5
赤羽玄翁[あかばね・くろおきな]。
リアルでの親交もあった古い友人である。
玄翁の振り仮名はゲンノウではなくクロオキナである。ただし本人も含めてそう読む者はほとんど居ない。だいたいがゲンさん、クロちゃん、ジジイで通用している。最後は彼の種族も関係している。
赤羽君と樹里は呼んでいる。たまにクロだ。
近しい彼女が、リアルでも赤羽、赤羽言うものだから、彼の苗字を赤羽だと誤解している人間も少なからず存在した。
「いまミナミに来るのはお勧めしかねるな」
「状況は酷い?」
玄翁の話す声のトーンから、不穏な情勢が感じ取れた。
「自殺者が出るくらいにはな」
さらりと告げられた内容に樹里は息を呑んだ。
「まあ。夢よ覚めよと身投げして、目覚めてみたら〈大神殿〉てな笑えないオチが待ってたわけだが。……言っとくが俺の話じゃないぞ」
「分かってるわよ」
苦笑して、ふと、最初の巨人に殺されておけば、昨日の段階でミナミに入れてたんだなと思い至った。今から殺されに戻る気は毛頭ないが、こんな水っぽい酒を流し込む朝食は避けられたかもしれない。後知恵を続ければホームへと帰還する『呪文』もあるのだが、〈フレンドリスト〉同様にすこんと頭から抜けていた。
「しかしだ。この遷化[せんか]志願の奴さん。ホトケさんには成りそこねたが、見事に俺らの救いの神に神上[かむあ]がり遊ばされたわけよ。どこの誰かは知らないが、感謝してもしきれんな」
言って南無南無と呟く。姿は見えないが、恐らく手も合わせているはずだ。不真面目なくらい真面目腐って合掌する大男が目に浮かぶ。その茶化した口調に、樹里はちょっと眉をしかめた。なにかにつけて冗談の種にしたがるのは玄翁の悪癖だ。
「だからって自殺――未遂でいいのかなこの場合――を褒めそやすのは、それこそ褒められた話じゃないと思うけど」
「そいつは道理だ。ごめんしてくれ、以後気をつける。とはいえ、実際、助かったのは確かでな。流石に確認の為に道行く誰かを適当に斬り殺すわけにはいかなかったからな。戦闘行為禁止区域だからってのもあるが、まあ、なんだ倫理的に」
ゲーム中、戦闘などで死亡したプレイヤーキャラクタ――〈冒険者〉は、登録されている神殿で復活することになっていた。
こればっかりは、実際に死者が出てみないことには確かめようがなかったわけだが、現実に復活した人間が出た以上。
「今でも機能しているわけだ。朗報……なのかしら」
ひねくれた見方をすれば、今後も機能し続ける保証はなく、自殺さえ禁じられた絶望的な状況だとも言えるが、今のところ生への執着は失われていないので、間違いなく、安心感はあった。
多くのロールプレイングゲームの常として、人里を少し離れれば、怪物が跋扈する、死と隣り合わせの世界である。イベントによっては街が襲撃されることだってある。
樹里は圧倒的な強者ではあったが、絶対的な強者ではなかった。数えきれないほどの敗死を経験している。
むしろ死んで覚えたと言っていい。
けれどそれは、現実の自分からは切り離された、復活の約束された紛い物の死であったからだ。一回限りの生であったならば、怖くてとても戦いなんてできやしない。
そう言ったら鼻で笑われた。
軽く腹が立ったが、振り返れば、逃げるという選択肢が思い浮かぶこともなく、当たり前のように先制攻撃を選んだ自分は、存外に好戦的で、命知らずではあった。
「お前は鼻っ柱が強いからなあ」
呆れと感心の混じった声色で、玄翁は友人をそう評した。
きっと、本当の死が横から覗いていたとしても、勝てる見込みがあれば、さほど躊躇わずに、よしんば躊躇したとしても最後には振り払って、必要に応じて踏み込むのだろうなと思われた。
「勝算はあったのよ。勘だけど」
「勘ねえ」
自分だったら尻尾を巻いて逃げるがなあと呟く男に、女は不思議そうに応えた。
「だって、あそこで二の足を踏んでいたら、これから先を進んでいけないじゃない」
