第6章 最初の職業5 (刑事への道のり、そして挫折)
ところで藤沢警察署へ異動となって、弘章は新妻の典子と共に署の官舎(警察官宿舎)に引っ越していた。官舎は本署と目と鼻の先にあり、署内での外勤庶務勤務であったこともあり、刑事養成専科入校までの約一ヶ月間、弘章はほぼこの短距離を往復するだけに留まった。またその頃、妻の典子はお腹に新しい命を宿していた。弘章が英語長期課程に入校の直前に、その生命の誕生があったようであった。典子はそれを、自身のお腹の中で6ヶ月余り育んできていた。
神奈川県警察学校の刑事養成専科入校日となった。期間は、通じて50日であった。「初任科の頃から比べると、ずいぶん新しい設備に変わったなあ…」と弘章は思った。部屋は8人で一室であったが、二段ベッドではなく一人1個ずつベッドが備えられており、別室で学習室も各部屋単位で設けられていた。また食堂やグラウンドなどの施設も、彼の初任科当時とは格段の差があり、非常に素晴らしかった。
入校期間の50日はアッという間だった。弘章は関東管区警察学校初級幹部科を思い出していた。というのは、またあの「一件書類」を完成させるのが、とても大変だったのである。今度は刑事の専科であったため、もっともっと深く突っ込んだ内容のものだった。屋外に空き巣被害のモデルルームまで設置され、現場の実況見分と指紋採取や現場写真の撮影及び「KEEP OUT! (立入禁止!)」の黄色いテープを張り巡らせての現場保存などから始まった。一件の窃盗(手口・空き巣ねらい)事件の、発生から取調べを経て被疑者の身柄を書類と共に検察官に送致するまで! を綴った捜査報告書の一式であったことから、今度は長編小説どころではなく、分厚い一冊の本並みのモノが出来上がった。この作成がそう簡単に終わるはずもない。誰もが睡眠時間を削って連日、学習室でその作業に追われた。例により、また授業中にウトウトする者も何人か現れた。弘章もその例外ではなかった。
こうして、すぐに卒業のときとなった。弘章の成績は、また最下位に近かった。彼はまた思った。「この愚か者めが!」。
刑事養成専科入校の間、妻の典子のお腹の子は、無難に順調に育っていた。彼女のお腹は、もう随分と大きくなっていた。弘章は良い成績ではなかったが、そのまま無事、藤沢警察署へと戻った。そして次の内部異動で、彼は警務課の留置場の看守勤務に変わった。
警察社会の一つの流れとして、刑事を志望する者はその前にまず、この留置場の看守を経験するというのが一般的である。これは、まず被疑者のことをよく認識するという意味で、絶対必要不可欠なことだったからである。被疑者の心理状態を読むという点において、いずれ将来役立つからである。
看守に成り立ての当初、弘章は何も分からずにオドオドとしていた。だが少しずつ慣れてくるに従って、彼はだんだん留置されている者たちの心の声が聞こえてくるようになっていった気がした。人様々だった。男女により異なり、年齢によっても異なった。身柄を拘束され留置場へ入って来たばかりの人間は、大概おどおどし落ち着きがなく不安そうな瞳をしていた。膝を抱えて壁に向かって蹲る者、放心状態で床を見つめているだけの者、食事を一切とらずにただ寝そべっているだけの者など、その他いろいろであった。
彼らもまた、罪を犯したとはいえ人間であるから十人十色だった。留置場では彼らの人間性がよく表れる。連日、取調べで呼ばれる者もいる。皆、取調べ後その顔を曇らせ帰って来るというのがほとんどだった。
取調べの状況により異なるが、遅かれ早かれ皆、捜査関係書類と共にいずれ検察庁にその身柄を送致される。そしてまた、入れ替わりで別の犯罪者が入って来る、そんな場所であった。窃盗犯もいれば、殺人・強盗・傷害・詐欺・横領・強制猥褻など、ありとあらゆる被疑者が出入りする場だった…。
喫煙者には、定時に10分くらいの喫煙時間が与えられた。喫煙者たちは、この時間を楽しみにいつも心待ちにしている。四方を高いコンクリート塀によって囲まれた極めて狭いスペースで何人かに分けて行われる。その時の彼らの嬉しそうな顔といったらなかった。唯一の憩いの場のようで、寄り添った者同士、笑顔がこぼれ会話が弾む…。
