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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

煙は宙に消えて

作者: シャオレイ

 夜。消灯後に外を出歩くことは、ザック・シアラーにとって初めての経験だった。普段ならばやらない行動をシアラーが取ったのには理由があった。眠れなかったからだ。

 夜の空気は肌寒く、冷えた風が首筋を撫ぜた。シアラーは露出した部分を隠すように首をすくめる。そのときに上を向いた視線が、空の星々を捉えた。

 故郷とは比較にならない数の光がそこにはあった。星と星の間隔が狭く、視界に収まる星の数に圧倒される。基地の周辺に建物などの光源はなく、また基地自体も薄暗いためか、小さな星の光すら分かった。

 カートゥーンを夢中になって見る幼い子供のように空を見上げていたシアラーは、近寄ってくる人影に気がつかなかった。

「少尉殿は満点の星空というものを見たことがないようですね」

 低く足元から響くようなバス・ボイスは耳に覚えのある声だ。違反を犯しているところを見られてしまったバツの悪さから、顔をしかめて音源に向き直った。視線を下ろしたことで冷気がうなじに触れる。

「……コールリッジ曹長ですか」

 ナイジェル・コールリッジ曹長はシアラーの指揮する小隊の副官だ。シアラー以前より小隊に所属する古参の下士官で、新米士官である小隊長の世話役兼教育係だった。現場のたたき上げで今の階級まで上がった経験豊富な彼をシアラーも信頼していたが、歳が一回りも違うせいか時折子供を相手にするような態度を取ることがある。今の声色はそれに近いと彼は思った。

「まあ本土ではこれだけの光は見えませんな。街の明かりがあるおかげで、空が赤く見えるくらいですから」

「ええ……」

 消灯後に外を出歩いていることを咎められるかと思っていたシアラーは、コールリッジの態度に拍子抜けする。その理由も彼の手元を見れば一目瞭然だった。彼の両手には酒瓶と煙草のケースが握られている。

「……曹長、アルコールの摂取は」

「分かっていますとも。少量に済ませていますよ、私だけでなく他の連中もね」

 その言葉に周囲を見回せば、所々に人気を感じることができる。かすかに話し声も聞こえてきた。

「少尉殿はいつも規則正しく就寝していらっしゃるようですから、こういったことはご存知ないのでしょうね」

 兵舎を出てから今まで気がつかなかったことに驚き、またそれだけの兵が夜間外出をしていることに再び驚いた。周囲にあった人気に目を向けていれば、見回りの兵がそこに近づくのが分かった。いずれこっちにも、と考えたシアラーは急いで兵舎に戻ろうとしたがコールリッジに止められる。彼は理由を言わず、見回りが近づいた場所を見ているよう動作で促す。

 結果はシアラーの考えとは異なっていた。見回りは少しだけ話をすると、すぐにその場から離れていく。規則を破っていた兵を捕えるようなことはしなかった。

「奴らも分かってるんですよ。……少尉殿も、今日は眠れないから外に出てきたんでしょう」

 心中を当てられた恥ずかしさから少しの間言い訳をしようと考えて、しかし小さく頷く。コールリッジはそれを笑うことはなかった。

「みんなそうですよ。眠れないんです。だからこうして」

 彼は中身が半分以下まで減った酒瓶を左右に振る。

「酒を飲んだり、煙草を吸ったりしているわけです」

 コールリッジは紙巻の煙草を一本くわえライターを取り出してから、ちらりとシアラーの方を向いた。構わないという意味を込めて頷くと、目で会釈を返してからライターで火を点ける。ライターの火が一瞬明るく燃え上がり、すぐに消える。深く息を吐き出す音と共に、紫煙が宙に広がった。

