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第八章

 雨季は重要な水源確保の時期だ。喩え東部がサメフ河の恩恵のために生活用水に苦労をしないとは言え、雨が降らねばそのサメフ河も大河からただの溝に成り果ててしまう。研究所でも大型貯水タンクに水を溜め、研究用水、生活用水その他諸々を賄う。

「よくない。嗚呼、実によくない!」

 芝居がかった口調で言い放ち、ネイサン・リントンは新聞を投げ捨てた。くしゃくしゃになった憐れな新聞は、サーシャによって拾われ、犯人・ネイサンは頬を膨らませ、不機嫌をアピールした。全く中年らしからぬ仕種だ。可愛くない。

「何がよくないんですか、室長?限りある資源である新聞を投げ捨てる位なんですから余程なんですよね?」

「何そのちょっと高圧的な嫌味は。サーシャ君、いつからそんな不遜な子になったの?そんな子に育てた覚えはありません!」

「俺としてはアンタに育てられた覚えがありません」

「ちょ、ホント何?反抗期?遅れてきた反抗期なの?」

「漫才はもういいんですけどー。ねージゼル」

 室長と室長補佐の掛け合い漫才をエルシーは怠惰な声でぶった切った。しかもご丁寧にジゼルにまで火の粉をかけて。おかげで返答に困ってしまった。

「わわ、私は別に……!どうぞどうぞお続けください!」

「いや、もういいや」

 ネイサンは興醒めといわんばかりに肩を竦めた。

「でも何がよくないんです?ホントに」

「あーそれ私も気になりますー」

 回転椅子の背もたれに上半身をだらんと預けながら、エルシーはジゼルと共にネイサンに尋ねた。

「よくないのはね、この雨だよ!」

 ネイサンはバンッと窓を叩いた。窓の外は相変わらずの雨。スコールのように瞬間的にドッと降るのではなく、しとしとと長期間にわたって降る、いわゆる長雨状態になっている。前時代の東部には長雨は珍しくないものだったらしいが、今の世では珍しいことだ。

「でも雨がたくさん降ると当分水に困らないですよ?いいことじゃないんですか?」

「そうですよー。真夏の断水宣言ほど辛いものってないんですからー」

 真夏の断水は本当に辛い。生活用水に困るどころか、飲み水すら危うくなる。

 特に下水関係は酷いものだ。いつもは水に浸されていて分からないが、いざ干上がってみるとそこからは酷い臭いが立ちこめるのだ。あれだけはいただけない。ジゼルとエルシーは互いに顔を見合わせてうんうんと頷いた。

「そりゃそうだがな、長雨はよくないものを連れてくるんだよ」

 サーシャは先程拾った新聞を二人に開いて見せた。サーシャが指さした見出しは

「『西の伝染病 東部にもか?』ですか?」

「そういえば西ってなんか流行病出ましたよねー?」

「あ、私それ知ってます!激しい腹痛と高熱が何日も続いて最終的には死に至るって……」

「それ、長雨が原因なんだよね。妙なところに溜まった湿気とかが食料を腐らせたりして。湿気ってあんまりいい影響はないんだろうかねぇ?これも、世界が乾いたからこその負の影響さ」

 額に手を当て、ネイサンは大袈裟に溜息をついた。

「このまま降り続けば、きっとよくない。きっとこっちでも流行るよ」

「そうなると、ここも閉鎖ですね」

「早期治療でどうにか治るらしいけど、何よりも感染経路を断つ必要があるからねぇ……。流行りだしたらワクチンも足りなくなるだろうし……はぁぁぁぁぁ……僕の大事なシャーレ群が観察できなくなるのかなぁぁぁぁぁ……はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ……」

「室長、鬱陶しいです。溜息やめてください」

「サーシャ君は冷血漢だし……あぁぁぁぁ、僕の大事な細菌ちゃん達……」

「でもまだ閉鎖するなんて決まってませんから大丈夫ですよ!」

 底なし沼に沈むかのように落ち込むネイサンをジゼルは何とか励ました。正直、鬱陶しい。

「でも気をつけるに越したことはないからね。普段乾いてるから何とも思わないかも知れないけど、こういうじめっとした空気は体によくないってことだよ。カビとかそういうの、気をつけてね!あと妖しいと思ったら即病院!」

