第8章 転職2 (リゾートホテル)
弘章はこの新天地『いわき国際ホテル』で心機一転、初心に帰ってやり直してみようと思った。しかし、ところ変われば、その遣り方も違い、ここではフロント・レセプション業務と会計業務を兼用で同時に行っていた。前の『郡山屋』で精算業務を全くやった経験のなかった彼は、当初、たいへん戸惑った。支払い計算を間違ってみたり、しばらく失敗が続いた。
約1年が過ぎた。春先の内部異動で、弘章はフロント係長に昇進した。ところがうまくいかない。平から、いきなり2ステップも上がってしまったので、周囲が動揺した。それまでいた主任を追い越して係長に昇ってしまったものだから、部下たちが受け入れ認めてくれるはずもない。逆にむしろ、大いに反感を買った。
弘章は思い悩んだ。部下たちと、どう接したら良いのだろう?と……。彼らは上司の業務命令としては彼に従ったが、人間的には認めてくれなかった。
そんな中で、時は経過していった。だが、この重要な問題点は、やがて時の流れが解決していった。いつの間にか、周囲はみな弘章に理解を示すようになり、彼も同様に周りに溶け込み、彼らを信頼するようになっていった。
ところがである。弘章はフロント責任者として重大な過失を犯してしまった。
接客上のクレーム処理で、真夏の猛暑で寝苦しい夜、お客様から「この部屋はどうしてこんなに暑いんだ! エアコンも全然きかないじゃないか! 一体どうなってるんだ、このホテルは!」という苦情であった。
弘章は一瞬ひや汗を掻いた。その部屋はいつもクレームのつく部屋であり、真下が造り上、機械室となっており、その機械の熱によりどうしてもそうなる問題の部屋であった。通常は満室にでもならない限りは絶対に使用しない部屋であった。当日はもちろんのこと満室状態であり、したがってルームチェンジも不可能であった。
このような場合、最寄りのホテルに空室があれば即時に分宿の手配を行い、お客様にお詫びを申し上げるとともに速やかに同所までホテルの車両にてお送りし、その宿泊費用については全額当ホテルにて負担する、というのが業界の通例であった。
ところがその日は夏休み期間ということもあり、周辺のどこのホテルを当たっても全て満室状態であった。こうなってくると他に方法がない。いつも以上に懇切丁寧な謝意をもって弘章はその客室へと出向いた。無料宿泊ならびにフルーツの差入れをお約束したが、お客様は納得しない。些細な言葉のやりとりから、ついに揚げ足を取られてしまった。お客様が怒鳴り始めた。 「支配人を呼べ!」……。
この一件につき、弘章は再度部下からの信頼を失った。回復するのに、おおよそ1年近くはかかった……。
また「いわき国際ホテル」は、Dinner で French の本格的なフルコースを提供するホテルでもあった。更には、時折り裕福なお客様が別注で料理を追加したりもした。したがってホテルスカイレストランのシェフ(料理長)を筆頭に、調理場は夜の時間帯、まさに戦場であった。
こんな出来事もあった。しばしば客室のお客様からフロントあて内線がかかり、夕食時の別注について事前にフロントで承ることが再三あった。そしてフロントがこの電話を受けている時間帯、調理場は料理の準備でまさに戦争である。ある夜、弘章は客室より内線で、「別注・お子様ランチと特製フカヒレとカルボナーラパスタ」を承った。この場合、直ぐに料理長あて、予備の食材の残り具合やその他調理場の状況によりけりでお出しするのが可能かどうかを即座に確認し、OKならば折り返しその客室あてその旨をお伝えしなければならない。弘章が調理場に電話すると料理長が出た。料理長の受け応えから、調理場がかなり忙しい状況が読んで取れた。弘章が丁寧に別注を読み上げている途中で料理長が叫んだ!「全部、紙に書いて持って来い!!」。そういう世界であった。そのあと弘章は急いで書いた通し伝票を握り締め、調理場への手配と表のレストランスタッフへのこれの伝達のため、走った。
そしてその頃、弘章のところに、福島県内の彼の出身小学校である川端小学校の同窓会通知が届いた。幹事役に当たった彼のかつての友人が、彼の現在の居所である「いわき国際ホテル男子独身寮」を苦労の末ようやく突き止めたのである。
弘章は小学生時代を回想した。高学年の時の、親身になって生徒たちのことを気にかけてくれた当時20歳代後半の熱血男性教師の大原先生、それに皆な仲が良かったクラスメイトたち、自分も成績が良く一番楽しかった学生時代が思い起こされ、この小学校5,6年生の同級生たちに是非もう一度再会してみたい! と強く願った。
