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よく晴れた日

 その日、園村萌子は午前十時に目を覚ました。八月も終わりに近い、木曜日だ。

 ゆっくりシャワーを済ませ、リビングを抜けてバルコニーへ。そこに置いたビーチチェアへ身体を投げ出すと、プールの水面を渡り届く風が心地いい。

 まだ雨の残る頃からの忙しさに追われ、気付けば残暑見舞いがポストに届いた。幾つかのそれの中に紛れた、見覚えのある名前。努めて気付かずにいた、これまでの疲れが、一瞬で萌子の気力を奪ったのは昨夜のことだ。

 風にまかせたまま、身体からシャワーの跡が乾くのを待ち、素肌に日差しを受けながら部屋へ戻る。着替えを済ませ、小さなトランクケースを手に駐車場へ下りると、萌子は車を西へ向けた。

 東名高速道路へのランプを抜け、アクセルペダルを踏み込む。高見から、獲物を捕らえる猛禽のように加速したクーペは、焼けたアスファルトを、滑るように駆け抜けた。

 途中、何度か車を停めながら、予定通りにホテルまで走った。案内された部屋に入ると、壁一面に広がる、まるで絵画のような景色に息を呑む。

 徐々に夜の訪れが早くなりつつある時期の、沈み往く夕陽をじっくり見送り、夜の暗がりが、部屋を包むのと同じように目を閉じる。突然取付けた連休の始まりにしては、上出来だと思いながら、十分な満足感の中、暗いままの部屋に佇んだ。

 湖に沿って建つそのホテルは、船からも直接チェックインできるように、広いポートデッキを用意している。簡単に夕食を済ませた萌子は、そのポートデッキにあるカフェテラスに席を探した。

 メニューから、コンセプトリゾートらしいダークラムを選び、時間を掛けてそのグラスを空ける。二杯目のラムを待ちながら掛けた電話には、程なく男の声が答えた。

「久しぶりだ」

「萌子です」

「元気そうだな。僕を忘れた訳じゃないのが分かって、安心したよ」

「いいえ。忘れていたわ。今日まで見事に忘れていたの」

「なるほど、連絡がないわけだ」

 悪怯れるでもなく言ってのける萌子の、それさえも楽しそうに、男は続けた。

 電話の相手、比呂丘玲二とは五年程の付き合いになる。

「それで、なにをしていて僕を思い出した?」

「ロン・サカパ・センテナリオ。メニューに見付けた時に、玲二さんを忘れていたことに気付いたの」

 二人が馴染みのバー「アルルカン」で、萌子が好むダークラムは、比呂丘が紹介したものだ。

「なるほど、次は萌子に似合いのライターでも探してくるよ。煙草はやめていないだろうから」

「そうね。でもいまは、マッチを使うようにしているのよ」

 人の気持ちを考えられないタイプではないが、ある種の洒落や冗談に、鈍い一面のある萌子。それが嫌味相手ともなれば、尚更のようだ。

「で?アルルカンへのお誘いなら歓迎だ」

「残念ながら違うわ」

「誰かと一緒なのか?仕事中とか?」

「まさか。お休みを頂いたの」

 萌子は、都内でも有名なデートクラブに所属する、コールガールだ。とは言え、会員制の顧客リストにエントリーするには審査も厳しく、単純に、体だけの要求を受けるような仕事は少ない。

