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カワチ・ウィンド・ケイブは、イヌガミの高宮から北東約四キロメートル山中に存在する天然洞窟型のダンジョンである。
ただしこの数字は樹里が実際に歩いて確認した物ではなく、記憶の中の地理情報をざっくりと半分にしたものなので、だいたいその辺だろうという推算の値である。
モデルとなった河内風穴は近畿地方最大の鍾乳洞として知られていたが――よしんば知られてはいなくとも、事実として既知の洞窟中全国第四位の総延長を有する大洞窟であり、それを受けた〈風穴[ウィンド・ケイブ〉〉も相応に広大なダンジョンだった。
ただし四層から成る構造はさほど現実に忠実ではなく、より長大に誇張される形で、下層に降りるほどに複雑さを増す洞内は多くの怪物が徘徊し、場所によっては中隊規模[フルレイド]の冒険者が多少窮屈ながらも乱戦を繰り広げられた。
ちなみにダンジョンとしては二層目からが本番で、ほぼ一本道の一層目は、出現するモンスターのレベルも低く、道をまっすぐに進むとイセ地方北部に抜けることが可能である。つまり三重県いなべ市の辺りであるが、山脈を越えるのに比べて容易であり(あくまでも〈冒険者〉基準での話ではあるが)、南の峠まで迂回する必要もないので、かなりの時間短縮が見込める。
もっとも〈エルダー・テイル〉時代には、都市間の転移装置が機能しており、遠距離移動に際しては各地の〈妖精の輪〉を乗り継ぐのが主流だったので、よほど酔狂な人間以外はこの種の『近道』を利用することは稀だった。
逆に言えば、転移による瞬間移動が難しい現状、抜け道にも意味が出てくる。〈風穴〉を通りアドニス山岳の向こうに出れば(鈴鹿山脈の藤原岳である)、後はクワナを経てナゴヤまで、冒険者の脚力をもってすれば半日も掛からない。
「――と思われるわけだけど。流石に一人でダンジョンを突破する気にはならないわけで」
ゲームならともかく日曜洞窟探検家[スペランカー]への憧れはごく薄い。それに玄翁からの依頼のこともある。この場合ナゴヤは優良物件だとは言いがたい。
「熱田神宮もといアツタにはサブ職〈戦司祭〉として心惹かれるものがないではないけど」
言って『熱田大神』の文字に打ち消し線を引く。
紙の上には他にも沢山の単語が書き込まれていた。神名である。そしてその多くには既に同様の打ち消し線が引かれていた。
「しっかし汚い字だなあ」
書いた直後だからなんとか読めるが、一週間先には本人でも半分くらい読めなくなっていそうな金釘流に自嘲する。元より能筆家ではないが、かといって悪筆というわけでもなかったはずなのだ。
「だっていうのに、この体たらく。それもこれも、あんたのせいだかんね。っと、あーやっちゃったぁ……」
恨めしく思われて、軽い八つ当たりの感情に押されて、摘んだ羽根を揺すった瞬間、それは思いがけずに大きな動きとなって、インクが辺りにぽたりと落ちた。がっくりと来たが、もはや慣れたものである。幸いに飛沫が飛んだ範囲は紙の上にとどまったので、慌てず騒がず冷静に飛び散ったインクに対処する。
筆記用具の一式として所持していた物をそのまま使っているわけだが、御丁寧に吸い取り紙とインク壺、それに先端を削るペンナイフも揃っていた。つまりはいとも古風なる羽根ペンである。映画や漫画の小道具として見る分には、格調高くて結構な話だが、実際に自分が使う段になれば、使いにくさに閉口させられる。
太刀が自在に振り回せたように、羽根ペンも自由に走らせられるかと思われたのだが、とんでもなかった。悪戦苦闘の末に得られた戦訓は、ペンは剣よりも数段手強いということであった。少なくとも樹里にとっては。
案外とこの肉体は不器用だ。
ガウディウスとの対話から二日。腰を据えて装備の点検と特技を含む身体能力の確認を行った結果、そう結論するに至った。
戦闘に限れば完璧である。自分でもどうしてやれているのか正直説明がつかないのだが、体がコツを覚えている感覚があった。たとえるなら数年乗っていなかった自転車や、長らく履いていなかったスケート靴を前にした時に感じる気分と言おうか。不思議な確信があって、それに逆らわず、流れに乗ることで、全ての特技が発動するのが確認できた。あるいはもっと簡単に、脳裏に浮かぶメニューから、対応する特技のアイコンをクリックしてもよかった。そうすれば勝手に身体と口が動いて(動かされて)、失敗の余地なく発動させることができるようだった。だがこれはあまりにも不気味だったので、なるべく遠慮したいとも思われた。また太刀を振り回し、弓を引けた時点で分かっていたが、それでも当たり前のように魔法が使えたのには流石に呆れた。いよいよもって人間業ではない。
