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「お初にお目にかかります、台下、シルヴ家の娘アンリエットでございます。参事会より、お側にお仕えするようにと言い付かって参りました。どうぞよしなに。また下女と下男を連れて参りましたので、共々になんなりと仰せ付けくださいまし」
中学生くらいに見える少女が優雅な所作で挨拶を寄越した。
愛らしい顔立ちの栗毛の娘である。膚[はだえ]の肌理も磁器質で、月並みな表現だが、まさしくフランス人形のような美少女である。夢見るように潤んだ淡い青褐色の瞳が印象的だった。
彼女はハチマンの有力商人シルヴ何某の息女であった。物語の冒頭、参事会と接触をはかった樹里に対して、一座を代表して「協力は惜しまない」と太鼓判を押した老翁の末の娘である。
その名家の令嬢が、ハチマン参事会から〈冒険者〉樹里・グリーンフィンガースへの友好の証として――身も蓋もない言い方をするならば、人質を兼ねる監視役となる――彼女の事業への手助けをする為という名目で送られて来た事に、樹里は内心「しまった」と思った。ハッタリを利かせすぎた。
都市の統治機構が、監視を目的とした人員を送り込んでくる事自体は予想通りだった。むしろそれを引き出すために、あんな芝居がかった振る舞いに出たとも言える。大工や左官、人足たちを手配できる土地の有力者の意向を受けた人材は願ってもない存在である。
拠点を築くにあたって「神社を建てる」という目標を立てたわけだが、言うは易しであって、伝手もコネも何もない個人では、非常に困難だったろう。また〈許可証〉はあれど、不動産の所有に絡む法的な知識が欠けている点も懸念する所である。だから、そこだけを見れば、彼女の到来は、望み通りの展開だった。
しかしながら、それが年端も行かぬ――本人の申告によれば十三歳の可憐な少女になるとは思いもよらなかった。
だが、思えば妙手に違いない。
結局のところ、冒険者の前では、大地人の間での武芸や魔法の巧拙など大同小異に過ぎず、大人も子供も関係がない――とも限らないのだが、大地人の側でそう認識されているらしい。
その上で、いかにも世慣れた老人や強面の巨漢と可憐な少女とを比べれば、後者の方がより馴染みやすいのは想像に難くない。相手の同情心に訴える力もそうだ。
樹里としては、前二者の間を取った同世代つまり三十路前半の優男くらいが好ましかったのだが、世の中はそうそう都合良くは運ばないものである。
加えて、こちらはむしろ想定されてしかるべきだったと今にして思うのだが、使用人に当座の資金、家屋敷の提供までを申し出られるとは思いもよらなかった。
けれど、考えてみれば確かに、金銭や財産を与えて、外部の実力者を身内に引き込むのは基本だよなと樹里は思った。きっと自分が男であったなら、遊ぶ女を宛行[あてが]ってきただろう。
樹里はそう考えて笑っていたが、実は彼女の秀麗な眉目に、男が逆に籠絡される恐れがあるとして実行は見送られただけで、役者や吟遊詩人を派遣することも協議されてはいたのである。
財物を積み上げる事に、豪商たちは躊躇いを見せなかった。
不幸中の幸いは、アグニのことは現時点では樹里のオマケ程度に考えているのか、そちらへの秋波がごく鈍いことである。
妙な状況だと樹里は皮肉なおかしみを感じていた。
玄翁の言ではないが、あの年頃の少年を手玉に取るくらい、ちょっとでも気の利いた美人ならばお手の物であろうし、そうでなくとも、一度でも情を通じた相手を切り捨てられるとは思えないわけだが、そんな打って付けの標的[アグニ]への干渉が弱い理由というのが、なんともふるっている。
どうも少年は、『稚児』つまり樹里に囲われる身と認識されているようだった。その結果、下手に色仕掛けを行って、主人の嫉妬を買ってはまずいと判断されているらしい。笑っていいのかどうなのか、俄[にわ]かには判断しがたかった。
まあ、どう考えても『青少年の健全な育成』にハニートラップ紛いの接待漬けが、好ましいはずがないので結構な話ではあろう。
そんな風に樹里は最初笑っていた。
しかし、その笑顔はすぐに凍りついた。
案内された屋敷の構えを前にして、樹里は腰が引ける思いだった。アグニに至っては口をあんぐりと開いてた。
――封建体制下の豪商の財力を甘く見ていた!
