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第七章

 森には多くの記憶が眠る。人よりも長い年月を生きる木々によって、その記憶は受け継がれていく。

 テノールの最初の記憶は、霧の中だ。

 今よりも幾分か目線が下にあった。子供だったかも知れない。

 しかしその頃からテノールはテノールとして、混声四部合唱のテノールを担ってきたから、子供ではないのかも知れない。

 その辺りの記憶はひどく曖昧で、森の木々や草花に聞いたところで明瞭な答えが返ってくることはなかった。

 だからテノールには、分からない。

 自分自身が何なのか。

 「小夜啼鳥」とは何なのか。

 誰かに教えられるほどの知識など、最初から持ち合わせてはいなかった。

 それでも確かに覚えているのは、自分の目線が今よりも低かったこと。そして、この東の森こそが、自分の居場所だと悟らざるを得ないほどの郷愁だった。故にテノールは森から出ようなどと考えたことはなかった。あの日までは。


 ジゼルの検体採取に付き合い、テノールは森の東側に来ていた。湧き水が小さな川を作り、穏やかなせせらぎを奏でる。真水に棲まう小魚たちは、因果の鎖から逃れることなく虫を食み、鳥に貪られる。

 苔むした大きな岩は、かつて文明を誇っていた頃の名残の品。欠けた側面から金属の骨を覗かせたまま、風雨に晒される憐れな骸。人はこれを「遺跡」と呼ぶ。ジゼルはその遺跡にびっしりと生える苔を採取していた。苔やキノコもジゼルの採集対象だ。丁寧に、必要最低限だけ、ジゼルは遺跡から剥がし取っていく。

 そしてテノールは歌う。

 風と戯れながら。鳥に相の手をもらい。草にそよがれて。

「ティフェレト列島にも、だいぶ植物が増えたんですよ」

 ジゼルは手を止めることなくテノールに話しかける。

「本島にはこの東の森以外に大きな群生はないんですけどね、ツァーリ島とザイン島には新生の林ができてるんです」

「どうしてそんなことを突然話す?お前の意図が分からないぞ、ジゼル・ベレッタ」

 歌を止め、テノールはジゼルに問う。それは些か腑に落ちない雑談だ。いつもの世間話とは何か違う。遺跡近くの明らかに毒キノコだと思われるキノコをしげしげと眺めるジゼルをテノールは訝しむように睨んだ。

「……だって、それくらいしかできないから」

 ジゼルはジゼルなりに考えていたのだ。ジゼルには為し遂げたいことがある。

 森と人との共存。

 たとえそれが自分の生きているうちに叶わぬことであろうとも、足跡だけは残したい。

 そのために、ジゼルはテノールから教わることがたくさんある。森のことについても、テノール自身のことについても。

 森を広げるためには森を知る必要がある。そして「小夜啼鳥」も、森の一部であるはずだ。

 だからジゼルは知りたい。

 テノールから、教わりたい。

 しかし、教わってばかりでは不公平だ。

 だからジゼルはテノールに教えを請う代わりに、何かを渡したい。

 ジゼルという人間は、基本的に素直で、単純で、果てしなく夢見がちな少女だ。思いついたことは、誰もが思いつくような単純なもの。テノールが知り得ない外界の情報だった。未知の森について知る代わりに、ジゼルはジゼルの既知である街の様子を話せばいい。

 それがいい。それでトントンだ。

 そう思っての最初の行動は、果てしなく不自然かつ、脈絡の読めない話だった。けれど大切なのはその次なのだ。ジゼルは作業の手を止め、荷物にあらかじめ詰めておいたファイルを取り出した。

「私、教わるばっかりじゃなくってあなたに何かしたいから。それに、知りたくないですか?外の世界。街の様子とか……」

 ジゼルがテノールに迫る。

 新鮮な光景だった。

 こうして誰かに世話をやかれることも、長らく経験していないことだった。それに、「知りたくないか」と聞かれることも。

 ――知りたい。

 テノールが知らない「世界」のことを。

 行ったことのない街のことも、人々の暮らしのことも。

 木々は記憶を教えてはくれるものの、「今」を教えてくれることはない。木々も所詮は森のもの。外のことは前時代の「記憶」でしかない。

 テノールは今を知りたかった。そしてジゼルはそれをくれるという。テノールがジゼルにしてきたように。

 ジゼルはテノールの無言を是と取った。遺跡から離れ、日の差し込むところにファイルを広げる。世界地図、市街地図、図鑑や風景写真の数々が草原の上に広げられた。

「今、私達がいるのがこのマリア・ティフェレト列島。その中で一番大きな本島と呼ばれるティフェレト島です」

 世界地図を指し示しながら、ジゼルはテノールに話しかける。テノールの記憶に朧気に漂う世界地図とはまた違う地図。きっと時が経つにつれて測量技術も変われば、島の位置やその他諸々も違ってくるのだろう。