「はーい」

 やる気のないエルシーの声だけがしたが、ジゼルも心得ている。植物とはいえ、ジゼルも病理研究者の一人だ。病気に関しては人一倍敏感でもある。

「さて、今日も頑張って研究していこうかねっと」

 雑談モードを切り上げて、ネイサンはいつものように顕微鏡を覗き始めた。それを皮切りに、病理研究室は仕事モードへと切り替わった。

 顕微鏡を調節し、時には薬品を垂らし。遠心分離器の機械音に耳を澄ませつつ素敵な培養地をうっとりと眺めたりと、趣味と実益を兼ねたような仕事が始まる。


 研究室の時計が正午を指すと、ジゼルはいそいそと休憩の準備に入った。

「ジゼルちゃん、いつになく早いね」

 ぼきぼきばりっ、と妙な音を立てて背伸びをしたネイサンがジゼルに言った。

「はい。黒星(ヘイシン)さんとお昼の約束してるんです。遅れたら黒星(ヘイシン)さんのお昼休みが終わっちゃうんです」

「へー。ジゼルってあの黒星(ヘイシン)・D・リデルとお友達なんだー」

 やはりジゼルが知らなかっただけで黒星(ヘイシン)は結構な有名人だったようだ。今更ながら自分の世間知らずっぷりが恥ずかしくなる。

「はい!とってもよくしてもらってます」

 黒星(ヘイシン)には本当によくしてもらっている。ランチを共にすることも珍しくはない。しかも今日はこの間借りた新しいオアシスの写真を返さねばならないし、聞きたいこともあった。

「じゃ、私も大陸のいい男を紹介してもらいに行くかなー」

「ちゃっかり邪魔しに行くんじゃねぇよ、馬鹿」

 ジゼルについていこうとしたエルシーをサーシャが首根っこを掴んで止めた。ぶー、と唇を尖らせてふくれるエルシーは悪さをした猫のようだった。

「じゃあ、お先に失礼します!」

 ジゼルはパタパタと小さな足音を立てて出て行った。

「……あれは恋!絶対恋ですよ!」

「んなわけあるか。仕事しろ」

 恋愛モードを繰り広げようとするエルシーをサーシャがばっさり両断した。つまらなさそうに伸びをして、エルシーは培養室へと消えていった。

 ぱたん、とドアが閉まるのを見て、サーシャはニヤニヤと下世話な笑みを浮かべているネイサンに向き合った。

「……何笑ってんですか?」

「いやぁ?べっつにー。青春だよねーホントー」

 エルシーだけでなくネイサンまで頭の中がピンク色だったとは……。サーシャは盛大な溜息をつきながらも、ネイサンに向き合った。

「室長。もしかしたらジゼルを森にやったのは間違いだったかも知れません」

 野生動物のような鋭い瞳が妙な真剣みを帯びる。ビン底のような丸眼鏡の奥で、ネイサンの目が細くなった。

「……君は僕の判断が間違っていたというのかい?」

「俺は最初、反対しました。ジゼルはまだ若すぎる。森にやるならエルシーだと」

「エルシーちゃんはもう一回行ったからもういいって言うし、それにジゼルちゃんに経験積ませたいって言ったら、、君も納得したじゃないか」

 机の上で手を組み、ネイサンはいつになく神妙な顔をする。サーシャはそれを立ったまま真っ直ぐに見る。

「けれどやっぱり間違っていたんです。アイツには早すぎた。早すぎたんですよ」

「それ、ちゃんと説明してくれないかな?頭を冷静にして、さ」

 ぎ、と椅子を軋ませ、ネイサンは体勢を整えた。ふぅ、と息を吐き、サーシャは頭をクリアにさせる。熊のようなサーシャの方がネイサンよりも大きいのだが、なぜかひ弱そうなネイサンの方が威圧感を放っている。一度唾を飲み込み、乾いた唇を舐めた。