「それなら、やっぱり誘いの電話だろう?どこに行けば萌子に会えるんだ?」

「静岡県」

「……なんだ、誘いの電話じゃないのか」

 流石に、比呂丘の声が曇った。

「これからお誘いするところよ。浜名湖という湖をご存知かしら?東名高速を三ケ日インターチェンジで下りるの」

「……それで、どこのホテルに泊まっているのか教えてくれ」

「ありがとう。あとでメールするわ」

 その先の話は想像に容易な比呂丘が、そんな言葉で誘いに乗ってみせる。

「お部屋は私と一緒にしてね。是非とも見てもらいたい景色があるの。ベッドルームは二つあるから心配しないで」

「そんな部屋に一人で泊まっているのか?」

「そうよ?」

 何かおかしなことでもあるのかと言わんばかりの萌子に、気付かれないように比呂丘は笑った。それから、部屋で見た夕陽の話を聴き終え、比呂丘は話し終わった萌子に言う。

「明日の天気は分からないが、必ず会いに行くよ」

「明日も今日のようによく晴れるわ」

「それなら楽しみだ。久しぶりに萌子の顔も見れるか」

「ええ。湖を見に来て」

「ああ。会いに行く」

「……?。玲二さん?私は、湖を見に来て欲しいと誘っているのよ?」

「そうだな……。萌子の居る湖へ、夕陽を見に行くとしようか」

「そうして」

 それから、二杯目のグラスを空ける頃、萌子は彼との電話を置いた。林檎と檸檬のスライスが沈むウォータポットから、チェイサーを注ぎ足し、暗い湖の水面に光る、静かな波を楽しんだ。


 まだ眠っているままのような萌子がドアを開けると、よく日焼けした男から笑顔が消えた。

「寝ているとは思わなかった」

 時計に視線を落としながらの声は、ポートデッキでの電話の声より重い。

「で、時計は何時になっているのかしら?」

「十時半過ぎ……」

「寝ているのが不自然な時間ではないと思うわ」

 彼を部屋に通してから、萌子は眠気をお湯で払った。たっぷりの湯量で頭から浴びるシャワーは「ずぶ濡れ」という表現がしっくりくる。

 流石に自宅のようにはいかず、せめてタオルだけは纏い、濡れたままの髪を荒々しく拭きあげた。

「下のカフェで待っていて」

「この窓からの景色は楽しみだよ」

「すぐに追いかけるから、お茶にしましょうね。覚えているかしら?ヌワラエリアをみつけたの」

「…?知らない」

「いいわ。私も玲二さんを忘れていたのですもの。私の好みを忘れても当然よね」

 幾分噛合っていない会話のペースも、相変わらずの萌子だと感じながら、いまはカフェテラスのメニューにヌワラエリアを探した。

 ふと湖へ視線を投げると、よく晴れた空に浮かぶ雲を映す水面。それを越えて届く風は、都会のものとは明らかに違って感じられる。

 はじめて萌子と出会ったとき、自分の周りにいる女性との違いを、違和感として感じたことを、比呂丘は思い出した。それは容姿などから受ける単純な印象とは違い、萌子の内から伝わるものだった。

 率直に「強さ」ともいえるそれは、女性に多い不可侵の一線を持たない。

 自然な言葉によく似合う表情と、相手との間にある、一歩踏み込んだ距離。耳に聞こえるよりも素直に届く、気持ちを運ぶ視線。萌子のままの振る舞いは、二十八だという年齢だけが、不釣合いに幼く聞こえる。

 その全てが、比呂丘の中で一つの「人格」に納まったとき、萌子《違和感》への興味が比呂丘の好奇心を掻き立てた。あれから五年が過ぎたいまも、その衝動は、心地よく彼の中で息衝いている。

「気に入ったかしら?」

 小さくセイルを張ったヨットを見る、比呂丘の横顔に萌子が声を掛けた。

「萌子の好きな雰囲気だな」

「ここは初めてなの。急にお休みを頂いたから、空いているお部屋を探しただけなのよ」

「それで、六日ある休暇のうちの一日を、僕にくれた訳だ」

「そうなの。玲二さんとあの時間を過ごすことにしたのよ。……でも、どうして六日だと?」

「こんな風に休むときは決まって六日だ。どうせなら、一週間休めばいいのに」

「七日は多いのよ。こんな風に時間を作るのなら、六日で丁度いいわ」

「……本当に、この風のようだよ……」

「え?」

 比呂丘の言葉に、説明を期待はしていなかったが、いつになく萌子はそれが気になった。問い質そうかと口を開いた瞬間、二人の前にヌワラエリアが運ばれて来た。

「スリランカかな?」

「そう」

「この水色、好きだな」

 ナチュラルなティーカップに射す光が、ヌワラエリアの深く澄んだ紅色を煌めかせる。ルビーの一片を溶かし込んだかのような、その水色を覗き込むと、ゆっくり丁寧に淹れられた芳醇な香りが、比呂丘を楽しませた。

