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第7章 転職1 (温泉リゾート旅館)

休職届の本部への提出については、弘章もそれに同意してのことであり、彼はその後の正式な退職願届提出のタイミングを考えていた。もちろん「一身上の都合による依願退職」という形でのものだった。ちなみにもしこれが懲戒処分であったとするならば、その懲戒処分の種別としては、一番重いもので俗にいう懲戒免職、それに()いで停職、降任、減給、戒告、訓戒とある。弘章の休職は、この懲戒処分に該当するものではなかった。

また退職金の支給額は、勤続年数が10年未満と10年以上とでは、大きく開きがあり異なる。そして懲戒免職に限っていえば、この退職金支給の対象外となる。

弘章が休職届提出から2箇月後に、正式に退職届が本部で受理され、その退職金は、彼の勤続年数が11年弱で最終階級が巡査部長につき、245万円と決定された。彼は横浜銀行の自己名義の普通預金口座に振り込まれた、その通帳ごと持参して、福島県郡山市所在の転職先へと向かうため、JR東京駅から東北新幹線に乗り込んだ。


新幹線の駅、郡山駅にて下車し、弘章は同駅から路線バスに乗り換えた。神奈川県警察官拝命の時からそれまで、彼は私有車両というものを一切所持したことがなかったので、交通手段は電車やバス等に限られた。

郡山市は、太平洋側の海沿いにある都市ではなく、少し内陸へ入り込んだ(ところ)に位置するが、丁度その当時、市役所を中心に市をあげてリゾート開発に取り組んでいた頃でもあり、弘章がJR東京駅の『福島県Uターン情報センター』で見つけたリゾートホテルもその一環(いっかん)として新設されたもので、ホテルといえども事実上は旅館形式で営まれているところであり、着物姿の接待さん(仲居さん)らがホテルの玄関口でお客様をお出迎えし、客室は全室和室となっており、夕食・翌朝食ともいま流行(はや)りのバイキング形式ではなく、すべて真心込めて客室へ接待さんがお部屋出しする和食御膳の形をとっていた。また大浴場は、温泉を引いた弱塩化ナトリウム泉質の単純泉で、その屋外には隣接して男女それぞれの露天風呂も設けられていた。

弘章がここに到着し玄関入口の上にある看板を見ると、そこには書道文字で大きく『郡山屋』と書かれていた。フロントで彼が、「この(たび)新しく採用となりました髙田弘章と申します」と挨拶すると、奥の事務所から責任者と思われる男女2名が現れた。それは支配人と女将(おかみ)さんのようであった。2人とも(なご)やかな表情で弘章を迎えた。

ラウンジに移動して3人での面接にも似たようなものが始まった。そして弘章は、そこで両者から次のように言われた。

「ウチは旅館形式で営むホテルです。モットーは、お客様への気配りとおもてなしの心です」。

もちろん弘章には、それまで接客サービス業の経験といったら大学時代のお好み焼き屋でのアルバイトぐらいしかなかった。そしてそのときに弘章のセクションが申し渡された。それは第1営業部フロント・オフィス課フロント・レセプション係であった。形式は間違いなく旅館であったが、各セクションの呼称名はこのようにホテルの形をとっていた。

翌日から3日間、新入社員研修が行われた。フロント・レセプション係の者だけに限らず、他にキャッシャー'Cashier'=会計係の者もいれば、予約担当受付係や第2営業部の売店係と地下1階営業のバーやカラオケルーム担当者までいた。新人社員は合計で8名だった。弘章は、その中の最年長者であった。他の者は全員20歳代だった。したがって研修の開始時と終了時あいさつの号令はすべて弘章に任された。そして研修の3日間が終了しそれぞれが配置についた。

弘章が配属となったフロント・レセプション係には、男性の係長が1人、男性の主任が1人、以下フロントマン3名とフロントウーマン2名がおり、弘章を入れて合計8名で構成されることになった。直接の指導に当たってくれたのは主任であり、この世界の経験がない弘章は基礎から教え込まれた。まず言葉遣い、丁寧語や謙譲語(けんじょうご)での接客や電話応対の仕方など、一から懇切丁寧(こんせつていねい)に教わった。主任は、そのままサービス業向きの、比較的優しく性格の穏やかな人だった。

