! 乗ろう乗ろう!」

「……わかった。でも、観覧車に乗ったら絶対に帰るからね」

「うんうん。それでいいから!」

「あと、私たち恋人じゃないからね」

「わかってるよ。夫婦でしょ?」

「違うから。誘拐犯と被害者だから」

「もー、美里ちゃんは照れ屋なんだからー」


 その後私たちは、スタッフさんにお礼を言ってから観覧車へと向かった。

 さっきお兄さんが言った通り、遊園地の最後のアトラクションといえば観覧車、みたいな考えの人は多いようで、観覧車の前には結構な人たちが並んでいた。


「やっぱり混んでるねー。しかもカップルばっかりだ」


 長蛇の列を見て、お兄さんが言う。

 お兄さんのいう通り、列に並んでいる人のほとんどカップルだ。もちろん全員が全員というわけじゃない。中には女の子同士や、家族で並んでいる人もいる。でも、列の中の八割はカップルが占めていた。


「ここに並んだら、僕たちもカップルに見えるよね?」

「それじゃあ帰ろう。結構列長いみたいだし、お兄さんの体も限界だろうし」

「ごめんごめん。許して美里ちゃん!」


 お兄さんの軽口に、回れ右で答える私。それを引き留めるお兄さん。


「冗談だよ。いつものお返し」

「それじゃあ今度は僕がお返しするね」

「いや、しないでよ」


 くだらない会話をしながら時間をつぶして、三十分を少し過ぎた頃にようやく私たちの順番が回ってきた。


「気を付けてお乗りください」


 係員の注意を右から左に流しながら私はケガをしているお兄さんを気にしつつゴンドラに乗り込む。


「美里ちゃん美里ちゃん! 一番上まで言ったらキスしようね」

「嫌です」

「つれないなー」


 そういいながら、まるで何事もなかったように笑うお兄さんを見て、私は改めてすごいと思った。私なら絶対にああいう風にはできない。すぐに家に帰って部屋に籠って一人になって、ずっと一人でいることを望んだと思う。実際さっきの私はそれを望んでいた。

 それなのに、お兄さんは自分のことなんて二の次で、私を笑わせようと、今日という日をいい思い出で終わらせようと、必死になっている。そして実際、私はその笑顔に救われている。


 なんで、私なんかのためにここまでしてくれるんだろう。

 ただ好きだからって、ここまでできるものなんだろうか?

 できたとして、私にお兄さんに愛される資格なんてあるんだろうか?

 いつもの私が、そう私に呼びかける。


「……ねえ、お兄さん」

「なーに、美里ちゃん? 頂上はまだまだだよ?」

「……なんで私なんかを好きになったの?」

「……」


 堪え切れずに吐き出してしまった私の質問に、お兄さんはいつものように笑って、冗談めかした返答をしようとして、口を閉じた。

 そして、私の真剣な表情を見て、お兄さんの顔も真剣なものに変わった。


「……美里ちゃんだから……」

「……え?」

「美里ちゃんだから、僕は美里ちゃんを好きになったんだよ」

「意味わかんないよ……。それに、私にはお兄さんに愛される資格なんてないよ」

「資格……?」

「うん、資格……。今日だって、私が調子に乗らなかったらあんなことにならなかった。遊園地に行くって言われたときにしっかりと断ればよかった。それなのに、私はお兄さんの私への好意を利用して甘えてたんだ」


 そう。私はお兄さんに甘えてた。

 私のことを好きだ好きだと言ってくれているお兄さんに甘えてた。

 お兄さんの好意を利用して、お兄さんが誘拐犯だから私には強く出れないということを利用して、お兄さんが酷いことができない人だってわかってて利用してたんだ。

 こんなにしっかり私を見てくれている人を、私は利用したんだ。


「……そっかぁ~。僕甘えられてたのかー! 美里ちゃんに甘えられるとか嬉しいなあ! 顔がゆるんじゃうよ~」

「へ……? 何言ってるの?」

「あー、あとね美里ちゃん。愛されるのに資格なんているのかな?」


 私の質問に答えることなく、お兄さんは話を進める。


「僕は愛するのも愛されるのにも資格なんていらないと思うんだ」

「いるよ……。愛される資格がある人と、そうでない人がいるから、みんな周りにいる人の数が違うの」

「周りにいる人の数?」

「うん。周りにいる人の数。……例えば、いつも悪いことばっかりやってる人と、いつも良いことしてる人、お兄さんはどっちと友達になりたい?」

「そりゃあ、いつも良いことしてる人だよね」

「そうだよね、私だってそう。もう、言いたいことわかったよね? いつも良いことばかりしてる人は、良いことをしてるからみんなに愛されるの、その資格があるの。だから自然と人も集まる。……でも、悪いことばかりしてる人は、悪いことばかりしてるから愛される資格がないの。だから人も集まらないし、近寄りたがらない。資格がないから愛されちゃいけないし、愛されないの」