「蜂蜜がよく合うのよ」

「メニューに見つけて思い出したよ。紅茶の名前を幾つか聞いた気がする」

「素敵なお茶でしょ?」

「外で飲む紅茶も、レイクサイドの風も、それになによりも、萌子だ」

「随分、会っていないような言い方をするのね?」

「最後に一緒だったのは桜が散る頃。で、もう夏の終わりだ」

「お茶は気に入ったのかしら?」

「勿論!そう言っている。誘ってくれて嬉しいよ」

 昨日の電話の時とは違い、皮肉などでは無い口調で比呂丘は言う。

「急にお誘いしておいて今更だけど、お仕事の都合は大丈夫だったの?」

「風邪をひいてみた。明日はどうせ休みだ。それに、一番良く効く薬は萌子だからな」

「社長業は忙しいって聞くけど、玲二さんを見ていると納得だわ」

「萌子の方こそ。連休にしたってことは、ちゃんと休んでなかったってことだろ?」

「玲二さんを忘れてしまうほどですもの」

 そんな言葉に微笑を添えながら、萌子は比呂丘を遮った。「あまり女性のプライベートを詮索しないの」と。

「でもそうよ。ポストに残暑見舞いが届いていて、夏が終わるのかって……明日は何処で誰と会ってなにをするのか。それが終わったら次は誰って考えていたら、急に嫌になったの。で、お休みを頂いたわ……」

 こんな風に萌子が自分の話をすることは珍しい。比呂丘を含めて、片手で足りる程度の相手にしか、そうはしないだろう。それだけに、萌子にとってのこの時間は貴重だ。

 二つの空いたティーカップが、すっかり冷めてしまう頃、ポートデッキのスタッフに、比呂丘が手を上げる。どうやら萌子を探していたらしく、脇に抱えたホワイトボードには「園村萌子様」と書いてあった。

「ランチをお願いしておいたの。湖に出ましょうよ」

 迎えに来たスタッフが、小さなボートが係留された桟橋へと、二人を案内した。先に乗り移った比呂丘が、揺れるボートへ萌子の手をエスコートする。

「これでランチは無理じゃないのか?」

「これは連絡艇です。ここの桟橋には係留できないものですから」

 比呂丘の心配は、萌子ではなく、ボートクルーによって打ち消された。桟橋を離れ、ボートの行く先に停泊する船を見て、彼は隣に座る萌子を見詰めた。楽しげなその横顔は、比呂丘から、先の言葉を奪うのに十分だった。


「……相変わらずだな。こんなヨットを用意するのも、あんな部屋に一人で泊まるのも」

「少し酔ったの?何度も言うけど、これはヨットじゃないのよ?ヨットって言うのはね、帆を張って走る船なの」

 ランチを終え、八十フィートを楽に超えるヨットのフロントデッキに用意されたオープンラウンジで、二人は食後のグラスを傾けた。馴染みのダークラムと一緒に、リゾートに似合いのカクテルレシピが、テーブルに並ぶ。

「センテナリオは久しぶりだからな。でも酔うというほどではないさ」

「同じ話を繰り返すから。まだそんなお歳ではないでしょう?」

「では、もう少し内容を変えよう。相変わらず、萌子は僕の知っている萌子のままだよ。カフェで萌子と紅茶を待つ間、初めて出会ったときのことを思い出してみた。それまで、僕の周りにいた、どの女の子達とも違う感性と価値観。強さと呼べる自分らしさ。あのポートデッキで風を受けたとき、東京のそれとは違うものだと思ってね。……あのときに、萌子から感じた違和感と同じだった」

