2、迷子
翌日は旅の始まりを歓迎してくれるようにとてもよく晴れていた、僕はいつもどおり朝食をとって制服に着替えると、「いってきます」といって家を出た。
今は、朝の7時45分だから、母が出勤するまでの45分間どこかで時間をつぶせばいいのだ。そして、家にもどり荷物をバイクにくくりつけ、あとはエンジンをかければよい。
僕はとりあえず、いつもの駅まで歩いて電車に乗った。
車内はいつものように満員で、いつもの人々が疲れた顔で、憂鬱そうに目的地に向かっていた。
もしこれから家に帰って、バイクに乗って旅に出てしまったら、きっと両親に迷惑がかかるし、学校でも問題になるだろう。
それはかなり混迷を極めた前代未聞の騒ぎになるだろうことは容易に想像できた。
でもこのまま学校に行けば、いつもどおり何事も無く一日が終わり、そこそこ頑張ってテストをこなし、大学に進学し、兄のようにあまりやりたくも無い仕事をし、ドラマとはかけ離れた恋をして結婚し、家庭を築いて子供を育てあげ、年老いて死んでいくのだろう・・・
僕は、そんな平凡な人生はいやだ!と思っていた、
だけどその時、ふと、病気も交通事故も知り合いの不幸も無く、そんなにうまく人生が送れたらこんな幸せなことはないのではないか、ということが頭に浮かんだ。
でもそれは純粋にそう感じたのではなくて、たぶん家出をするという無謀な計画をまえに、日常の生活から脱線してしまうという恐れが、なかば逃避という形でそのような概念を生み出したのだろう。
そんなことを頭の中でぐるぐると回していると、突然少し昔のロックのリズムがあたりから聞こえてきた、ブルーハーツの「ラインを越えて」だ。
そしてそれが僕にしか聞こえないことがわかるまでしばらく時間がかかった。
1ヶ月前にMP3プレイヤーを買って、ほとんど毎日のように身に着けていたから。すでにイヤホンと耳は一体化し、何かを耳につけているという感覚はなかったからだ。
ヴォーカルの声はただひたすら真っ直ぐだった。
色んな事をあきらめて 言い訳ばっかりうまくなり
責任逃れで笑ってりゃ 自由はどんどん遠ざかる
金が物を言う世の中で 爆弾抱えたジェット機が
僕のこの胸を突き抜けて 危ない角度で飛んで行く
満員電車の中 くたびれた顔をして
夕刊フジを読みながら 老いぼれてくのはゴメンだ!
生きられなかった時間や 生きられなかった場面や
生きられなかった場所とか 口に出せなかった言葉
あの時ああすればもっと 今より幸せだったのか?
あの時ああ言えばもっと 今より幸せだったのか?
机の前に座り 計画を練るだけで
一歩も動かないで 老いぼれてくのはゴメンだ!・・・
THE BLUE HEARTS
「ラインを越えて」より
彼らの詩は僕の心を強く動かした。こころのキーがまわりエンジンに火がともったのだ。
そして、ちょうど隣町の駅で電車の扉が開いた。
もう迷いはなかった、大勢の名前もしらない人々を掻き分けて必死でホームにでた。
振り返ると心地よい音を立てて日常という扉が閉まっていくのが見えた。
もう後戻りはできない!
隣の駅から歩いて家に帰ると、時刻はもう9時すぎだった。
母は間違いなく仕事に出かけているはずだけど、やっぱり何がおこるかわからないので、こっそりと裏庭にまわり、家の中の気配をさぐり、誰もいないことを確認した。
「なんだか泥棒になった気分だ」と僕は思った。
ピッキングを想像しながら裏庭の玄関の鍵をあけ、無事に家の中に入ると、とりあえず台所にいって水を飲んだ、さっきから心臓がバクバク鳴りっぱなしだった。泥棒の仕事も楽ではなさそうだ・・・
こんな状態ではあまり長居をしていたら疲れてしまうから、急いで2階に上がり、あらかじめ押入れの中に隠しておいた80リットルのリュックと小さいリュックとテントを担いでガレージに向かった。幸いガレージは家の中でつながっていたし、シャッターも閉まるので、近所のおばちゃんに学校をサボっていることについて詮索されずにすんだ。
そして、すべての荷物をバイクにしっかりと固定すると、何かの儀式のように神妙に、深呼吸をしてからキーをまわした。ガレージの中にVツインエンジン特有の、低くリズミカルな鼓動が響き渡った。
僕はヘルメットをかぶり、MP3プレイヤーの再生ボタンを押し、シャッターを開け放つと、果てしなく広がる世界へ向かって飛び出した。
夏の日差しがただひたすら眩しかったし、クソ暑いのだけれど嫌な気分はしなかった。
運転のために、音を最小限に抑えたイヤホンからは、静かにケツメイシの「ドライブ」が流れていた。
暫らくすると地元の住宅街をぬけ、国道246に出た。ここはかなり太い幹線道路だから、バイクの運転をはじめて3ヶ月の僕には、まだ少し不安があった。
信号が変わると慎重にアクセルを吹かして、クラッチをつないで発進して、立体交差の傾斜を駆け上がる、直線に入るとすぐにギアを3速まで上げなくてはならなかった。時速はすでに70キロを越えていて、エンジンは唸りだした。