「ジゼルは『小夜啼鳥』について調べ回っています」

「『小夜啼鳥』について?……別に咎めることじゃないだろう?ま、書物なんてないだろうけどね。それがどうかしたの?」

「これ以上『小夜啼鳥』……、いやテノールに踏み込むのは危険だと俺は言ってるんです」

 サーシャは北の森を思う。凍てつく風、踏みしめた雪の感触、そして美しい彼女のことを。

「テノールのことを考えて、アイツ何をしたと思いますか?街のことを教えたり、あの黒星(ヘイシン)・D・リデルからツァディ砂漠の新しいオアシスの写真を借りて見せたりしてるんですよ。森のことをテノールに教わる代わりにとジゼルは言ってましたけど、明らかに行きすぎてます。なのに、アイツはまだ『小夜啼鳥』について知りたいと言う。研修だけでは足りないと、もっと知りたいと……」

「確かにジゼルちゃんのやってることはちょぉぉっとやりすぎかなーとは思うけどさ、知的好奇心は研究者の最大の武器だからね。それを持つことの何が危険だと君は思っているんだい?」

「アイツはテノールにのめり込みすぎているんです」

 サーシャは遠い日を思う。

 北の森で過ごした、ソプラノとの日々。

 それは雪深い森の中で、温かい洞窟の中で過ごした二人だけの時間。取り合った手の柔らかさ。吐く吐息の白さ。寄せ合う身の温かさ。過ぎ去った日のことを、今でも昨日のように思い出せる。

「室長も知っているでしょう?『小夜啼鳥』は人間じゃない。どんなに彼らの寂しさを癒そうとしても、友好な関係を築こうとも、『小夜啼鳥』は森から出ることはできない!彼らに思いを寄せても、報われることはないんですよ……」

「それはかつての君のように?」

 ネイサンはサーシャの心を知っていた。

 若かりし頃のサーシャは、北部支部きっての切れ者研究者だった。期待のエースとして、今のジゼルと同じ歳で北の森での検体採取を任された。そして、美しい小夜啼鳥・ソプラノに心を奪われた。

「君の動かない左の薬指が、ジゼルちゃんを案じているとでも言うのかい?」

 だらりと下がったままの左腕に、力が入る。

『森を出て二人で暮らそう、ソプラノ』

 若かった。

 森の禁を破り、二人は森を抜けようとした。

 サーシャの無骨な左手が、ソプラノのたおやかな手を握り。

 風のように軽いソプラノを急がせ。走り。走り。走り。

 そして止まった。

『私は行けない……』

 絡め取られるように、森にソプラノは奪われた。サーシャの左の薬指と共に。

『サーシャ逃げて……!そして忘れて、私のことを……お願い、忘れて……忘れて……』

 忘れて……。

 今も耳に残る、あのソプラノの声。忘れて、そう言いながら、森へと連れ去られるソプラノを、サーシャは繋ぎ止めることができなかった。たった一本、指を森に残して。

 以来、サーシャの左薬指は、その姿はあっても指の魂だけが抜けてしまったかのように動かない。ぐっと曲げることもできなければ、ぴんと伸ばすこともできない。あの時ソプラノの手を掴んだ時のまま、中途半端に曲げられたまま、動くことを止めた。

 これは教訓だ。

 一生の教訓であり、同じ過ちを犯そうとするものへの警告だ。

「ジゼルはあの時の俺と同じです」

 森に捕らわれているソプラノを慰めようと、街の絵葉書を見せ、人々の暮らしを語ったあの日のサーシャと。彼女と語り、共に歌い、森を歩いたあの頃のサーシャと。

「指一本じゃ済まされないことになったら……どうするんですか……!」

「君とジゼルちゃんは違う」

 俯くサーシャに、ネイサンは冷たく言い放った。

「今のジゼルちゃんとかつての君を重ねるのは勝手さ。好きなだけ重ねて感傷に浸っていればいい。けどね、それを仕事に持って来ちゃダメだよ。絶対ダメだ」

 じ、とネイサンはサーシャを見返す。そこにいつものようなおちゃらけた空気は一瞬たりとも流れない。

「ジゼルちゃんは自分にできることをしたいだけだ。そこに君のような甘っちょろいおセンチな感情は一ミリもないよ。彼女は人として、テノール君を慕ってるだけじゃないか?だからできることをしたい。勿論、できる範囲でね」