「玲二さんのお話を聞いていると、随分素敵な人のように聞こえるけど、いったい誰のことをお話しているのかしら?」

「いま目の前にいる人の話だ。園村萌子という名前がよく似合う」

「私は、そんなイメージを持たれているのね。いつだって、私にとって、ベストな選択肢を選んでいるだけなのに」

 テーブルに置いたシガレットケースから煙草を取り、シガーマッチで火を移した。よく手入れされた爪が、細く華奢な指に彩りを添える。リングなどの飾り気の無い手に、その煙草は不似合いだが「萌子」全体としては似合っていた。

「シガーマッチを使っているのか?マッチとは聞いていたが」

「そうよ。でもシガーは似合わないから遠慮したの」

「その選択はベストじゃなかったわけだ。でもそうだな、シガーは選ばなくて正解だよ」

 煙草は口に運ぶでもなく灰皿に預け、比呂丘の肩越しに視線を投げる。その先に小さくホテルを見てとり、萌子は穏やかな口調でゆっくり話しだした。

「ここへは初めて来たの。湖なんて初めて。せっかくだから、高いところから眺めてみたくて、最上階のお部屋が空いているホテルを選んだわ。あんなに広いお部屋だなんて思わなかった……」

「そうだな」

「玲二さんとの電話を切った後、こんなランチプランがあるのを知ったのね。今日はこの船しか空いてなくて、メニューも見ずに予約したの……」

「うん」

「私、強くなんて無いのよ……」

「知ってる」

 比呂丘を見ることも無く席を立ち、萌子はその隣へ移った。身体を比呂丘に預け、彼のグラスに手を伸ばす。そんな彼女の肩を抱留めると、比呂丘は萌子の髪に唇を寄せた。

 二度目の口付けを待ち続け、煙草は最初のキスの名残を残して燃え尽きていく。自分の手の中にあるグラスの氷が、音を立てて崩れるのを、萌子はみた。


 部屋のグラスウォールから射す、オレンジの陽に満たされて、白を基調としたその空間は黄昏に染まる。

「夕焼けも綺麗なものね」

 部屋の中央が、広く掘り下げられたリビングフロア。一面のグラスウォールに向かい用意された、ローソファーに居る比呂丘は、背中から掛けられた声に振り返らない。

「昨日も見ていたのだろう?」

「いいえ。もう少し遅い時間に着いたから」

 ソファーセットより高いフロアの、ダイニングテーブルにもたれながら、萌子もその景色を眺めた。

 ある一点を境に早まる、陽の傾き。太陽が沈みきっても尚、空は水平線の向こうにある、その名残を反射している。

 柘榴ざくろのシロップとすみれ色のリキュールが織成す、カクテルグラスのトワイライト。一杯三オンスで描かれたそれは、退場を躊躇う夕焼けと、取って代わろうとする夜との饗宴だ。

