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第六章

 街は今日も砂埃にまみれている。

 煉瓦造りの建物が建ち並ぶ街は、世界の崩壊以前の建物を改築したものだが、砂漠の大陸に比べれば拓けた方だ。一際立派な装飾と大きさを誇る国立森林保護研究所東支部。所内では白衣を身に纏った研究員達が、今日もせわしなく働いていた。

 ジゼルはいつものように研究室で勤務をしていた。なぜか室長命令で大量の寒天培地を作ることになっている。いつも室長命令はその意図をはっきり説明されないので、この寒天培地も何を培養するためのものか、ジゼルには分からなかった。

「もしかして……食用?」

「そんなわけないでしょ」

 あまりの阿呆な独り言にエルシーのツッコミが入る。

「甘くないし、第一培養用に肉エキス入ってんのよー?あんた、食べる勇気ある?」

「……な、ないです……」

「ジゼルは賢くて可愛いけど、ホント馬鹿ねー。でもそこが可愛い」

 賢いと馬鹿と可愛いは同居して良い言葉なのだろうか。納得はいかないが、褒められもけなされもしていないので、まあよしとすることにした。

「そろそろお昼休憩取りなさい。ずっと寒天とにらめっこしてたら飽きるわよー」

「もうそんな時間ですか?」

「もうそんな時間でーす。ちなみに私はもうお昼食べちゃった」

 口の端に卵の欠片がついている。食べ方の汚い残念な美人、エルシー・イリルッシ。しかし仕事はできるので彼女のだらしなさは黙認されている。そういえば、先程から腹の虫が切なげな声を出していた。きゅぅぅぅぅ、と鳴る腹に顔を赤らめながら、ジゼルはゴム手袋を外し、食堂へと向かうことにした。


 正午を過ぎて久しいが、食堂は意外と混んでいた。この研究所の職員全員分の食事を賄う食堂は広く、たとえ部署ごとに時間をずらしていても混み合うこと必須である。ジゼルはとりあえず今日の日替わりランチが何なのかが知りたい。が、メニュー表は近眼・チビのジゼルにはあまりにも遠く、高く、そして見辛いものだった。人の波に完全に飲まれ、後ろの方でぴょこぴょこと飛んでは見るが、ボードのこの字も見えない。諦めて適当に定番メニューを言うべきか、そう思って人の波を離れた。

「今日の日替わり、白身魚フライデスよ」

黒星(ヘイシン)さん!」

 独特の大陸訛りの持ち主、黒星(ヘイシン)・D・リデルは人混みから頭一つ飛び出すほどの長身で後ろの方からでもメニュー表が見えたらしい。高身長、恐るべし。

「後はいつもあるメニュー。オムライスはデミソース、パスタはペンネ・アラビアータ。……いつも思うんデスけど、大陸の料理はないんですネ……残念至極」

 左目に龍の刺青は間違いなく、黒星(ヘイシン)だ。お世辞にも品揃えがよいとは言えない食堂のメニューにあからさまに溜息をついた。

「ワタクシ、日替わりにしマスが、ジゼルさんは?」

「あ、じゃあ私も」

 自然な流れで二人はカウンターに食券を出し、トレイに白身魚フライと付け合わせのサラダ、スープを乗せた。ライスはセルフ・サービスになっているため、ジゼルは小皿に杓文字一杯分をつけた。

「……女性は小食デスネ」

 そう呟いた黒星(ヘイシン)はというと、大皿にこれでもかと言う程の白米をつけていた。軽く山だ。

「……黒星(ヘイシン)さんがつけすぎだと思います」

「大陸、お米少ないノで。食べられる時ニ食べる。是、ワタクシの信条デス」

 山の白米に思いを馳せる黒星(ヘイシン)の顔は本当に嬉しそうだった。大陸の食糧事情は決して予断の許される状況ではない。広大な砂漠には中心都市のように地下プラントを建設することもままならず、未だに合成食料に頼らざるを得ない民族も多い。まともな食材を手にできるのは、一握りの富裕層と、出稼ぎに出ている人間の多い集落ぐらいだ。

