出発前夜
「少年の詩」
1、出発前夜
僕は高校3年生、もうすぐ夏休みが終わる、そしてまたいつものような部活とテストをくりかえす学校生活が始まるはすだった・・・。
始業式の日、僕はカバンをリュックにかえ、自転車のかわりにバイクに乗って家出をした。そしてとりあえず西をめざした。
家出をしようと決めた理由は話すと長くなるのでまたの機会しようと思うけど、きっかけは「海辺のカフカ」という一冊の本だった。(村上春樹著 新潮文庫)
カフカという15歳の少年が東京中野区の家を出て、四国の高松にある図書館で暮らすようになるという物語なのだが・・・、話の内容は冒険談ではなく哲学的?でとても難しく、僕にはよくわからなかった。
でもとりあえず15歳の少年が家出をしたんだから、17歳の僕にできないは
ずはないという軽いノリで家出を決めたのだった。
だけど僕は小さいころからボーイスカウトをやっていたから、キャンプ生活にはある程度自信があった。
でも今回はあの時のように、山に入って2泊3日で帰ってくるような夏のキャンプではなかったら、荷物の準備には慎重に慎重を重ねた。
まず、出発の二日前にバイトの貯金を全部下ろしてきてそれを盗難防止のために2つの財布に3万ずつ入れ、残りの3万をリュックの背当ての中に隠した。
今持ってるお金も合わせると、全部で9万5千236円にもなった。
それからキャンプの7つ道具である(僕の場合)、ナイフ、懐中電灯、コッフェル、テント、救急箱、防寒服、地図とコンパスを用意し、机の上に並べてみた。
そしてそれに、いつもなら山で薪を集めて燃料にするから必要ないのだが、街中で焚き火をするわけにもいかないし、何しろ煙の匂いがついた体でコンビニに入りたくなかったので、折りたたむと分厚い文庫本ぐらいのサイズになる携帯用のガスコンロを買っておいたのを付け加えた。
あと生活するもので必要なものは何か考えた結果、頭のなかで必要順位トップ3にランクインされた、食料と雨具とロープになり、それ以降にランクインされた物たちは持っていかないことにした。
なぜなら、僕のバイクはアメリカンタイプで、シーシーバー(後ろに乗る人用の背もたれで、クッションがついてなくて銀メッキの長い棒だけが突き出ている)に80リットルの大きくて背の高いリュックを縛り付けると後はテントぐらいしか積載できないからだ。
よくアメリカンライダーがリアタイヤの両サイドにつけている黒い皮製のバッグは思いのほか高かったので買うことができなかった。
まず食料は家にあるレトルト食品を片っ端からかき集め、それにイワシの缶詰と砂糖とクリープも入っているスティック状のインスタントコーヒーを加えて、スーパーのビニール袋に入れた。
僕は以前からよく荷物をパッキングするときにはこのビニール袋を使う習慣があった。なぜなら、破れたらかさばらないように小さくたたんでおいた物と取り替えればすむし、スーパーのおばさんに頭をさげればいくらでも無料で手に入ったからだ。
そして口を蝶結びのできそこないのような結び方で縛っておくとリュックが雨でびしょ濡れになっても中身の被害がほとんどないことを経験から学んでいた。
つねに身体をさらしているバイク乗り(ライダー)にとって、「雨」は、違反した車両からお金を巻き上げようと躍起になっている白バイ警官と同じぐらい厄介な存在なので、雨具は、上下が別々になっているゴワテックスの良いものを持って行くことにした。
それはわりとかさ張るから他の着替えの服を減らさなければならなかったけど、真夏を少し過ぎたばかりの蒸し暑い時期だったから、防寒着をもたなくて良いことが幸いした。
ここまでそろえると、旅の相棒たちは机の上には乗りきらず、僕の部屋の狭い床いっぱいにまで広がっていたから、はたしてリュックの中に入るのかどうか心配だった。
パッキングの際は、普通リュックを背負ったときに、重心が背中かから肩の辺りに来るようにするために、軽い物や使用頻度の少ないものを下層部にいれ、重いものや使用頻度の多いものを上層部にいれるのだが、バイクの安定性を保つために、できるだけ重いものをリュックの一番下にくるように配置することにした。そして当分の生活に必要な物はすべてその中に入った。
だけど、人間は最低限生きていくことができるようになると、また別の欲求が生まれてくるようにできているらしい。
荷物の中にCDと本が入っていないことに気が付くと、お湯を沸かしっぱなしで買い物に出かけてしまった事に気が付いたような気持ちになった。
でも大きなリュックにはもう荷物は入らなかったし、それとは別のリュックをバイクにくくりつける方法が思いつかなかったから、息抜きのために一階に紅茶を飲みに降りた。
時刻はもう夜の9時を回っていた、急がなくてはそろそろ両親が帰ってきてしまう。
