第五章
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静謐な森は今日も木漏れ日の中にある。
テノールはいつものように日だまりの中で微睡む。心地よい陽光に目を細め、その仄白い肌に柔らかな光を当てる。いつもはお気に入りの楓の木の上にいるのだが、今日は湖の畔、草の上で野花に笑われながらも午睡を楽しんでいた。
ころころと転がるテノールを他所に、ジゼルは今日の分の検体を集める。百合の花が甘い芳香を放ちながらジゼルの鼻をくすぐった。
「百合の花粉は服につくと厄介だ。なかなかあの癖のある黄色が落ちない」
「……それ、もっと早く聞きたかった」
すでに風に弄ばれた百合の花粉がジゼルの白衣に点々とついていた。しかもどこかで擦ってしまったらしく、払っても払っても落ちる気配がしない。
あの一件以来、テノールはジゼルに何かと森のことを教えてくれるようになった。テノールの知識は本に載っているようなものではなく、むしろおばあちゃんの知恵袋のような、雑学のような、とるに足らないものも多いが、なぜかそれが面白かった。
「気づくまで待とうかとも思ったんだが……フフ、百合姫達がクスクス笑うから、っ、ハハハッ」
終いには腹まで抱えて笑い出したこの「小夜啼鳥」に、ジゼルは溜息をつくしかなかった。
「テノールはいいですね。植物の声が聞けるんだもの」
せっかくなので百合の花粉も採取しながら、ジゼルはぼやいた。当の本人は草の上でころころ転がりながら、小さく可憐なスミレを愛でていた。
「お前達が鈍感なだけだろうが。森のものたちは皆お前のことを話しているぞ?」
テノールには聞こえている。
「さっきからお前が検体採ってる白百合の一群はこの森で一、二を争うほど美しい花だ。みんな彼女たちのことを『百合姫』と呼んでご機嫌伺いをするんだ。だから、何も言わずにあちこち触られたのは初めてだー、って少々ご立腹だ。こちらのスミレは最近芽吹いたばかりの新しい子どもたち。シバザクラと共に日々成長を楽しんでいるよ。人見知りが激しいからな、お前のこともさっきから『誰だろう?』ってひそひそ言い合ってる」
ジゼルには聞こえない、草花や木の声が。
「それと、お前がこの前落としていったハンカチな。あれ、リスのつがいが新しく巣を拵える時に使ったらしいぞ。よぉくお礼を言っておいてくれって頼まれてたんだ。ありがとな」
「……それはどうも」
お気に入りだったんだが、とも思いながら、ジゼルはまんざらでもなかった。ジゼルに聞こえない声を、テノールは自分の口を介して伝えてくれる。それが本当に植物や動物の声なのかどうか、ジゼルには分かるはずもない。でたらめを言っているかも知れない。最初はそう思っていたが、どうやらテノールが真実を伝えてくれていることが分かった。……確固たる証拠はないが、何となくである。科学者としてその感覚はどうなのか、と言われればそれまでだが、ジゼルは思う。彼は嘘をついていない。つく必要もないのだ。
「森はおしゃべりで物知りだ。森について知りたければ森に聞くのが一番いい」
そう言うとテノールは立ち上がり、いつの間にか湖の側へとやってきた。
すらりと伸びた裸足が水面に着く。優雅に靴を履くかのように、テノールは爪先を差し入れた。
「森は俺の庭だ。聞きたいことがあるなら話してやろう」
ジゼルは思わず息を飲んだ。
まるで魔法だ。
両手を広げたテノールは、湖に沈むことなく、水面に立っていた。
わずかな波紋が広がる。何かの絵本を読んでいるかのような錯覚。
「小夜啼鳥」は、湖の妖精のように軽やかに水面を歩いた。その足取りは滑るように、踊るように、さながら舞踏会のワルツのように。ジゼルは見たこともない光景が目の前に広がっている、その事実に胸の高鳴りを覚えた。
