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第2章 最初の職業1 (警察学校初任科)

入校日の4月1日、弘章は神奈川県警察学校の門をくぐった。校舎の三階に、各入校生が事前に送っていた布団その他の荷物が置かれていた。三階までのエレベーターなどは無く、弘章は一歩一歩階段を踏みしめて、以後半年間の厳しい訓練や警察官としての教育への覚悟を決めながら上って行った。

荷物置場には既に10人位の他の入校生達、すなわち弘章の同期生となる男たちが各々の荷物を整理していた。場の中央に、恐らく教官かと想われる20歳代後半くらいの中々イケメンの男性が仁王立ちしていた。表情は一見柔らかく優しそうで、弘章はホッとした様子を示した。だが途端にその良さそうな教官らしき人物が弘章に向かって大声で怒鳴った。「こら! そこのいま来た奴! 何をゆっくり構えてるか! 早く自分の荷物を探して片付けろ!」。これには流石(さすが)に弘章もビックリした。見かけと全然違うその人の言動に驚きを隠せなかった。他の入校生達は、この教官らしき男のその一喝で、更にペースアップして荷物整理を急ぎ出した。

それぞれの入校生たちが、割り振りされた各自の部屋に入り一通り片付けを終えた頃を見計らって、この教官らしき人物が一部屋ずつ、入校時の挨拶(あいさつ)を兼ねて、指示と注意に回った。

弘章の名前が表示してあった部屋は、校内の二階に位置し、その階の部屋は皆、初任科第131期2組と書かれていた。そして、この教官らしき男の挨拶回りの時に初めて事実が分かった。彼は、その131期2組を担当する助教(No,2の助手教官)であった。という事は他にもう一人、正規の担当教官がいることになる。

この助教が各部屋で挨拶をした。「俺が今日から半年間おまえらの面倒を見る助教の吉川隆洋だ。覚悟しろよ! 徹底的に、おまえらをしごき抜くからな!!」。この助教の、そのイケメン風とは裏腹な(すご)みに、2組の全員が冷や汗を()いた。いきなりであった。誰もがその場で平常心を失い、足が(すく)み、この先6箇月間の地獄の日々を予想し悟り、身震いするのを隠せなかった。当然、弘章もその例外ではなかった。

吉川助教は階級が巡査部長で、逮捕術の教官であった。弘章は、これまでに空手や少林寺拳法などの経験は全くなく、そのまま素人(しろうと)の初心者であった。入校式から2日後の、授業開始日の午後からの4時限目、初めての逮捕術の授業が行われた。場所は板張りの体育館で、最初は館内周回のランニングから始められた。それは50周という長距離であった。皆ヘトヘトになった後、続いて(けん)立てなるものが行われた。これは(こぶし)で腕立て伏せをやるものである。一部の経験者を除いて皆初めて試みるものであった。予想を(はる)かに超えて痛みが走る! 30回以上も続いたろうか…? 一人二人と挫折してゆく。だがこの教官は持っていた竹刀(しない)をそいつらに振り下ろす。俗にいうケツバット状態である。更に教官は怒鳴る。「その程度か! 死ぬまでやってろ!!」。

70分で漸くこの拷問(ごうもん)にも近い授業が終わった…。生徒全員が言葉すら出なかった。誰もが限界のようなものを感じていた。警察学校のしごきにも似たようなものが、まさかここまで(ひど)いものとは誰しも思わなかった。

逮捕術の授業が3回終わった時、ほとんどの者の拳の先はただれて炎症を起こし、血が吹き出していた。授業では更に突きや()りの種目が加わった。初体験であった弘章には、いきなりこれを上手くはこなせない。途端に吉川の竹刀が弘章のケツに飛んできた。「突き手が伸びていな~い!」バア~ンと!! これで弘章の尻は翌朝、青くなって内出血を起こしていた。

一か月も経過したであろうか? 皆の拳は出血も止まり、固く変化した。そして弘章もこれに慣れてきて、特に蹴りの技術の進歩には目を見張るものがあった。この頃には2組の同期生たちもどうにかこの授業についていけるようになり、これに伴って同期間の絆や結束も一段と深まり、また吉川教官の罵声も穏やかに影を(ひそ)めるようになった。