「速い!」その有無をいわさない巨大な流れは、まるで自分が巨大な生き物の血管の中を流れているというような感覚にさせた。
ふと、頭の中で、上空のヘリコプターから自分を見ているような映像が浮かんだ、そしてそれは除久に上昇し、最後には日本全体を映し出した。幹線道路は時々車の窓ガラスとかに反射した光で、動いていみえた。
僕は経済のことなんてまったくわからないけれど、なんとなく日本が生きているという事だけは感じ取れた。
僕らは血管の中を流れる赤血球なり白血球なのだ、そしてトラックは、今日も各細胞に必死でエネルギーを供給し、パトカーは悪玉菌を捕まえてまわっている。
平均時速は80キロをキープして、すべては順調に進んでいた。今日はどこまでいけるだろうか?このままのスピードならきっと静岡まで行けるかもしれない、僕はそのことについて道路地図を見て確認しなければならないと思い、目についたコンビニに入ることにした。
幹線道路沿いには予想以上に多種多様なコンビニがあったから、トイレと休憩には困らなかった。
そしてお店にはいり、トイレにいってゆっくり店内をまわり、パンとコーヒーを買った。いつもなら量だけがとりえの学生食堂でカツカレーでも食べているころだろう。
僕は、駐車場にとまっているバイクの横に腰を下ろし、その自由な気分を味わいながらコーヒーを飲んだ。
そして今日の予定を立てるべく荷物を空けてみた。
それは、突然竜巻のようにやってきて、僕の心の火を消し去って行った。
「あれ!?道路地図がない!」
僕は声を出さずに心の中でそう叫んだ、昨日確かに小さいほうのリュックに入れた記憶があるのに・・・。(それも中部地方と関西地方の2冊)
もう一度落ち着いて、荷物の中を引っ掻き回してみたけどやっぱり見つからなかった、そんなに小さいものではないから後になってカバンの底から見つからないだろう事は容易に想像がついた。
「僕はいったい、これからどうしたらよいのだろう?」
もう一度コンビニに入って地図の値段を見てみたけど、中部地方の物だけで3200円もしたから、限りがあるお金を道路地図購入にあてることは、あまり現実的とは思えなかった。
結局、地図は買わずにコンビニを後にした。
それから、絶望感に浸りながら246を走りつづけていると、厚木という場所で、これから進んでいくはずだったコースを外れていることに気がついた、道路の幅が狭くなっていることを不安に思ってはいたのだけれど・・・、
道路標示の青い看板に、今いる場所が国道246ではないことを告げられると、血の気が引いた、何しろ道路地図をもってないのだ!
僕はこの時ほど家に帰りたいと思ったことはなかった、そして昨日まで調子に乗っていた自分を恥じた。
一生懸命アルバイトをしてバイクを買っても、教習所にいって免許をとっても、タバコを吸って大人ぶってみても、結局僕はただの子供にすぎなくて、たかが地図張が無いぐらいで泣きそうになっているのだ。
だけどその時、頭の中でまるで自分ではないような誰かが言った。
「落ち着け!感情的になるな、考えろ!できるだけ冷たく無機質に考えるんだ!とりあえず今俺にできることはなんだ?」
「僕にできること?」と僕は思った。
一瞬、自分が二人になってしまったような感じがしたけど、それはダブったというよりもむしろ、ぼくを形づくっている人格が「ブレた」といった感覚だった。
僕は俺であり、俺は僕なのだ。
「そうだ、なんとかなる、まずは本屋かコンビニを探すんだ!そこになら地図帳がある、そこで自分が今どこにいるのかを聞いて、246にもどる道を探そう、246に戻れれば少なくとも家には帰れる。」
こういう時に限ってコンビニはなかなかあらわれなかったけど、焦って右左折を繰り返して探し回ったらもっと悲惨な状況になるかもしれないと思ったから、必ずあると信じてその道をひたすらまっすぐ進んだ。
そしてローソンの青い看板が見えてきた。
「よしっ!」
空回りしていたエンジンにゆっくりクラッチがつながったような気分になった。
さっそくお店に入って地図を立ち読みさせてもらうと、意外な事実に気がついた。
なんと、今僕が走っていた道は(ジグザグではあったが)246とほぼ平行に走っていて、そのまままっすぐ行けば、あと300メートルくらいでもとの道に合流できるようになっていた。そして迷子になってからずいぶん長いこと走っていたつもりだったけど、結局8キロぐらいしか走っていなかった。
なんのことは無い、最初から悩んだり、落ち込んだりする必要はなかったのだ!
僕は自分の信じた道を行くのが、いかに不安や苦悩に満ちたものであるかを学んだ。逆に言えば自分の信じた道が普通と違えば違うほど、悩んであたりまえなのだろう、だからきっとあきらめなければ、大抵のことなんてなんとかなってしまうような気がする。
でも切実にコンビニを捜し求めている時に、焦って探し回っていたら、もしかしたら永遠に厚木市から脱出できなかったように思えた。