だが看守たちは皆、知っていた。それでも彼らの心の奥底には、留置場に入ったことにより、もはやどうやっても拭い去ることの出来ないトラウマのようなものがあることを……。
弘章の看守勤務はそれから一年続いた。そして漸く彼はその後、藤沢警察署刑事課の一員となることができた。結局なんだかんだいっても、彼が神奈川県警察官拝命から念願の刑事になる目標に達するまでに、9年半もかかっている。彼は31歳になっていた。また刑事課内で彼に与えられたポジションは、3係の窃盗犯係であった。そのとき彼は思った。「ようし、はじまりは泥棒刑事でいいだろう。しかし今に見てろ! 俺だっていつか必ず、念願の国際犯罪捜査官に絶対なってやる!」。彼は尚も、かつての警察大学校の英語課程を土台に、これに成り上がる希望を捨てなかった。
ちょうどその頃、妻の典子の出産が重なった。弘章が当直勤務で署に泊まり込んでいた深夜の午前0時25分に、典子が入院中の市内の産婦人科から、彼あて電話が入った。「無事、出産されました。元気な男の子です!」。
当直主任の警務課長の図らいにより、弘章は一時勤務を外れ、この病院へと急いだ。生まれたてのサルにも等しいような顔をした第一子を見つめ、弘章は典子の手を握りしめながら、そこで涙した。
後日、その子は「友作」と名付けられた。「たくさんの友達を作れますように!」との願いから、彼ら夫婦で付けた名だった。
刑事課の窃盗犯係は、言うまでもなく課の中で最も多忙なセクションであった。刑法犯認知件数の中で一番多いのが窃盗事件であるから当然のことである。一般に警察署の刑事課には、これ以外に殺人や強盗などの凶悪犯の捜査に当たる1係の強行犯係、詐欺や横領などの犯罪を捜査する2係の知能犯係、暴力団犯罪を捜査する4係のマル暴係がある。藤沢警察署もまた同様にそうであった。
これらを本部の組織に置き換えると、刑事部内の捜査第一課が強行犯罪班、捜査第二課が知能犯罪班、捜査第三課が窃盗犯罪班、そして捜査第四課(現在は「組織犯罪対策部」として独立している)がマル暴対策班となる。
また、特に警察という組織では、各種捜査報告書などを記す際には、必ず「六何の原則」というものがその基本となった。この六つの必要事項とは、次のとおりである。いつ、どこで、誰が、何を、どうして、どうなった、この六項目である。4W1HRともいわれる。これは英語でつまりは、When、Where、Who、What、How、Resultということである。
弘章はある日、こんな窃盗事件の取調べを担当した。彼はその事件の捜査報告書を記載するに当たり、その原則の一つを書き入れるのに逡巡・躊躇した。それは「誰が」である。その被疑者は、彼の知人だったのである。その瞬間、ペンが止まった。彼は大変戸惑った。暫しの空白の時間が生じた。様々な思いが彼の頭の中を去来した。手口が空き巣ねらいで逮捕連行されてきた、彼の知人だったのである。
まず豪華邸宅のホーム・セキュリティーが作動した。専門用語で言うところの「SGSの異常感知」というものである。これは自動的に110番通報にも入ることになっている。
警備会社のガードマンとほぼ同時に、交番の警察官も現場に到着した。中に人がいる。何やら人影が動いている。すかさず交番員、ガードマンとも中に踏み込み同人を捕り押さえ、窃盗(空き巣ねらい)の被疑者として彼らで現行犯逮捕した。
刑事課へ同人の身柄を引き渡され、その取調べを受け持つこととなった弘章は、何も知らずにいつもと変わりなく、平然と取調室に入って行った。入った瞬間、彼は自分の目を疑った。そこに居たのは、出身校の岡本高校のかつての野球部同期生だった。
だが職務を遂行せねばならない。取調べはまず、本人の生い立ちから供述調書に記載していくものと決まっている。弘章には、ペンが震えるのがわかる。自分の心が乱れているのもわかる。犯行の動機を聴取する段階へとやってきた。被疑者がこれについて話し始めた。「私には愛娘が1人います。4歳児で近いうちどうしても眼の手術を行わなければならない。その費用として100万円弱の大金がかかる。私は今お話ししたとおり、現在失業中です。自分の預貯金に、今それだけのお金すら無い。だからやってしまった……」。