「ご飯、たくさん食べラレる。本当に幸せデス」

 空いている席に対面で座り、黒星(ヘイシン)はぱん、と手を合わせる。

「いただきマス」

「いただきます」

 ジゼルも釣られて手を合わせ、フライに手をつける。揚げたての白身魚は衣がさくっとしており、口に入れると火傷をしそうだった。

「お仕事、どうデスカ?」

 フォークでサラダをかき集めながら、黒星(ヘイシン)はジゼルに尋ねた。

「今日は寒天培地を作ってばかりです。黒星(ヘイシン)さんは?」

「フフ。先日初めてのお給料、もらいましタよ。通帳見てちょっとニヤッとしてしまいマシた」

「初任給、嬉しいですよね」

「ええ。特に研修明けだったノで。ひとしおデス」

 さくさくとフライのいい音を立てながら、黒星(ヘイシン)は笑う。やはり柳眉を下げて笑うのが、黒星(ヘイシン)の笑い癖らしい。

「森のお仕事、楽しいデスか?」

 千切りキャベツの一本まで丁寧に掬い上げながら黒星(ヘイシン)は尋ねた。ジゼルが森への出入りを許可されているということはこの研究所では誰もが知る事実だ。研究員でない、一般職員の黒星(ヘイシン)が知っていてもおかしくはない。

「楽しいですよ。森に出入りできるのは特別なことですから。一回一回を大切にしたいです。……あ、私、いいもの持ってるんですよ」

 スープで口の中を整理し、ジゼルは首にかけてある細い鎖を引き出した。

「森でもらったんです。本当は、研究に必要なもの以外は持ち出しちゃダメなんですけど、……、特別なんです」

 それは赤く熟れた木の実のネックレス。あの日、テノールがジゼルに渡したモミジイチゴだ。口にできない代わりに、ジゼルはそれをネックレスにした。合成樹脂で加工し、作り物の木の実のように仕立てた。本物だと知れればまた厄介なことになるからだ。家に保存して置いてもよかったのだが、どうしても肌身離さず持っていたかった。大切な宝物を独り占めして抱え込む子供のように、ジゼルは無性にそれを放したくなかった。

「内緒ですね」

「はい、内緒です」

 ジゼルは黒星(ヘイシン)以外の誰にも見られないように、再びそれをブラウスの中に入れた。ずっと持っていたいのに、誰にも見せたくはない。これはジゼルだけの宝物だ。

「森のお仕事、できル人は将来有望。ジゼルさんもきっと良い学者になりまス」

「そんなことないですよ。まだまだ、これからなんですから」

 そして二人は食事を再開した。すると、横から突然グラスが差し出された。

「お水、ドゾ」

 片言の共通語。それは黒星(ヘイシン)とはまた違った大陸訛りだった。見ると、よく日に焼けた小麦色の肌をした少女が各テーブルに水を置いて回っている。

 今まで気にも留めていなかったが、この研究所には大陸出身者が多く働いている。この少女の他にも、ゴミ箱のゴミを回収している初老の男性も、トイレですれ違う、掃除道具を持った中年女性も、先程調理場でフライを揚げていた少年も、よくよく見れば大陸出身者だ。

 大陸出身者とティフェレト島出身者には、すぐに分かる違いがある。それは、装飾品だ。肌の色などは黒星(ヘイシン)のように混血もいるため分かりにくいが、大陸出身者は一様にピアスをつけている。それも片耳に複数の。水を配る少女は左耳に三つ。刀剣を模したピアスが耳の軟骨部分にまで及ぶ。ピアスは大陸出身者にとって身分を表す重要なものだと、小学校で習う。黒星(ヘイシン)の場合、なぜかピアスはなく、その代わりに他の人にはない、顔の左目に大きく刺青が彫られている。

 少女はジゼルに水を渡すと、黒星(ヘイシン)と何かを話し始めた。その言葉はジゼルには全く分からない。独特の癖のある、大陸言語だった。二言三言言葉を交えると、少女はぺこりと頭を下げ、そそくさと次のテーブルへと移動した。

