第九章
9
これは夢だ、と分かる夢を見る時がある。
テノールはまさにそういう夢を見ている。
――ああ、またあの日の夢だ。
雨季が来ると必ず見る夢。それはテノールの背丈が今よりわずかに低く、髪も肩までしかなかった頃のこと。
「だから帰れと言っている。東の森は人間を入れない」
「しかし西の森はすでに調査を行っています。東も後れを取るわけには……」
「人の子の理由など、森が聞き入れる必要はない」
今よりも苛烈な陽光の中、テノールは森の入口付近で言い争いをしていた。日よけのマントをかぶった五人。その中で最も年嵩の無精ヒゲを生やした男がテノールと渡り合っている。
「東の森は未だ不可侵。これは俺たちの『王』が決めたことだ。俺はそれを伝えているに過ぎないから俺に食ってかかられても困る」
肩の辺りで切りそろえられた銀と緑の髪は今と変わらず美しく、テノールがまだ少年の域を出ていないことを際立たせた。
「ならばその『王』とやらの許しが出るまで、私達は君の元を訪れよう」
ルキアーノはそう告げると、他の四人を引き連れて森から離れていった。
一番後ろを歩いていた男だけが、ずっとテノールを見続けていた。後ろ髪引かれるというのはまさにこのことだと言わんばかりに。ちらちらと振り返るその男に、テノールは思いっきり舌を出してやった。
「何なんだ、あいつらは」
彼らこそが今の森の繁栄のための大きな一歩を踏み出した「ブッフォン調査団」そのものである。夢とは分かっていても、懐かしさでテノールの胸の内がじんわりと温まっていく。そして同時に、ちくり、ちくりと鈍く痛んだ。
来る日も来る日も、彼らは森の入口まで訪れ、森へ立ち入る許可をテノールに求めた。そしてその度にテノールは彼らを突っぱねた。
「いくら来ても『王』は許可をしない。だからもう来るな!」
「いいや!このまま引き下がることはできない!私達にも意地ってもんがある!いいか?これからも森は拡大していく。その度に世界は気候変動をしていくだろう。そうすれば乾いた土地に順応してきた人間はその影響をもろに受ける。それは森も同じだろう?急激な変化は過酷な影響を与えかねない。それを緩和するためにも、私達の調査は必要なんだ!」
壮年の男の剣幕に、テノールはたじろいだ。確かにそれも一理ある。しかし独断で彼らを森に入れるわけにはいかない。テノールは森の主ではないのだ。
「団長、この子、引いてますよ?」
一人の女がクスクス笑った。ふわふわとした巻き毛を後ろで一つに束ねている。つられてもう一人の女性も笑った。真っ直ぐに切り込まれた黒髪が美しい。
「もう少し声のボリューム落として話せばいいんじゃないですか?」
赤毛とソバカスと眼鏡の男も笑う。
「今の話、君の『王』に伝えてはくれないか?」
「え?」
穏やかな声がテノールに語りかける。短く切りそろえた若白髪に褐色に日焼けした肌。赤銅色の瞳が悪意と他意はないと真摯に訴えかけてくる。
「団長の言葉、君も納得してくれたんだろう?だったら話を通してくれないか?僕たちはそれまでずっと待っているから」
男は優しくテノールに言った。
湧き上がる情熱を言葉にする「団長」とは対照的な、穏やかで凪いだ湖のように静かだ。どうしたものかとテノールは思案していると、森の入口の楓が揺れた。一羽の鳥が飛び立ち、テノールの肩に止まった。ちち、ちちち、と耳元で囁くように鳴き、再び鳥はどこかへ飛んだ。
「……おい」
バツが悪そうに、テノールは一団を見た。
「たった今、『王』からお許しが出たぞ」
「なんだって?!」
「だから、明日からなら森に入ってもいいって、『王』はそう仰ったんだって言っている!ありがたく思え!」
捨て台詞のように吐き捨て、テノールは森へと帰った。入口付近で一団が歓声を上げているのが、妙に悔しく思えた。
ブッフォン調査団の調査は翌日早速始まった。森にかけていた歌の結界を解き、テノールは彼らを招き入れた。
「いいか?森に入るからには森の掟を守ってもらう……って、お前ら聞いてるのか!?」
調査団はまるで子供のようにきゃいきゃいとはしゃいでいた。
「これが本物の自然かぁぁぁぁぁっ!木漏れ日というヤツは穏やかなんだな!」
「見てよ、シュゼット!青い鳥がいるわ!」
「アーネストったら何で何にもないところで転べるの?」
「ううう、うるさいな!」
「おいおいおい、『小夜啼鳥』が困ってますよ?」
思い思いに騒ぐ一団を、若白髪の男が窘めた。
「うおっほん。……あー、すまない。続けてくれ」
激しい咳払いをし、団長が居住まいを正した。