そして、ふと明日から学校へ行く人間の部屋に大きなリュックが置いてあるのを両親に目撃されて言い訳をしているイメージが浮かんでしまったので、お湯の中にティーパックをいれたまま二階に戻り、とりあえず押し入れの奥に押し込んで布団をかけておいた。
そして階段を降りながら、明日の朝どのように出発するかということに考えを廻らせてみた。
父は朝早く出勤してしまうから問題はないのだけど、母は8時半にならないと仕事にいかないというのが悩みどころだった。
台所にもどると、紅茶はすでにコーヒーのような色になっていた、明日のことを考え続けながら無意識のうちに砂糖をたくさん入れていたらしく、ポットに3人分作ったものを一人分の量になるまでひたすら煮つめたような味がした。
そしてそのぶっ濃い紅茶を啜っているうちに、大きなリュックの他に、普段使っているリュックを積載する方法を思いついた。なにも、使える部分は表だけではないのだ。
それは、まず運転席の後部座席に大きなリュックを載せ、長さが70cmあるシーシーバーにロープでぐるぐる巻きに固定し、その裏側になるリアフェンダーの上にテントを固定して、さらにそのテントの上に小さいリュックを置くというものだった。口で説明するのもややっこしいのだが、後日実際に積んでみると、積むだけで5分はかかってしまう面倒な作業になった。そこで小さいリュックの方はロープで固定せず、カラビナを使って取り外しができるように工夫した。
そうすれば小さいほうのリュックに貴重品や、よく使うものを入れて街を歩くときにはずして持っていくことができる、テントと大きいほうのリュックはそのままバイクに縛り付けておいても今時盗む人もいないだろう・・・。
そんな事を考えていると、玄関の鍵を回す音が鳴って、「ただいまー」という良く透る甲高い声が聞こえた。先に帰ってきたのは母だった。
「おかえり、遅かったね、今日も患者さん多かったの?」と、僕はできるだけいつもと声の調子が変わらないように注意しながら尋ねた。
「いやーもう七十三人も来たわよ、インフルエンザの季節でもないのに、なんでこんなに多いのかしら、まだ開業してから1年ちょっとでしょ、渡辺先生が働きすぎなのよ・・・」
母の口数が多い時にはたいてい疲れていることが多かったので、僕はできるだけ明るく振舞って夕食の準備をはじめた、といってもたいした料理ができるわけではないし、この時は昨日母が作った豚のしょうが焼きの残りとポテトサラダがあったので、僕は冷蔵庫の残り物で味噌汁を作っただけだった。
母は薬剤師で渡辺先生という小児科医が開業した病院のとなりの薬局に勤めていて、その先生の病院が非常に繁盛していたので母も薬局も必然的に忙しくならざるをえなくなったのだった。
渡辺先生という人は、あまり人あたりが良いほうではなかったし、診察が丁寧というわけでもなかったけど、この先生に任せておけば大丈夫だと感じさせる
何かオーラのようなものが出ている人だったから、きっと「それ」が開業して1年足らずで多くの患者さんを集めたのだろうと思った。
もしかしてある種の人間は、物理的には存在しないのだけど、人間どうしの間だけで影響し合うオーラのようなものを本当に持っているのかもしれない・・・。
夕食を食べ終わって、片付けをする頃になって父が帰ってきた。
「ただいまー」と言って夕刊を持って居間に入ってくると、いつものように新聞だけPCラックの上に置いて、着替えのために2階に上がっていった。
3人とも食事を終えると父が皿を洗いながら、
「お、そういえばお前、明日から学校じゃないか?夏休みの宿題は全部終わったのか?」と聞いてきた。
彼は今まで僕の学校のことについてまったく気にもかけていないようだったから、何か感づかれたのかと思って一瞬どきっとしたけど
「え!まぁ、一応全部終わってるよ。あんまり多くなかったからね。」と、平静を装って言った。
それに、全部終わっているというのは、ウソではなかった。
父は皿を洗い終えると「一応って・・・大丈夫なのか?」といってまた2階に上がっていった。おそらく仕事が忙しいのだろう、うちの家族は主に母が一人でしゃべっていたから、僕らはふつう必要最低限の会話しか交わさなかった。
そしてこの日、唯一僕が家出をする計画を建てていることを知っている兄は家に帰ってこなかったから、彼とふたりで使っている部屋でぐっすりと眠った。
あるいは兄は僕に気を使わせないために友達の家にでも泊まってくれたのかもしれない。
きっと、ぐっすりと眠れたのは、明日から、17年間ほとんど変わらなかった日常がまったく別のものになってしまうなんていう実感が無かったからなのだろう・・・。
僕は、のんきな夢の中を彷徨っていた。