「今の子、知り合いですか?」

「いいえ。ですが挨拶しテました。同郷のもの、身を寄セ合って、仲睦まじくデス」

 黒星(ヘイシン)は最後のフライを口に入れ、スープで流し込んだ。あの大量の白米は、すでに腹の中へと消えていた。細身の黒星(ヘイシン)の体のどこにあれだけの米が入っていったのかと思うと、少しゾッとした。

「ホント……よく食べますね」

「ハイ。よく食べて、よく働いて、よく寝る。人間の営みの基本デス」

 米粒のみならず、フライの衣も出来る限り広い食べ尽くす黒星(ヘイシン)にジゼルは感嘆した。昨今の地下プラント拡大のため、食物を大切にするという感性が些か薄れてきた都市部の人間に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ。

「そうだ。ジゼルさんに見せタイもの、ありマシた」

 制服のジャケットから黒星(ヘイシン)は一通の封書を取り出した。封の切られた封筒から出てきたのは何枚かの手紙と、一葉の写真だった。

「ツァディ砂漠でキャラバンしている姉からの手紙デス。ワタクシの友人と結婚して、大陸の集落と北の都ヲよく往復してマス」

 ツァディ砂漠はごくごく細かな砂の粒子が夜でも月の光を乱反射を繰り返すため、別名「星の砂漠」と呼ばれているが、その実態はかような美しい名前では捉えられないほどの熾烈さを極めている。砂漠に休める土地などなく、大陸人達が棲まう集落を一歩でも出れば、そこは砂嵐吹き荒れる過酷な自然の懐の中だ。輝く砂も、その実はかつてツァディ砂漠の鮮烈さに身を焦がしたキャラバン隊の亡骸だとも言われるほどだ。

 灼熱の昼と極寒の夜の中、北と東をつなぐ唯一の陸路をキャラバン隊は進んでいく。通常、北と東を行き来するには海路を使用する。しかし海路の恩恵を受けることができない大陸のものにとって、キャラバンは物資を受けとることのできる唯一のライフ・ラインである。その一翼を黒星(ヘイシン)の姉は担っているという。

「お姉さんがいるんですか?」

「ハイ、姉だけでなク上には三十五人の兄姉がいマス」

「さ、三十?!そんなにいるんですか!?」

「?不思議なコト、ありまセン。大陸は一夫多妻。ワタクシは父の四人目の妻を母に生まれタ、三十六番目の子供デス。末っ子デス。ちなみに父の妻は全員で九人いマスよ」

 ということは、単純計算で一人四人の子供を産んだことになる。ジゼルは頭がクラクラしてきた。

「それにしても兄弟多すぎですよ?」

「まぁ、リデルですので。その姉が、嗚呼、母は勿論違う姉ですケドね、ツァディで思わヌ収穫が得られたと手紙をくれマシタ」

 黒星(ヘイシン)は写真をジゼルに見せた。

「……オアシス!」

 黒々と日焼けした男女が、湧き出た水に濡れて笑っている。男性の方にはやはり刀剣をもしたピアスが三つ、そしてマントからちらりとのぞく女性の腕には、黒星(ヘイシン)と同じ幾何学模様の龍が彫られていた。

 ツァディ砂漠にオアシスは存在しなかった。だからこその「星の砂漠」だった。

「今まで巡っていた陸路に、今までになかッタ小さな椰子の木があったソウです。試しにそこを掘ってミたら……、ということだそうデス」

 ジゼルは東の森を思い出した。「世界樹」の枝葉とも言えるあの湖に浮かぶ大ブナのことを。もしかしたら、黒星(ヘイシン)の姉の言う小さな椰子の木は、あのブナと同じ、「世界樹」に繋がる重要な樹木かも知れない。

「このオアシスがもっと大きくなれバ、ツァディのキャラバン、もっと楽になりマス」

 森が、広がっている。確実に。

 ジゼルはテノールを思う。森から出ることのできない、自然の功労者。彼の、彼らの歌声が、この椰子の木を育てたのだ。不毛な砂漠が続く大陸にも、「小夜啼鳥」の歌声は届いていた。妙に胸が熱くなる。