「……一、森のものを殺してはならない。二、夜の森に入ってはいけない。そして三、この俺を外に出すな。以上だ」
「……よく分からないが、了承した」
「よく分からないものに了承しちゃダメですよ、団長」
巻き毛の女が団長を窘めた。確かによく分からないものをそう簡単に飲み込んではいけない。
「ま、まず一は分かるんだけど……二と三はどうしてなんだ?」
赤毛の男が恐る恐るテノールに尋ねた。
「夜の森は昼とは違う。夜行性の肉食獣もいるし、俺は夜の歌を歌わなければならない。お前達の身の安全ができないからだ。だから調査は日の高いうちに済ませて、日が傾きだしたらとっとと帰れ。それに、俺を森から出すと言うことは、森のものを殺すことと同義だ。絶対守れ。守れないならでていけ」
テノールはずっとむぅ、とふくれている。
テノールは気にくわなかった。
調査などお人好しの西の森のアルトが許しただけだと思っていた。森に人を入れるのは、土足で部屋を荒らされるようなものだとテノールは思っていた。それなのに、なぜ「王」は許可をしたのだろうか。テノールには「王」の考えが分からなかった。自分だけが置いてけぼりのような気がして、テノールは拗ねていたのかも知れない。
今なら分かる。「王」の考えも、浅はかな自分の愚かさも。
「それと、これを食え」
テノールは全員に黒スグリを渡した。
「これは?」
「黒スグリ。森にはいるために必要なことだ。森のものを口にすることで俺が人避けの歌を歌っていてもお前達だけは森に入れる。『王』の御指示だ。ありがたく食え」
「で、でも、団長……」
「私達は森の掟に従うよう、国からも言われている。これは食っても大丈夫だろう」
当時のテノールは訳が分からず首を捻っているだけだったが、今なら分かる。彼らには彼らの掟があり、「王」の指示は森のものを口にしてはならないという規則に反していたのだ。それでも彼らは黒スグリを口にしてくれた。テノールの言うことを信じて。
「すっっっっっっっっっっぱ!」
「耳の下がきゅーってなるぅぅっ!」
「あ、でもこれ美味しいかも……」
などと味の感想を言う中、赤銅色の瞳の男だけはテノールをじっと見つめていた。
「……なんだよ」
「ずっと聞きたかったんだけど、君、名前は?」
「人の名前を聞きたきゃそっちから名乗るもんだろ」
仏頂面のテノールはそっぽを向いて言った。
「ああ!そうですよ、団長!僕たちまだ自己紹介してませんって!」
彼は慌てて申し立てた。
「おお、それは無礼なことをした。えー、この調査団を率いている、植物学者のルキアーノ・ブッフォンだ。以後、よろしく」
そう言ってルキアーノは薬品でひび割れた大きな手をテノールに差し出した。憮然としたまま、テノールは仕方なしにその手を握った。
「わっはっはっは!そう照れずともよい!」
「照れてねぇし」
豪快な笑い声を響かせながらばしばしと遠慮なしに肩を叩くルキアーノの力は半端ではなかった。おかげで数回噎せた。
「そしてこっちの赤毛のチビがアーネスト・ベレッタ。私の助手であり、一人の研究者でもある」
どん、と押し出されたアーネストは見事に顔から転んだ。ソバカスだらけの白い顔が土で汚れる。
「よよよ、よろしく」
へらりと笑うその顔が、どことなくジゼルに似ていた。血は争えないとはこのことだ。どちらも申し訳なさそうな顔をして、でも憎めない。
「えーこちらは……」
「団長、私達は自分で言いますよ」
ルキアーノの押し出しを恐れたのか、黒髪の女が自ら名を名乗る。
「私はサラ・タチバナ。考古学者よ」
「私、シュゼット・アリュー。地質調査をします」
髪型と同じようにかっちりしたサラと、ふわふわとどこかに飛んでいきそうなシュゼット。二人共が手をさしのべるため、テノールもまた不承不承ながらもその手を握り返した。
「僕はマクシミリアン・ド・ジャッケ。音響学者です」
「……一番名前が長い」
「それは仕方ないな。呼びにくければマクスと呼んでくれないか?」
「意地でもフルで呼んでやるよ。マクシミリアン・ド・ジャッケ」
意地の悪いテノールの顔。呆れたように、困ったように笑うマクシミリアンと調査団員。それを見る今のテノール。過去の彼らに今の自分は見えていない。
ああ、見えていたらどんなにいいのだろうか。
テノールは触れられない過去の幻影が悔しかった。
調査はジゼルが行っているような単純なものではなく、少人数ながらも大規模な調査が敢行された。最低限の荷物と人数で最大限の効果を上げようとする、貪欲な体勢が彼らには備わっていた。