シルヴ家の所有する別邸の一つであるとの話で、有り体に言って豪邸だった。城壁に囲われた都市という限られた面積の中で、贅沢に土地を使った御殿である。それもこれは別邸なのだ。家族がこの街に占める地位はおのずから明らかだった。
後日知ったところでは、ハチマンの諸家の内でも特に威勢のある家が二つあって――モンタギュー家とキャピュレット家ほどには不仲ではない――西のリヴィエール家と並び称される彼女の生家シルヴ家は、反物や衣料品を主に扱っており、樹里が古着を買い求めたトヨサトの服屋も、間接的ながらその支配下にあった。
樹里はこれら参事会の構成家族である上層市民を歴史学の用語で言うところの都市貴族の仲間だろうと認識していた。ウェストランデの国体において、厳密にどう定義されるのかは不明だが、本物の貴族と平民の間に位置する、累代の豪商や騎士、大土地所有者から成る特権的な門閥である。
女主人と彼女の客人の出迎えに玄関に整列した仕立ての良いお仕着せ姿の人間たちを一通り眺め渡して、確かにこれは下働きの人間を入れなければ維持できないなと納得した。と言うよりも、元々ここの管理に常駐している者たちなのだろう。
金を持っているのは分かっていた。しかしその桁が予想していたよりも一つ二つあるいはそれ以上に大きそうだった。考えの甘さあるいは想像力の欠如を思い知らされていた。
だがしかし、それで観念して、ここに住むことを納得するかと言えば、答えは否だった。
一週間程度ならばホテルと割り切って過ごすのもありだろうが、これから先の一月、半年、下手をすれば数年になりかねない事を考えれば、四六時中使用人に傅[かしず]かれて過ごすというのもぞっとしない話だ。もっとも二月も過ごせば慣れてしまいそうな気もするが、今度は慣れてしまって構わないのかという疑問が即座に浮かぶ。それに自分の資産で雇い入れるならばともかく、ここでずぶずぶと参事会員の世話に依存してしまうと後が怖い。
いまさらな気もするが、怖いものは怖い。義理人情恩義の鎖は予想以上に強固な物で、容易く人を雁字搦めにしてしまう。
それに、あまり近くに多くの人間を侍らして、ぼろが出ても困る。折角演出した神秘性だ、事が成るまでは持続したい物である。
色々と、この屋敷から退散するべき理由付けに考えを巡らせて、つくづく自分は小市民だと痛感させられた。
実際のところ、単純に資産という意味ではベテランプレイヤーである樹里は下手な豪商にも負けないくらいの、どころかある面では明らかに勝る財産を有しているのだが(大半は銀行に預けてあるのでその内に引き出しに行く必要があるが)、それも、これまでは単なるゲーム上のデータに過ぎず、金の使い方を身につけさせる役には立ち得なかった。
――ああ。要は成金が旧家に感じる引け目とかそういう……。
またこれが重要なのだが、食事のこともある。考えてもみよう。これだけの豪邸だ。山海の珍味に美酒も取り揃い、流石に毎日が饗宴だとは思われないが、日々の食卓に昇る料理もさぞかし豪勢な物に違いない。本来であれば。しかし樹里は既にこの世界の食事事情が如何なるものであるかを知っていた。
耐えられない。
樹里はシルヴ家の、ひいてはハチマン参事会の進物を、鄭重に謝絶することに決めて、早々に山中に引きこもった。
この世界の大工は仕事が速い。生産系の特技の一種だと思うが、現代のプレハブ小屋もかくやの勢いで庵室が建った。
本当は単に住居の提供を断った手前、街の宿屋に逗留するのもばつが悪かっただけだが、霊場を検分するにあたって、身を清めるために俗界より離れる必要が云々と適当なことを言っておいた。
その場の思いつきで発せられた、舌に任せての言葉ではあったが、こうして庵の中で座りながら思い返せば、あながちに理のない話でもないなと思われた。神事に際して潔斎[ものいみ]の期間が設けられるのは、むしろ当然の話である。振り返るに、道理でアンリエットはじめシルヴ家の面々が素直に納得して引き下がった訳だ。
ただしこの言い訳が成り立つのは樹里に限ってのことで、アグニには当てはまらない。結果、少年はそのままシルヴ家の厄介になることになった。純粋に食客とでもいうべき立ち位置である。
もっとも、樹里にしたところで完全に排除することはできなかったし、するつもりもなかった。参事会への窓口であるアンリエットの手まで振り払うわけにはいかない。それは、こちらの都合でもあったし、向こうとしても面子というものがある。
おのずから落とし所は明らかだった。街からの通いという形で、アンリエット一名をのみ受け容れた。
もっとも上流階級の人間として、彼女は常に介添えの人間は伴っていた。とはいえ、それは樹里としても望む所であった。街のすぐ近くだとはいえ、モンスターの実在する世界で、幼いといって良い少女を一人で歩かせるのは不安である。同感という事なのか、また恐らく、屋敷に独りで漫然と過ごす事になるのを嫌ったのだろう、彼女の往き帰りにはアグニも同道した。
樹里の目から見て、アンリエットは張り切っているようだった。お嬢さま育ちには違いなかろうが、それでも、リアルの自分たちよりも遥かに健脚だった。正直見縊っていた。意志も強い。
しかしながら。
――こんなことまでさせる気はなかったんだけどなあ。
一日樹里の山歩きに付き合ったアンリエットは、庵に帰りつくなり「靴をお脱ぎください。御御足をお清めします」と宣言した。
勢いに圧されて、表面上はさも当然の態を装いながら、言われるがままに足を洗わせたが、その実弱っていた。アグニもぎょっとしていた。それでも何も言わないのは、彼以外の全員が表面上は平然としているからだろう。彼女に同行する周りの人間たちにも、特に制止する様子が見受けられないのには、はなはだ困った。誰かが疑問を呈してくれれば、それを取り掛かりに制止できるのだが……というのは都合の良い願いか。
樹里は迷って、しかし結局は彼女の意志を尊重した。
思うにそれこそ下男か下女の仕事であって――現代日本人としては足くらい自分で洗うという話なのだが――本来奉仕される側である良家の令嬢が、行うような仕事ではなかろう。それとも、貴人の身体に直接触れるような仕事を行うのは、相応に身分の高い家系の出身者が務めたというアレだろうか。
もっとも、これもまた後に明らかとなることだが、樹里が弄した小細工の一つの結果であった。樹里が講じた演出は、当人の想像以上に彼女に対する畏怖の念を呼び起こしていた。つまり、冒険者。それも神託を享けた(ことになっている)相手の身体に触れることを、畏れ多いと憚[はばか]ったためである。
アンリエットにしたところで、畏れる気持ちがなかったわけではないだろうが、本人の言を借りるならば従者として派遣された人間の矜持として、また故郷の威信にかけて、無様な真似をするわけにはいかなかった。疑う余地もなく彼女は教養ある貴婦人だった。