有須inワンダーランド!<8>
「大丈夫ですか? 美作さん」
足元の危うい美作を蔵斗が運んだ先は、店の奥にある小部屋だった。窓際に大きなベッドがあり、そこしか美作が休めそうなスペースはない。
美作は始終上機嫌だった。蔵斗が褒められたことを一緒に祝ってくれているという言葉に嘘はないのだと思うと、蔵斗も嬉しくて、酒も食事もすすんだし、自然と会話も弾んだ。蔵斗は普段ならば有り得無いほどの会話を交わし、気がつくと店はもう看板の時間だ。
美作の潰れてしまった店で、倉田は片付けに忙しく立ち働いている。放って置けずに美作を店の奥へと運ぶことになった。
「うん、大丈夫。今日は楽しかったな」
美作が蔵斗の腕を掴む。常のような力強さの無い腕に、蔵斗はそのままベッドに腰掛けた。
「アリス。これからもこうしたいな」
すがりつくような美作の視線に、蔵斗はどきりとした。美作はいつも真っ直ぐに蔵斗を見つめるが、人と殆ど目線を合わせることの無い蔵斗にとって、慣れないどころではなく、心臓が壊れそうなくらいに脈打った。
「あの、美作さん……」
呼びかける声も喉の奥に張り付いて出てこない。
「アリスが嬉しいと思ったこと、辛いと思ったこと。俺に話してよ。俺が一番そばでアリスのことが知りたい」
いくら、人付き合いに疎い蔵斗でも、嫌、だからこそ篭められた意味に気付いた。その途端、蔵斗はすっと冷静になる。
「美作さん。これは何のお遊びですか?」
さっきまで早鐘を打っていた心臓は、別の意味で心拍数を上げていた。
「え?」
当ての外れた美作が、がばりと身を起こす。酔った振りをしたことが不味かったらしい。
「俺、田舎者ですけど、馬鹿じゃないです。からかうのなら別の人にしてください」
寂しげに目を伏せた蔵斗に、美作は何がどうなったのか解らず、ひたすら慌てるだけだ。
「ちょ、ちょっと待って。アリス」
「祝ってくださったのは嬉しかったです。ありがとうございました」
頭を下げた蔵斗が、ドアをばたりと閉じる。美作は呆然とその閉められたドアを見つめるだけだった。
「あれ、アリスちゃん?」
「今日は美味しかったです。ご馳走様でした」
美作が私室に連れ込んだからには、てっきりそのまま毒牙に掛かるものと決め付けていた蔵斗が出てきたことに、倉田はあっけにとられてしまった。
そのまま店を出て行く蔵斗を見送って、はっと我に返る。
これは雇い主は機嫌が悪いに違いない。さっさと片付けて帰ろうと、倉田はその場から逃げ出すことに全力を注いだ。
エレベーターを降り、蔵斗は情けなさで滲んだ涙をぐいっと拭う。あんな綺麗な男が自分などに優しくしてくれるのが嬉しかった。店の常連たちにアリスなどと呼ばれて、仲間にしてもらえた気でいたのだ。気のいい優しい人たちだと思っていた。
だが、それも蔵斗をからかうのが目的だったのだろう。
たとえ美作がゲイだとしても、蔵斗に気があるなんてあり得なさ過ぎる。浮かれていた自分を横からひっぱたきたいくらいだ。
「アリスさま?」
後ろから掛けられた聞き覚えのある声に振り向くと、そこには初老の紳士が立っていた。
「和田、さん」
「こんな遅くにどうなさいました?」
もう、雑居ビルワンダーランドの店は、殆どが閉店している。今から駅へと向っても終電はとうに出た時刻だ。
早川の店、ゴシックも閉店し、他の使用人は帰宅した後で、この後に向う場所のある和田だけが残って店の片づけを終えたところである。
そんな時刻に、一人でエレベーターを降りてきた蔵斗は明らかに不審だった。しかも泣いていたことは真っ赤になった瞳が語っている。
「いえ、終電逃しちゃって、どうしようか考えていたところです」
「明日はお仕事ですか?」
「休みです。つい、羽目を外してしまって」
店に戻って、早川へ報告することも考えたが、弱っているらしい蔵斗と主人を会わせることは考え物だ。流されてしまっては、主人は不満だろう。
かといって、放置する訳にもいかない。
「よろしければ、これから行く店にご一緒しませんか?」
「店?」
「ワンダーランドにはもうひとつ、店がございます」
「知ってます。雅さんの」
雅の店ならば、相馬もいるかもしれないと考えて、蔵斗はげんなりした。こんな気分で会いたい相手では無い。
ところが、和田は案に相違して首を振った。
「私が女装愛好家に見えますかな? 違いますよ。最上階にホールがありましてね」
悪戯を思いついたような顔の初老の男に、蔵斗は思わず笑いを誘われた。
「そうそう。そのように笑っているのが吉でございますよ。今日は、この爺に付き合っては貰えませんかな。爺婆ばかりの社交場でお若い方には退屈だとは思いますが」
和田の言葉に蔵斗はうなずく。確かにこんな気持ちで始発を待つよりは、余程建設的だと思えた。
エレベーターで最上階へと上がると、陽気な音楽が流れていた。大勢の足音もする。和田は知っている曲なのか、鼻歌を歌っていた。
ガラス製の扉には踊る男女が浮かび上がっている。
扉が開かれると、広いホールで踊っている人々がいた。結構年齢は高そうだが、皆元気でかつ綺麗なステップを踏んでいた。
「社交ダンスでございますよ」
「俺、本物見るの、はじめてです」
最上階のダンスホールは、昼は教室。夜はホールへと変る。
「おお、和田さん。そっちのお若い子は?」
「店のお客様だ。終電逃したそうでな。連れてきた」
「この寒空に始発を待っては風邪を引いてしまうわ。こちらへどうぞ。お茶もお菓子もあるわよ」
どちらも初老に差し掛かった男女が和田に声を掛け、蔵斗を手招いた。何処か子供の頃に可愛がってもらった祖母を思わせる女性に、蔵斗は照れくささを感じつつ、それでも素直に女性の言葉に従った。
「すみません」
「すみませんっていう言葉は好きじゃないわ。何に謝っているの?」
頭を下げた蔵斗に対する女性の言葉は痛烈で、蔵斗はあっけにとられてしまった。
「突然、お邪魔してしまいましたし」
それでも言葉少なに意思を伝えようとする蔵斗を遮るように、女性の手が差し出される。
「私は好意であなたに席を勧めました。お茶もお菓子もあるわ。たんと召し上がっていいのよ。それに対してあなたが言うことは?」
にっこりと笑い皺が刻まれる口元に、蔵斗は自然と笑顔を浮かべていた。
「ありがとうございます」