 ジゼルはテノールのことを黒星(ヘイシン)に話したかった。東の森にはそれはそれは美しいが人をよくからかって面白がる少し性悪な「小夜啼鳥」がいるということを。北にも南にも西にも「小夜啼鳥」はいて、世界のために歌っているのだということを。

 けれどもそれは言ってはいけないことだった。サーシャとエルシーの前でサインした誓約書。「小夜啼鳥」については一切他言無用という、制約。

 ――人が掟を守るんじゃない。掟が人を守るんだ。

 あの誓約書も、「守る」ためにある。今ならそれが分かる。だからこそ、ジゼルは黒星(ヘイシン)にテノールのことを言わない。それはテノールを守ることに他ならないから。

「森が広がル。大陸の生活、よくなル。本当に嬉しいことデスね」

「……はい!」

 がしゃんっ、と良い雰囲気を破る派手な音がした。

「どこ見てやがる!」

 同時に怒声。

「御免なさイ!御免なさイ!」

 床に散らばるグラス片、テーブルから細く流れ落ちる水流。その着陸点には先程の少女がうずくまっている。

「くそっ!白衣が濡れちまったじゃねぇか!」

 ジゼルと黒星(ヘイシン)が座る席から机三つ分窓側で、グラスを拾う少女に、悪態をつく栗色の髪の男がいる。

 ジゼルはその男を知っている。ヘルマン・ソリス。ジゼルと同期で研究所に入った男だ。いつも数人の取り巻きを引き連れて歩いている、ちんぴらのような男。

 このヘルマンこそ、ジゼルの入所を「コネ」だという噂を流した張本人だ。何人もの学院生を先導し、ジゼルをいじめの的にしていた男。冷たいものを一気に流し込まれたような、体の芯から冷えていくものをジゼルは感じた。

「これだから大陸のヤツらはダメなんだ!愚図で、馬鹿で、何の役にも立たない」

「なっ……」

 ヘルマンの罵声は食堂中に響いた。少女は可哀想に、目に涙を一杯に溜めながらグラスを手で拾っている。

「手で拾っては危ないデスよ?」

「あぁ?」

黒星(ヘイシン)様……!?」

 先程までジゼルと話していたはずの黒星(ヘイシン)が、いつの間にかヘルマンと少女の所へいっていた。

「グラス割れタの、手を切る。たくさん血が出マス。箒とちりとり、持って来るトいいデス」

「あ、ハイ!ただ今!」

 少女はなぜか顔を赤らめ、掃除道具を取りに走った。食堂には緊迫した空気が流れている。誰もが関わり合いになりたくない。ヘルマンは陰湿で、それでいて暴力的な男だ。思い通りにならないものには、その大きく、逞しい体でもって分からせる。そんな男に、細身の黒星(ヘイシン)が敵うわけがない。

「何だ、お前?あのメスガキの仲間か?」

「仲間……と言われればそうなのでショウね。ですが、アナタ、一寸失礼。水運ぶあの子にワザとぶつかっタ。ワタクシ、見てマシたよ?」

「え?」

 ジゼルは気づかなかった。いきなりガラスが割れた音がして初めてヘルマンと少女を見つけたというのに、黒星(ヘイシン)は最初から見ていたのだろうか。

「フカシこいてんじゃねぇよ。どこにそんな証拠があるんだ?」

 ヘルマンの取り巻き連中までもが口を挟んできた。

「ヘルマン、こいつも大陸人だぜ?」

「目に刺青なんかしてやがる。気持ち悪ぃ」

 取り巻き達の標的は、いたいけな少女から黒星(ヘイシン)へと移った。長身の黒星(ヘイシン)を下から睨め付け、好奇と蔑みの目で彼を見る。

「おいおい、コイツはリデル氏じゃねぇかよ!悪名高き黒星(ヘイシン)・D・リデル!」

 取り巻きの一人が嫌な笑い方をした。

「コイツがリデル?親父の権力で仕事もらった乞食野郎か!」

 ジゼルは耳を疑った。

 ――親父の権力?乞食野郎?