順次、調書を作成していく過程において、被疑者の氏名等の人定事項を記載する順番がやってきた。弘章は、涙をこらえてこれらを書き留めた。常に冷静沈着であることが求められた。時として、非情をも要求された……。
しかし後日、彼の作成したその供述調書は刑事課長により差し戻され、同課長から次のように言われてしまった。「被疑者しか知り得ない秘密の暴露がまったく不充分だ! もう少し突っ込んだ取調べをやれ!! 信憑性が全然足りない! 貴様、それでも刑事か!?」。
いまだ駆け出しの新米刑事であった弘章にとって、この一喝は大きな鞭となった。彼は再度取調べを重ね、三度目にして漸く課長は頷いた。「よろしい」。
ここで余談となるが、いま供述調書を捏造する例が、社会的に大変な問題となって浮かび上がってきている。取調室という空間は、ある種の独特の雰囲気を備えた場所のようであり、被疑者に対して間髪を入れずに有無も言わさず、その室内で犯人に仕立て上げられてしまうという実例! 取調室という密室での自白の強要! 遣ってないものを遣ったと言わせてしまう個室! 最近でも新聞やニュースなどで頻繁に取り上げられている。「取調べの詳細な状況について、ビデオ撮影等の方法にて録画や録音を行い、可視化する必要性あり!」とまでいわれている。
一方これをそのまま、被疑者の身柄にその捜査書類を添付して、検察官に送致するというのが、弘章ら刑事の職務であった。それを受け取った検察官は、供述調書の内容等に不審点を見い出したときなど、検察官独自で今一度調べ直し、同調書の再度の作成などを弘章ら警察官と同様に行うことができる。そして最終的に、身柄・捜査書類共その後裁判所へと渡り、被告人には当然、専任の弁護人が付いて、地方裁判所から高等裁判所への控訴、或いは高等裁判所から最高裁判所への上告というケースも含めて、最後にその法廷において判決が言い渡される。有罪、無罪と…。
ここで、警察の刑事及び検察官の取調べ時における供述調書等に、何らかのミスがあったとするならば、それは無実の罪により懲役刑等に服すということ、誤認逮捕から始まっての、すなわち冤罪となる!
そういう事例を今後けっして繰り返してはならない! と断言できよう。
ところで弘章は、この窃盗犯係を約一年間勤め上げることとなるのだが、慣れてくるに従って、彼はいつも感じていた。それは、理論と実践の食い違い… である。
警察署の刑事課は、主に巡査部長が中心となって外への聞込み捜査に回る。そしてそれは、10件当たって1件実ればまだ良し、という世界であった。刑事たちは足を棒にして連日、発生した窃盗事件捜査のため歩き回る。早期の段階で証言なり何らかの手がかりや証拠を得、事件が解決していくなら、それは初動捜査の成功ということになる。だが未解決のまま捜査が打ち切りになり、大きな事件ならばその捜査本部が解散となり、事件が時効を迎えて迷宮入り、ということもある。
刑事課長は、いつも部下に発破をかけていた。「おまえら明日を考えるな! 今日一日を目いっぱい捜査してこそ、初めて明日という日がやって来るんだ!」。この格言にも似た言葉は、今もなお弘章の頭脳に浸透してはいるが、それでも彼は一つだけ疑問を持っていた。「刑事課長の言うこと確かに正しいとは思うが、でも刑事課内の机の上で考えている理論と、いざ現場で動き回っている我々が実践で感じることとは、やはりちょっと違う。ズレがある。課長のセリフ、美辞麗句とまでは言わないが…?」との疑念であった。
そして藤沢警察署刑事課に配属されてから概ね一年後、弘章は神奈川県警察本部刑事部国際捜査課(現在では「組織犯罪対策本部」の方に属している)へと異動になった。彼は32歳になっていた。だが彼の下降線は、ここから始まっていくこととなるのである。
前述の通り、本部では巡査部長が一番下っ端となる。以前の警務部警務課付だった時と同じように、弘章はもう一人の巡査部長の女性警察官と共に、国際捜査課内の清掃やら何やら一手に引き受けなければならなかった。またそれに加えて、もちろん外への捜査活動も行わなければならなかった。
