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第9章 横浜へ、カムバック

それから一か月半後、弘章は失意のどん底を引きずったまま、両親の住む横浜のマンションへと戻ってきた。しばらくの間、彼は暗い心境のまま何もせずに、ただマンションの601号室にずっと引きこもったままでいた。

そしていま、序章で述べたとおり、弘章は少しずつ精神的に回復してゆき、まずは自分の空白の時間を利用してエッセイ等の執筆を趣味としてやっていこう、と考えるように変わっていった。だがまだ、働こうという気にはなれなかった。当時は当然まだ、現在のように例えばインターネット上で創作した作品などを無料で公開できる、というような時代ではない。あくまでも趣味として彼はそれをやり始めた。

一方で彼は、それまでに貯蓄していた多くの金銭をそのまま所持しているわけでは決してなかった。警察の退職金として受け取った245万円プラスαという金額も、見る見るうちに残り少なくなっていった。


途方にくれた心理状態を引きずって、弘章は横浜市金沢区の街中を彷徨(さまよ)った。京浜急行電鉄の金沢八景駅前に差しかかったとき、一軒のパチンコ店が目に入った。そこには「ファンサービス感謝デー、爆出し中!」との看板が正面に(かか)げられており、弘章はフラフラとそこに入ってしまった。放心状態で空いていた平台で打ち始めると、直ぐさま単発の一回当たりがきた。それが終了すると同時に、やる気もなかった彼はそのままやめてしまった。差し引き3,000円の勝ちで終わった。店内スタッフの応対も良く、弘章は何気なくその店の会員登録カードを作ってしまった。

後日、彼が赴くままに再度この店に入店すると、店長とみられる男が非常に愛想良く、笑顔で微笑みながら彼に会釈(えしゃく)をした。弘章は気を良くし、また同機種で打ち始めた。ところが今度は全く当たりがこない。彼は少し意地になって打ち続けた。そして結局、24,000円を失ってしまった。

2日後、弘章がこの店に開店と同時に再入店して、また同じ台で打ち始めると、スタッフが笑顔で挨拶してくれた。今度は早い段階でまた単発の当たりがきた。そしてその全部を打ち込み更に追い銭をして継続したが、一向(いっこう)に次の当たりがくる気配(けはい)がない。気がつくと彼は、35,000円をつぎ込んでいた。そしてそれとほぼ同時に、閉店時間となってしまった。

3回このパチンコをして、通じて彼は56,000円も負けてしまった。そして弘章はこのとき「せっかく会員カードまで作ってやったのに…。店員らの営業スマイルにまんまと(だま)されてしまった!」と後悔の念に駆られ、もはや人間すら信じられなくなってしまった。


弘章は趣味のエッセイ等の執筆活動だけは継続していたが、心中は相も変わらず暗いままだった。毎日のように彼は街中を彷徨った。ある日その途中で、著名な英会話学校の受講生募集の案内チラシを弘章は目にした。それには「NOVA横浜校」と書かれていた。衝動的に彼は、「また昔に戻って英会話でも始めてみるか…」と直感で、そのとき感じた。「しばらく英語とも離れているし、やるとしたら、とりあえず中級の一般コースあたりかな?…」とも思った。そして私が彼と出会ったのは、その同じコースのクラスメイトとして、であった。

弘章と私は、その英会話力のレベルがほぼ同一と認められた。それもあって、私と彼は友人関係に発展していった。弘章は50歳であり、私より6つも年上だった。

弘章と知り合ってから二年近くが経過したとき、彼はすでに預貯金が底をつく状態に近かった。愛煙家だった彼が、タバコをキッパリとやめてしまった。また彼は次のように言い出した。「英会話の受講料が払えないんで、俺、英会話学校やめるよ…」。私は一通りの話を聞き、それでも彼に何とかして現状を打開するよう、促し説得した。