フロント内の片方にいる会計係の新人も同様に、会計主任からキャッシャー業務の詳しい指導を受けていた。レセプション、会計ともに、早番、中番、遅番の3パターンで勤務しており、深夜の0時から早朝5時までは、ナイトマネージャーがその場を預かった。

警察社会という極めて法律通りの世界から、接客業というサービス社会に一転してその身を投じた弘章にとって、それは全く正反対の別世界であった。彼は正直、当初はたいへん戸惑った。だがしかし、慣れというのは恐ろしいものである。やがて彼は、それに()まっていった。


ところで当然、チェック・インはレセプションが担当し、チェック・アウトは会計の方で受け持つことになる。レセプションは、個人のお客様のチェック・インは勿論のこと、この「郡山屋」は旅館形式で営まれていたことから、他に小・中グループ団体の受け入れも熟さなければならなかった。なので、玄関口にて接待さんらが、お出迎えした団体様をロビーへとお連れし、そのあと弘章らフロントマンが、主に館内案内をそこで行わなければならなかった。

「本日は(わたくし)ども、郡山屋をご利用くださいまして、誠に有難うございます」のひと言から始まる。そこでフロントマンは状況を見極めなければならない。お疲れ気味の団体様へは手短かに、と状況判断をせねばならない。長くて4分くらいのものである。業界でいう Presentation(プレゼンテーション) というものである。

そしてそれが終わると、今度はラウンジ等で付添いの添乗員さんとの宴席その他の細かい打合わせ確認に入らなければならない。まずは名刺交換から始まる。添乗員さんも意外と無理難題を押しつけてくるのが常であった。弘章らもサービス業であるから、ある程度はご要望をお聞きし、それでもできないものはできないと、はっきりとお(ことわ)りしなければならなかった。

それが終わると今度は打合せ内容につき、支払い方法などは会計係へ、宴席関連は宴会場の接待さんらのスタッフへ、また料理関係は調理長へと全て手配しなければならない。ここまで終えるのに、ひと汗もふた汗も掻く。お客様の見えないスペースでは、ほとんど走り回った状態に近い。

また「郡山屋」の場合、別個に宴会係という部門(セクション)が存在しなかったため、宴席の時間になると打合わせから担当した同一のフロントマンがその宴席会場に(おもむ)き、開始冒頭の女将の挨拶後のホテルからの挨拶、そして出だしの司会進行役まで行う、というものであった。


フロント・オフィス課長は、いつも部下に諭した。「The guest is always right. お客さまはお客さまだから、いつのときも常に正しいんだ!」とするホテルマンの基本的精神を(とな)えたものであった。「この人の言っていることはどう考えてもおかしい、変だ、間違っている」と(たと)え思ったとしても、それでもお客様は絶対正しいんだ、とする接客の立場にある者の理念ともいえる。

繰り返しになるが、警察社会という特殊な世界から、この正反対の別世界に飛び込んできた弘章にとって、(ひるがえ)すようだがこれに慣れ親しむまでには、それ相当の時間がかかった。だがいつの日か、彼はそれに染まっていった。


弘章が「郡山屋」のフロントに勤務し始めてから、およそ2年半が経過した。ようやく仕事にも慣れ、彼は主任に格上げされ概ね順調であった。フロント業務のコツも覚え、もはやそのホテル旅館のフロントにはなくてはならない存在にまで成長していた。

だがもちろん不満はあった。ハードな勤務の割には給与が少ない、フロント主任からなかなか上へ上がれないなどの不平不満があった。

そんなとき、一本の電話が弘章のところに入った。同じ福島県の いわき市 に所在する、太平洋の海沿いに位置するリゾートホテル『いわき国際ホテル』の支配人からだった。

「キミのフロントマンとしての(うわさ)は聞いている。ウチへ来ないか? 給料は月25万円お支払いしよう。それと1年後にはキミをフロント係長に推薦(すいせん)することを約束しよう。考えてみてくれないか?」との内容だった。それはいわゆる、ヘッドハンティングに限りなく近いものであった。

弘章はどちらかというと慎重なタイプだったので、この絶好の話を暫くの間、そのまま放置してしまった。でも、よくよく考えてみると、確かにこんな条件の良い話は滅多にないと思えた。


翌々月の終わりに「郡山屋」を依願退職し、弘章はこのリゾートホテルへと転身した。









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