「さあ、ジゼル・ベレッタ。……聞きたいことがあるのだろう?」
不敵に笑うテノールは、美しい。その美しさに魅せられながらも、ジゼルはテノールに問う。
ジゼルは意を決してテノールに問う。
「森の掟って……なんですか?」
それはかねてからの、謎。
ジゼル達研究員は国の法律である「森林保護法」やら研究所の規程「研究員労働規程」やら何やらに縛られながらも研究をしている。しかし、それほど複雑なものではない。一日何時間働いて、それ以上の労働時間にはそれに見合った手当を出すこと、森をみだりに訪れてはいけない。森に入るためには国から特別な試験を課せられ、それに合格して資格を貰うこと、などと言ったそれはそれは単純明快な法律だ。だが、ネイサンやサーシャの口ぶりからして、森の掟とやらはそれとは一線を画している、ジゼルはそう思っていた。そしてその予想は、どうやら辺りのようだ。「森の掟」と聞いたテノールの顔から、一切の笑みが消えた。
「……森の掟……。それが知りたいのか?」
「はい」
テノールはジゼルから視線をそらした。その視線の先には、大きな白い蕾をつけた花がある。
月下美人だ。
テノールは湖から出て、月下美人の方へと歩いた。
白い、細い手が、月下美人の蕾を撫でる。小さく息を吐き、テノールはジゼルを見た。
「森の掟は単純だ。夜の森に入ってはいけない。森のものを殺してはいけない。そして、」
たっぷり一呼吸置き、テノールは告げる。
「『小夜啼鳥』を外に出してはいけない」
テノールは空を仰いだ。開けたその場所から覗く空は、大陸からの砂が舞う、どこか黄色がかった空が見える。西の空の星座表のように、雲は円形に漂い、世界の中心がそこにあるかのような錯覚を起こす。
「それが掟。それがすべてだ。それ以上何もないし、それ以下のものは何もない」
弦月のように美しいテノールの横顔は、なぜかジゼルの胸を締め付けた。
「単純至極だろ?それさえ守っていれば、森は世界を支え続けてくれる」
テノールの指が月下美人の蕾をなぞる。愛しげに、しかしどこか恨みがましい目をしていた。
「俺はコレに縛られている」
指は蕾を離れ、テノールの薄い胸板の前で組まれた。それは祈るかのように。美しき謳い鳥は敬虔な使徒のように跪いた。
「これが定めた掟には何人たりとも逆らうことは、許されない。百合姫もスミレの花も、楓もブナもリスも鹿も狼も……!」
ぎち、と音がするほどにこぶしが握りしめられた。
「……、そして俺も……逆らうことなんてできないんだ……」
がくりと項垂れたテノール。その手には血が滲み、下の草の葉に露のように滴り落ちた。
「名前」
「え?」
「名前……テノールと呼べと言ったのも、そういうことだ」
テノールは知っていた。
ジゼルがテノールのことを便宜上のパート名である「テノール」としか呼べないことに些か不満を抱いていることも、なぜそうしなければならないのか疑問に思っていたことも。
テノールには分かっていた。
いずれ、ジゼルがそのことを尋ねてくるだろうということを。
それが今、なのだ。
「『小夜啼鳥』は外に出られない。それは存在そのもののことで、名前もそこに含まれてる。だから外の世界には俺たちに関する情報なんててんでないだろ?」
「あ……」
納得がいった。
なぜ「小夜啼鳥」については御伽噺しか残っていないのかも、学院にいても「小夜啼鳥」のことを最低限しか勉強しなかったのかも、森に入る前の研修でしか情報を与えられなかったことも。
「すべては掟のため、ですか?」
「そうだ。掟は絶対だからな」
テノールは月下美人の隣に座った。そしてジゼルを促し、自分の正面に座らせた。重大な秘密をその花の中に閉ざしているかのようにその花は蕾を閉ざすばかりで開く気配などない。