「教えてくれよ。どうやったら募集もかけてない司書の職に就けるのかよぉ!え?中央評議会議院の親父様に土下座でもしたのか?それともねだったのか?」

 下卑た嗤いがこだまする。ヘルマンが黒星(ヘイシン)に唾を吐きかけた。

「大陸人は大人しく砂漠で干涸らびてろ」

 ヘルマンは鼻で黒星(ヘイシン)を嗤い、取り巻き達と食堂を後にしようとしていた。

 この時ジゼルは目を伏せていればよかった、と後々まで後悔する。しかし、後悔先に立たず。ジゼルはヘルマンと目が合ってしまった。

「おやぁ?これはこれはジゼル・ベレッタじゃないか。小さすぎて今の今まで気づかなかったぜ」

「……ヘルマン、」

「ああ、ジゼル。今日も一人寂しく飯食ってると思ったら、いつの間に男なんか見つけたんだ?あんな大陸のノッポ野郎を」

 何だかんだ言いながらも、ヘルマンはしっかりといじめの対象、ジゼルを見つけていた。しかも、黒星(ヘイシン)と食事をしていたこともちゃんと把握しているではないか。

 男の子は好きな女の子を必要以上にいじめる、というお約束セオリーも世の中にはあるが、ヘルマンとジゼルはそんな甘酸っぱい関係などではない。断じてない。ヘルマンはジゼルのことを踏みにじる対象としてしか見ていない。

 ヘルマンという男にとって世の中の人間は、自分を讃え従う者と、自分に蹂躙され泣きわめく者との二種でしかない。この世でヘルマンこそが十全で完璧、それ以外は皆劣等種である。それがヘルマンの信条だった。

「ああ、お前もアイツもコネ同士で気でもあったか?よかったなぁ、ジゼル!お前みたいな何の取り柄もねぇガキくさいメスでも、大陸人とはいえ一応彼氏ができてよぉ!おめでとう、永久に災いあれ!」

「、ヘルマン!」

「黙れ、この下種野郎」

 一瞬だった。

 ジゼルがヘルマンの悪口に耐えかねて立ち上がるよりも早く、ヘルマンは床に押さえつけられた。

 黒星(ヘイシン)だ。

 どうやって狭い通路を抜けてきたのか分からないが、電光石火の速さで黒星(ヘイシン)はヘルマンをねじ伏せ、馬乗りになって腕を捻りあげた。あの細い腕のどこに大柄なヘルマンを押さえつける力があるのだろう。無様なヘルマンは、ただただねじ上げられる腕の痛みに喚くだけだった。

「ワタクシのこと、悪くいうのハ仕方ない。事実、ワタクシは父の力で働いてイル。けれどもしかし、ジゼルさんは違いマス。ちゃんと実力で入りマシタ。ワタクシ、アナタの論文も読みましたけど、ジゼルさんとは雲泥の差。アナタのはひどい。実力のない人、どうして実力のある人、馬鹿にする?」

「うぅぅ、うるせぇ!この野蛮人が!早くこの腕はなせ!」

「野蛮人、結構。だけどもしかし、友人、馬鹿にするコトも、大陸人、馬鹿にするコトも、許さナイ。ジゼルさんはとても優秀ナ学者。馬鹿にするは間違イ。大陸人皆家族養う、精一杯。頑張って働いてイル。なぜそれを馬鹿ニする?島の人間、そんなに偉いか?アナタ、そんな権利あるか?」

 ぎり、と黒星(ヘイシン)の腕に力が入る。ヘルマンが泡を吹く。これ以上は危険だ。

「……っ、黒星(ヘイシン)さんっ」

 ジゼルは黒星(ヘイシン)の腕にしがみついた。これ以上やっては黒星(ヘイシン)が悪くなる。

「ヘルマンなんかのために黒星(ヘイシン)さんは悪者になっちゃダメですっ!」

 ヘルマンのことは確かに憎い。

 根も葉もない噂を立てられたがために、ジゼルが学院時代からいらぬ苦労を強いられてきた。今でも学院の同回生達はジゼルの入所をコネだと信じ込んでいる者ばかりだ。このまま黒星(ヘイシン)に腕の一本や二本、折られてしまえばいい。いっそそのまま研究所から立ち去ればいい。ヘルマンに災いあれ。そう思ってしまう。しかし。