「このマリア・ティフェレト列島に沿って伸びるイェソド半島とコフ砂漠、ツァディ砂漠を含んだ大陸部分を東部と言ってます。双子湖を境に東部と北部は別れます」

「人はどの辺りまで住んでるんだ?」

「イェソド半島の辺りまでです。砂漠にほとんど人はいません。半島には大陸民族が住んでいます」

「大陸民族?」

「砂漠に点在するオアシスを中心に集落を作っている民族のことです。遊牧やキャラバンでの交易で生計を立てているんですよ」

「キャラバン?」

「砂漠に住む人たちに物資を届けたり、大陸の民芸品やオアシスの珍しい薬草などを都へ運んだりする人たちのことです。駱駝や羊駝と一緒に砂漠を旅するんです」

「駱駝も羊駝も、森にはいないな……」

「砂漠では大切な旅の友だそうですよ」

「今の話だと、街と砂漠での生活は随分違うみたいだな」

 テノールは街の写真を一瞥した。

「街は乾いているとは言え、この森の恩恵を少なからず受けていますから」

「恩恵なんてあるのか?」

「ありますとも!東の森が雨季の雨を自然に貯水しているからこそ、街の中心を流れるサメフ河がその水を絶やすことがないんです!おかげで東の街は水に困っていません」

「街はそうだとしても……砂漠は、その恩恵とやらがないんじゃないのか?」

 写真の群れの中には砂漠の写真もある。どれもこれも果てしない黄砂の山が続く、不毛な乾燥地帯。テノールの住むこの緑溢れる森の片鱗すら感じさせないほどの。これが同じ世界の姿であろうか。森から出たことのないテノールには分からなかった。

 ジゼルはテノールの気持ちが分からない。しかし予想はできる。白衣の懐に大切にしまっておいた一葉の写真を、ジゼルはテノールに渡した。

「これは……?」

「私のお友達のお姉さんの写真です。何か、気づきませんか?」

 テノールはじっと見る。穴が開くほど、というチープな喩えが実現するのではないかというくらい。

 満面の笑みを浮かべる一組の男女。ピアスと刺青がある男女。その後ろには、やはり地平線の彼方まで続く砂の海と、

「水だ……!この二人は水に濡れているぞ、ジゼル・ベレッタ!なぜだ?これが砂漠のオアシスというヤツなのか?いや、オアシスと言うにはまだ全然木が足りない。水も……これは、湧き出ているのか?」

 碧い瞳が一杯に広がる。

「おいよく見ろ、ジゼル・ベレッタ!この小さな椰子、ああ、やっぱりそうだ。ここのブナの木と同じ世界樹の枝だ!四本しかなかった世界樹の子株に新しい木が……!」

 テノールはジゼルの手を取り、くるくると回り始めた。踊りでも踊るかのような軽やかなステップ。今まで見てきた笑顔のどれよりも輝かしい笑顔で。テノールは笑っていた。

「ハハハッ!こんなにも嬉しいものがこの世にあるなんて思ってもみなかった!」

 遠心力で振り回されるジゼルをテノールは抱き締めた。

 ふわり、と薫るテノールの匂いは森の匂い。血の通ったぬくもりがジゼルを包んだ。突然のできごとにジゼルは何が起こったのか皆目見当もつかなかった。

「有難う、ジゼル・ベレッタ。……お前のおかげで俺はまた明日からも歌っていける」

 耳元で囁かれたテノールの思い。

 それは終わりのないテノールの仕事への果てしない希望だった。

 これでよかった。これでよかったのだ。早鐘を打っていた鼓動も落ちつき、ジゼルはそう思った。

 外の世界にはテノールの功績が溢れている。サメフ河がその水流を清く保てるのは水源である東の森が浄化された清い場所だからだ。「世界樹」が回復したために芽吹いたツァディ砂漠の椰子もそうだ。