「森は鳥籠だ」
膝を抱え、テノールは呟いた。
「永遠に俺たちに歌わせるための、巨大な鳥籠に過ぎない」
「そんな……っ」
森は人間にとっての憧れだ。特に未だ広大な砂漠に覆われている大陸を持つ東部の人間にとっては。水と緑に溢れる森は、豊かさと永遠の象徴である。一度滅びかけたこの世界で、森は唯一の永久なるものだ。今は一般人の出入りを禁じられているこの森に、いずれ人々は再び足を踏み入れることを夢見ている。ジゼルもその一人だ。その日が一日でも早く来るようにと、こうしてせっせと研究に励んでいる。なのに。なのにテノールはその森を「鳥籠」と呼ぶ。その言葉は金糸雀のいるような白い籠というよりむしろ、何かの代償として幽閉されている牢を思わせる、冷たく暗い響きを持っていた。
「鳥籠さ、ジゼル・ベレッタ。ここにいる限りの自由、ここにいる限りの命の保証。こんなにも森は広いのに、世界を思えば何て窮屈な檻なんだ……」
ジゼルは何も言えなかった。
確かに森は広い。ジゼルの足では、森を一周するのに七日はかかるだろう。もしかしたら、もっとかかるかも知れない。テノールがいなければ迷ってしまうほどの広さなのだ。東部のこの島の約三分の二を占める東の森も、世界地図を見れば何とも矮小な大きさなのだろう。テノールの言うとおり、東の森など狭い鳥籠に過ぎない。
ジゼルは思った。
森がこのまま拡大を続け、砂漠もかつてのような潤いを取り戻せば……
「森を大きくすればいいとか思ってないか?ジゼル・ベレッタ」
ぎくっとした。
なぜこの「小夜啼鳥」は、ジゼルの考えていることなどお見通しなのだろう。
「お前の考えていることなどすぐに分かる。顔に出ているからな」
「そ、そんなことないですよ!」
「そんなことある。現にお前、今ドキッとしただろ?」
しっかりばれている。
「たとえ森が大きくなったとしても、俺は森から出られない。まして今の森の状態ではその可能性すらゼロに近い」
「でも森が大きくなったら、『小夜啼鳥』がいなくても大丈夫にならないんですか?」
「ならない」
珍しく食い下がったジゼルに対してあまりにも無下な答えだ。
「なぜならば『小夜啼鳥』はすでに森のものだからだ。魚が陸の上では生きていけないように、俺たちも森の外では生きていけないからだ。それにたとえ森が大きくなったとしても、俺たちは歌うことを止めない」
正面から見据えた瞳は、揺らがない。
「歌うことを止めたら、謡い鳥は死んでしまうよ」
それは底なしの悲しみを秘めた笑みだった。壊れそうな硝子細工のように、テノールの笑顔は脆くも美しく、切なげにジゼルの胸を締め付けるのだ。
「さあ、掟についてはもう終いだ。次はどこに行くんだ?」
うって変わってひどく明るい声を出し、テノールは立ち上がった。尻についた埃を払い、湖から離れていく。
「つ……次は南の方です!」
「南か。……確かモミジイチゴが実をつけていた」
テノールはジゼルを待たず、南へと下っていく。ジゼルは釈然としないものを口に残したまま、テノールを追いかけた。
南は日当たりが良く、低木が目立つ。
ジゼルは足元に気をつけながら、テノールの後をついていく。テノールの背中を見失えば、ジゼルは広大な森に置いてけぼりにされてしまう。
「迷わず、真っ直ぐ」
それが祖父が幼い頃にジゼルに教えた森を歩く極意だった。森を行く時はいつもこの言葉を唱えながら行くことにしている。それはテノールと歩く時も変わらぬ、ジゼルのジンクスのようなものだった。