 自分の中に確かにあった考えを、自分自身整理しながら言葉にして紡ぐ。

 私は生まれて初めて、自分の考えを他人に主張した。


「私みたいに一人で勝手に舞い上がって、誰かを傷つけてるような人には愛される資格がない。資格がないから私はお父さんにも、お母さんにも愛してもらえない。愛してもらえないから、二人は仕事ばっかりで私のことなんて気にしてくれない。愛してくれない。そのくせ愛されてる人を見ると、イライラして冷たく当たっちゃう。だから私は友達がいない。できない……。わかってるなら愛されるようになればいい、そう思った時期も確かにあったよ。

 けど……無理だった。

 私はお母さんへの甘え方も、お父さんへのお願いの仕方も、友達の作り方さえ、もう……わからなくなっちゃってた。気づいた時にはもう手遅れだったんだ。そんな私だから、愛されてない私だから、今もお兄さんの隣にいる。探し出してもらえずに……ここにいる。でも、そこでさえ私は……」


「んー……」


 私の話を聞いて、お兄さんは顎に手を当てて少し考え込んでから口を開いた。


「僕は美里ちゃんの考えは違うと思うな」

「なんで……?」


 お兄さんの言ってる意味が分からずに、すぐに私は聞き返した。


「だって、そんな資格はやっぱりないもん」

「あるよ……」

「ううん、ないよ。人を愛するのにも愛されるのにも資格なんて必要ない」

「どうして……?」

「だって、悪いことしたから愛されないっておかしいじゃない。誰だって大なり小なり間違っちゃうことはあるよ。例えば、美里ちゃんの友達が万引きしちゃって、理由を聞いたら貧乏で今日食べるものもなかったの。って言ったら、美里ちゃんはその友達は万引きしたから悪人で、もう愛されちゃダメって言うの?」

「そ、それは……」


 私が答えに困っていると、お兄さんはさらに続ける。


「それに、なんの事情もない人が万引きしたとしても、僕は同じだって思うな」

「そ、それはないよ! だって悪いことしたんだもん! 罰は受けなきゃ!」

「そうだね。罰は受けないといけない。でも、それと愛されちゃいけないこととは話が違うよ。だって」

「だって……?」

「人を好きになるのに、必要なものなんて何もないんだもん」


 お兄さんは、私を間違ってると責めるでもなく、バカにするでもなく、小さい子を諭すように、笑いながらそう言った。

 お兄さんはさらに言葉を続ける。


「誰かを好きになるのに資格なんていらないよ。だって勝手に好きになっちゃうんだもん。気が付いたら好きになっちゃってるんだもん。自分の思いも考えも全部無駄にして、どうしようもなくなっちゃうんだもん」

「え……?」

「相手がどんなにかっこ悪くても、どんなに酷い性格でも、みんながみんなその人のことを嫌いだって言っても、自分がその人を好きになっちゃったらそれはどうしようもないんだよ。本人にも、周りにも。……この際だから話すけど、僕、美里ちゃんに友達がいないことも、ご両親とうまくいってないことも知ってるんだ。ずっとストーカーしてたから……」


 私は驚いた。私を誘拐するくらいだから、行動を把握するのにストーカーくらいはしてると思ってたけど、まさか私に友達がいないことや、両親との仲まで知られているとは、正直思ってもなかったからだ。

 驚く私を前に、お兄さんはさらに続ける。


「でもね、美里ちゃん。僕はそんな美里ちゃんが好きなんだよ。好きで好きでたまらなくて、誘拐しちゃうくらいに好きなんだよ。そんな僕に美里ちゃんは、私は愛されちゃいけない人だから嫌いになってって言うの?」

