空き家
1
大導寺信夫はただ立っていた。
さきほど近くのバス停でバスを降り、そのバス停から俯きながら目的の場所まで歩いてくると、その場所を見たとたんに一歩も踏み出せなくなっていた。
あぁ、行きたくない――。進みたくない――。
信夫が瞬き一つせず見つめるその先には、鬱蒼と生い茂る雑木林の中へと続く、石畳の道があった。石畳には草や苔が生え、この雑木林と一体化しているようでもあったが、この場所にそぐわない人工的な石の並びは幼い頃の記憶のままであった。
行きたくない――。でも――行かなくては。呼ばれたのだから――。
とん、と一歩を踏み出すと、その一歩の重さに自分ですら驚く。その重さを撥ね退けるように、信夫は石畳の上を歩きながら、雑木林の中へ入っていく。
――暗い。
腕時計を確認すると、まだ14時になったばかりであった。生い茂る木々の葉で、太陽の光は大部分が遮られ、足元は薄ぼんやりとしている。
そういえば――ここは暗かったな――。
信夫は思い出していた。小学校の時分、友達と一緒に学校に行くときのことであったが、友達は玄関まで向かいに来てはくれなかった。何故、向かいに来てくれないのか尋ねたことがあったが、友達はこう言った。
「――怖いから」
怖い。ただそれしか言わなかった。
暗くて狭いこの道は、先が見えない。先の見えない道からやってくるのは、何か恐ろしい物に違いない。本能的に友達は、それを察知していたのだろうか。
すると――俺はどっちなんだろう。どっち側なんだろう――。
歩きながら、信夫は思う。
俺はどっち側であったっけなぁ――。
ふと、道の左側に階段が現れた。神社にあるような、石造りの階段。石畳と同様、苔むしていた。その一段目に、足をかける。段差は低いが、苔で覆われた石段は柔らかくて、嫌な感じがした。
信夫は、俯きながら石段を登っている。登りきった先に、信夫が恐れるものがある。見たくないものがある。それでも、信夫は登る。
呼ばれたから、登る。
石段が終わった。
俯いていた顔を、信夫はそっとあげる。
そこには、家があった。
2
二階建て木造家屋。瓦屋根には草が生え、ガラス戸は汚れて曇っている。誰が見ても、お化け屋敷という表現が相応しかろうと思うこのボロ屋こそ、大導寺信夫が生まれ育った家である。
十数年振りにかつての住まいを見た信夫は、懐かしさと寂しさと心細さでいっぱいであった。見覚えのある大きな玄関の引き戸は、その当時で築数十年であったから、立てつけも悪く、幼い頃の信夫はその戸を力一杯引いて開けていた。今、目の前にある戸は見るからに腐っていて、蹴飛ばせば簡単に穴が空いてしまいそうである。
信夫は一歩、家へ踏み出す。
一歩。また一歩。
ゆっくりと家との間を、詰めていく。ようやく玄関先に辿り着くと、じっと見廻す。やはり、遠目で見るよりも、近づいた方がよくわかる。時が経っているというのが、肌身で感じれる。懐かしい、見慣れたかつての住まいが、今では襤褸と襤褸の集まり。古いというより、朽ちている。見た目も、匂いも、空気も、全て朽ちている。
その朽ちた玄関先に、字の消えかかった表札があった。
大導寺明
幹夫
幸子
信夫
順に、そう書いてある。大導寺明というのは、信夫の祖父である。祖母は信夫が生まれる前に他界しており、明が大導寺家の長という立場であった。幹夫は明の息子であり、信夫の父である。また、幸子は幹夫の妻であり、信夫の母である。
――信夫。
まぎれもない、自分の名である。そこに自分の名があるということは、自分がこの家に住んでいたことのまぎれもない証しである。にもかかわらず、信夫は不思議な気分であった。
自分はここで暮らしてた――のか。
見覚えのある家ではあるが、自分がこの家でどのように暮らしていたのか、信夫はよく覚えていない。鮮明に覚えているのは、あの日のことだけ。アレが、信夫の幼い頃の記憶を呑んでしまったのだ。
玄関戸に右手をかける。田舎なので、鍵は付いていない。力をいれて引く。
――重い。
重い玄関戸は、まるで拒むかのように微動だにしない。
どうやって開けてたっけ――。