 森の中にいては分からない「小夜啼鳥」達の偉業をどうして本人達が知ることができないのだろう。

 誰かに認められることの歓びは、ジゼルがよく知っている。黒星(ヘイシン)に認められた、あの時の歓びを、テノールにも味わわせてやりたかった。歓びを分かち合った時、私はテノールのことを理解できるのかも知れない。広げていた地図や写真を片付けながら思った。ジゼルはテノールが喜ぶのが嬉しかった。何よりも嬉しかったのだ。

「それにしても、お前はお節介だな」

 顔に歓びの名残を貼り付けたまま、テノールは嫌味を吐いた。可愛らしい一面があるかと思えばすぐにこれだ。可愛くない。

「マクシミリアンにそっくりだ」

「マクシミリアン?」

 聞いたことのない名だ。今までジゼルの祖父、アーネスト・ベレッタの名を口にすることはあったが、マクシミリアンという名は初めて聞いた。

「マクシミリアン・ド・ジャッケ。アーネスト達と一緒にこの森で最初の調査を行った音響学者の名前だ」

 テノールは遺跡を白い手で撫でた。慈しむように、愛おしげに。しかしその瞳には翳りが見えた。透き通った水面のようなテノールの瞳が、憂いの波紋を立てた。

「今でも覚えている。植物学者のルキアーノ・ブッフォンを中心にしたブッフォン調査団。そこに植物学者のアーネスト・ベレッタ、地質学者のシュゼット・アリュー、考古学者ののサラ・タチバナ、そして音響学者のマクシミリアン・ド・ジャッケ」

 五〇年前に初めて東の森に足を踏み入れたブッフォン調査団の名は、森に携わる人間であれば誰でも聞いたことのある有名な名だ。

 アーネストがそこに加わっていた為にジゼルは辛い思いをしてきたのだが、それももうどうでも良いことだ。ジゼルは偉大なる祖父、アーネスト・ベレッタを尊敬しているし、ブッフォン調査団にも畏敬の念を払っている。

「マクシミリアンはお前と同じでお節介焼きだったな。さすがに地図やら写真やらを見せちゃくれなかったが、自分の知っている御伽噺や好きな歌の話をよくしてくれた」

 懐かしむテノールの瞳は遠くを見つめたまま、ジゼルを見ない。まるで空気にでも話しているかのようだ。

「アーネストとも仲が良かった。学問の分野は違っても、二人はいつも何か話していたし、時には喧嘩もしていたな。……ま、いっつもアーネストが負けていたが」

 クスクスと笑うテノールの話に、ジゼルは違和感を覚えた。

 ――私はマクシミリアンなんて知らない。

 思い出の祖父は仲の良い学者仲間を家に呼んでは話を聞いたり、時には白熱した議論を交わしたりしていた。その中にはブッフォン調査団長のルキアーノの姿もあった。それなのに、ジゼルはマクシミリアンという人を知らない。祖父がそんなに仲良くしていた人を家に呼ばないわけがないのに……。

「その……マクシミリアンという人は、どういう人なんですか?」

「いいヤツだったよ。だいぶお節介だったが遺跡の調査もよくしていたし、俺は詳しいことは分からないんだけどな、ルキアーノ・ブッフォンもマクシミリアンの実力を認めていたくらいだしな。学者としても優秀だったんじゃないかな」

 いいヤツだった。

 ジゼルはマクシミリアンという人間がすでに過去であることを悟った。だからこそジゼルはマクシミリアンを知らなかったし、テノールの瞳にも翳りがあったのだ。

 詳しくは聞かなくても、何となく分かる。

 それは論理を越えた、言いようのない勘のようなものだった。

「ブッフォン調査団の後も何人か森に来たが、どいつもこいつも調査団のおこぼれを拾っていくだけの馬鹿に見えたな。誰もが森での調査を出世の道具程度にしか思ってなかった。……誰も、俺に話しかけようなんてしなかった」

 テノールの寂しげな瞳がジゼルを射貫いた。

「でもお前が来た」

 テノールの後ろには孤独な過去が連なっている。

 遠く、五〇年前の人との触れあいだけをよすがに悠久の時を生きてきた孤独な過去が。

 誰かがいるのにもかかわらず、その人に相手にされずに部屋を荒らされるような不快感。

 押し入り強盗のような研究員。テノールの孤独を癒す者など、皆無だったに違いない。

「お前が来てくれたおかげで、俺は寂しくなどない」

 碧い瞳に涙の膜が張る。しかしそれはこぼれることなく眼球へと浸透していくだけだった。テノールの柔らかな頬は、濡れることを知らない。

「三月だけの鬱陶しい珍客だと思っていたが、こうして話したりするのも悪くない」

「鬱陶しいって……」

「……また、街の様子を教えてくれないか?森のことならいくらでも教えてやるから」

「もちろんですよ!私が知っていることでよければいくらでも!」

 ジゼルは嬉しかった。テノールに頼りにされている。テノールの心の支えになっている。テノールはジゼルがいるからこそ寂しくないと、言ってくれる。ジゼルは必要とされている。その感覚は、今までにないほどの喜悦の感情。胸の辺りがじんわりと温まる、柔らかな感情だった。