「こんなことで……仕事、諦めないで下さい」

 たとえコネで入った仕事だとしても、黒星(ヘイシン)は司書の仕事に誇りを持っていたではないか。今、ここで暴力沙汰を起こせば、おそらく黒星(ヘイシン)は何かしらの懲罰を受けることになる。ひどければ解雇もある。黒星(ヘイシン)の白手袋を、汚させたくない。

黒星(ヘイシン)さん……!」

 止める腕に力が入る。しがみついたその腕は、意外と太く、逞しかった。

 ふぅ、と黒星(ヘイシン)は息をついた。

「分かりマシた。もう放しマス」

 黒星(ヘイシン)はヘルマンの腕を放し、体を解放する。何か訳の分からないことを喚きながらヘルマンは食堂から走り去った。その途中で何人もの職員にぶつかり、悪態をつかれていたのに彼は気づいてもいなかった。

 ぽんぽん、と服のシワと汚れを払い、黒星(ヘイシン)はジゼルの手を両手で包んだ。

「アナタが止めてくれなケレバ、ワタクシはあの男の骨を何本か折っテました。有難うございマス」

 心底反省しているのか、いつも以上に柳眉の下がった笑みを浮かべている。食堂の中はすっかり人気もなくなり、今や調理室のコック達と数人の野次馬だけになってしまった。

 ぱたぱたと可愛らしい足音がした。掃除道具を抱えて少女が戻ってきたのだ。すっかり何もかも終わってしまっている食堂の様子に、少女は首を傾げた。

「心配ない。もうあの男達は行ってしまったから」

「申し訳ございませんでした、黒星(ヘイシン)様」

 紡がれる流暢な大陸言語は、滑らかだがどこかジゼルの存在を拒んでいるかのようだ。少女は黒星(ヘイシン)がヘルマンの唾で汚されているのを見て息を飲んだ。そしてエプロンから清潔なハンカチを出し、丁寧に唾を拭った。その手を黒星(ヘイシン)は取った。あかぎれだらけのか弱い手は、新しく傷口を開き、じわりと血を滲ませていた。

「私は私の民を守るという義務を果たしたに過ぎないよ。君が謝ることではない」

 痛ましいその傷口を、黒星(ヘイシン)は自分のハンカチで血止めをした。少女はその手を振りほどこうとしたが、黒星(ヘイシン)がそうはさせない。圧迫する力を更に強くし、少女の手を労る。

「でも、あたし、黒星(ヘイシン)様にご迷惑をおかけして……」

「迷惑などと思ってはいけない。リデルの家は民を守る家だ。この龍に誓って、私は君たちを守るよ」

 黒星(ヘイシン)は顔の刺青をなぞった。それが何を意味するのか、ジゼルには分からなかったが、少女が恭しく頭を下げるのを見ると、黒星(ヘイシン)は何と遠い存在なのかと思わざるを得ない。

「ジゼルさん、ワタクシ、ここを彼女と片付けていきますカラ、お先にお戻りくださイ。お昼休み、終わってシマいマス」

「え、あ、はい。分かりました」

 なぜかここにいてはいけない、そう思い、ジゼルはトレイを持って食堂を後にすることにした。

黒星(ヘイシン)さん」

「ハイ?」

「あ……ありがとうございました」

 ヘルマンに怒りをぶつけてくれて。

 少女のことだけでなく、ジゼルのことまでも。

 今までジゼルがヘルマンの嘘によって被ってきた苦労など、もはやどうでもよくなった。

 ジゼルはテノールと、黒星(ヘイシン)に救われた。それでもう十分だ。

 テノールがジゼルに自信を持たせてくれた。黒星(ヘイシン)が噂に左右されず、等身大のジゼルを見てくれていた。言葉では示せないほど、ジゼルは二人に感謝している。どう言っていいのか、分からない。ありきたりな感謝の言葉に、ジゼルは出来る限りの思いを込めた。黒星(ヘイシン)はグラスの破片を拾いながら、やはり困ったように笑うのだった。