「……そうでしょうか?」

「そうだよ。じゃなきゃ、今頃テノール君を森からだそうと躍起になってるさ。君みたいにね」

 ぎし、と椅子の背もたれを軋ませ、ネイサンは天井を仰いだ。

「それにね、サーシャ君、あの子はいつまでもお祖父さんの影に隠れてちゃあいけないんだよ」

「え?」

「根も葉もない噂に振り回されてさ、ジゼルちゃんは自分の力をまるで信じられなくなっちゃって……。本当にもったいない子だ。学院卒業論文も本当によく書けているし、作業も丁寧で観察力も悪くない。でもそれを認めたくない馬鹿共に邪魔されて、それを不当とも感じない、可哀想な子なんだ」

 偉大なる植物学者、アーネスト・ベレッタの威光は凄まじい。それは教え子であるネイサン自身がその身を以て経験したことだ。

 類い希なる洞察力、深い知識、そして人を思う優しさ。まるで聖人のサンプルと言わんばかりに完璧な学者だった。その威光の生きる学閥で、彼の孫であるジゼルがどのような扱いを受けるかは想像に難くない。

 どんなにジゼルが努力しようとも、教官達はそれが当たり前だと思っている。少しでも成績が悪ければまるで罪人のように蔑まれる。詰られる。同輩からは妬み嫉みをぶつけられる。

 彼女が一人の「ジゼル」として認められることがない。

 そしてそれをジゼル本人が、否定しない。仕方のないことだと受け入れ、諦めている。

「ジゼルちゃんはもっと高くて広いところから自分を見るべきなんだよ。そのために僕はジゼルちゃんに森に行くよう言った。そこんところは君も分かってくれてると思っていたんだけどな」

 サーシャには返す言葉がなかった。

 ネイサンの言うとおり、ジゼルが森に行くことは彼女のために必要なことだった。ジゼルの成長のために、彼女のこれからのために必要なことだった。

「けれど……!」

 けれど、サーシャにも譲れないものがある。サーシャのように指一本で済まされる教訓を得るという確証はない。下手をすればジゼルの命が危ない。

 森とは決して安全な場所ではない。そこには体の命だけではなく、心の命すら奪われかねないものがあるのだから。命より重い教訓など、死んだ後では何の役にも立たないのだ。

「サーシャ」

 サーシャの言葉をネイサンが遮った。どこまでも冷たく、そして重苦しい声で。

「もう一度だけ言う。君と、ジゼルは、違う。彼女は君にも引けを取らない優秀な学者だし、小さいけれど良識のある大人なんだ。恋愛なんかで壊していい道理がないことぐらい分かっているよ」

 言葉につまった。サーシャにはもう言い返すだけの材料などない。

 あの日のサーシャは、確かにジゼルと同い年だったが、子供だった。

 自分の能力に酔いしれた、愚かな子供だった。

 世の中の道理など、変えられると思い上がっていた過去の自分と今のジゼルを混同しては、ジゼルに対して失礼だ。

「……はい」

「分かればいいんだ。もうこの件に関しては君は口を挟まないでね?」

「……すみませんでした。もう何も言いません」

「ん。じゃあ、僕の愛しいシャーレちゃん達のお世話、よろしくね」

 失礼します。とだけ言い、サーシャは培養室のドアを閉めた。

 ぱたん、とドアを閉め、サーシャは長い溜息をついた。

「お説教お疲れーっす」

 忘れていた。培養室にはエルシーがいたのだ。一人になれると思ったはずだったのに、思わぬ人物が残っていたことに再び溜息が漏れた。

「……聞いてたのか?」

「まさか。聞こえてたんですよー」

 相変わらず食えない女だ、と思いながら、眉間を指でほぐした。

「先輩」

 保管庫に培養シャーレを戻したエルシーが、固い声を出した。

「ジゼルだって女なんです」

「……それがどうした」

 そんなこと言われなくても分かっている。

「女はね、燃えるような、ロマンティックな恋に憧れていても、そんなの求めちゃいないんですよ。熱い愛の言葉を囁かれて抱き締められても、頭のどこかで今日の夕飯の心配しちゃってるのが女なんです。でも男は違うでしょ?ロマンティックでヒロイックな恋を実践しちゃう。そんな自分がカッコ良くって仕方ないんです」