「今度は大陸のことを知りたい。島とはいろいろ違うんだろ?」

「はい!私、大陸出身のお友達がいるんです!詳しく聞いてきます!」

 黒星(ヘイシン)には感謝しなければならない。テノールのためにも、ジゼルは多くのことが知りたい。多くのものを学びたい。それはきっとテノールのためだけでなく、ジゼル自身のためにもなる。森での経験は、一から十まで何もかも無駄にしたくない。

 ざぁぁあ、と風が吹いた。

 「遺跡」に芽吹いた草が揺れる。

 木々の葉が不安げにざわめく。

 遠くで何かの鳴き声が聞こえる。

 森が空気を、変えた。

「……そろそろ雨季が来るな」

「え?」

「雨季だ。西からの風に湿り気がある」

 テノールは西を睨む。森の西に生える楓の葉が順に揺れ――

「きゃあっ!」

 凄まじい突風が「遺跡」を走った。

 白衣がはためき、束ねていたジゼルの赤毛が解け、ざんばらになる。あまりの衝撃に、ジゼルの眼鏡が飛び、レンズの割れる音がした。

 駆け抜けた大風は森の東へとそのまま走り去っていった。残されたのはまだ散るべきでない青葉達の無惨な姿と、それにまとわりつかれたジゼルとテノールだけだった。

「……びっっっっくりしたぁぁぁ……」

「ん、やっぱり雨季が来る。……早く帰り支度をするんだな、ジゼル・ベレッタ。早ければ今日中にも雨季に入るぞ?」

 髪に絡み付いた葉を一つ一つ取りながら、テノールはジゼルに忠告する。銀と緑の髪についた青葉がひどく美しい取り合わせだった。

「お前の髪には、青葉よりも花が似合うな」

 ジゼルの赤毛に引っかかっている青葉を取りながら、テノールは言った。

 不意に、ジゼルの顔が熱くなった。

 今まで忘れかけていたが、テノールの顔の造作は何も比較にならないほど美しいのだ。

 比類なき美は好意の対象にもなり、時として畏怖の対象にもなる。圧倒的美の前に、ジゼルは言葉を失った。

 テノールのか細い指が赤毛から離れる。さらり、と絹糸のように、とはいかないものの、ジゼルのぱさぱさの赤毛はテノールの指から名残惜しげに元の位置へと戻った。

「白い花、……そうだな、白詰草がいい。華美じゃないが可愛らしいからな」

 体中の血が沸騰したかと思った。

 熱い血潮の奔流が体中を駆けめぐり、ジゼルの顔を更に紅くさせる。

 そんなことを言われたのは初めてだった。チビでソバカスだらけのど近眼、しかもぱっさぱさの赤毛のジゼルは、女の子らしい扱いを受けたことなど皆無だった。

 今のご時世、生花を手に入れることなど不可能だが、造花の花束を受け取れるのは、ジゼルのようなちんちくりんではなく、エルシーのように肌も髪も艶やかな美しい女性だけだと思っていた。

「さぁ、ぼやぼやするな。もうじきに雨足がお前の鈍足を追い抜くぞ?」

 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるテノールに、先程までの熱も冷めた。

「そんなこと言われなくても帰ります!」

 今日の分の作業はすでに終わっている。テノールが助言をしてくれるおかげでジゼルの作業スピードは目に見えて速くなっていった。今日のような突然のイレギュラーに対応できるまでに。

