第3話:九(後編)
その日はよく澄んだ夜でした。空は深い漆黒に染まり、大粒の真珠のような月がぽっかり浮かんでいました。
雲も殆どなく、時折鳥のさえずりのような風が私の髪を揺らして去っていきました。私は弁当箱ほどの大きさの包みを抱えながらあの子が来るのを待っていました。
春にあの子と、はなと出会ったあの桜の並木道。薄桃の色はもう影も形も無いけれど、ついふらりと立ち入りたくなるような静けさは今でも変わりません。
私は並木道の隣に流れる川に映った月を眺めていました。時折後ろをちらちら振り返りながらはなが来るのを待っていました。
私は楽しみと焦りで落ち着いていられませんでした。
「お待たせ、ルナ!」
りんと、鈴が鳴るような声がしました。振り向くと、そこには小さな包みを抱えたはながいました。走ってここまで来たようで、はなは息切れしながら私の隣にやってきました。
「遅くなっちゃってごめんね。舞踊のお稽古から抜け出すのに手間取っちゃって」
はなは笑いながらそう言いましたが、表情はどこか陰っているように見えました。
ふと、はなは私の持っている包みを指差して言いました。
「ところでルナ、それ、どうしたの?」
「ああ、これ?」
私が包みを開くと木の箱が出てきました。私は箱の蓋を開けました。白くまあるいお餅が四つ、それをスッと貫く串。砂糖醤油のたれが滑らかな生地の上で輝いていました。
はなは瞬時に箱を取り上げて言いました。
「お団子、お団子じゃない! ルナ、これどうしたの?」
「作ってみたんだ。たしか……はなはみたらしが好きだったと思ったんだけど……」
はなはぽかんとした表情でこちらを見ていました。
「はな、どうかした?」
「ううん、なんでもないの。ルナ、料理上手なのね。これなら私が持ってくる必要なかったかな」
はなはそう言って持ってきた包みを開きました。その包みの中にも木でできた弁当箱があり、中にはまたみたらし団子が入っていました。
「私ももってきちゃったの、お団子。これじゃ二人で食べるには多すぎるかもね」
「なら……余った分は持ち帰ればいいよ。私ははなが持ってきたのを。はなは私が持ってきたのを。自分のを持って帰るよりこの方が楽しいかなと思うんだが」
「いいじゃない、じゃあそうしましょ。いただきまーす」
はなはそう言うやいなや、早速私のお団子を手に取って頬張りました。はなは至福の表情で次から次へとお団子を奪い取っていきます。
「おいしーい! ただでさえ何でもできるのに料理まで上手いなんて、ルナってばそんなに完璧でどうするの。自家製とは思えないわ。お嫁さんに欲しいくらい。おいしーい。あ、もう一個ちょうだい」
「お嫁さんって……、というか、お月見じゃなかったのか? お団子ばかりでさっきからちっとも月を見ていないじゃないか」
「お月見といえばお団子! お団子をじっくり味わうのもお月見の一部なの。やっぱりみたらし団子が一番よね、おいしいわー。あ、もう一個ちょうだいね」
お団子は次から次へとはなの口に吸い込まれていきました。余るだなんて余計な心配だったかもしれません。私は次々とお団子を平らげていくはなの方ばかりを見つめていました。
黄金に輝く満月は二人を見下ろすばかり。私もはなも月などさっぱり見ていません。
お月見とはなんだったのでしょう。私ははなにも自分にもすっかり呆れていました。それでも幸せそうにお団子をほおばるはなの横顔から目が離せないのでした。
幸せとはこんな瞬間のことをいうのでしょうか。穏やかな月の光の下で、あの子の幸せそうな横顔を見つめているこの瞬間が、永遠に続けばいいのに。私は心の奥底で密かに願っていました。願ってしまったのです。
恋に「落ちる」とはよく言ったものです。まるで目の前に流れる川に足を踏み入れていくような心地でした。想いもよらず取りついてしまったこの感情が、この先永遠に私の心を縛ることになるのです。
その時、はながふと団子を口に運ぶ手を止めました。ふと顔をこちらに向け、二人の視線が合いました。
月明かりに照らされたはなの頬は桜の花びらのように薄く色づいていました。私は気恥しくなって思わず目をそらしました。
「ごめん……あまりはなが幸せそうに食べているものだから、つい」
「う、ううん、いいのよ。じっとこっちを見るものだから、私もつい気になっちゃって」
はなの声もどこか照れくさそうに色づいておりました。それから、二人とも気まずさを紛らわせるように空を見上げました。漆黒の空でまあるい月が笑っていました。
はなは言いました。
「綺麗な月。いいわね、こんな月を見ていると、嫌なことも忘れられそう」
その一言が、私は少し引っかかりました。
「何か、嫌なことがあったのか?」
そう言った途端、はなの頬が固まりました。はなは俯き、か細い声で言いました。
「ちょ、ちょっとね。父に怒られたの。この家の息女である自覚を持てって。息女として恥ずかしくない振る舞いをしろって」
