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 血に汚れた太刀を手に篤美[あつみ]は困惑していた。

 たちくらみめいた不快感から回復すると荒野を歩いていた。

 呆然として、しかしただ惚けるに任せて立ち止まるのも恐ろしく思われ、形容しがたい衝動に背を押されるがまま彼女は歩き続けた。

 歩いても歩いても疲れない。

 麻酔を打たれたように鈍った心とは裏腹に、体の方は羽でも生えたように軽々として、かつて感じた事がないくらいに快調だった。

 その事実に篤美は逆に恐怖した。この体は本当に自分の物なのか。とてもそうは思われなかった。

 運動体力共に不足している自覚がある。

 三十の声を聞いて以来、特に昨年の夏の終わり、風邪をこじらせた末の脱水症状で数日寝込んだ後、目に見えて体力が衰えだしているのを自覚し、これはいけないと意識して外出を増やし、散歩をするようになっていたのだが、それと比較して明らかに異常だった。

 とてもではないが、体力づくりの成果が現れたのだと呑気に考えることはできない……。

 ちがう。そうじゃない。

 重要なのはそんなことではなくて――もちろんこの体の異変も大切だが――自分がどうしてこんなところにいるのかだ。

 記憶を手繰る。

 けれど、ああ、駄目だ、わからない。

 記憶にぽっかりと穴が開いている。頁を二三葉、肝心なところで破りとられた本のように話の脈絡が合わない。

 握り締めたゲームパッドを操作して、画面の中の巨人を切り伏せたところまでは覚えているのだが、それからどうして今の状況に繋がるのか、記憶が酷く曖昧だった。

 記憶障害?

 まさか。しかしそうとしか思えない。空白の時間に一体何が。

 篤美は悩み悶えた。心臓がひりつくような焦燥感に駆られた。中でも彼女を悩ませたのが、右手に持つ、いましがた誰かを斬ったと言わんばかりに血を滴らせる抜き身の存在だった。

 ぐるぐると頭の中を疑問が駆け巡った。

 まず第一に手の届く所に真剣などなかった。次に自分はこれまで剣を握ったことなどないはずなのに、どうしたことか酷く使い慣れた感じに手に馴染む。そしてそれがどうして血に塗れているのか。

 幸いにも、あるいは不幸にして、最後の疑問への解答は、すぐに明らかとなった。

 太刀を振るう機会を得たのだ。

 向けた相手は巨人である。

 身の丈五メートルを超す巨人が――恐怖に煽られたその時の彼女には十メートルは軽く超えているように感じられたものだが――前方から近づいて来た。

 小山が動くに等しく、遠近感の狂いに軽い吐き気を感じた。

 大の男の背の丈より遥かに長い脚は、自然と歩幅も馬鹿みたいに大きかった。瞬く間に距離が縮まる。

 見る者の嫌悪を誘い、恐怖させずにはおかない醜悪な面構え。友好的な雰囲気など欠片も見つけられない露骨な悪意。垢染みた襤褸[ぼろ]を纏い。手にするのは木をそのまま引っこ抜いた無骨な棍棒(と言っていいものか)。暴力への渇望をあからさまに、嬉々とした表情で得物を振り上げ、走りよってくる。

 あまりにも、あまりにも真に迫った現実感だった。

 否。現実感ではなく現実である。幻覚でも、ましてや拡張現実感[Augmented Reality]の類でもありえない。

 ぞっとした。

 アレで殴られれば死は必至。なおかつ御伽噺の昔から、巨人の好物は人肉と相場が決まっている。

 喚きださなかったのは偏[ひとえ]に羞恥心が勝ったからだ。ああ、けれど幼児のように泣き叫べれば、かえって楽だったに違いない。こんな時まで世間体を気にして冷静ぶるのかと力なく笑った。

 それとも単に顔の筋肉が恐怖に引き攣れただけか。

 自分は殴り殺されて喰われるのか?