すると何がおかしいのか、玄翁は笑い出した。皮肉の混じらない、からりとした大笑いだった。
「いや、その通りだ。お前は凄いよ」
それが勇気なのか蛮勇なのかは判断のつきかねるところではあった。単なる戦闘狂かもしれない。そんな拭いがたい疑惑はあるが、彼女は、こんな状況でも挫けることのない、気概のある人物だった。それを玄翁は改めて知った。
「しおれてうずくまっている暇はないか。そういう意味ではどうして、あの自殺志願者も、まがりなりにも自分の意志で、現状の打開に向けて行動しただけ、まだしも立派かもしれん」
「どういうこと?」
「来ない方がいいって理由がそれだ。死屍累々ってのはこういうことを言うんだろうな。俺はいま知人の――お前もよく知ってる御仁の主宰するギルドの厄介になってるんだが、ギルドハウス三階の窓辺からミナミの中心街を眺めれば、目路の限りの広場という広場、筋という筋に、何百人、下手すりゃ千を越す数の人間が集まって、さりとて何をするでもなく、一日うずくまってやがる。目につく動きらしい動きといえば、口論がこうじたのか、取っ組み合いの喧嘩に発展するのが、ときたま見られるくらいだな」
「なにそれ」
信じられないと目を丸くする樹里。むしろ彼女が想像していた混乱は、突如手に入った過大な力に調子に乗った連中が、喧嘩や略奪に明け暮れるというものだったのだが。
「誰も彼もがお前みたいなタフガイではないってことさ」
「野郎[ガイ]言うな」
「はっはっは。まあ、実際には入れ替わり立ち替わりしてるんだろうが、昨日ここに転がり込んで来た時よりも、明らかに膨れ上がって見えるな。へたりこんでる中には体のバランスが崩れて、動くに動けない人間も相当数混ざってそうだが、見た目には分からん」
こうして念話をしている間にも、群集は厚みを増していっているとのことだった。
「市外にいた連中、屋内に引き籠もってた――いままさに俺がそれだが――連中が、意を決して集まってきてるんだろうが、それだってせいぜいが縋れる物を求めての行動で、確固たる目的意識を持って出てきたわけじゃない。街に充満する無気力な空気にやられたんだろう。数は理不尽を正当化するからな、あまり考えたくはないが、この無気力状態が拡大固定されて、生き腐れの街になりかねない」
玄翁の言葉には強い懸念が感じられた。
「もっとも、こんなことを言っている俺にしたところで、現状を改善させるに足る、何か素晴らしい方策を持ってるわけじゃない。せいぜいが、ここに居ない知り合いに連絡して、巻き込まれないでくれと警告するくらいだ」
「今はまだ混乱しているだけで、時間が経過すればみんな動き出すってことはない?」
「もちろん、その可能性はある。改善に向けてのイニシアティブを取りたがる人間も必ず出てくるだろう。ただ、これは俺の意見というより、むしろ老師の見解だが、その場合の動きは、それまでの極限状態で形成された場の空気に後押しされる形で、雪崩を打って全体主義に傾きかねない危惧がある」
統制を欠く大集団が、空気に支配された時、どのような惨事が起こるか、予想できない。
なお悪いことに、その烏合の衆は一人一人が重火器で武装をしているに等しく、高レベル帯に至ってはもはや戦車である。
「なるほど」
そして、その体制は、内部の結束を保ち、外敵を相手とするには有効的だが、必然として外敵を求めずにはおられない。
その時、『敵』とされるのがモンスターであればまだ良い。しかし、〈緑小鬼〉や〈醜豚鬼[オーク]〉ら悪の亜人勢力にその役割を期待するのは、荷が重いだろう。
「つまり……アキバ?」
「正確には『アキバ・シブヤ』だろうな。それと残りのプレイヤータウン」
想定されるのはプレイヤー間での戦争か。
利害の対立とは、意志の疎通が可能で、同等の力を持った者同士の間で発生する物だ。その点、〈緑小鬼〉などは害獣に留まる。