「曹長も……」

「はい?」

「曹長も、眠れなかったのですか」

「ええ」

 質問に対し彼は素直に答えた。

「ここで心安らかに眠れているやつなんてそうそういませんよ。特に、前線に出るような人間はね」

 煙草の火が明るく灯る。再び煙を吐き出すと、灰を携帯灰皿の中に落とした。その姿を見ていると、コールリッジが煙草のケースを向けてくる。

「吸いますか?」

「あ、いや。煙草は吸わないので」

「そうですか。じゃあ、こっちは」

「まあ……そっちなら」

 ケースを引っ込めると、今度は酒瓶を差し出す。瓶を受け取ったシアラーを見て、彼は煙草をくわえながら言った。

「そのまま飲んじまってください。グラスはないもんですから」

 シアラーは受け取った瓶を眺めた。辺り一帯が暗いため、ラベルの文字を判別することは難しい。ただ、瓶の形状は本土にいたときに触った覚えがあった。

 蓋を開けて顔に近づけると、強いアルコールの臭いが鼻をつく。ゆっくりと瓶を傾け中身を口に含むと、懐かしい味わいが口腔に広がった。嚥下すれば喉が焼け、腹の中で暖かな感覚が生まれる。懐かしい感覚だった。記憶の中にあるものと全く同じ。シアラーの頭の中に、故郷の風景が蘇る。

「本土と同じものですよ」

 煙草の火をもみ消しながら、コールリッジが言う。

「こっちで支給される酒や煙草、後は出てくる食事なんかは国の物をできるだけ出しています。理由は分かりますね?」

「……故郷や家族を想起させ、守るべき対象を思い出させることで志気を高める。戦場に慣れ過ぎて本土の暮らしを忘れないようにさせる」

「その通り。ただまあ、うまくいかないこともありましてね」

「脱走ですか」

「ええ。戦場の恐怖に耐えきれず、逆に故郷や家族を思い出したことで前線から逃げようとする」

 彼は二本目の煙草に火を点ける。

「少尉みたいに兵舎から抜け出すくらいならまだいい方なんですよ。だからガス抜きのために、見回りも厳しくはしない」

 煙が吐き出され、彼は口を開いた。

「少尉は今日が初陣でしたね」

 その言葉が突き刺さる。全てを見透かされているような気がして、目を伏せた。コールリッジは話を続けない。シアラーはそれを、自分が話すのを待っているように感じた。

 彼はいつもそうだった。一言だけ発してそのあとはシアラー自身の判断に任せる。それが教師から問題を出されているかのように感じて、あまり気に入らなかった。だが、今日は口が滑る。

「人が、死んだんですよね」

 アルコールのせいだと思いながら語りだした。

「そうですな。今日の戦闘は小規模ではありましたが、それでも双方に損害がでました。幸運にもうちの小隊に死者はでていませんよ」

 彼はシアラーの考えていることを見透かした上でそう言う。

「オレは今日初めて演習場の外で引き金を引きました」

「はい」

「……的以外に当てたのも、初めてです」

 そこからは堰を切ったようだった。

「必死でした。やらないと、オレも含めて仲間が殺されると分かっていたから。でも、想像していたよりも簡単に引き金が引けて」

 手には発砲の衝撃が染み付いている。何発もの銃弾を訓練で消費した。同期の中でも射撃の腕前は優れており、その腕前は戦場でも大いに発揮された。

「狙って、撃ったんです。建物の影から覗いた頭を」

 彼は射撃が得意であったからこそ、それは偶然ではなかった。流れ弾ではない。当てようとして当たった弾丸だ。

「当たった瞬間、血が飛んで……そのまま建物の影に倒れていったんです」

 シアラーはスコープ越しにその光景を目の当たりにしていた。数秒にも満たない程度の短い時間を、まるで時が止まったかのように感じていた。

「多分、即死だったんだと思います。呆然とした顔をしていましたから」

 苦痛に顔をゆがめることもなく、緊張の糸が切れたような顔立ちで沈んでいく敵の表情をシアラーは覚えている。今もまだ。

「……目を閉じると、それが出てくるんです。何度も、何度も。目を閉じたままにしていられなくて、目を開けて。また目を閉じると、それを見る」

 ベッドで横になっていても、一向に眠れず天井を眺めていた。だが薄暗い部屋で何もない天井を見ていると、そこにあの敵兵の姿が映し出されているように錯覚した。

「部屋にもいられなくて、こうして外に出てきたんです」

 夜空には星があった。暗闇ではなく光に満ちていたため、幻影を見ることはなかった。もしかしたら、こうして外に出てきている兵たちも同じような気持ちなのかもしれないと思う。