一方、弘章は、その少年時代を福島の片田舎で過ごしたこともあって、昔からどちらかというとのんびりおっとりとした性格の持ち主であった。彼は食事を時間をかけてゆっくりと(たしな)むタイプの男であったが、ここ警察学校ではそれが通用しなかった。警察学校の食事時間は、暗黙の内に(おおむ)ね15分と決まっていた。総代(クラスの長)がいつも先に済ませて皆が食べ終わるのをジッと待っている。頃合いを見てこの総代が「ごちそうさまでした」と一声(ひとこえ)発し、それに続けて皆で同じ言葉を合掌(がっしょう)する。そういう世界であった。だが幼い頃から身に付いた習性というのはそう簡単に改められることではなく、食事の遅い弘章はいつも皆を待たせて迷惑をかけていた。

またここは3歩以上はダッシュ! という世界でもあった。場の移動は極めて迅速に! という世界であった。もう一人の正規の担当教官である大山教官は、階級が警部補で、クラスの皆にいつも言っていた。「おまえら少なくとも分単位で動け!」と。それでも弘章は気づいていた。助教の吉川は鬼教官だが、その反対に大山担当教官の方は比較的穏やかであり、うまくバランスをとって編成されているな… と。

彼らは運動能力を鍛えているだけでは決してなかった。各種法律や実務に直結した厳しい勉学をも要求された。同期の中には、職種がら法学部出身者が多い。弘章の学んだ英語はここでは全く関係ないに等しかった。早朝6時にチャイムで起床、授業でみっちり法律関係を叩き込まれ、夜は夜で延灯(えんとう)といって教室の灯火を長くしてもらう許可申請を総代の方から出してもらい、皆で予習復習等に励んだ。従って睡眠時間などというものは4時間位しかなかった。

とある真夏の午後、鬼の助教吉川が全員に命じた。「今から皆でグラウンドを走る!」。400メートルトラックを二列に正しく整列して、かけ声と共に駆け出したのはいいが、果たして何周するつもりなのか? 20周を過ぎたあたりから、一人二人と付いて来れない脱落者が現れた。遅れをとる者、立ち止まってしまう者だ。というのも、あまりにもペースが速すぎたからだった。25周を回ったところでクラスの42人中、29人だけが残った。体力が取り()の教官吉川は、引き続き先頭を走って残りの者を引っ張った。ペースは一向に(おとろ)えない。教官は(さけ)んだ。「あと5周!」…。つまりはハイペースのまま30周しようとしていたのである。弘章は、ほぼ限界に達していた。高校時代に野球で鍛え上げた足腰も、このペースには悲鳴を上げていた。だが歯を食い(しば)って彼は走り続けた。28周目を過ぎたところで、やや遅れをとった。必死について行こうとはしたが、どうすることもできない。(つい)に29周目を回ったところで弘章は足がもつれ、その場に倒れ込んでしまった。「あと1周なのに…」。彼は地面に顔をうずめ、そこで(くや)し涙で泣き崩れた。数分後、我に返って漸く立ち上がった弘章は、屈辱感と敗北感でいっぱいだった。


こうして警察学校での苦しい日々が、一日一日と過ぎていった。半年間というのは意外と長いようで、それでも早いものである。入校から5箇月が経過した時点で、皆それぞれ各警察署の警察官派出所(今でいう交番)へ実務修習に出た。先輩の現役警察官に付いて現場の実務を習うためである。弘章の実務修習先は、たいへん忙しいことで有名な横浜南警察署上大岡駅前派出所であった。当時は交番勤務員のことを外勤警察官といって、朝から翌朝までの24時間勤務で三交代制で動いていた。弘章の付いた先輩は、高卒で彼より年下であったが、動作が機敏で礼儀正しい若者であった。

3回目の当務の午後、徒歩にて巡回警ら中、彼が突然走り出した。「髙田さん、あれ!」と言いながら…。弘章も何が起こったのか分からないまま、反射的に走り出していた。前方を見ると、中年の男1名が何やら車内を物色(ぶっしょく)している様子が見て取れた。車上狙(ねら)い(現在でいう「車上荒らし」)の現行犯か?!! その男がこちらに気づき、(あわ)てて逃走を開始した。()ぐさま追尾した。150メートルほど走った所で先輩がこれに追いつき、男も断念したのか止まった。弘章も直ぐにこれに追いついた。この間、まさしく「時間ゼロの境地」に等しかった。先輩が職務質問を開始した。「あそこで何をしていたのか?」。

男は(しばら)くの間、何も言わずに黙秘を続けた。先輩は男が右手に何か握り締めているのに気づき、「それは何か見せてください」と言った。男は観念したのか、そっと右手を開いた。そこには小銭入れが存在していた。「あの車から()ったのか?」。男は、まだ何も言わない。先輩が男の肩に手をかけ、車両のあった元の場所までの同行を求めた。