しかしながら、戦闘に関する諸々にコツを掴んでいる反面、それ以外はてんで駄目である。恐らく、本来の肉体が持っていたコツないし力加減で事に当たろうとするので、現在の肉体と上手く噛みあわずに、それが不器用さとなって現れているのだろう。ぎこちない字しか書けないのも、羽根ペンに慣れていないのもさることながら、一つには指先の微調整が利いていないのだ。さしずめ感度の良すぎるタッチペンを使っているような状態である。
「赤羽君ほどじゃないけど、私は私でリハビリというか、それなりに慣熟訓練が必要そうだわ」
口を一文字に結んで硬筆を放り出す。
「意外と毛筆なら上手く書けるかもしれませんよ。ほら、樹里さんって〈神祇官〉ですし。神主さんとか巫女さんてお札とか書いてて達筆そうなイメージがあるじゃないですか」
見かねた少年が慰めるようにそんなことを言った。
樹里は二つの意味で微笑した。少年の言葉はある種のステレオタイプだと思いつつ、この世界ではありそうなことだと納得したのが一点。そして、少々ピントがずれている慰めの言葉が、かえって一生懸命に考えたのだろうというのがうかがえて、それが微笑ましく思われたのだ。これが玄翁ならば何か小賢しい言を弄して逆に苛立たせたろうし、老師ならば薬にはならないが毒にはなる態度で散々に甘やかしてくれただろう。
すれていない感じが好ましい。
玄翁からいきなり中学生を一人保護してやってくれと頼まれた時は正直面倒臭いと思ったものだが、これまでのところ(まだ一日と半日しか経っていないが)、特別不愉快なことはなかった。
樹里は玄翁との念話を思い返した。
「礼儀正しい坊主だよ。少なくともネット上ではな。リアルの方ではオフ会で二回メシ食ったくらいだが、これもまあ大人しいもんだったな。まあ、周囲がオッサンにオバハンばっかりだったから萎縮してただけかもしれんが。いきなり逆上して襲い掛かることもねえだろう。だから、お前も、食うなよ?」
と玄翁は笑いながら品のない冗談を口にしたが、その後すぐに何かに気づいた様子で言葉をひるがえした。
「いやまて。食っていいのか。淫行条例だの児ポ法だのはリアルでの話だよな。ならこの場合考慮されるべきなのは当事者の合意だけなんじゃないか? 性的同意年齢その物はかなり低かったような気がするが……おい、樹里さんよ、お前、職業柄こういうことには詳しいよな?」
「別にその分野に特に詳しいわけではないけど、覚えてはいる」
またぞろ阿呆なことを言い出したなと呆れたが、律儀に樹里は付き合ってやった。
「一応日本の刑法上で規定される性的同意年齢は男女共に満十三歳以上とされてるわよ。強制わいせつと強姦に関する条項の中では。児童福祉法や婚姻の規定があるから実質は不許可だけど。あと私にショタの気はないから」
十年前なら(無意識に鯖を読んでいる)ときめいたかもしれないが、美少年というのは、アイドルなんかと一緒で観賞の対象としてはちょうどいいが、恋愛対象とするにはちょっと若すぎる。
「なるほど、なるほど。善哉。相手は十四歳だ、好きにしろ」
「聞いてないわね」
「おいおい。そっちこそ聞けよ。相手は中学二年生だぜ? アイツらエロいことしょっちゅう考えてるんだ。頭の中は猿だぜ? おまけにネットでエロ画像を漁ることもできなくなったときては溜まりまくってんだろ。同情するよ。そこへ年上の綺麗なお姉さんがだ、ちょいと色っぽいことをしてくれたらどうなるよ。イチコロだぜ? 誑[たぶら]かしてみろよ、ベッピンさん」
「それはアンタの願望だろうが」
「おおそうだとも。俺だって叶うなら十代の少年に戻ってエッチなお姉さんに手ほどきされたいわ。手取り足取り三本目の硬い足も取ってもらってだな」
「赤羽君をセクハラで訴える機会が失われたのが本当に残念だわ」
やれやれと大袈裟に身振りで呆れを示した。相手には見えないのだが、そこは気分である。
「そんな気遣いするんなら、お金はあるんだから、風俗店にでも連れてってあげたらいいじゃないの」
「……お前も大概露骨だな」
「そう?」
「そうとも。けどよ、あの年頃のやりたい盛りの連中をだぜ。娼館なんぞに連れて行ってみろ、無我夢中で加減を忘れて抱きついた日には、相手の姐さん――男娼でもいいが、良くて大怪我、悪くすれば死なせちまうんじゃないかって不安があってだな」
トラウマ物である。