後から振り返れば、NPCーー〈大地人〉の存在をあまりにも軽視していたと言わざるをえないが、この時点では、自分たちだけがこの世界の主役であるという考えに、疑念を差し挟む余地はなかった。
「悲観的に過ぎる気もするけど。二人の懸念は分かった。それで、懇切丁寧に説明してくれたからには、それを踏まえての要望があるのよね?」
「話が速くて助かるよ。いま俺たちが求めているのは避難場所だ」
曰く、脱出を計画しているとのこと。
「ミナミから少し距離を置いて様子が見たい」
一人二人ならば、思い立ったに任せて、着の身着のまま旅立っても、身体能力を恃[たの]んでやっていけそうだが、一つのギルド(プラスアルファ)の集団ともなれば、計画的に行動しなければ、遠からず破綻する。
「既に何人かには、下見を頼んで動いてもらっている。リアルでの土地勘がどれくらい役に立つかは微妙だが、土地の形その物は日本と変わらないのがありがたい」
地形からして異なるまったくの別世界に飛ばされたわけではない分、その辺りは多少気楽であった。
「了解。了解。都落ちする君たちの為に、適当な塒[ねぐら]を確保しておこうじゃないの」
「せめて疎開と言ってくれ」
自分でも思ってはいたのだろう。実に嫌そうな声だった。
樹里は口許をほころばせた。こんな軽口を叩き合うのも随分と久しぶりな気がした。
「ところで、赤羽君は動かないわけ?」
不思議だった。人にあれこれと指示を出す前に、率先して動いていそうなものなのだが。
「俺としても、動きたいのは山々なんだが……」
歯切れの悪い言葉に、樹里ははてなと思った。
何かを隠したがっている風だが、さりとて隠しきれるとも思っておらず、せめて少しでも引き伸ばしたがっている、そんな感じだ。
しばらく口の中でごにょごにょと言っていたが、やがて観念した様子で、開き直って事情を明かした。
「いやな、知っての通り、俺の種族はドワーフだろ。ちびっ子だ、ちび――」
「ショタキャラならともかく、背が低いだけの髭面のオッサンが、ちびっ子だとか言わないで欲しい」
「――っ子。やかましい。こっちはマジで困ってるんだぞ。ゴホン。それで、だ。リアル俺との体のバランスが違いすぎてだな、情けない話だが、歩くのにも苦労するていたらくだ」
赤羽玄翁は身長123センチのドワーフである。一方、現実の彼は190センチ超の大男だった。その差は実に70センチ近い。
樹里の場合、身長や体型はほとんど現実と変わらないので――体重は十キロくらい減ってる気がするが――体を動かすのに際して、違和感らしい違和感は感じなかったが、玄翁の如く、これだけ違うと日常生活にも支障が出てくるのだろう。
なるほど。へたりこんでいる「体のバランスが崩れて、動くに動けない人間」というのは、彼自身のことだったわけだ。
「この状態で、野越え山越え遠路旅する気にはなれねえ。てか現実問題無理だ無理、襲われて死に戻りがいいところさ」
「ちょっとそれ本当に大事じゃない」
樹里は血相を変えた。
「待ってて、今、バッグを確認するから。〈外観再決定ポーション〉。捨てた覚えはないから、私まだ持ってるはず……」
「厚意はありがたく受け取るが、外観を変更する気はないぞ。というか俺も持ってるから、変えるつもりならさっさとやってるしな」
耳を疑った。聞き間違えたかと思って確認を取れば、鬱陶しげな声音で「だからやらないんだって」と返ってきた。
「はあ! 馬鹿じゃないの。というか、それなら身動き取れないのは半ば自業自得じゃないのさ。何が気にいらないのよ」
「阿呆。二メートルに迫るようなドワーフが居てたまるか。なあに、見てろ、すぐ動けるようになってやるから」
「ごめん。私には君が何を言っているのかが分からないや。今からそっち向かって力ずくで飲ませてやる」
「嫌だ。俺は意地でも変更しないぞ。というか、お前で既に五人目なんだよ、この遣り取り」
それから二人は延々と押し問答を続けた。