 ジゼルは適当にファイルを鞄に詰め込み、肩にかけた。

「雨季の間は森に入れない。暫しの別れだな、ジゼル・ベレッタ」

 落ちていた眼鏡を拾い、テノールはジゼルにかけた。落ちた衝撃でヒビが入り、少し欠けてしまった眼鏡はジゼルの視界をかすかに歪ませた。

「雨が上がったらまた来ます」

 雨の森は非常に危険だ。ぬかるむ土も、水気を帯びた草も、人の足を絡め取り、思わぬアクシデントを引き起こす。未然に防げる事故は可能な限りその芽を摘まれるのが現実だ。

「帰り道はそこの獣道に沿って迷わず、真っ直ぐだ」

「はい。それではまた晴れた日に」

 そしてジゼルはテノールが示す獣道を辿る。

 雨季の開けた森は、雨粒に濡れきっと光り輝いているに違いない。煙るように立ちこめる靄をくぐり抜ける日を思い、ジゼルは獣道を行く。

 それにしても、本当に雨季が来るのだろうか?国立気象台は今朝の時点では何も言っていなかったはずだ。新聞にも、ラジオにも、それらしき情報はなかった。一匹の獣とも遭遇しない獣道の旅を終え、ジゼルは森の外へと戻る。湿った森から、乾いた街へ。

 何かがジゼルの鼻に落ちてきた。

 森から街へ戻る道すがらのことだ。これが森の中ならば、木々の葉が朝露をまだ手放していなかったのだろうと思うだけだが、ここは乾いた道だ。上には葉の天蓋もなければ悪戯な「小夜啼鳥」もいない。

「――雨だ」

 水分の欠片もなかった乾いた道に、黒々と、水滴が足跡をつける。

 ぽつ、ぽつ、と降り出した雨は次第に間隔を狭め、

「ふわあああああっ!」

 本格的に降り出した。バケツをひっくり返すくらいでは物足りない。雨の一粒一粒が弾丸のように地面を抉る、激しい雨が降り出した。

 ――テノールは分かっていたんだ!

 ジゼルは何となく得意げになりながら、突然のスコールに沸き立った。本当ならばここで雨を言祝ぎ踊り出したいくらいだったが、如何せん鞄の中には大切な検体もあり、黒星(ヘイシン)から借りた写真もあり……。

 ジゼルは気休め程度に鞄をその小さな体で覆いながら街へと急いだ。研究所に着く頃には、これ以上は吸えないというまで濡れていた。


 雨の森でテノールは歌う。

 雨粒に濡れながら、風に吹かれながら。

 葉の先から雫を垂らすブナの木の上で歌う。

 弦月を思わせる横顔が濡れる。

 雨音を伴奏に、「小夜啼鳥」たちは歌う。

 月の隠れた夜空に向けて。

 月光の降り注ぐことのない雨の森で歌う。

 硝子玉のように空から落ちる雫にちかり、ちかりと音が光る。

 拡散する音の光が雨を通じて世界に落ちる。

 テノールは歌う。

 この光の玉が、あの砂漠の椰子にも届くようにと。

 テノールは歌う。

 見知らぬ土地に芽吹く若葉よ健やかにと。

 テノールは歌う。

 乾いた土地に新たなる生命が根付くようにと。

 テノールは歌う。

 今の友と昔の友のために。

 雨雲に隠れた月が中天からはずれる。

 ソプラノもアルトもバスも鳴りやんだ夜空に、テノールは口を噤む。

「……寂しくなどない」

 寂しくなどはない。

 それは本心であり、虚勢でもある。

 森の木々も草花も、テノールの寂しさを紛らわそうと話しかけ、誇らしげに花をつけるが、それでも癒せぬ寂しさがある。それはテノールの心の中にぎゅうぎゅうに凝り固まったまま、幾重にも幾重にも鍵をかけて閉じこめてある。しかしその鍵もふとした瞬間にすぐにはじけてしまう。

 特に、ジゼルが去った後と、この雨の季節には。

「寂しくなんかない……」

 テノールの頬を雫が流れる。

 それが雨なのか何なのかは、テノールにも分からない。ただ、言いしれぬ寂しさがテノールの体を駆けめぐり、身を強ばらせる。

 ブナの葉が、テノールの濡れた頬を拭う。風の悪戯なのか、ブナの意志なのか、それは誰にもわからない。

「ありがとう。……俺なら大丈夫だから」

 テノールはブナの中に入る。深く、深く眠るために。

 「世界樹」と繋がるブナの中の世界は、仄かに温かく、柔らかな空間。上も下もなく、縦も横もない。ただ規則的に聞こえるブナの鼓動を聞くだけの、無限の空間。

 テノールに記憶はないが、母の子宮の中とはきっとこういう世界なのだと思っている。羊水の中を漂い、来るべき誕生の日までその庇護に包まれる。テノールは胎児のように膝を抱え、夜が明けるのを待つ。

「寂しくなんかないんだ……」

 ブナの木に包まれながら、テノールは零す。ブナはまるで母親のように、テノールをその懐に抱くだけだった。

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