同窓会の日、皆に会うと、大原先生は他の小学校の校長先生になっていた。当時の人気者であった弘章は、同級生の皆から笑顔で迎えられた。そして思い出話に花が咲く。
弘章には、その当時子供心にも好きだった女の子が1人、クラスメイトの中にいた。そしてその女性と再会し、彼は照れ臭そうに彼女と話をした。下の名前が秀子。彼女は既に二人の子持ちの人妻。そのとき共に38歳になっていた。お互いに懐かしい昔話をし、そのときに初めて、弘章は秀子の口から「私も幼心にあなたのことが好きだったんだよ」と聞かされ、思わず感動してしまった。少しお酒が入っていた所為もあってか…。だが、この日はこれで終わった。
それから一ヶ月後、偶然のたまたまなのか秀子が自分の子供達を連れ、「いわき国際ホテル」へ宿泊しにきた。フロントにいた弘章がビックリして事情を聞くと、秀子は「夫が仕事で出張中なので、子連れで泊まりにきた」と言う。また「わたし宅地建物取引主任者の資格もってて臨時でそっち方面の仕事してるんだけど、今日明日はお休みなんで…」とも言った。
弘章がちょうど休憩時間に入るところだったので、秀子は娘と息子を先に部屋へ入室させたのち、弘章を近場の喫茶店に誘った。「私わざわざ探してこのホテルに来たわけじゃないのよ。ほんと偶然…」彼女は言った。「別に俺のこと構わなくていいからさ。部屋の子供達のところへ行ってあげれば?」弘章は答えた。「まだ時間早いから大丈夫だよ」秀子は答えた。
30分くらい話しているうちに、彼女はこんなことを言い出した。「実は私、ずっと前から主人のDVを受けているんだ…」。これには流石に弘章も驚いた。「子どもに対しては、大丈夫なんだけど」彼女は続けた。詳しく聞いてみると、旦那は銀行員で、仕事のストレスを酒に酔って時折り激しく秀子にぶつけてくるという。そんな会話もあって、いつの間にかお互いの電話番号を交換していた。その当時は引き続き、いまだ携帯電話は普及しておらず、メールという手段をとることもできない時代であった。
その後、弘章は彼女のことが気になって心配で仕方がなかった。そして彼は休日のある日、戸惑いながらも思い切って秀子に初めて電話してみた。こういう通話が幾度か重なって、やがて二人の関係は徐々に深まっていった。不倫というにはおこがましいが…。
弘章はその後、秀子の相談役となった。半年後に、秀子は安アパートを借りて夫との別居生活を始めた。彼女は十代に初産で、上の娘と下の息子は年子で共に成人していた。自然の成り行きで弘章と秀子は、彼女のアパートで半同棲の形となっていった。
それから9ヶ月後に、彼女の夫も同意して秀子は離婚届を提出し、彼女は規定の月日が経過ののち弘章との婚姻届を市役所に提出した。そのときに秀子は既に、お腹に弘章の子を宿していた。そして2人は正式に夫婦となり、そのままそのアパートで暮らし始めた。出産近くまでは、共稼ぎで生活した。
出産期に差しかかった頃に、秀子は職場に休職届を提出し、出産に備えた。そして春先に、またサルにも似た男の子が誕生した。息子は、人生の勝ち組になれるようにと、善勝と名付けられた。
それから四年もの間、3人で幸せな日々を過ごした。その間、秀子は半ば専業主婦として子育てに専念し、善勝はすくすくと育ち、4歳になった。
その四年間で弘章は、ホテルのフロント係長から婚礼Bridal係長を経て料飲サービス係長となり、またフロントへフロント・オフィス課長に昇進して返り咲いた。だが彼の順調な時というのは、本当にここまでであったのである。
秀子は善勝を最寄りの保育園に夜まで預け、宅地建物取引業の仕事に復帰した。一方、弘章は課長職の精神的なストレスが充満し、仕事に疲れ果てていた。「いわき国際ホテル」は、課長も自ら動き回って働き、率先垂範で部下に見本を示すようなタイプのリゾートホテルであった。彼はこの体制に理不尽さ、さえ感じていた。しかし性格上、彼は与えられたことをシッカリきちんと熟さなければ気が済まない方だったので、どんどん自分で自分を追い込んでいった。課長といえども、現場の従業員と何ら変わりはなかった。そしてやがて、以前同様に、再度彼は、うつ状態になっていってしまった…。