「……言う。言うよ。だって私は愛されちゃダメだから」

「じゃあ、僕はそれを聞きません。だって、誘拐をしちゃうような悪い人だから!」

「へ?」


 お兄さんのあまりにも酷い暴論に、私は呆気を取られる。


「美里ちゃんの言い方だと、悪い人は愛されちゃいけないんだよね? なら、誘拐犯の僕も愛されちゃいけない。でも、愛しちゃいけないとは一言も言ってないよね? だから僕は美里ちゃんを愛しちゃう。それに僕は、悪い人でも愛されていいと思うから、愛されるようにも頑張っちゃう」

「そんな屁理屈……」

「屁理屈だって理屈だよ。それに、愛しちゃいけないとは、ホントに美里ちゃんも言ってなかったでしょ。だから、僕は美里ちゃんを愛しちゃう。美里ちゃんも、すぐに愛してほしいとは言わないけど、まずは支えあうくらいのことはしようよ」

「……支えあう?」

「そう、支えあう。僕たちは良い人悪い人の括りの前に、一人の人間だもん、助け合わなきゃ。よく言うでしょ? 人と人は支えあってって、あれ」


 お兄さんの言う通りよく聞く話だ。

 人っていう字は人と人は支えあってできている。だから人は一人では生きていけないって話。


「だから僕に美里ちゃんを支えさせてよ。嫌だって言っても勝手に支えるけど」

「それじゃあ意味ないじゃん。それに人っていう字は片方の人が持たれかかってて、この世には楽してる人間と苦労してる人間がいるって話もあるよね」

「あちゃ~、知ってたんだその話」

「たまたまだけどね」

「でも、僕は美里ちゃんを支えるよ」

「なんで……?」

「美里ちゃんが好きだから。美里ちゃんが可愛いから、美里ちゃんが愛らしいから」


 さっきから何度目かわからないお兄さんの暴論に、私はつい笑みをこぼした。

 お兄さんと話していると、自分がクヨクヨしてるのが馬鹿らしくなる。

 そして、羨ましくもなる。

 あんなに自分に素直になれるお兄さんに、嫉妬する。


「お兄さん」

「何? 愛の告白? 僕の言葉を聞いて考えを変えてくれたのかな? ああ、でも、そういうのはやっぱり男の僕の方から言いたいような……。でも、美里ちゃんからってのもありだよね。ん~……。それに観覧車ももうそろそろ終わり出し、やっぱりこういうのは定番だけど一番高いところで……。うん、美里ちゃん! その言葉ちょっと待って、もう一回観覧車に乗って、頂上で二人の言いたいことを言おう!」

「……。あははははははっ! バカじゃないのお兄さん。私がお兄さんに愛の告白なんてするはずないじゃん。考えが変わるのだってそんなにすぐは無理だよ。あと、もうあんな長い列に並びたくない」

「えーっ、美里ちゃんひどいなー」


 さっきまでの暗い雰囲気や気分は、どこかへ旅行に出かけてしまったようだ。

 いや、お兄さんが無理矢理出かけさせたって方が正解かな。


 そうこうしている内に残り少ない観覧車の時間は終わり、私たちのゴンドラの扉がもう少しで開こうとしている。

 そんな時、お兄さんがいつになく真剣な顔で言った。


「美里ちゃん……。さっきも言ったけど、今は美里ちゃんは美里ちゃんの考えでいいよ。でも、忘れないでほしい。みんながみんな美里ちゃんを見てない、愛してないなんてないこと」

「……そんなに大事に私を見てくれるのは、お兄さんだけだよ……」


 お兄さんの真剣な言葉に、私は今の私の思いを言った。

 そして、さっきまで愛されちゃいけないとか言っていたのに、何を思ってるんだと思われるかもしれないけど、こう思ってしまった。


 ―――お兄さんになら愛されたい―――


 かもしれない、と。


 その答えが固まる前にゴンドラの扉が開き、私たちは観覧車を後にして、そのままの足で遊園地も後にした。


 楽しい一日だったとはとても言えないけれど、思い出に残るいい日では確かにあった。

 そう思える一日だった。


サブタイトル通りこれは前編です。

後編も完成しておりますので、今日の午後には投稿します。

本来なら短編として一本にしたかったのですが、文字数制限に引っかかったため前後編に分けました。


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