「……そんなもんなのか?」

「そんなもんですよー。ジゼルだって女で、しかもこーんなシビアな時代の植物学者。恋に恋する乙女なんかじゃないんですよー」

「……それじゃあまるで俺が馬鹿みたいだ」

「実際馬鹿なんじゃないですかー?」

「おっまえ遠慮ってもんを知らないのか?」

「そんなもんはママのお腹の中に置いてきましたんで」

「そうかよ、バーカ」

「馬鹿って言う方がバーカ」

「言ってろ」

「そっちこそ」

 苦笑いしながらも、サーシャは存外慰められたことに気づいた。何食わぬ顔をして試薬を垂らすエルシーに少しだけ感謝した。

 そして思わずにはいられなかった。

 これがどうか取り越し苦労で終わってくれますように、と。


 雨はしとしとと降り続ける。乾いていた土はすでに飽和状態になり、久しく見ていなかった水たまりを作っていた。外では雨季にはしゃぐ子どもたちの声が響き、自然の恩恵を全身で言祝ぐ。

「『小夜啼鳥』の書物……デスか?」

 カフェテリアで黒星(ヘイシン)とジゼルは昼食をとりながら話をしていた。硝子張りのカフェテリアは流れる水の影を部屋の中に映し、仄暗い陰影を作りだしていた。

「はい。……そういうの、ないでしょうか?」

 卵サンドを咀嚼しながら、ジゼルは黒星(ヘイシン)に尋ねた。今日のランチは食堂の日替わりではなく、カフェテリアでサンドウィッチなどのライトミールにした。黒星(ヘイシン)の前にはミートソースのスパゲティがやはり山盛りでが置かれていた。

「そうですネぇ……」

 わずかに目線を上に向けながら、黒星(ヘイシン)は記憶を辿った。しかしスパゲティをソースに絡める手は止まらない。

 スプーンとフォークを器用に操り、一口大の糸巻きにしたスパゲティを口に入れた。もさもさと口を動かしながらも黒星(ヘイシン)の頭の中では、大量の資料情報が錯綜し、ジゼルの求める検索結果を導き出そうとしていた。

 喉仏が上下に動き、黒星(ヘイシン)の口の中が空になった。

「残念ですガ、ワタクシの記憶の中にはございマセン。申シ訳ありませン」

 テーブルに両手をつき、スパゲティに着くか着かないかのギリギリまで黒星(ヘイシン)は頭を下げた。

「謝らないでください!わ、私の方こそ、ないと承知の上で聞いちゃったから……」

「ハイ、ありがとうございマス」

 そういって黒星(ヘイシン)は困ったように笑った。

「『小夜啼鳥』の書物、発行すること法律で禁じられていマス。植物の研究職に就いているものダケ、『小夜啼鳥』についてとても詳シク勉強できマス。なのでワタクシのような司書職のもの、他にも事務職の人や経理の人、喩え研究所勤めていテモ知ること、できマセン。ワタクシたち非研究員、伝承の『小夜啼鳥』の他には情報ありませんカラ」

「そうですよね……。私達も教科書で学ぶんじゃなくって、これだけは完全口伝の知識だって習いましたから。しかも『小夜啼鳥』のことを口外する事なかれ、って誓約書まで書いて……」

「それに伝承、全て絵本の形でしかありマセン。文書ではなク、絵本デス。複数の出版社、絵本を出してますが、どれも挿絵が違うダケ。文章は一言一句、違えませン」

「そうなんですか?」

「ハイ。」

 黒星(ヘイシン)は一度食器を置き、目を閉じた。

「夜にのみ聞こえるその「声」は、森を、世界を生き返らせる力を持っていると確信した。そして何度目かの夜に、木霊は一人の少女を見つけた。白緑の髪と湖水の瞳をした、美しい少女。