弘章は一転して気力を失い、仕事も休みがちとなって、独りアパートに引きこもるようになってしまった。見かねた秀子は、彼を連れて近くの総合病院の精神科を訪ねた。医師の指示もあり、弘章はしばらく職場に休暇届を提出した。そして二週に一度この病院に通院することとなった。彼はどんどんダメになっていった…。
病院の診察が終わったあと、彼はいつも傍にある調剤薬局で飲み薬をもらっていた。そのとき三度続けて女性の薬剤師さんから言われてしまった。「薬剤師2名が欠員につき、たいへん申し訳ありませんが、少しお時間がかかります」。二度目までは「ああ、たまたま休んでいるのかな」と弘章は思ったのだが、三度目に「おかしい…変だな?」と思い尋ねてみると、「2名とも市外の他の薬局に引っ張られてヘッドハンティングされてしまいました。どちらも優秀な人材だったのに…」との答えが返ってきた。そして2人は現在交際中で婚約も近かった、という事実も聞かされたが、そんなことはそのときの弘章にとってはどうでもいいこと。それより自分の状態をコントロールすることだけで精一杯だった。
それから一年半後、遂に弘章は、妻の秀子に見限られてしまった。状況から事情は察していただきたい。詳細は書かないが、二度目の離婚となった。今度は離婚届に署名押印の協議離婚であった。そして善勝の親権は当然の如く、秀子に譲り渡した。また同時期に「いわき国際ホテル」も解雇された。弘章の、例の物事が同時に集中して押し寄せてくる運命が、再度今度は悪い形で露出してしまった。
彼はしばらくの間、ぼう然とし何も考えることができなかったが、ただ死んでしまいたい、とだけ思った。実際に、自殺を試みようと縄で輪を作ったが、首を吊る勇気などどこにもなかった…。それでも弘章は、この時その頭脳だけは冴え渡っていた。そして再度の離婚の痛手から、次の内容のエッセイにも似た文章を書き記した。
男と女は、例えば運命的な出逢いをし、お互い好印象を持ち、また会おうということになる。そしてそれは徐々に恋愛感情へと発展していく。その想いはどんどん募っていき、やがて人生の幸福を実感する。
その時はまだいい。交際が深まるに連れ、相手の良い点を踏まえた上で、いずれ知りたくなくても双方の嫌な部分…が必然的に見えてくる。これはどうやっても避けることができない。生身の人間であるから、誰しも長所・短所とも持ち合わせていて当然のこと。これはどうしたところで避けようがない!
その意味で自分は、"Only in the beginning" と主張したい。こと男女間の交際関係において、最重要視されるのは、その「始まり」だけ。その時が、一番最高なのである! アメリカのブラス・ロックグループ Chicago の 'BEGINNINGS' の歌の中にもそうあるではないか。
決して深入りをしない。きっかけがあって巡り会い、意気投合してやがて恋愛へとお互い発展する。その初期の段階こそが理想とされる場面なのである。
「結果とプロセス(過程)」という言葉がよくいわれる。自分は結果などよりも、それに向かう道のりの途中、つまりは過程の方を重視する。その途中の時こそに、生きがいを見い出せるのだと思う。しかもその始まりの時が一番いいと思う!
だが逆に、結果しか見ない人もいる。確かに、結果を出さなければ誰も認めてくれない、という厳しい現実もある。それでも人間を成長させるのは、そのプロセスにあると確信する。それぞ人間修行の場、と思う!
男女間では、交際の初期の段階から進んでいくにつれ、やがて嫌でも相手が段々と見えてくる。時には、けんか口論にもなり激しくぶつかり合うこともある。ただそういう過程をクリアし、諸々の障害も乗り越えて、やがて結婚に辿り着くカップルもいる。だが勘違いしないでいただきたい。結婚はあくまでもスタート地点でしかなく、決してゴールではないのである。
とにかく結婚によって、待望の子供が1人2人と生まれる。もし親との同居生活なら、それは可愛い孫ともなる。
ただ4組に1組以上の夫婦が離婚している… という現状がある。逆説を行くようだが、この点、昔の人は、例えば妻なら「一度嫁いだならば、何があろうと絶対にこの人と添い遂げる!」という信念みたいなものがそこには存在した。
時代と背景が異なるとはいえ、現代のカップルたちは、この種の古き良き思想・観念から、大いに学ぶべきところがあるのではなかろうか?
弘章は弱り果ててはいたが、それでもその感性だけは研ぎ澄まされた状態にあった。彼は、今度は逆に、「都会の横浜に戻って、もう一度初心に帰ってやり直してみたい…」と思うようになっていった。