連日、各警察署から応援派遣要請がきていた。すべて外国人の関わる犯罪に伴う捜査協力の依頼であり、主に事情聴取や取調べの際にまず言語の問題がどうしても生ずるが為、弘章らは専ら英語圏の言葉を話す対象を相手に捜査活動を展開した。
ただ、神奈川県内には横須賀市と厚木市に在日米軍基地が所在しており、これらの基地内には治外法権といって原則として日本の捜査権が法律により及ばないこともあって、弘章らは殆んど横浜港を活動拠点として、その周辺を中心に与えられた職務を遂行した。そこには言うまでもなく、外国人が集まるからである。これも、太平洋上の日本国の領海内から一歩でも離脱してしまえば、そこはもう海外となり日本の捜査権は及ばない。ただ領海に関わる捜査事例は、まずもって殆んど取扱いがなかった。
弘章は、こんな事件を捜査したことがあった。それは東南アジア系とみられる外国人数名が絡む、大麻と覚醒剤ならびに拳銃の密輸密売組織の追及捜査であった。弘章らはまず、対象となる外国人マフィアに目星をつけ張込み捜査に当たった。専門用語でこれを「邀撃捜査」と呼ぶ。
横浜市内の中華街で、ブツと現金の交換取引が行われるのを現認! 相手方に気づかれ、この現行犯人らは傍に停めてあった私有車両にて逃走開始! 弘章ら2名も覆面警察車両にて直ちに追跡開始という局面であった。もちろん、赤色灯点灯の上、サイレンも吹鳴させ追尾した。向こうも必死だからそう簡単に停まるはずもなかった。
逃走車両は湾岸首都高速へと入った。延々(えんえん)と一時間以上も緊急走行した後、国道に出て彼ら3名は路上に車を乗り捨て、裏通りへと逃げ込んだ。弘章ともう一人の刑事は、ここで彼らを見失ってしまった……。付近一帯を隈無く捜すも、同人らを発見できない。だがそれでも、引き続き捜索活動は続行された。だが発見には至らなかった……。「悔しい……、空しい……」。弘章は空虚感でいっぱいだった。
このようなケースで、まず国内で指名手配してそれでも逮捕に至らないような状況であれば、後日、次のような手段・方法へと変更になる。被疑者らが何らかの手段を講じ本国などへ国外逃亡を測ったと十分に示唆される場合は、重要犯罪につき警察庁を通じフランスのリヨンに本部のあるICPO(国際刑事警察機構)あて、被疑者らの国際手配へと踏み切る。この手続きは、すべて英語で執り行われる。これは別名、国際捜査共助体制とも一般にいわれる。ICPOとは、Interpol=International Criminal Police Organization の略で、この手続きの窓口となる捜査機関である。
一方、弘章は、職務を継続する中で、徐々に感じ始めていた。「あゝ、本部の刑事職って、なんて大変なんだろう……。一線署の刑事より、遥かにシンドい! まさしく仕事一色だ…!」と。休日なんて、あってないようなものであった。当時は今でいう携帯電話やスマートフォンなどという物はまったく存在せず、その当時やっと出始めたポケベルなる物を本部の刑事たちは皆、持たされていた。いつでも非常召集に対応できるように、との理由からだった。
弘章の心の中に、「俺は、年がら年中、職務を全うするのに縛られているんだな…」との思いがどんどん募っていった。その頃、今回の本部への異動に伴い、彼は妻の典子、長男の友作と共に、横浜市内のアパートへと引っ越していた。だが彼は忙しさのあまりほとんど、家に居たくても居られなかった。休日でもポケベルが鳴って、本部国際捜査課あて電話を折り返し、非常召集で休日出勤で駆り出されるという繰り返しが続いた。少しずつ、彼の中に仕事のストレスが充満していった。この間、妻の典子は専業主婦として、子育てを中心に家事に専念し、ずっと家庭を守っていた。
そしてある日、弘章はアパートで些細なことから典子と激しい言い合いの夫婦げんかをし、そこで彼の溜まっていたストレスが一気に爆発してしまった。彼は叫んだ。「出て行け !!」……。
典子は最初、黙っていたが、それでも引き続き口論は段々とエスカレートしてゆき、最後に彼女は正座してきちんと指をつき、ひとこと囁いた。「お世話になりました。さようなら…」。