「覚悟はあったつもりです。士官学校でも、それを何度も言い聞かせられました。祖国のために、国にいる家族のために、引き金を引く。でも……」

 シアラーの脳裏にあの敵兵の――一人の男の姿が思い浮かぶ。

「彼にも、守るべき国があって、家族がいたはずだと考えると……」

 それ以上は口に出せなかった。言葉にしてしまえば、今以上に心がぶれ、いずれは引き金を引けなくなるだろうということを理解していたからだ。

 黙り込んだシアラーを一目見て、コールリッジがようやく語りだした。

「少尉殿。深く考えてはいけません。早々に割り切り、過去ではない明日を考えるべきです」

 シアラーもそんなことは重々承知していた。だが、理屈で分かっていても心はそれを受け入れてくれない。

「まあ、それができたらこうして外には出てきていないでしょうな」

 コールリッジはケースから煙草を取り出す。口にくわえると、ライターの火を点けた。灯りが広がり、闇が消え去る。

「酒や煙草というのは不思議なもので、やっている間は余計な思考を排除してくれるものです」

 煙草に火を移してライターの蓋を閉める。かしゃんという金属音がなった。息を吸い込んでいるのか、先端が赤く光を放つ。吐いた煙は宙を舞い、やがて霧散する。

「煙と共に、吐き出すんですよ。悩み、弱み、自分を縛るものを。そして、最小限の物だけを自分の中に残す。忘れてはならないものを、忘れないように」

 忘れてはならないと彼は繰り返す。忘れてしまえば、日常には帰れなくなると。

「そうして日常の空気に馴染めなかった奴を何人も知っています。砲撃や爆撃の幻聴が聞こえていたり、夜襲に怯えて銃が傍にないと眠れなくなったり。色々です」

 そう言ってコールリッジは一度喋ることを止めた。彼の話を聞いて、自分はどうだろうと考える。もし仮にこの戦場で戦い続けていたなら、殺し、殺される場の空気を吸い続けていたら、彼の話すように日常に帰れなくなってしまうのだろうか。

 パブで皆と酒を飲んで言葉を交わし、家でゆっくりと眠ることができなくなると考えると、途端に恐怖を感じた。帰る場所が、安らげる場所があるから必死で戦い生きて帰ろうとする。それが失われるかもしれないという事実は、心に影を落とした。

 顔を伏せたシアラーにコールリッジは手を差し伸べる。その指先には一本の煙草が挟まれていた。

「どうぞ」

「……オレは煙草を吸わないんですけどね」

「一本、試しに」

 シアラーはそれを受け取った。見よう見まねでくわえると、コールリッジがライターの火を近づけた。

「ゆっくりと、喉を通さずに口の中に煙を溜めるように吸ってみてください。吸っていない人がいきなり肺に煙を入れるとむせますから」

 彼の言うように、ゆっくりと口腔を膨らませて煙を吸い込む。苦味と痺れに似た感覚を受けて、それを吐き出した。

「苦い、ですね」

「ええ」

「独特な、今まで感じたことのないような味です」

「そうでしょう」

 シアラーとコールリッジは、並んで煙草を吸っていた。会話は無く、ただ夜空を見上げながら煙を立ち上らせている。シアラーの吸っているそれが残り半分程度になったとき、彼は話し始めた。

「曹長の言った通りだ」

「はい?」

「こうして星を眺めながら煙草を吸っていると、嫌なことを考えずに済みます」

「根本的な解決にはなりませんがな」

「分かっています。……自分の中で整理したものを吐き出していると考えると、少しは頭の中がすっきりします」

 結局は割り切るしかないのだと、シアラーは思う。あの敵兵に家族がいたかもしれないように、シアラーにも家族がいる。自分も彼も一人の兵に過ぎず、国家間のいざこざをどうにかできるわけではない。自分にできるのは、殺されないようにすることだけだ。

 だが、殺すことに慣れてはいけない。それは彼を日常から遠ざけることを意味している。だからこそ、こうして気持ちを整理して割り切ることをしなければならない。

「煙草が気に入られましたか」

 その問いにシアラーは首を振った。

「いいえ。こんな不味いものは初めてです」

 答えを聞いて、コールリッジは苦笑した。そして万感の思いを言葉に乗せる。

「全く、その通り。こんな不味いものは吸わないに限る」

 煙草の先端が赤く光る。煙は宙を漂い、その内消えてなくなった。

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