 それは嫌だな……嫌だ、嫌だ、そうだ嫌だ!

 ふいに心の奥底で反骨心が芽吹いた。

――こんなところで死ぬなんて冗談じゃない!

 理不尽と感じ憤った。

 私憤である。それが彼女の生死を分けた。怒りは強い感情である。総身に広がり行く憤怒が、身をすくませる恐怖を駆逐した。

 篤美は、それまでずっと付き纏っていた苛立ちが消え去るのを感じながら、抜き身のまま惰性で持ち運んでいた太刀を改めて握り締め、眦[まなじり]を決して巨人を睨みつけた。

 不思議なことに巨人が急に小さくなったように感じた。よく見れば動きだってけっして機敏だとは言えない。むしろ鈍重だ。

 勝てる!

 そんな確信を得た。

 ふつふつと腹の底から熱気が沸き起こってくる。歓喜の余り半ば気が触れたように篤美は笑った。哄笑を抑えがたく、ついにはそれは叫び声に転じた。

 突如の変貌を見せた獲物の姿に怯んだのか、巨人はまごついた様子で動きを鈍らせた。

 それはあまりにも無様な隙であった。篤美は太刀を横様[よこざま]、先陣を踏み抜いた。

「自分こそが強者で、喰われるのはアイツだ」

 直観した。巨人は強い。だが自分の方がもっと強いと。そしてそれは正しかった。

 一分にも及ばない戦闘の末に、片足を切り飛ばされて、膝を屈した巨人の体を駆け上がり、篤美は巨人の首を断ち斬った。

 即死だった。

 一度大きく痙攣し崩れ落ちる巨人から飛び降り、後ずさりに距離を取り、万が一にを警戒する。生き返るのを怖れた。灯油でもあればよかったのだが。いっそ燃やしてしまいたかった。実際の戦闘に費やした時間の五倍くらいはそうしていただろうか。

 篤美は頭と胴と最初に切り飛ばした片足の三つに解体された死体を前に、血と糞尿の臭いは閉口するが、それでも腹を裂かなかったおかげで、臓物が撒き散らされなかったのが救いだなと場違いなほど呑気な気分で、その実殺伐とした思考を働かせていた。

 これもまた不思議だった。

 自分はこんなに胆力があっただろうか。

 そんなはずがなかった。

 魚を開くことはできるが、豚や鶏を解体しろと言われたら、軽く吐く自信がある。それが、怪物とはいえ人間にそっくりな姿をした巨人の死体を前に、意外なくらい平静を保っている。

 これは一体どういうことか。

 いや考えても仕方がない。首を振った。いつかは考えるべきだろうが、今はその時ではない。

 そして、もはや敵が動かないことを十二分に確信した篤美が立ち去ろうとしたところでそれは起こった。

 巨人の屍骸が光の粒を撒き散らしながら宙に溶けるように消え去った。線香花火が落ちるような呆気なさ。不可解な、それでいて見慣れた光景だった。

 卒然として篤美は悟った。

 ああ。自分は樹里[ジュリ]なのだ。

 ヒューマンの〈神祇官〉。大学生の頃から十年に近い年月付き合ってきた〈エルダー・テイル〉における自分の分身。

 名前だけ聞けば〈森呪遣い〉と勘違いしそうだが、実際には樹里・グリーンフィンガースは〈神祇官〉である。

 サブ職業は〈戦司祭[ウォー・プリースト]〉。

 樹里というのは、本名である木之郷篤美[きのさと・あつみ]の『きのさと』をもじったものだ。同時に初めてネットに繋いだ頃からのハンドルであり、遡れば中学生の頃からの渾名でもある(そっちはジュリーだったが)。

 苗字のグリーンフィンガースは、目をつぶって辞書を開き、適当に指差した言葉を採用したら、たまたまそれが Green fingers だったのだ。特に深い意味は無い。