ルキアーノはアーネストを連れて森中の植物をフィルムに収め、触り、そしてやはりほんの少しの表皮細胞や花粉を採取した。アーネストは補佐をする傍らで植物分布図を作っていた。シュゼットはボーリング作業をし、森の地層を見る。サラは前時代の「遺跡」を調査し、テノールにはマクシミリアンが張り付いていた。
「……おい、どうしてお前は他のヤツらみたいに森を探らないんだ?」
「言っただろう?僕は、音響学者なんだ。だからまず、キミの「歌」を側で聞きたい。頼むよ。一回だけでいいんだ」
テノールはちっ、と舌打ちをした。しかしマクシミリアンはそんなものはお構いなしで、何やら小難しげな計器を組み立て、今か今かとテノールの歌を待っていた。
「……一回だけだからな」
息を吸った。
楓のために、昼の歌を歌う。この時の楓は、初めて訪れた人間に少々緊張していたので心を穏やかにする歌を歌ったのだ。
今でも覚えている。
知らず、今のテノールも同じ歌を口ずさんでいた。
心地よさそうに葉を揺らす楓。真剣な眼差しで計器を見つめるマクシミリアン。
その歌声は美しかった。ルーペで苔を眺めていたルキアーノも、ノートに菌輪の位置を書き記していたアーネストも、粘土層をうっとりと眺めていたシュゼットも、そして「遺跡」の埃を払っていたサラも皆手を止めるほどに。彼らは初めて間近で聞く「小夜啼鳥」の歌声に耳を奪われ、魅せられていた。
歌に始まりがあれば終わりもある。歌い終えたテノールを待っていたのは森の各所で響く五人分の盛大なる拍手だった。ルキアーノだろうか。「ブラボー!」と大声を出したのは。
「なな、なんだよ」
「すごい……!」
テノールの手をマクシミリアンが勢いよく掴んだ。
「初めて聞いたけどすごい!これが『小夜啼鳥』の歌なんだな!こんなに可愛い女の子みたいな子のどっからそんな力強いテノールが出るんだ?音域も広いし、歌の技術もある。それになんといっても波長さ!バイルシュミット計測器の針がこんなにも揺れるなんて驚きだよ!やっぱり生のフィロメーラ波はすごい!」
興奮のままに捲し立てるマクシミリアンにテノールはたじろいだ。
「それだけじゃない。ああ、それだけじゃないさ!」
ふー、と一息つき、興奮冷めやらぬ様子でマクシミリアンは更に言い募った。
「数値だけの話じゃあない。キミの歌には……なんていうかなぁ、心があるんだよ」
「……ここ、ろ?」
テノールは小首を傾げた。
「なんていうかなぁ、聞いているものに訴えかけるような、あー、違うなぁ、語りかけるというか、囁くようなって感じかな?」
「別にお前のために歌ったんじゃない。俺はここの楓達に歌ってたんだ」
「うん、そうだろうね。でも僕の心にも、伝わる何かがあったんだよ。やっぱり『小夜啼鳥』はすごいな」
無邪気に笑うマクシミリアンにテノールは二の句が継げなかった。
今まで森で歌ってきても、改めて「すごい」などという褒め言葉をもらうことなどなかった。草木も花も、毎日のようにテノールに話しかけてくれる。歌えば共に葉を、花を揺らし歌ってくれる。歌い終えれば感謝の言葉を伝え、それに応えるように育ってくれる。それでも改めて、面と向かって、森とテノールと関わりのないものたちから感嘆される。
「ぅあ……、」
次第にテノールの頬が熱くなってきた。
こんなことは初めてだ。
テノールは訳が分からなくなった。どうしてこんなに顔が熱いのだろう。どうしてこんなに鼓動が五月蠅いのだろう。どうしてこんなに胸がざわつくのだろう。どうしてが積み重なり、ついにテノールは走り出した。
テノールは思った。きっとこれは森に人がいるからに違いない。初めて人がいるというのがストレスになっているに違いない。だからこんなに変なことが起こるのだ。
気づけばテノールは森の中心にいた。湖に浮かぶブナの木。テノールにとってはこの森で唯一心許せる、親のようなブナの木。テノールは走ってきたスピードのまま、湖を渡り、ブナに縋り付いた。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
幹に火照った頬を寄せ、根本にへたり込んだ。
「あんなのもういや、だ……」
恥ずかしい、という感情をテノールは初めて知った。
そして同時に、満たされた。反応を返されたことに、嬉しい、と感じたのだ。しかし、
「どうして『王』は、彼奴らを森に入れたんだ……?」
それは純然たる疑問。今まで頑なに人の侵入を拒んできた「王」は、一体どうして今回人を受け入れたのだろう。テノールには「王」の考えが分からなかった。
「その『王』っていうのは一体誰だい?」
「お前……!」
追ってきたのか?