その後、彼はハローワーク横浜や新聞の求人広告や求人募集雑誌などから、派遣(ハケン)の仕事を漸く探し当てた。それは神奈川県内の湘南地区一帯にある、レストランや宴会場や披露宴会場の何箇所かを点々とするホール・サービス・スタッフの仕事であった。それはそのまま、彼のかつてのリゾートのホテルマンとしての経験を生かせた。ただこれらは毎日あるのではなく土日祝日等に限られていた。したがって彼の収入は、一ヶ月当たり8万円にも満たなかった。それでも彼は、英会話学校を継続しようと、新年度の引き続きの更新手続きを行なった。


弘章はよく、[格差の是正]という言葉を口にした。確かに現実は、横浜のIT企業の経営トップにいる私と彼とでは、それこそ天と地の数段の格差開きがあることもまた事実であった。だが彼の中には、「自分のミスは自分で取り返す」との精神がまだ宿っていた。だから彼自身の中に、閉塞感(へいそくかん)のようなものは存在しなかった。それでも弘章は内面に悟りに近いものを持っていた。「でもホームレスの人達、ある意味彼らこそが、本当の意味で人生を極めた人たちであるのかもしれない…」との……。


弘章には「どうしても遣っておかなければ…」と思っていることがあった。それは「それぞれに大きくなったであろう息子たちに、近いうちに是非一度、再会してみたい!」との願いだった。そして最初に一人目の息子・友作に、その3か月後に二人目の息子・善勝に、それぞれわざわざ遠方まで出向いて、一度ずつ再会を果たした。

そして二番目の善勝と会ったときに、弘章は彼に次のように、やや苦笑いしながら話した。「ごめんな…。知ってのとおり、キミには俺側の腹違いの兄貴1人と、お母さん秀子の方の、実の父親違いの姉さん兄さんが1人ずついるよな…。思春期になろうとする善勝にしてみたら、さぞかし複雑な心境だろうと思うが、自分が生まれ()でた時に、たまたま偶然(ぐうぜん)持ち合わせてしまった動かしようのない皮肉な運命として、受け入れ認め諦めて、どうか逆に開き直って強く生きてくれ。本当にごめんな」。このとき善勝は無言のまま弘章同様に苦笑いを浮かべたが、弘章にはそのとき息子が何を考え、どう思っていたのかまでは察することが出来なかった。

後日、別れた妻たちから異口同音(いくどうおん)に次のような言葉がかえってきた。「私は元妻(もとつま)というだけで、もうあなたとは何の縁もないけど、息子とあなたは、籍は抜いても血の繋がった親子…。だから息子と連絡とったり、たまに会ったりするのは認めるわ」。二人とも、人間的にはよくできた女性であった。それが弘章には何より(うれ)しかった。


一方で弘章は「いつの日かプロの作家として身を立てたい!」との夢を諦め切れず、その野心を持続し、エッセイに限らず小説などの分野へも手を伸ばし始めた。

弘章が愛用していた「アマチュア作家ノート」の中に、次のような走り書きのメモが存在した。


いま自分の中には不屈の精神と、もしそこに僅かのチャンスでもあるのならば食らいついてでもいこうとする姿勢があります。何事(なにごと)も諦めてしまったらそれで終わりと思います! しかし全国に五万という書き手が存在する中で、浮かび上がれるのはそのほんの一握り…、という厳しい現実もあります。

夢でしかないかもしれませんが、少なくとも何もしないで受け身でただ手をこまねいて不動で見ているだけでは、余りにもつまらなさ過ぎる人生… という気がします。

ただ永遠にゴールはありません。自分は今、とても研ぎ澄まされた状況下にあると確信しています。

自分がこれで満足だと考えてしまったなら、もうそこで終わり…。死ぬまでこの世界にチャレンジする覚悟でおります。

だが結果を残さなければ、誰も認めてなんかくれないことも十分承知しています。

それでも死ぬ瞬間に、自分が続けてきた事に、何の後悔もなく自信満々で死んで()けるのではないかと思います!