 危くアブラムシ[greenfly]になるところでした、というのは本人の弁。それを聞いた玄翁が、園芸の才能と園芸の害虫では大違いだと盛大に笑ったものだ。本人が園芸(生産と読み替えて欲しい)とはまったく無縁のプレイスタイルだというのもおかしい。

 本来の彼女はバリバリの戦闘系のプレイヤーだった。

 ただ最近はログインもまばらであったのは確かだ。

 仕事が忙しいのも大きかったが、レベルが上限である九十レベルに達して久しく――海外サーバーに遠征したり、部隊を組む事を前提とした大規模クエストに挑むならばまた別なのだろうが――パーティーやソロで行える、めぼしい戦闘系のクエストはあらかたやりつくしてしまっていた。

 彼女が熱心なプレイヤーであったのが裏目に出た形と言える。

 戦闘だけが〈エルダー・テイル〉の楽しみではないのは十分承知した上で、なお戦闘が非常に重要な物だったのだ。

 一言で情熱が衰えていた。

 それが一転、近頃は往時に迫る勢いで盛んに戦闘を繰り返していた。復帰の理由はこれまた単純である。〈ノウアスフィアの開墾〉が発売されるからだ。上限レベルの引き上げや、新しいモンスター、ダンジョンの追加を含んだ拡張パックである。

 半年ほど戦闘らしい戦闘をしていなかったので、鈍った勘を取り戻すために、数日前から〈セキガハラ古戦場〉に籠もっていた。

 そして当日、ログインするや、最終の慣らしとして、今一度セキガハラに足を向けた。

 今回の拡張パックで、所有するスキルや装備品に修正が入っていないとも限らない上は、実地で戦闘バランスの確認を怠るわけにはいかない。そのためにも、戦闘方法が単純で、最近戦い慣れた巨人たちはうってつけの相手だった(魔法を操る巨人もないではないが、少なくともここには出没しない)。

 一通り戦ってみてから、新規追加ダンジョンやクエストに挑む予定だった。彼我のレベルの問題で経験値こそ手に入らないが、言ってみればこれはプレイヤーの経験値稼ぎである。

 最初に遭遇した〈緑灰鬼[トロル]〉は弓による遠距離からの射撃で倒した。次に出会ったのは〈丘巨人[ヒル・ジャイアント]〉。弓から刀に武器を持ち替えた上で、接敵のタイミングを計って神祇官に特有の『ダメージを遮断する』魔法を展開、わざと攻撃を食らいながら結界の強度を確かめ、効果時間が切れる直前に猛攻に転じてこれを仕留めた。

 一部の『和』風武器――日本刀や和弓を装備できるとはいえ彼女が就く神祇官というクラスは本来は回復系三職の一つで、自ら武器を執っての白兵戦に向いているとは言いがたいのだが、そこはやはり昨日までの上限レベルである。基礎的な能力値が純粋に高い。

 なおかつ厄介な特殊能力や搦め手を持たないこの手の敵は、攻撃力がこちらの回復力――神祇官の場合はダメージ無効化能力――を超えないという前提での話だが、手順さえ間違えなければ確実な勝利が約束された相手である。

 それからさらに三体の巨人族モンスターを倒したところで、ふいの目眩を覚えた。

 うっとうめき、瞼を閉じて、浮遊感に耐える。

 集中してディスプレイを睨み過ぎて目が疲れたかなと思った。

「一回ログアウトして休憩するかな」

 後から振り返った時、もう五分早くログアウトを決めていれば、自分の人生はまったく違うものになっていただろうなとしみじみと思った。実際にはログアウトしなかったし、そもそもログアウトを意識させたのが〈大災害〉である。その時には既に自分は引き返せないところまで来ていたのだから。

 目を開けると周囲の景色が一変していた。

 四隅に本が山と積まれた十畳の和室は消え去って、四方を山に囲まれた荒地が広がっていた。

 着ている物も同様だった。部屋着から和服もどきに換わっている。そして手にはゲームパッドとは打って変わった重量感。

 血に汚れた太刀を手に樹里は困惑していた。

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