「ならそれこそあの不良老人に任せれば良いと思うけど。どうせ老師はそのうち〈大地人〉経営のそういう店を開拓するんだろうし。というかもうしけこんでる?」
「御明察。もっとも、あの爺様とリアルでも付き合いがある以上は当然か。素人には手を出さないが玄人とは目一杯遊ぶのがモットーの御仁だからな。風俗店ってか娼館……ああ、いやいや、ここは格調高く傾城屋と言おうじゃないか。曰く江口、神崎、新町と古来名高い花柳街[いろざと]を当たってみればドンピシャリだったと。本人は情報収集だって言ってるが、まあ、嘘だな」
「いいとこ三割よね」
「だな」
合意に達っし、二人とも大口を開いて笑った。
どこまで玄翁が本気だったかは知らないが、思い返してみれば、当人には聞かせられない会話ではあった。
心の中でごめんと謝る。老人にではない。若者へだ。
少年は不思議そうに小首を傾げた。名をアグニと言った。
火の神[アグニ]? と樹里が聞き返したら、ちょっとはにかむように違うと答えた。「俺の好きな」そこで言い直した「僕の好きな漫画の登場人物からです」。
線の細い美少年だった。ただし女性的ではない。キャラクタの設定年齢は十七歳だが、現実の年齢は十四歳だったという。
「もうちょっと精悍な顔立ちで作製したんですけどね。結局こんなんになっちゃいました」
自己紹介の時、アグニは困ったように笑っていた。子供に対して童顔という表現を用いるのが適切かは定かではないが、柔和な顔付きに表れた幾許かのあどけなさが、少年を実際以上に幼く見せていた。小学生に見える高校生というのが時折いるが、そういった風情(大人でも稀にいる)。あれも本物の小学生と並べればその違いは歴然としているのだが、人間の認識という奴はその辺り意外なほどいい加減に出来ている。幼さという特徴を見て取るや、それを過剰に受け取ってしまうのだ。
それに、現実の高校生男子ともなれば、成人男性ほどではないにしろ、髭が生えだしているものだ。剃るにせよ抜くにせよ相応の痕跡が見られる。それがないのも大きい。
彼もまた一人だけでこちらに放り出されていた。樹里とはこれまで面識はなかったのだが、玄翁という共通の知り合いがいたこと、初期位置(厳密には玄翁がそれぞれと連絡を取った時に居た場所)が、お互いに近かったことから、彼の仲介で合流することになった。樹里がこの地に留まっていたのには下手に動いて入れ違いになる愚を避けるためもあった。少年がいたのはヒコネであった。猫人族が多い街である。アグニからヒコネの街の話を聞いて、そのうち足を運ぼうと樹里は心に誓った。
「えっと、それでですね。ウィンド・ケイブでしたっけ。ナゴヤに通じてるんですよね」
「うん。正確には山脈の向こう側のイセの北にだけどね。そこからはナゴヤまですぐかな」
「一人で突破するのが無理でも、俺っじゃなくて僕と二人でならどうでしょうか」
「そうね。九十レベルが二人いれば、安全に突破できるかな。怖いのは不慮の事故だけだし」
元々出現するモンスターのレベル自体はさほど高くない。
「でもどうして。ナゴヤに行きたいの?」
アグニは照れくさそうにしばらく口ごもった後、理由を説明した。
「そうしたら樹里さんがアツタまで行けるかなって」
先ほどの「心惹かれる」という呟きを気にかけているらしかった。
「ああ、そういう」
軽く笑って打ち消すように手を振る。
「ありがとう。でも気にしてくれなくていいわよ。さっきのは半分冗談みたいなものだから。それに一人称も。昨日から無理してるみたいだけど普段通りで良いよ」
年長者へのごますりとも取れるが、そうだとしても好い子なのだろうなと思った。そんなに気を使わなくても良いものを。とはいえ一日二日では馴染めないのは無理もないか。樹里は咲ほどまで書き物をしていた紙を、アグニが見えるように差し出した。
「といっても読めないかな」
「えぇっと……はい。ちょっと無理です」
目が泳ぐ。言葉を探したようだが、結局見つからなかったらしく、アグニは肯定した。
「素直で宜しい。これはさ『軍神』とか『武神』って呼ばれる類の神様のリスト。思いつくままに挙げていったから、順番はバラバラだし、勘違いしてるのも入ってるかもしれないけど」
「『軍神』ですか……あ、本当だ、マルスにタケミカヅチ」
アグニが知っている神もいた。そしてこの二つはカタカナで書かれていたので比較的読みやすかった。
樹里がアグニとの合流を待つ間、装備点検と能力確認に並行して行っていたのが、記憶している『武神』と『軍神』のリストを作成することだった。冗談のようだが、本人は大真面目であった。それがため先刻の言葉も飛び出す。熱田の宮の神体は、日本武尊が遺した草薙剣である(ということになっている)。