 彼女こそが最初の「小夜啼鳥」。

 木霊は彼女と同じ「声」と髪と瞳を持つ者を他に三人見つけ、東西南北、かろうじて残っていた森に招き、歌ってもらった。

 彼女たちの歌を聴き、草木は芽吹き、花は咲き誇り、水は再び澄み渡った」

 それは伝承の「小夜啼鳥」の一節。

 淀みのない共通語の、バリトンが響く。

 朗々と諳んじる黒星(ヘイシン)の声は澄み渡り、ジゼルに懐かしい寝物語を思い出させた。祖父より他に身よりのなかったジゼルが、毎日のように聞いていた「小夜啼鳥」の絵本。

「どれも作者不明、挿絵だけが変わル、不思議な書物デス」

「そうなんですか?」

「ハイ。……『小夜啼鳥』の書物、ワタクシこれ以上には知りマセン」

 申し訳なさそうに柳眉を下げる黒星(ヘイシン)に、ジゼルは慌てて声をかけた。

「こっちこそ無理言っちゃってすみません。黒星(ヘイシン)さんが司書さんだからつい甘えちゃって……」

 ジゼルは分かっていながらも、一縷の望みを黒星(ヘイシン)の知識に託してみたのだ。しかしそれも見事に空振り。「小夜啼鳥」に関する情報の手がかりすら見つけられなかった。

「いえ、ワタクシでお役に立てることあレバ、何でも」

 スパゲティを巻きながら、黒星(ヘイシン)は笑う。

「あ、そうだった。黒星(ヘイシン)さん、写真ありがとうございました」

「お友達、喜んでくれましたカ?」

「はい!もっと大陸のこと知りたいって言ってましたよ」

 黒星(ヘイシン)にはテノールのことを話していない。

 病気で部屋から出られない友だちに外の世界を見せてあげたい、と少々嘘をついて貸してもらったのだ。テノールは病気ではないが、森という部屋から出られないことに違いはない。

 そして、テノールが大陸のことを知りたがっているのも嘘ではない。テノールのことを黒星(ヘイシン)に話せないことは心苦しいが、仕方のないことだ。彼も言うとおり、「小夜啼鳥」について一般人に話すわけにはいかない。下手をすればジゼルだけでなく黒星(ヘイシン)まで職を追われかねないのだから。

「大陸のことも書物、少ないですカラね。『小夜啼鳥』のことも、お友達のためデスカ?」

 う、と少し言葉につまりそうになるが、何とか笑顔で「そうです」とだけ答えられた。

「大陸には九つの民族、それぞれ各地のオアシスを中心に暮らしていまス。ヒキ族、リフン族、ホロ族、ヘカン族、トテツ族、ハカ族、ガイシ族、シュンゲイ族、そしてショズ族です。ワタクシはその七番目の民族、ガイシ族の出デス。他の部族のコト、あまり知らないですケド、いいですカ?」

「ええ、もちろん」

 にこりと笑い、黒星(ヘイシン)は続けた。

「ガイシ族は主に武門の部族。他の部族や都人に雇われ傭兵するのが元々の商売でしタ。何代か前に都の血を入れテ互いの調節をすることを生業にしまシテ、今の父のように政治の世界に入るよう、なりマシタ。今でもガイシ族の民は武術をよくし、砂漠の用心棒よくなりマス」