そうだ、はなは名家のお嬢様なのだ。一般市民の私とは位の違う存在なのだ。普段意識していなかった現実をその一言で思い出しました。
はなの父は厳格な人だと聞いていました。
国から勲章を頂いたこともあるほど立派な方ですが、自分にも他人にもとにかく厳しく、家の品位を何よりも重んじる方だそうです。それ故、自由を好むはなとはそりが合わないようでした。
はなが父に怒られた話をするのはこれが初めてではありません。
ですが、普段ならはなは自分の父がいかに酷い人間かということをぐちぐちと私に話してくるのですが、今日のはなはそれっきり父の悪口は言いませんでした。
愚痴を吐く代わりに、はなは私に言いました。
「あのさ、ルナ。お願いがあるの。来年も、ここで一緒にお月見しましょ……ね?」
何かを確かめるように、地を踏みしめるように、はなは強く言いました。
私は驚き、それから深く頷いて、
「うん、勿論。来年も、一緒にここに来よう」
と答えました。はなは更に言いました。
「春になったら、お花見もしよう?」
「うん」
「次のお月見は、もっとお団子たくさん作って来てね。みたらしと、三色団子と、あんこがいっぱいくっついたのもほしいわ」
「わかった」
「来年も、再来年も、その次の年も、ずっと、ずーっと、一緒にいようね」
「勿論。約束だ」
私は思わず手を差し出していました。はなの目に光が灯り、頬が真っ赤に染まり、それからゆっくりと、白い手を差し出しました。小指と小指を合わせ、指切りげんまんをしました。
不安そうなはなの顔がほころび、笑顔が咲きました。ようやく安堵の表情を浮かべると、はなは言いました。
「よかった。実は本当のこと言うとね、私今日、ちょっぴり落ち込んでたの。でもルナのおかげで元気が出たわ。ありがとう」
「ならよかった。私も、はなとここに来れてよかったよ」
私は素直にそう言いました。私ははなの白い手を掴みました。ゆっくりと手を握り締めて、はなに微笑みました。はなは照れくさそうに微笑み返します。
きっとこの時間は星のように過ぎ去っていくのでしょう。きっと後で思い返す度に「あっという間だった」と呟くことでしょう。
しかし、今この時だけは幸せだけが私の全てでした。誰にも邪魔されない、大切なあの子とふたりきりのこの世界が私の全てでした。
私は月を見上げました。ひとかけらの綻びも無い丸い月でした。鈴虫の声がちりちりと聞こえ始める夜でした。
二人手を握り締め、この一瞬を味わいました。
手をつないだまま、時間は過ぎていきました。月は動き、団子も次から次へと減っていき、気が付けば時計が深夜を指していました。二人の手は寂しげに離れ、二人とも帰り支度を始めました。
「今日はありがとね。また明日」
はなの声に私も
「うん、また明日」
と答えました。何気ないこの挨拶が私の心を温めました。
二人別々の方向に歩き始めたけれど、実のところ何度も何度も後ろを振り返っていました。
あの子の姿が遠くなる度に心なしか夜が冷たく感じたけれど、「また明日」の一言だけで寒さも耐えてゆけました。
また明日。また明日。あのころの私は、明日も明後日も何年たっても、この言葉が途切れることなど無いと信じていました。
あるはずのない永遠を、あの頃は信じていました。
灯りも無い暗闇の道を私はゆっくりと歩いて行きました。空の月ばかり見つめながら家を目指していました。
あの時、あの道で母の姿を見つけるまでは夢心地でした。夢とは悲しいものです。見ている間は永遠のように思えるのに覚めるのは一瞬なのです。
私は茫然としました。夜道の真ん中を母――――文が歩いていたのです。
なぜ、この時間に、この場所に、あの母が居るというのでしょう。普段母は基本的に家に籠って暮らしています。時々散歩に連れていくことはありましたが、それでも家の周りを歩く程度です。
何しろ春先まではまともに家事をすることすらままならない精神状態だったのです。それなのにこの真夜中にあの人は何をしているというのでしょう!
私はすぐさま駆け出し、母の肩を掴みました。
「母さん何してるんだ!」
母は私の姿を見つけると、緊張感の無い声で言いました。
「あらぁ、ルナ。デートはどうだった?」
「デ、デートって……そうじゃなくて、こんな夜中にどうして出歩いてるんだ!」
「ひどぉい、ルナはデートに行っていいのに、私は出歩いちゃいけないっていうの?」
「だっていつもこの時間に出歩いてないだろう。一体どこに行ってたんだ!」
母は大げさに首を傾げると、肩にかけていた鞄の中から何かを取り出しました。そして満面の笑みを浮かべながら私に言ったのです。
「じゃじゃーんっ。聞いてルナ。お母さんね、来月から働きに行くことにしたのよ!」
私は言葉を失いました。母はしっかりと判子の押された契約書類を見せました。私はますます唖然としました。
夢のような時間が夢のまま今日が終わってくれればどんなに幸せだったでしょう。最後の最後でとんでもない爆弾を落とされました。私は頭を抱えながら、母と共に家に入ってゆきました。