ガウディウスという真面目な信仰者との出会いに、樹里なりに思うところがあった。別に宗教づいたり信仰に目覚めたというわけではないのだが、〈冒険者〉としての自分の『職業』について考えさせられた。樹里は、自分は、〈神祇官〉である。実際のところ、特技の確認を通して、〈神祇官〉の魔法は職名に反して、どうやら神への信仰心の有無や祭礼の類とは無関係に発動するようだということは分かっている。恐らくは〈施療神官〉も同様である。
けれども、周囲がどう見るかは、また別の話である。
「NPCじゃなくて〈大地人〉の人たちからすれば、超高レベルの〈神祇官〉である樹里さんは、それに他の回復職の人たちも、これだけ凄い魔法が使えるんだから、凄い修行を積んだ高位の聖職者に違いないと思われても不思議はないってことですね?」
「そういうこと」
それに、拠点とするのに、宗教施設というのはアリではないかと思われたのだ。宗教施設というと堅苦しいが、ようは神社である。また荷物の整理中に発見したとあるアイテムの存在も、彼女の思い付きを後押しした。
そうなれば後は仕え祀るべき神の選定である。
主客転倒の趣はあれど〈戦司祭〉を貫徹するために『軍神』の存在は不可欠であった。
まずファンタジー・ゲームの常として〈エルダー・テイル〉もまた、世界観に深みを持たせ、プレイヤーを楽しませる一環として、セルデシア特有の神々や神話が設定されていたが、残念ながらあまりよく覚えていない。それに、たとえ『軍神』に相当する神の名前を覚えていたとしても、それに仕えていると称する気はなかった。もしもそれらの神を信仰する本物の聖職者や神学者と出会うことがあって、神学論争を持ちかけられでもしたら、赤っ恥をかく破目になるのが目に見えている。はたまた平信徒から説教を求められたらと思えば、迂闊なこともできない。
かといって仕える神は『無い』というのも問題だ。無神論者と思われると、厄介な事態を招く恐れもある。理を尽くして説得するにせよ、理を尽くさず煙に巻くにせよ、「どんな神様なのか」と聞かれた時に備えた回答を用意しておくのが得策だと思われた。
世の中ハッタリというのは重要である。
もちろん最終的には実が伴わなければどうにもならないが、それだけで半分くらいは渡って行ける。
古代ローマにしろ日本にしろ人間と言う奴は『新しく外からやって来た神』をよりありがたがる傾向がある。『〈冒険者〉が崇める戦いの神』というのは魅力たっぷりに違いない。
戦争の神といって真っ先に思い浮かんだのはマルスとミネルヴァであり、あるいは聖ミシェルであり、聖セバスチャンであった。しかしそこはやはり神祇官として、日本の神様を選びたかったので、仏教の天部や道教の神々はまだしも(それらは一部現実に神道に取り入れられているので)、西洋の神々や聖人は、書き出しこそしたが、真っ先に没になった。
結局のところ、誰かが「あの神様は戦いにご利益がある」と唱えて周りがそれを認めれば、勝運の神徳を持つと言ってしまって良いくらいなのだが、それでも伝統的に『武神』として崇められる神々は存在する。
日本神話では香取と鹿島の両明神が著名であるし、近江一宮建部大社の主祭神でもある日本武尊は、各地の対抗勢力を討伐した英雄としての勝利の神である。
中世以来、戦国の武将たちが信仰した神々としては、摩利支天や毘沙門天、不動明王、また北斗七星が有名だろう。和歌の神ともされる三神一体の住吉明神は、海神として船を護り、航路を導き、海戦に功徳があると広く信じられた。
だが何といっても弓矢神こと八幡神である。矢幡[やはた]の神、弓矢八幡と呼ばれ、八幡大菩薩と尊称された武家の守り神。
決まってみれば、最初からこれしかなかったように思われた。
色々と理由はあるのだが、一つには彼女の使う武器も関係している。これまでは単独行であったこと、さほど強い敵と出くわさなかったこと、修理できる保証がなかったことなどから温存していたが、樹里の本来のメインウェポンは弓矢なのだった。
それも幻想級の和弓である。
銘を〈百合若神託弓〉と言う。神託によって鍛造されたと伝えられる総鉄製の異形の大弓である。
ちなみに樹里は〈弓〉を手に入れた後、出典について調べたことがあるのだが、アイテムのネタ元である百合若大臣も八幡信仰と縁の深い英雄である。
そして何よりハチマンに知人を得られたのが大きい。
そこを拠点と定めるかは実際に行ってみなければ決められないが、上手く事が運びそうな予感があった。
「八幡神の〈神祇官〉として、ハチマンに行ってみようと思う」