「だから黒星(ヘイシン)さん、あのときヘルマンを抑えられたんですね!」

「ハイ。大陸武術はとても実践的。スポーツと違いまス。相手を抑えることも、よくしマス」

「あの時の女の子、彼女はガイシ族なんですか?」

「ハイ。彼女のしていたピアス、覚えていますカ?」

「ええ。確か……刀剣の形をしていました」

「ピアスの形、部族を示しマス。刀剣はガイシ族の証。……このカフェで働いている、あの調理場の中の男の子。彼のピアス、見えますカ?」

 ジゼルは眼鏡を少しかけ直し、調理場の中をじっと見つめた。コーヒーを淹れている少年が確かに三つ、ピアスをつけている。

「……雫の形?ですか?」

 蛇口から一滴一滴落ちる、あの水のような形をしている。

「あれはハカ族の証。ハカ族は治水や土木工事をよくしマス」

「それぞれの部族の特徴をピアスは表しているんですね」

「ハイ。民はピアスで部族を示し、族長の血筋のものは刺青で表しまス」

 黒星(ヘイシン)は顔の龍をそっと撫でた。

「ガイシ族は龍を、彼のハカ族は魚の刺青しまス。刺青彫るところ、族長決めマス」

黒星(ヘイシン)さんはどうしてそんな……目の近くに?」

「父が決めたことなので分かりまセン。ケド、ワタクシの血の繋がった兄、右目にしてまス。それと対にするようにしたのカモ知れませン」

「対……ですか?」

「ハイ。父は存外適当な人なのデ、片方だけではバランス悪い思ったかも知れマセン。……大体、ワタクシのこの黒星(ヘイシン)という名前も、背中に黒子が星のように並んでいるカラ、という理由でつけられましたものですかラ」

 若干不平そうに黒星(ヘイシン)は口を尖らせた。もしかしたら黒星(ヘイシン)という名前が気に入っていないかも知れない。

「くせっ毛の子供ニ巻き毛と名付けるようなものデス。全く適当極まリなイ」

「ふふっ」

「……笑い事ではないデスヨ」

「でも……ふふふっ、黒星(ヘイシン)さんがそんなこと言うなんて……なんかおかしくって……」

「……そうですカ?」

「そうですよ」

 クスクス笑うジゼルを、何となく不機嫌そうに見るが、黒星(ヘイシン)の目が笑っている。

「あ、もうお昼終わりですね」

 ふとカフェテリアの柱時計に目をやると、すでにジゼルの休憩時間は残りあと五分となっていた。急いで残っていたプチトマトを口に放り込み、紅茶を流し込んだ。

黒星(ヘイシン)さん、またお話聞かせてくださいね」

「ええ、勿論」

 黒星(ヘイシン)はやはりいつの間にかあの大量のスパゲティを腹に収め、口元を優雅に拭いていた。二人揃ってトレイを返却口に持っていき、出口で別れる。黒星(ヘイシン)は第三書庫へ、ジゼルは研究室へと。

「あ、ジゼルさん!」

 すでに歩き出していたジゼルを黒星(ヘイシン)が引き留めた。

「『小夜啼鳥』についての書物、一つ心当たりありマス」

「え!?で……でも、それって違法……」

 二人は小声で話し合った。黒星(ヘイシン)は一体何に心当たりがあるのだ?

「ヒントは出版されていなイ書物、ですヨ」

 悪戯っぽくウィンクをし、黒星(ヘイシン)はジゼルにそっと耳打ちをした。


 雨が降る。

 雨が降る。

 乾いた街に、雨が降る。

 水たまりにはまる足は楽しげに飛沫を上げ、傘に跳ね返る雨は可憐に踊る。

 雨が降る。

 雨が降る。

 レイン・コートを目深に被り、森に近づく人がいる。

 暗い空の色をしたレイン・コート。

 ぽつり、ぽつりと森の近くに集まる影。

 しかし彼らは森へは入れない。

 まるで何かが彼らを阻んでいるかのように、彼らは森の周りを動かない。

 雨が降る。

 雨が降る。

 森の中からかすかに聞こえる声がある。

 降りしきる雨の中、雨音と和音を奏でる声がある。

 森全体を包み込むように、声が膜を張っている。

 誰かの侵入を阻むかのように、声が森にかぶさっている。

 雨が降る。

 雨が降る。

 森の近くの人影が、軽く舌打ち、踵を返す。

 目深にかぶったレイン・コートを翻し、影は街へと消えてゆく。

 雨が降る。

 雨が降る。

 草木も獣も濡れる日も、「小夜啼鳥」は口ずさむ。

 恵みの雨を言祝ぎながら、多くは降るなと祈る歌。

 木霊の眠る雨の日だけは、どうか人の子森へは来るな。と。

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