第2話:九(前編)
あの子が現れてから、私の心は羽が生えたように軽くなりました。たった一人、私の世界にその一人が増えただけで、世界に色が宿ったような気がしました。
日を追うごとに、はなの存在は私の中で大きくなっていきました。
朝起きて学校へ向かうと、あの子は校門の前でこちらに微笑みかけていました。
昼になれば、お弁当を持っていそいそと私のところにやってきました。
授業の後は、私ははなと一緒に夕焼け色の道を帰ってゆくのでした。
私へなのか、はなへなのかはわかりませんが、人々は私たちから少し離れたところで陰口を言っておりました。
そんな醜い言葉も霞むくらい、はなの一挙一動は私の世界を美しく彩りました。
月日が過ぎるのは一瞬で、桜は散り、紫陽花の梅雨も向日葵の夏も過ぎ去り、気付けばもう九月が幕を上げておりました。
まだ夏の暑さが残る時期。長い夏休みが明けてしばらく経ったある日の帰り道に、はなは私に言いました。
「ねえ、ルナ。明後日の放課後は明いてる?」
はなは澄ました声でそう言いましたが、顔は笑いを抑え切れていませんでした。
私は確信しました。これは何かを企んでいます。
「特別用事はないけど……どうしたんだ?」
「うふふ、クイズよ。明後日は何の日でしょーう?」
はなはそわそわした様子で悪戯っぽくこちらを見つめていましたが、私にはそのクイズの答えは思い浮かびませんでした。
「…………ごめん、わからないな」
「残念。正解は、十五夜よ。その日は満月なの」
はなは軽くウィンクしながら身を乗り出して言いました。
「ねっ、二人でお月見しましょ? あの並木道でね」
二人が出会ったあの桜の並木道。立派な桜が並ぶ道の脇には川があり、その向こうに視界を遮るような高い建物は特にありません。
川の向こう側に目を向けたことはあまりありませんでしたが、確かにあの場所はお月見にはちょうどよいかもしれません。
けれど私は少し気になることがありました。
「いいけれど、お月見……ということは夜になるだろ。はなの家の人は心配するだろうし……その日はなはお稽古事はないのか?」
「うふふ、大丈夫。抜け出す方法は何十通りでもあるわよ」
「いや、その、そうじゃないだろ……」
私は呆れてため息をつきました。はなは名家のお嬢様で、一人前の淑女として恥ずかしくない教養を身につけなさいとはなのお父様に言われているのでした。お花に茶道、琴に舞踊など……週に何日もお稽古の先生が家に来るのです。
ですがはなは家もお稽古事も嫌いなようで、よくお稽古をサボって抜け出してはばあやさんや所中さん方に追いかけられているのでした。
「あまりばあやさん達を困らせてはいけないよ」と、言ったところではなは聞かないでしょう。苦笑いを浮かべていると、はなは私に言いました。
「そう言うけれど……ルナ、あなたの家の方はどうなの? 夜遅くなるかもしれないけれど、お母さん、一人にして大丈夫?」
たしかにはなの言うとおりです。私の母──文を夜中まで一人で置いてしまって大丈夫でしょうか。
文の精神状態は夏の初めくらいから徐々に落ち着きつつありました。近頃では錯乱することも突然叫び出すこともあまりなく、近所から苦情が来ることもなくなっていました。
しかし、まだ全く無くなったというわけではないので油断はできません。とはいえ、普段昼間は文一人で家に居るので、少し帰るのが遅くなっても特別深刻な出来事が起こることは無いと思うのですが。
「多分大丈夫だと思うけど、今日母の様子を見て考えるよ」
「そう? あまり調子が良くなさそうだったら無理はしないでね。ルナを困らせたくはないから」
「ありがとう」
優しくそう言うはなに、私は心の底から感謝しました。
はなと別れた後、その日は早足で家へと帰りました。気分も軽く、羽が生えたように心地好い気分でした。
あの並木道で二人きりでお月見することが、楽しみでないはずがなかったのです。
扉を開けると、「おかえり」と声がしました。家の奥へと進んでいくと、エプロン姿で台所に立つ母が居ました。
「ただいま」
と私が言うと、母は
「今日は少し遅かったかしら。お友達とお話でもしてたの?」