 「よぉ。なかなか面倒なことに巻き込まれていたな」

 返却レーンでジゼルの横に並んだのはサーシャだった。日替わりランチの残骸をレーンに返し、サーシャはジゼルの頭をぽんと叩いた。

「それにしても、お前があの黒星(ヘイシン)・D・リデルと懇意にしてたとは知らなかったな」

黒星(ヘイシン)さんは第三書庫にお勤めなので、資料を取りに行く時にお世話になって以来仲良くしてもらってますよ」

 成り行きで二人は並んで研究室へと向かう。所内は相変わらず人が多い。廊下の隅で世間話に興じる者、床に張り付いたガムを剥がす男性、コマネズミのようにくるくると走り回る白衣の青年や化粧ポーチ片手にトイレから出てくる美しい女性。淡い影のようにすり抜ける人々の間に、ジゼルとサーシャも埋没していた。

黒星(ヘイシン)さん、そんなに有名人なんですか?」

「……お前は本当、世事に疎い。疎すぎる」

 サーシャは溜息をつき、眉間に親指を押しつける。

「あの(フゥイ)・M・リデルの息子だぞ?しかも、」

「コネ……です、か?」

 俯くジゼルにサーシャは口ごもった。

 サーシャは知っていた。ジゼルが学院時代から祖父の威を借る卑怯者のように言われていたことを。そしてそれが完全なる誤解であることも。それでもジゼルは「コネ」という言葉に必要以上に敏感で、潔癖だ。

「私、黒星(ヘイシン)さんのこと、そんな風に見たくないです……」

 ジゼルの中で何かが揺らいでいた。あれほどジゼルの実力を真摯に見てくれた人はいなかった。ジゼルの痛みを和らげてくれたのも、黒星(ヘイシン)だ。もちろん、ジゼルは黒星(ヘイシン)に感謝してもしきれないほどの恩を感じている。

 しかし、その黒星(ヘイシン)が、ジゼルが最も嫌う、コネという形で仕事を得ていた。

 司書職には長年公募がかかっていない。人員は足りているということだ。それなのに、黒星(ヘイシン)は今月から働いていると言った。ジゼルの遅い情報処理能力では、黒星(ヘイシン)という人間をどう見なしたら正解なのか、全く答えが出てこないのだ。

「……ジゼル、大陸民族のこと、どれだけ知ってる?」

「え?」

 改めて尋ねられると、ジゼルは答えられなかった。

 実際、ジゼルが大陸民族について知っていることなど微々たるもので、むしろそんな知識は「知らない」の範疇から出ないものだった。

 沈黙を答えととったサーシャはジゼルに続けた。

「大陸には九つの民族がそれぞれ小さな集落を作っていたり、集団で砂漠の大陸を移動して暮らしたりする。その集団の中には明確かつ厳格な身分制度ってヤツがある。んで、その九民族のトップ、まぁ、族長だな。リデルはその族長の一角で、しかも大家だ」

「民族の……トップ」

「族長の家の者は、民族の中で最も権力があると同時に、下々の者を守るという重い義務がある。その義務を背負い、権力を正しく使う覚悟の証が、刺青だ」

 ジゼルは黒星(ヘイシン)の刺青を思い出した。幾何学的な模様で描かれた、龍の刺青。左目から細面の顎にかけて、一匹の龍が牙を剥いている。その龍こそが、黒星(ヘイシン)の背負う「覚悟」の形。

黒星(ヘイシン)・D・リデルってやつはな、リデルっていう大きな家ががこの研究所に派遣した、大陸出身者最後の砦みたいなもんだ」

「最後の砦、ですか?」

「さっきヘルマン・ソリスにいちゃもんつけられてた女の子、食堂でフライ揚げてた坊主とか、大陸出身でしかも弱い立場にあるヤツらが不当な扱いを受けていたら助けられるように、そいつらの心の支えであるようにって、アイツは来たんだよ」