 静かに深まる、ヴァイオレットの空が色をなくし、部屋は光と一緒に音を失って暫く、二人は、湖面が月明かりを返すまで眺めた。

「思わず目を閉じるよ」

 ただ確実に引き込まれていく、暗がりの一点で、それを写真に収めるように目を閉じた。奪われていく明るさの、どのタイミングも、景色として完成している。

「私も同じように目を閉じたわ。次に目を開けると、琥珀色だったお部屋が、タンザナイトのようなブルーに染まったの」

「この月明かりの中でさえ、萌子はよく映える。磁器のようなその白い肌が、特にね」

 ダイニングテーブルに預けた体に、重さを取り戻し、彼女は部屋に明かりを点けた。

「玲二さんを誘って正解。この窓からの時間を楽しめるのは、やっぱり玲二さんだけね」

「この時間の、この景色を見せるためだけに、萌子は僕を呼んだのだろう?そんな身勝手で気まぐれな提案でさえも、十分楽しいよ」

「昨日、月明かりだけのお部屋を出て、ラムと一緒に玲二さんを見つけたとき、なんだか気持ちが楽になったわ」

「センテナリオを用意しているバーは少ないから、このホテルでなければ、僕を思い出すことはなかった訳か」

「玲二さんなら、あの時間の価値を分かってくれる。そうよ、玲二さんに会おうって」

 いまはソファーの差向かいに座る、比呂丘の言葉を完全に無視して、彼女は言った。瞬きもせず、ただ真直ぐに彼の目を見詰めながら。

「電話で声を聞いたときに、なにかを取り戻したような気がしたのね。それがなにかは分からなかったけど、いまはよく分かるの」

 丁度ひと呼吸分の間をとり、表情を和らげると、思い出したように瞼を下ろす。それからゆっくり、時間を掛けてそれを持ち上げ、視線を比呂丘へ延ばした。

「それは、私以外の場所にある『わたし』そのもの。玲二さんの中に留めていてくれた、園村萌子なのよ」

 完璧だった。少なくとも、比呂丘にとっては十分に満足のいく萌子の微笑み。顔を構成するパーツのどれもが、その微笑の為だけに造り込まれたようにも思う。

 ローソファーに腰を下ろしているにも拘わらず、座る姿までもが、凛とした雰囲気を纏っている。もし、画家がその微笑を描き終わり筆をおいたなら、その絵のタイトルは「園村萌子」をおいて他に無い。

 比呂丘は、そこまでのことを自分の中に確かめ、夕暮れを収めたときと同じように、瞼を下ろす。口元にゆるやかな優しさを忍ばせ、誰にでもなく、小さく頷いてみせた。

「……自分以外の場所にある、僕を見つけに行こう」

 ソファーから立ち、萌子に手を差出しながら、比呂丘は楽しげだ。

 考えるでもなく、その手に自分の体温を伝えると、彼女は重力を感じることなく立ち上がれた。

「案内するわ。玲二さんをみつけた、あのカウンターへ」


「サンドウィッチとスコッチソーダ」

「良かったでしょ?」

「ナインボールはサービスエースで僕の負け」

「それは偶然。私にビリヤードを教えてくれた璃紗子だって、滅多にそんなことはないわ」

「そう、それだ!」

 二人はバーのカウンターで、簡単な夕食を済ませた。部屋へ戻る途中、プールテーブルをみつけた比呂丘にせがまれ、1ゲームだけという約束で、ナインボールの相手をすることに。

 結果は、萌子の勝ち。

 自宅のゲストルームに、プールテーブルを持つ彼女にとって、比呂丘は相手として未熟だ。本人も、それを十分理解してはいるが、機会がある毎に萌子を誘っている。

「もう随分、顔を見ていない。萌子の家を出てどれくらいだろう?」

「まだ二年よ。二枚目の残暑見舞いが届いていたわ」

「会いたいな。久しぶりに三人で」

 お互いにそれぞれのベッドルームで着替えてから、ローソファーのセットを見下ろせるダイニングテーブルへ戻った。テーブルを挟んで座る比呂丘の目に映る、自分の表情を確かめ、萌子は最近の彼女のことを話した。

「京都でも、仕事はうまくいっているみたい。年下の彼氏ともね。今度、ロンドンへ行くのですって」

「いまなら過ごしやすいよ」

「お友達が結婚するらしいの。彼と旅行も兼ねて出席するそうよ」

「結局、あの大学生の卒業にあわせて引越したけど、璃紗子は結婚する気なのか?」

「そのつもりでしょうね。まだ先になりそうだけど、あの子はその彼氏を気に入っているもの」

「会いたいな」

「明日、璃紗子に会ってから伝えておきます。玲二さんが会いたがっているって」

「会いに行くのか!?」

「そうよ?」

「明日は、一緒に東京へ帰るものだと思っていた」

 その声は比呂丘の驚きのサイズを、正しく萌子に届けることができた。

「週末を京都で過ごして、東京へは月曜日に戻るつもりなの」

「そうだったのか……それは気付かなかった」

 六日ある連休のうち、前半の三日をこの湖へ充て、残りは自宅で過ごすものだと、比呂丘は考えていた。実際、萌子は自宅で過ごすことが好きであったし、そうして時間を使うことが、彼女の休息に成りえることを、彼は知っている。