弘章が傍らやっていたハケンの仕事は、言うまでもなく時給900円位で目一杯こき使われる職種だった。ある意味、正社員とかの日頃の仕事上のストレスのはけ口とならなければならない役割をも担っていた。だがそれも、その派遣場所で働く従業員の人間性により異なった。

こんな出来事もあった。某レストランでのことである。1人の、皆から嫌われ者の男性スタッフがいた。彼はハケンいじめで悪名高い人物で、派遣の者の(あいだ)(おそ)れられていた。そして弘章がこのレストランで勤務した3度目のとき、予約のあった昼食会が終了のあとに彼は従業員用のエレベーター内でその男に言われてしまった。「おまえ、今日の自分に点数をつけるとしたら何点だ!?」。弘章はその日、満足に仕事をこなし、自分では90点位という自信はあったが、彼の性格上そこは(ひか)えめに「70点です」と答えると、「それなら時給の70%分しか給料は払えないな…。おまえなんか二度と来るな!!」と嫌味(いやみ)っぽく(けな)されてしまった。弘章は「そうですか…。でしたらそのように、私の派遣会社『B&Bコーポレーション』の方に伝えてください。私は一向に(かま)いませんよ」と即答で返事をした。そのとき男は含み笑いだけ浮かべ、何も言わずにエレベーターを降りて行った。弘章は思った。「経営者でも店長でもないのに、果たしてそんな権限があるのか?」と。

このような場合、派遣の仕事に従事する者は、トラブル等の状況について派遣会社あて速やかに報告することを義務づけられていた。弘章は詳細を担当者あて伝達した。こういう問題もあって、以後、彼はそのレストランへ二度と派遣されることはなかった。


弘章がハケンの仕事を始めるようになってから、概ね半年が過ぎた(ころ)である。湘南海岸沿いに所在のリゾートホテルでの披露宴サービスを終え、いまだ自分の車を所持していなかった彼は、京浜急行バスのJR逗子駅行きに乗車するため、派遣先から最寄りのバス停へと向かった。そのバス停は、相模湾沿いに走る海岸道路の一角(いっかく)に位置していた。

徒歩にてそこへ向かう途中、若い母親とみられる女性が道路脇で他のママ友と笑いながら立ち話をしている様子がうかがえた。そして次の瞬間道路上を見ると、おそらく彼女の娘と思われる幼児が三輪車に乗って、いま正にその道路を横切ろうとしている。そこは急カーブとなっており、突如1台のトラックが猛スピードで曲がり現われた! とっさに弘章は「危ない! 助けなければ!」と瞬時に判断し、危険を(かえり)みずに道路上へ飛び込み、幼児を三輪車ごと力の限り向こう側へと押しやった。

幼児はギリギリのところでトラックと接触せず難を(まぬが)れたが、弘章は勢いよくこれに()ね飛ばされ、ガードレールを飛び越え海側まで吹っ飛んだ!

そばにいた母親の女性が我に返り、直ちに近場にあった公衆電話から119番通報して、救急車の要請となった。10分後には救急隊員が現場到着し即時に救急病院搬送、という局面であった。

弘章は救急車内で意識不明の状態だった。強度の全身打撲による瀕死(ひんし)の重傷で、虫の息…にも近い状態にあった。その当時、まだ救急救命士という資格者は存在せず、車内の救命器具も現在ほどは充実していなかった。

前の助手席にいた隊員が救急車内に備付けの無線機で、しきりに受入先の病院を捜索する。だがその日は何処(どこ)の病院も「ベッド数に空きが無く受入不能…」との回答が相次(あいつ)いだ。また週末ということもあって道路はかなり渋滞しており、ようやく受入先の病院は見つかったものの、なかなかスムーズな緊急走行は行えず、病院到着までに相当な時間を要した。

到着と同時に、弘章はICU(集中治療室)に運ばれた。直ぐさま医師による診察ならびに応急処置が施された。しかし彼は、そのとき引き続き意識不明の昏睡(こんすい)状態にあり、至急の点滴は勿論のこと、医師らはありとあらゆる出来る限りの処置に当たったが、手術等を行えるような容体(ようだい)ではなかった。

やむを得ず、出来るだけの延命措置が取られた。だが日毎に、彼の心拍数や脈拍の鼓動は低下の一途を辿った。そして5日後、弘章の心肺は停止し、やがて医師により死亡が確認され、ついに彼は帰らぬ人となってしまった……。


享年(きょうねん)……、弘章は間もなく、53歳になろうとしていた………。











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