 少女に接する黒星(ヘイシン)は、いつもの顔と違った。困ったような笑い顔をする、少し頼りない黒星(ヘイシン)ではなかった。少女のために行動し、ヘルマンをねじ伏せた。そしてそんな黒星(ヘイシン)を見る少女の目は、確かに敬愛の色に染まっていた。

 見知らぬ土地で、不自由な言葉を繰り、身を粉にして金銭を稼ぐ。その金はきっと大陸に住む彼女らの家族の腹を満たす、重要な資金。そしてまた働く日々。

 島の者である職員達に蔑まれ、時にヘルマンのような男に罵倒され、それでも彼女らは家族のために働かねばならない。身も心もボロボロになったその時、頼れる存在がほしい。

 それが黒星(ヘイシン)・D・リデル。大陸の族長の血を引く、唯一無二の彼らの砦。

「研究所だけじゃなく、他の職場にもきっと似たようなヤツらがいるさ。こういった公的機関だからこそ、リデルのような大家が来て守れる分だけ守るんだよ」

 黒星(ヘイシン)の姉も、そのためにキャラバンにいるのかも知れない。リデルという名門中の名門の出でありながら、厳しく過酷なキャラバンに生きるのは、交易で不当な不利益を被らないためかも知れない。

 ジゼルは自分が恥ずかしくなった。

 何と視野の狭いことか。エルシーの研修の件以来、物事を広く見ようと努めてきたというのに、全く活かされていないではないか。あれほど親身になってくれた黒星(ヘイシン)を、ジゼルは信じ切れなかったのだ。しかも、自分が根も葉もない風評によって貶められてきたというのに。それなのに、ジゼルは黒星(ヘイシン)を、根も葉もないヘルマン達の馬鹿な噂に踊らされ、黒星(ヘイシン)を軽蔑しかけていた。

 軽蔑すべきは浅薄な自分だ。

 ジゼルには足りないものがたくさんある。知識も、常識も、確固たる自分の座標も。

「サーシャ先輩」

「なんだ?」

「私、やりたいことがたくさんあります。そのためにしなきゃいけないことも、たくさんあります。だから……」

「だから?」

 黒星(ヘイシン)は民族のために、これからも働いていく。この研究所で、大陸の者が頼れる唯一の存在として。

 ジゼルは何ができるのだろう。

 何のために、何をするのだろう。

 そのために、何が要るのだろう。

「だから、知りたいんです」

 ジゼルができること。

 ジゼルしかできないこと。

 ジゼルがしなければならないこと。

 テノールに言ったあの日の誓い。祖父との思い出。

 ジゼルはサーシャの目を見て言った。

「『小夜啼鳥』について、もっと知りたいんです」




 サーシャは思う。

 一人、夜の帷の下りる研究室で。

 遠き故郷の冷たい風を。

 大陸に広がる広大なコフ砂漠の遙か北。

 ケセドの街は、雪の街。

 雪深き白き土地を、更に白く染め抜く白樺の森。

 サーシャは今でも覚えている。

 雪より白く、山林檎のように赤い唇をした彼女のことを。

 月が中天を指す。

 北から、南から、西から、東から、

 声が募り、音の紐が縒られていく。

 主旋律を美しく奏でるその声を、サーシャは聞き間違えない。

 ――嗚呼、今日も彼女は歌っている。

 雪の中で淡く光ったあの銀と一滴の緑の髪も、

 緑青色の、底の見えない瞳も、

 笑えば左に片えくぼのできる彼女のことを、

 サーシャは生涯、忘れない。

 北の森から手を引いた今でも、サーシャの心は北の森に置き去りのまま。

 最後の音が、「祈り」を唱え、消える。

 いつの間にか月は下り始め、歌の欠片は星の瞬きと消えた。

 ――「『小夜啼鳥』について、もっと知りたいんです」

 昼のジゼルの言葉が甦る。

 そしてサーシャは思う。

 ――どうか、ジゼルだけは道を踏み外さぬように。と。

 ――同じ轍を踏まぬように。と。

 そしてサーシャはケミカル・スコープをのぞく。

 気になることは、他にもあるのだから。

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