信夫は記憶を辿っていく、幼い頃の小さい体の信夫に戻る。両手を玄関戸にかけ、両足を突っ張って、体全体で引く。
ぎぎぃーっと、戸は嫌な声をあげながら開いていく。
少し開いた隙間から、開いた戸に両手をそえ、全体重をかけて押す。さらに大きな声をあげ、戸は開いていく。
すぅー、っと空気が流れ込んでいく。
呼吸するかのように、家の中に外の空気が入っていく。
信夫は、ふぅと息をついた。
3
玄関は、奥行きのある土間になっている。
信夫は敷居をまたぎ、土間へ足を踏み入れる。
――自転車。
入ってすぐの、右側の何もないスペースを見る。
そうだ――自転車があった。
それまでおぼろげだった信夫の記憶が、その輪郭を現し始めていた。玄関を入ってすぐの右側のスペース、ここに自転車が置いてあったことを信夫は思い出したのだ。他の場所にも信夫は目を移す。家の中を縦断するように続く土間、その突き当りにはドアがある。
あそこは何だったろう。トイレ――いや風呂場か。
思い出しながら、左手にある襖に目をやる。襖に描かれているのは、松の木とその枝にとまる鷹である。
――はて、こんな絵はあったかな。
少しは記憶が明瞭になりだしたが、まだ完全に思い出すところにまでは達していない。絵をもっとよく見ようと、信夫が襖に近づいた瞬間であった。
たん、と音がした。
瞬間的に、体が硬直する。確かに音がした。普通なら他の物音にかき消されそうな、かすかな音。
――裸足。
裸足で歩く音。信夫はそう感じた。鼓動が慌ただしく鳴る。
後ろから――だ。
一呼吸置き、背後をそっと振り返ると、向かいの襖が少し開いている。信夫は一歩、また一歩と近づいていく。少しだけ開いているその隙間に、手をかける。信夫は、そっと襖を開けた。
4
襖を開けると、そこは卓袱台が部屋の中央にあるだけの部屋だった。
ここは――。
そこは居間だった。かつての一家団欒の場であったこの場所に、信夫は立っている。
卓袱台をじっと見つめていた信夫はぐるっと卓袱台をまわり、開け放った襖を正面に、すっとそこへ腰を下ろした。
あぁ――そうだ。ここに座っていた――。
信夫は思い出した。幼い頃、今座っているのと同じ場所で食事をしていたことを。自分の左手には母が、自分の右手には父が、そして正面には――。
――じいちゃん。
正面には、祖父が座っていた。厳格で滅多に感情を面に出さない人であった。
アレを見たのは、祖父が亡くなった日のことであった。
目の前に横たわる祖父だったモノを、信夫は何の感慨も無くただ見ていた。人が死ぬとはこういうものかと、信夫はただ見ていた。
その日も、いつもと同じように晩飯を食べた。左手に母、右手には父。しかし、正面には誰もいなかった。
誰もいない空間をぼんやり見ながら、信夫は晩飯を食べていた。
信夫は、ふと気が付いた。
アレは――なんだろう。
居間と向かいあった、いつもは襖の閉じられた部屋。襖には、松の木と枝にとまる鷹が描かれている。何故だかその日は襖が開いていて、信夫にはそこであるものが見えた。
かお。
顔だった。年とった女の人の顔。
「ねぇ、アレなに?」
信夫が母に尋ねると、母はにっこりと微笑んだ。
「見ちゃだめよ」
そう信夫に言うと、またいつもの食卓に戻った。
その翌日、信夫は父に連れられて家を出た。ひどく慌てていて、持てるだけの荷物を持って家を出た。
「早くしろ、呑まれるぞ」
父はそう言って、信夫の手を引っ張った。
信夫はふらつきながらもう一度、家を振り返った。
開けっ放しの玄関に、にたっと笑った顔があった。
5
あの日を思い出した信夫は、笑っていた。にたにたと笑っていた。
信夫は向かいの部屋の閉じられた襖の前に立ち、その襖を力一杯開け放った。
殺風景な和室に、古い仏壇が観音開きを閉じて、ぽつんとあった。
そっと近づき、耳を仏壇にあてる。
「んふ」
と何かが笑う。
信夫は恍惚とした表情で仏壇を開けた。
顔がいた。
仏壇の中で、目を閉じて、そこにいた。
信夫は両手でそっと顔を持ち上げると、互いの額をそっとくっつけた。
顔の両目が、ぱちっと開く。
「おかえりなさい」
そう言うと、にっこりと顔は微笑んだ。
「ただいま」
そう言うと、信夫はにたっと笑った。