と返しました。私は居間の方を見回しました。床はきちんと掃き掃除がされてきて、窓ガラスは新品のように透き通っています。棚や箪笥の上の埃も見当たりません。
次に台所に目を向けました。二人分の茶碗と皿がありました。母は夕食の準備をしている最中だったようです。
同じ家庭の中であるはずなのに春先とは別世界のように感じました。陰欝とした空気も狂気を孕んだような静けさもありません。
ごく「普通」の一般的な家庭の光景です。しかし、なぜでしょう。「普通」であるはずの今が「普通」でなかった春先よりもずっと「奇怪」であるように感じてしまうのは私だけなのでしょうか。
部屋を見回しながら私は言いました。
「そう、そうだよ。少し話をしていたら遅くなってしまったんだ」
すると母はふふっと笑いながら言いました。
「もしかして、かわいい彼女でもできたのかしら? それで遅くなったとか?」
私は思わずぐっと言葉に詰まり、後ずさりしました。文がこうも鋭く突いてくるとは思いませんでした。
「い、いや、そうではなくて、はなとはまだ付き合っているというわけではなくて、確かにかわいいし良い子ではあるけれども……」
「はなちゃんっていうのね。わかったわ」
「あ、え、だからその……」
私の反応を見て、文は楽しそうに笑うのでした。文が笑うのを見るのは久しぶりです。何か良いことでもあったのでしょうか。
「そうだ、母さん。ちょっといいかな」
「どうしたの?」
私は深呼吸をしてそう切り出しました。見たところ、文の調子も機嫌も良いようですし、これならお月見に行っても何の問題も無さそうです。
「明後日、ちょっとその、はなとお月見しようって言っていたんだ。少し帰るのが遅くなるかもしれないけれど、大丈夫かな」
「あら、デート?」
「デ……!? い、いや、そんなつもりは、その……」
私の慌てっぷりを見た母は自分の頬に手をあてながら言いました。
「あら、いいのよ。行ってらっしゃいな。あなたはハイドの子だもの、モテないはずないものねえ。
ハイドも女の子達の人気者でねえ、私は初めて会った時にあんな綺麗な人と結ばれるなんて夢のまた夢だと……それで初めてあの人と話した時にはね……」
母の目が輝きはじめ、だんだんと早口になっていきました。
「あの、母さん?」
「あれは女学校に入ってすぐの頃だったわ、私ってば寝坊しちゃって遅刻遅刻って走ってて……」
「えっと……母さん?」
「曲がり角であの人が乗ってた馬車にぶつかっちゃってハンカチを落としちゃったのよ、そしたらハイドが颯爽と現れて私を抱き上げて『お怪我はございませんか、お嬢さん』って……」
「母さん、聞いてる?」
もちろん母はちっとも聞いていません。うっとりと窓の外を見つめながら父との思い出話(全て事実なのか疑わしい部分もあるのですが)を休むことなく語りつづけていました。
私はため息をついて、母の語りが終わるのを待つことにしました。要するに、諦めました。正気の時でも母は相変わらず母でした。
「あの人に会いたくて会いたくて、それから毎日わざと寝坊して馬車に蹴られに……って、あら、もうこんな時間」
何十分経ったでしょうか。さすがに私もくたびれてきた頃になって、母はようやく時計に目を向けました。
もう9時を回っていました。母は鍋の中の冷めきった味噌汁を見て、慌てて火をつけました。
「あらら大変。ちょっと待っててね。今温め直すわ」
そうして改めて母は晩御飯の準備にとりかかっていきました。まあ何はともあれ、お月見に行く許可はとりあえず出たようです。
私は窓の外に目を向けました。日に日に丸に近づいていく月を見上げて、私は少し微笑みました。
「明後日、そう、明後日ねえ……」
ぽつりと、母が呟きました。私ははなの姿を思い浮かべました。私とはな以外だれも居ないあの並木道。
そこで見上げる月はどんな色をしているでしょうか。はなはどんなことを話すでしょうか。
まだ見ぬ明後日の月に想いを馳せていた時、私はあることを思いつきました。私は文に言いました。
「母さん、明日の晩御飯の後、少し台所借りてもいいかな」
明日、はなはどんな顔をするでしょう。私はそのことばかり思い浮かべていました。