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6 転章 一

 孫に囲まれて迎えた還暦のお祝いが、つい昨日のことのように感じられるが、それから既に十二年が経過していた。その間に夫は逝ったが、家のことは長男が立派に引き継いでくれて、孫たち、曾孫たち、みんな健やかに育ってくれた。

 癒しの手を授けてくださる〈高宮〉の神官さまたちの、そして遡れば、かつて、トヨサトを救ってくださった、あの颯爽とした黒髪の冒険者さまのお蔭を受けている。

 一番年上の孫の子で、十二年前は、まだ生まれたばかりの乳飲み子であった曾孫も、すっかりと大きくなって、この頃ではめっきりおませさんになってきて、この前など好きな男の子がいるんだとこっそりと教えてくれた。

 十二歳、それとも十三歳だったろうか。ちょうど、あの頃の自分と同じ年頃だ。思えば自分も十三の娘であった時にはよく恋をしていた。そのほとんどは淡く、口に出される前に、空にとけてしまうような、ままごとのような恋であったが、かけがえのない思い出として、記憶の中のあの日々は今も輝いている。

 この子も、きっといつか幼心の恋を思い返す日がくるのだろう。

 そういえば、顔立ちや気質も一番自分に似ている気がする。

 こんな風に慌てて駆け込んでくる様子なんて特にそうだ。

 なにかびっくりする出来事があったのだろう。自分もよく走りまわっては、はしたないと両親や祖母に叱られたものだ。

 ふふ。そのことを思い出して、たしなめる時には、いつも奇妙なおかしみを感じる。振り返って考えれば、いつも優しく微笑していた祖母は、彼女もまた同じように感じていたのかもしれない。

 これ、どうしたのです、いつも言っているでしょう、パタパタと足音を立てて走りまわるのは、立派な婦人に相応しい振る舞いではありませんって。ほら、息を落ち着けて、それでどうしたのです。

 心臓が止まるかと思った。

 曾孫が告げた名前に、心底から驚愕した。

 もしも足腰が弱っていなければ、常日頃の教訓を放り捨てて、すぐにでも駆け出していただろう。

 曾孫に手を借りて歩きながら、当時のことを思い出していた。

 今でも鮮明に覚えている。

 あの人は、強くて、凛々しくて、そしてなにより美しい方だった。男のような格好に、眉を顰める大人たちもいたが、その鮮烈な姿には、町の娘たちはみな熱狂したものだ。十三の小娘だった自分もやはり憧れた。自分たち〈大地人〉とは、まるで懸け離れた存在だとは、既に重々弁えていたつもりだったが、それでもなお、いや、それだからこそ、強くひきつけられた。

 我が家の宿に滞在されていたのは、ほんの数日のことで、言葉も二言三言交わしただけであったが、そのことがとても誇らしく感じられて、友人たちに自慢しては、羨望の目で見つめられた。

 あれからもう六十年にもなるのだ。人の一生にも近い、長い長い時間である。それだけの時間を経ても、なお未だ色褪せぬ、終生忘れられぬ思い出だった。

 ああ、それなのに!

 イヌガミの夫婦神さま。この七十年余の半生、ずっと信心を続けてまいりました。お二方の御子様とも言い伝えられるお天道さまに、恥じるような真似もしてこなかったと胸を張って申せます。

 だというのにあんまりな仕打ちでございます。どうして、この哀れな七十の老婆を、いまさらになって嬲[なぶ]られるのですか。

 冒険者さま、神祇官さま、どうして今頃になって……。

 その人は変わらず美しかった。それどころか、ますます活き活きとして、若々しく、美しさを増しているとすら感じられた。

 すべてを風化させずにはおかぬはずの時間の刻印は、その人の前には無力であったばかりか、落胆を喜ぶ美化の力さえ、彼女は軽々と笑い飛ばした。

 ひどく戸惑っていた。あの方が未だに若く美しかったことにではない。そんなことは分かっていたことだ。

 そうだとも、分かっていたつもりだったのだ。あの方は〈冒険者〉なのだから、老いるはずがないということを。

 胸の奥がじくりと痛んだ。再会の感激ではなかった。真っ先に湧き上がったのは、嫉妬に羨望、劣等感、そんな情けない感情だった。

 愕然とした。

 あの数日のことを忘れたことはなかった。

 それは、輝かしい大切な思い出だからだと信じていた。

 そして、真実最初の動機はそうであったのも間違いない。

 けれど、違った! 違ったのだ! それらはいつのまにか、ねじくれてしまっていた。

 自分はただ、記憶の中で輝きを放ち続ける彼女の美貌と、そしてそれが、失われることがないのだという事実が、羨ましくて、羨ましくて、妬ましかったのだ。

 けれど、それを素直に認める強さを自分は持たなかった。都合の悪い感情には封をして、知らず誤魔化していたのだ。

 冒険者さま。どうしてあと十年待ってくださらなかったのですか、そうすれば、きっと自分はもうこの世に居なくって、こんな思いをすることもなかったでしょうに。

 あさましいことだと思ったが、恨めしく感じることを、とどめることは適わなかった。

 曾孫と繋いだ手が震えた。なめらかな手に包まれるしなびた手。七十年精一杯生きてきた証と思い、昨日まで誇らしかった手の皺[しわ]が、唐突に唾棄すべきものであるように思われた。

 挨拶に行かないで構わないのかと尋ねる曾孫に、首を振って否定の意思を伝えた。

 彼女は、曾祖母がよく語り聞かせてくれた気に入りのお話に出てくる人物との再会に、驚き、感動しているものだと素直に考えているようだった。

 若く幼い子。老人の存在を知ってはいても、それが自分にも訪れる物だとは、考えたこともないに違いない。

 この子が今の自分と同じ年齢になった時も、あの方は今と変わらぬ姿であり続けるはずだった。

 さあ、よい子や、大婆さまを、部屋へと連れ帰っておくれ。

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