こうして典子は、その日のうちに息子の友作を連れて、浦和市(当時はまだ、さいたま市に合併前)にある実家に戻ってしまった。別居生活の始まりであった。
しばらくの間、弘章は妻に対する怒りのようなものがおさまらず、典子になんの連絡もとることなく、「そのうち帰って来るだろう」と安易に考え、ただ多忙な職務を全うしていた。だが現実は、アパートでの炊事、洗濯や掃除など、仕事と掛け持ちで大変な思いをし、つくづく妻・典子へのありがたみを痛感していた。同時に息子・友作がいなくなった寂しさも身に染みて感じていた。
一ヶ月経っても、妻と息子は帰って来なかった。弘章の中に「この先どうしよう」との焦りが生じた。だが忙しさの中、これに構っている時間もなく、そのまま放置の状態で二ヶ月が経過した。そして時間の空いたある日、弘章は妻を説得しようと浦和市の実家に電話を入れた。
「もしもし、典子か…? 悪かったよ。俺がちょっと言い過ぎたよ。言ってはならない一言を言ってしまった。ごめん」。弘章はそう話しかけたが、典子はただ聞いているだけで、ほとんど返答はしなかった。彼女の精神的ショックは大きく、あまり話にはならなかった。お互いのこういうやりとりが数回繰り返された。典子は心を閉ざしたままだった。
約半年が経過した。夫婦の事態に変化は起こらなかった。なんの進展も見られなかった。その間、弘章は、仕事の合間をぬって幾度か妻の実家を直接訪問し、帰って来るよう再三の説得を試みたが、案外強情なところもあった典子は、話をはぐらかしたりして説得に応じなかった。一方、実家の彼女の両親は、年老いていることとおとなしい性格から、夫婦間の問題にはまったく口を挟まず、ただ見守るだけだった。典子は末っ子だった。
こうしてやがて一年が経過した。典子は精神的ダメージが大きく、最寄りの総合病院の精神科に通っていた。同じように弘章も、落ち込んで元気が失くなってしまい、意気消沈していた。なにが理由というわけでもなく、気がつくといつの間にか、典子が住民票のある横浜家庭裁判所へ離婚調停の申し立てをしていた。弘章がこれに気づいたのは、それからずっと後になってからだった。彼に、事情聴取の呼び出し状が届いたからである。
家庭裁判所でも、二人同時に呼ばれて事情を聞かれるのではなく、必ず別々に…であったことから、裁判所でお互いが接触することはなかった。この頃には、弘章ももう既に全く覇気がなく、刑事の職務も全然手につかない状態になっていた。
典子側の離婚の条件は、当然長男の友作の親権を取得することであった。当時の弘章は、これに何の不服申し立てをすることもなく、これを暗黙のうちに了承した。
調停離婚の結果を申し渡される日となった。この日だけは、お互いが揃って呼ばれた。共に、うつ状態であった。事前に弘章がこれに同意していたので、形式的に「離婚成立」の申し渡しだけ受け、短時間でそれは終了した。協議離婚のように、離婚届に署名押印する必要さえなかった。
弘章は、どんどん落ちていった…。刑事の職務を遂行する力は、もはやゼロに等しかった。刑事部国際捜査課課長は、そんな彼の事情を察し、止むを得ず彼を国際捜査課内の庶務勤務へと分掌異動した。
弘章は庶務の仕事にも身が入らず、机に向かって「故郷の福島へ帰りたい! 戻りたい!」と心の中で叫び続けた。見かねた課長が彼を呼んだ。「髙田、いま思っていることを、正直に言ってみろ?」課長は尋ねた。「横浜を離れて、生まれ故郷の福島に帰りたいです」弘章は答えた。
後日、課長は弘章を連れ、JR東京駅構内にある『福島県Uターン情報センター』へと向かった。そこで弘章は自分の希望する職種も言わなかったが、たまたまその時の求人募集で県内の郡山市に所在するリゾートホテルのようなところが一件あった。同センターの係員にも薦められ、課長も賛成したことから、彼は何も考えることなくこれに同調した。
その直後に弘章は、休職扱いとなり、課長からUターンの準備をするよう促された。彼が神奈川県警察官を拝命してから、11年の月日が経過していた。彼が33歳のときだった。