湖の畔に息を切らしたマクシミリアンがいた。テノールは風を纏ってかなり早く走ったのに、彼はもう追いついてきた。
「君の話が聞きたいんだ!ちょっとそこじゃ遠くて聞こえないからこっちまで来てくれないか?」
「…………」
本当は行きたくなどない。できることならこのままブナの中で眠りたい。包まれていたい。漂っていたい。しかしなぜかその時のテノールは行ってしまったのだ。マクシミリアンの元へ。水面を来た時とは逆に、穏やかに波紋を揺らしながら湖を渡った。
「すごいな、魔法みたいだ」
「……こんなの愚図のアルトだってできる」
すとん、とマクシミリアンの横に座り込んだ。立ったままだったマクシミリアンもそれにつられて草の上に座った。
「アルトって、誰?」
「西の森の『小夜啼鳥』だ。たまにたまーに、ホントにたまーに会える」
「どうやって?西って随分離れてるじゃないか」
「特別なんだ。夢の中で会えるから」
「小夜啼鳥」は「世界樹」とつながる木の中で眠る。すると時折夢の中で他の「小夜啼鳥」と会う。西のアルトだけではなく、南のバスとも、北のソプラノともテノールは会った。ごく稀に四人揃う時もあったが、何をするでもなく、気紛れな歌を歌っていたりもした。
「ところで、さっきの話。『王』って一体だれ?」
テノールは膝を抱えたまま、二人の対岸にある月下美人を指さした。
「王は木霊の王のこと。この森を統べる世界樹からの使者。精霊王とも呼ぶ」
「あの月下美人が?」
こくりとテノールは頷いた。
「あれは特別。毎晩花開いては王の目覚めを告げる」
「目覚め?」
「王は日が沈むにつれてその目を覚まし、夜にこの森を共に癒してくれる」
テノールはじ、と花を見つめた。白く可憐な花。一夜限りの栄華を誇るはずの花が、今宵も狂い咲く。
「そして朝日が昇ると王は眠りにつく。今は花が閉じているだろう?あれは王が眠っている証拠だ」
「王はどんな姿をしているんだい?」
「分からない」
「分からない?」
「王は姿を現さない。俺に話がある時は動物の口を借りるか、直接頭に話しかけてくる」
「頭に?どういうことだ?」
「耳で聞こえるんじゃない。何て言うか……頭に響く、感じ?他に言いようがない」
「そうなんだ……。王は僕たちに話しかけちゃくれないかな?」
「畏れ多いことを言うな。大体王が森に人を入れたこと自体異例なんだ。こうしているだけでもありがたいと思え」
「うん、そうするよ」
マクシミリアンがへらりと笑った。人の良さそうな、心底幸せを味わった人間の笑顔だ。
テノールは誰かの笑顔を初めて見た。誰かと話をすることも初めてだ。
その初めてが、どうしようもなく「楽しい」と思えてきた。
それは今までどんな歌を歌ってきても味わうことのできなかった感動だ。確かにここにいる。そういう実感が持てる。
もしかしたら「王」は自分のために人を森に入れてくれたのかも知れない。もしかしたら最近の俺の歌には気持ちがこもっていなかったのかも知れない。だから「王」は気分転換ができるようにと人を入れたのかも知れない。
すべては「かも知れない」の域を出ない推測に過ぎないが、それでもテノールは「王」に感謝した。これでまた今日も明日も歌を歌っていける。この歓びを捨てられるわけがないのだから。
テノールは幼かった。そして同時に、マクシミリアンも幼かった。幼さが時として取り返しのつかない過ちを招くことになるとも知らぬほどに、幼かったのだ。