車に戻って見ると、若い男女が今まさに車を発進させようとしているところであった。先輩はまた走り出し、この車両を制止した。「車内から何か無くなっている物はありませんか?」先輩が尋ねた。女性の方が助手席前のダッシュボードを()し、「この中にしまっておいた私の赤い小銭入れが無い!」と言った。男性の方が「しまった! ほんのちょっと車を離れるだけだったので錠を(ほどこ)さなかった!」と言った。

先輩は男が所持していた小銭入れを指差し「それはこれではないですか?」と言った途端「ああ、それだ!」という返事がきた。この時点で男に再度質問すると、「ごめんなさい。俺が盗りました」と犯行を認めたので、その場で現行犯逮捕となった。

先輩は直ちに男に手錠を施すと共に、携行の無線機でPC(パトカー)の派遣要請をした。そして被疑者は速やかに本署刑事課へと連行された。

刑事課にて、弘章は先輩が作成する現行犯人逮捕手続書をジッと見て、捜査書類の書き方について学んだ。また別途、被害者からの被害届の受理は、刑事の方で行った。そして取調室では、別の刑事が被疑者供述調書の作成に当たっていた。

取調室内で、刑事は男に犯行の動機について質問した。男は次のように語り出した。「俺はいま、ほとんどホームレス状態なんだ… 残金が僅か90円… 生きるため仕方がないからやってしまった。この(とし)になるとそう簡単に雇ってくれるところなど、そうはない…。増してや不景気だし…。若い頃から幾度となく転職を繰り返し、今じゃこのザマあだ。俺みたいなのを、人間のクズという……」。

実務修習生の弘章には、この取調べの様子は流石に見せてはもらえなかったが、後になって先輩からこの供述内容の状況を教えてもらった。そして今回の被疑者が、余罪についても自供し、最近、所管区内(派出所管轄区域内の略語)にて頻発していた一連の車上狙いは、全て同人の犯行だったと聞かされた。弘章は、刑事事件発生現場の実態のようなものを垣間見(かいまみ)たような気がした。また本件逮捕手続書に弘章の名前も連名されたことから、彼は後日、警察署長賞を受け取った。だが、話は前後するが、彼が警察学校時代に貰った賞は、この署長賞と卒業時に頂いた皆勤(かいきん)賞の僅か二つのみであった…。


実務修習が終了し、間もなく卒業試験の時期がやってきた。「終わり良ければすべて良し!」との意気込みで、弘章は最後の猛勉強を始めた。少しでも卒業成績を上げようと努力した。各教科の刑法や刑事訴訟法、警察法や警察官職務執行法、道路交通法からけん銃操法に至るまで、きれいにノート整理し片っ端から暗記に入った。

試験当日がおとずれた。一日5教科ずつで二日間連続の合計10科目というハードスケジュールで行われたが、二日目で弘章は大失敗をしてしまった。けん銃操法の教科で、けん銃取扱規則の10項目を試験用紙に書き込む段階で、覚えていたはずの第3項目め以下が、突如(とつじょ)頭が真っ白になって消え失せてしまい、思い出すことも出来ず、そのまま答案用紙を提出してしまった。

生徒たちは毎晩、生活記録ノートというものを記して、翌朝教官に提出していた。弘章はこのノートの中で、思い切って教官あて卒業試験の自分の順位を尋ねてみたが、大山担当教官の赤字の殴り書きで答えが戻ってきた。「前期試験の二の舞だ!! 馬鹿者めが!」。弘章は顔をうなだれガックリと失望すると共に、「やっぱり人生は甘くないなあ…」と痛感した…。とその前に、自分には基本が全然できていなかったんだろうなあ~、ともつくづくと知らされた気がした。


いよいよ卒業のときとなった。前述の生活記録ノートを書く最後の日となった。弘章は思いを込めて、全文英文から成る長文を書いて提出した。大山教官、吉川助教官の両者から、赤字でメッセージが返ってきた。

大山担当教官: 髙田! 自分自身の中には、常に強い自分と弱い自分が共存するものと思え! 願わくば、その強い自分が弱い自分に打ち勝つ人間となれ! 髙田、期待してるぞ! 君の明るい性格で、前向きに頑張って生きよ!

吉川助手教官: 最後を英語で閉じるとはニクイ奴だ。俺の英語力を試されているようだ。髙田! 自分の信ずる道を信ずるように歩け。但し、自己に閉じこもるようなことだけは絶対するな。健闘、活躍を切に祈る。髙田、頑張れ!!


卒業式の日、弘章はこれらの言葉を胸に、勇気を振り絞って、新天地の赴任(ふにん)先へと旅立った……。










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