「そんな話を聞くと、僕も璃紗子に会いたいな。萌子に付いて京都へ行こうか」

 比呂丘の表情から、それが本気だと萌子は察した。

「私が玲二さんと一緒に、璃紗子と会うの?」

「ああ」

「いいえ。駄目よ」

 一瞬の間もなく、萌子は首を振ってみせる。視線を比呂丘から外し、自分の爪を見るでもなく見た。

「私が璃紗子と会うのに、私以外の誰かと一緒だなんて、趣味が悪いわ」

 それは、比呂丘を指して放たれた言葉ではないことを、彼は分かっている。例えばこれが、はじめから二人で会いに行くと伝えていたなら、萌子も趣味が悪いとは言わなかっただろうと。

「そうだな。それは萌子らしくないか」

「そうよ。だから、璃紗子には伝えておきます」

「会いたがっていると伝えてほしい。萌子と一緒に、三人で」

「ええ。本当は一緒に来たがっていたと、くれぐれも璃紗子に宜しくと、伝えておきます」

「うん。有難う」

 比呂丘の退際が、萌子は好きだ。彼と親しく過ごすようになってすぐ、彼女はそのことを、自分の中にみつけた。やや物足りない主張と吊り合う、バランスのよいそれは、妥協という対義語で表すには相応しくない。

 萌子の価値観を理解し、その視点を邪魔しないための配慮。そしてなによりも、比呂丘の許容であったろう。

「あのゲストルーム、まだあのまま空いているのか?」

「璃紗子が引越してから、誰にも貸す気になれないの。プールテーブルもミニバーも、気に入っているもの」

 萌子のマンションには、彼女の住むホストルームと、ルーフバルコニーのプールを挟んで、十分な広さのゲストルームがある。

 ゲストルームのプールテーブルは、普段は、グラストップのダイニングテーブルとして使われていた。

 そのほかに、ベッドルームとシャワールーム。ランドリーとトイレがあり、バスルームへの途中に、ウォークスルーのパウダールームが設けてあった。

 早瀬璃紗子が引越してから二年、この部屋は特定の住人を得ていないままだ。

「僕が借りようという提案、やっぱり拒否だろう?」

「住むところは困っていないでしょ?」

「一人で暮らすには、広すぎると思わないのか?」

「それに私も、お金に困ってはいないの」

「淋しくないのかと思ってね」

「玲二さんはどうなの?」

「淋しいときもある。一人だからな」

 その言葉に萌子はなにも言わず、静かに比呂丘を見詰めた。その視線によって、二人に無言の間を設け、彼の背中へ回ることで、沈黙を破った。

 後ろから比呂丘を強く抱きしめ、彼女はゆっくりその腕を解く。

「今夜は、私のベッドで一緒に……」

 萌子についてリビングを出る比呂丘は、胸の中でその言葉を訳した。「私も、淋しいって思うのよ」と。


 フロントでチェックアウトを済ませ、比呂丘と一緒にロビーを抜ける。広く整えられたポーチには、萌子のクーペと並んで、セダンが用意されていた。遅めの朝食を部屋でとりながら、インターチェンジまで一緒に走ろうと、比呂丘が話した。

 強い日差しに焼かれたアスファルトから、陽炎が上る。

 気持ちよく風が渡る、レイクサイドの道を、二台は窓を開けて走った。週末の水辺は、多くの人で賑わっているが、午前が終わろうとする時間に車は少ない。

 緩やかな坂道を登りきり、信号を直進すると、東名高速道路への入口だ。横一列に並ぶチケットブースと、無人のゲート。その手前にある広いスペースに差し掛かり、萌子はガードレールに寄せて車を停めた。

