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紙切れ一枚と言えば、薄く、軽い、破れやすい物の代名詞だが、それが束ねられると一転して、意外なほどに重くなる。
もっとも、商家の娘であるアンリエットに言わせれば、書斎を飾る大部の叢書の一式よりも、多くの場合、よほど一枚の証文の方が重いし堅いと言う事になるのだが、現在話題の中心になっているのは物質としての紙である。
今や小山の様相を示し始めた図面の束を、アンリエットは微かな腹立ちを籠めて軽く睨んだ。グリーンフィンガース神祇官、つまり樹里が目論む社殿建立の為に引かれた設計図の数々である。
山中に神域を見出して以来、連日、樹里は大工の棟梁と打ち合わせを重ねていた。これはその産物である。それも全体の一部に過ぎない。考案され、引かれるも、悪しとして、容赦なく打ち捨てられた設計は、これに倍する数に上った。さらにいまこの瞬間も図面の山は隆起して、嵩を増しているはずだった。
棟梁は、アンリエットの生きてきた全期間の五倍以上の時間を大工として過ごして来た熟達の老大家で、四半世紀前に行われた、北西の湖岸に建つ〈長命者の僧院[メトゥーシェラ・アビー]〉の修築工事にも携わった名匠である。若かりし頃には諸国を遍歴して幾何学と規矩術とを学び、ケイハンナの大図書館では神代の建築書を閲覧した事もあったと聞く。
「ですが、このたびばかりは、流石の棟梁も勝手が違って、悪戦苦闘しているようです」
計画は、進んでいるようで、その実あまり進んでいなかった。図面の枚数が増える割には、これぞという設計が生まれない。
アンリエットの言葉に、それも道理かとアグニは思った。
「言ってみたら町の工務店に、宮大工の仕事をして貰おうって話だもんなあ」
コームテンという耳慣れぬ響きの言葉が、正確に何を指すのかは分からなかったが、前後の文脈から、都市に居住する大工あるいは石工、またその組合の事だろうと推測するのは容易だった。
「そうですわね。この街の大工の組合を掌る棟梁は、これまで多数の僧院や教会堂の建築補修に関わってこられた経験豊富な名工ですけど、樹里様の希望されるような『和』風の宮居に限っては、ほぼ素人だというのが御本人の言です」
アンリエットの実家シルヴ家を初め、参事会の諸家も協力して、『和』式建造物に関する技術書など探索しているが、あまりはかばかしくない。あるいは一子相伝される秘伝の部類に属する知識なのかもしれない。
しかし、老匠は出来ないとは言わなかった。むしろ、この難題を楽しんでいるようにアンリエットの目には映っていた。
「活き活きとして。十歳は若返って見えます」
「あ。それは俺も思った。始めてあった時は、言葉は悪いけど、しなびたお爺さんって感じで、大丈夫かなこれ、途中で倒れたりしないよなって失礼な心配してたんだけど、それが今じゃ樹里さんと毎日、大声で怒鳴り合ってるんだもんなあ。見た目は大工の親方っていうより博士って感じの風貌だけど、腹の底の底から出てくるみたいなあの大声! ライオンが咆えてるみたいな迫力で」
あれおっかないんだ、としみじみと語るアグニの様子がおかしくて、思わずアンリエットは小さくふきだした。
十三歳と十四歳という年の近さから来る気安さもあったのだろう、二人とも屋敷と庵を行き来する間にだいぶ打ち解けていた。
「負けずに応酬している樹里さんも大概だけどさ」
「あれには私もびっくりしました」
くすくすと少女は笑った。もっとずっと超然とした人物像を思い描いていたのだが、案に相違して、いままさに会話している相手の少年もそうだが、この神話的存在とばかり思えた〈冒険者〉達は、思いのほか感情豊かで、とても人間的だった。
「それに幾何学の話題が通じるとかで、棟梁も感心されているみたいですね」
同時に、あの小僧の方はてんで話にならないが、とも言っていたのだが、言わぬが花と言う物で、そちらは黙っておく事にする。
しかし、その際に彼女の瞳にちらりと浮かんだ光の意味を、アグニは敏感に察した様子だった。苦笑いを浮かべながら、どことなく芝居がかった声色で、大袈裟に拗ねてみせる。
「あらまあ。困ったお方」
そんな子供じみた男の振る舞いに、アンリエットはいっそう笑みを深くした。先ほどの微笑が喜びに由来する物だとすれば、こちらの笑いは素直におかしくって起こる笑いだった。受けを取れたことにアグニは満足して、だだっこめいた態度を引っ込める。
そして一転、神妙な顔でアグニはひとりごちた。
「でも、実際、俺、数学って苦手なんだよなあ。元の世界に戻れるかも分からない今となっちゃ、それこそどうでもいいような気もするんだけど、でも、やっぱり、勉強しといた方が良いのかなあ」
実のところ、あまりはっきりとした態度には出していなかったので、樹里もアンリエットも気づいてはいなかったが、幾何学つまり数学の知識というハッキリとした尺度で、大地人の老人に完敗した事は、少年に甚大な衝撃を与えていた。
冒険者としての戦闘に関する高レベルに驕[おご]って、また現代人が過去の文明に向ける無邪気な優越感をもって、知らず知らず大地人を見下していたのだと痛感させられていた。
「この力って要は借り物みたいな物で、それを取り去ってしまったら、後には中学二年の日本人の子供が一人残るだけなんだよな。そして、それが、結局は素の俺自身だってことで」