「いまからだと、京都に着くのは夕方になるかしら?」

 車高の低いクーペの、トランクハッチに体重を預け、セダンから歩いてくる比呂丘へ、彼女は訊いた。

「四時間。週末だから、もう少し必要かもしれないな」

「私の泊まるホテルで待合わせなの。迎えに来てもらって、七時の予約でディナーよ」

「十分間に合うさ」

「まだ慣れていない車だから、疲れるわ」

「やはりクーペを選んだか」

「教えてもらった車は、全部みたの。で、これかなって」

「全部って?リストにした車を、全てか?」

「そうよ?」

「試乗も?」

「まさか!乗ってみたのはこれだけ」

「萌子なら、きっとその車だろうと思ったけど、十台全てを見るとは思わなかった」

「相談してよかったわ。有難う御座いました」

 深い藍色のサングラスを外し、萌子はそれから暫く比呂丘と話した。

「璃紗子はディナーに、あの彼を連れてくるだろうか?」

「あの彼だなんて、璃紗子に悪いでしょ。でも、きっと一緒に来るわ」

「萌子が一人だと知っているのにか?」

「運転手さんね」

「……そんな言い方、璃紗子に悪いぞ」

「それ以外で璃紗子が二人なら、私はちゃんと玲二さんを誘っているもの」

「そんな仲でもないだろうが、二対一では相手に失礼だからな」

「月曜日の夜に帰ります」

「二人で過ごそう。萌子と僕の二人でだ」

「ええ。鍵を渡しておくから、先に私の部屋で待っていて」

「なにか用意しておくよ」

「遅い時間になるはずだから、帰ったらすぐにお湯にしたいの。たっぷり時間を掛けて」

「……二人で」

「はい」

 短く返したその返事には、相手に向けた感謝の気持ちを感じることができた。それは直接言葉にするよりも、より効果的であることを彼女は知っている。

 助手席に置いたハンドバッグから、やわらかなピンク色のキーケースを、比呂丘に手渡す。マンションに入るための鍵のセットだ。

 ケースの色と比呂丘の印象は、見事に反発して不似合いだった。

「京都を出るときに、一度連絡します」

「午後からの予定はないから、気が向いたらで構わない。萌子の部屋で泳ごうかな」

「ゲストルーム以外は、ご自由にどうぞ」

「そのセンスとテンポ。やはり、萌子が一番だな」

「え?」

「この週末は、なにもかもが、萌子の調子で過ぎていく。僕は萌子が刻むビートは好きだ。そのテンポに酔える。でも、萌子の為には、なにかブリュットを用意しておくよ。ドライフルーツは無花果を添えて」

「……そろそろ行くわ」

 ドアを開けたままの運転席へ、萌子はコンパクトに納まった。サングラスを掛け直し、静かに車をスタートさせる。

 バックミラーに、比呂丘を捉えながらゲートを抜け、萌子はアクセルを踏む足に、優しく力を加えた。

 バックミラーの人影が小さくなり、やがて消えると、萌子は、声には出さずに、唇だけを動かした。


                          「よく晴れた日」


この作品は、私が初めて書いた小説になります。主に詩を詠んできましたので、お話しを書くのは難しいと思っていました。

それでも書いてみると、最後にはこのお話しをキータイトルにして、短編三部作を書くことが出来ました。お話しというよりは「萌子」をですね。

なんでもない、普通の休暇の過ごし方。その「普通」の中にこそ、恋愛とはありえるべきものなのだと思います。

この作品を読んで頂いた皆様の、恋のカタチもきっと、お話になるような素敵なものでしょう。自分らしく過ごすこと。私と「萌子」からのささやかな贈り物になれば嬉しいです。

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