テノールはジゼルの検体採取に少なからず貢献している。こうしてジゼルがテノールの後ろを辿るのも、森の近道を行っているからだ。近道を知らぬ人間が森で作業をするのは骨が折れる。ジゼルのような無知な学者に森を案内することも、テノールは自分の仕事だと考えている。そうでなければ、テノールの愛しい森の住人達がいたずらに傷つけられるかもしれない。それになにより、森は未だ人の手の入らぬ自然のままだ。万が一があった場合、テノール以外のものは手が出せない。
そのための、テノール。
そのための『小夜啼鳥』。
テノールは今日もジゼルの前を歩き、方向を失わぬよう歌を口ずさむ。
「あ、珍しい」
「?」
突如、ジゼルが立ち止まり、地面にしゃがみこむ。
「菌輪です!」
「菌輪?それなら探せばそこら中にあるが……そんなに珍しいのか?」
「珍しいですよ!私、本物見たの初めてですから!」
緑の草の上に、白く小さなキノコが円を描いている。砂漠化する前まで、菌輪は病気と見なされていたが、現在ではキノコが繁栄している証拠として見なされている。ジゼルの目の前にある菌輪は、小規模だが成人男性の足の大きさほどの半径はある。
「それ、踏むなよ」
「え?」
「絶対踏むな」
それは真剣な顔。どんな異論も挟む余地のない。
「……はい」
頷くしかなかった。それに満足したのか、ふん、と鼻を鳴らし、再びテノールは歩き出した。
ジゼルの目線は森の中を移ろう。好奇心の強い彼女は、森の中で見るものすべてが珍しい。新しい。そして、懐かしい。祖父、アーネスト・ベレッタが寝物語で語った森を、ジゼルは今、こうして実際に自分の目で見ている。肌で感じている。呼吸している。踏みしめている。ジゼルは祖父が嫌いなのではない。植物学者としての、アーネスト・ベレッタの威光が眩しすぎるだけで、一個人、そして祖父としてのアーネスト・ベレッタは至って普通の好々爺だった。自身の業績など全く鼻にかけた様子はなく、それどころか森の様子を葉の葉脈の一筋一筋が目に浮かぶような語り口でジゼルに聞かせていた。愛しい祖父の見たものは、今ここにあるのだろうか。祖父もこの菌輪を見ただろうか。そして、テノールと言葉を交わしたのだろうか。ジゼルの興味は湧き水のように湧き、尽きることはない。
「この辺りで良いか?」
「はい。では、この辺の検体を採取します」
荷物を下ろし、再び仕事を始める。器用に表皮を剥ぎ、花粉を取り、丁寧にしまう。その繰り返し。木の幹に木の葉に触れられることに心を震わせながら、ジゼルは淡々と仕事をこなす。
ふと、辺りを見渡すと、テノールの姿が見えなかった。
歌も聞こえない。
森の小鳥の囀りが、ちちち、ぴぃぃぃ、と囁くだけ。森とはこんなにも静謐な空間だったのか、とジゼルは改めて思い知る。風に撫でられた葉が奏でる音。遠くの草原で鹿が草をはむ音。夜行性の動物の、静かな静かな寝息。あらゆる静かな音がジゼルの周りを取り囲んでいた。街は音に溢れているが、ここまで静かな音はない。砂の巻き上がる音、人々の喧噪、響くラジオのノイズ。それらのない森は、本当に静かだ。
ジゼルは幾ばくかの恐怖を感じた。この自然の檻の中で、一人生きるテノールは、寂しくはないのだろうか。決して人の踏み入れることのできない夜の森は、きっと今よりもずっと静かだ。そして暗く、不気味に違いない。そこにテノールは一生、いる。その一生がどれほどの長さなのか、ジゼルには想像もできない。テノールは祖父・アーネストを知っている。七八才でこの世を去ったアーネストの若かりし頃を知っている。人智を越えた「」小夜啼鳥」という存在は、ジゼルの想像を遙かに凌駕した存在に違いない。その一生も、きっと人智を越えたところにある。
――歌だ。
歌が聞こえる。
ジゼルの後ろから、歌が聞こえる。
テノール独特の、駆け回るようにせわしなく音程の替わる歌。
迫り上がる。
駆けめぐる。
突き抜ける。
言葉の分からぬその歌が、テノールの十八番だ。
「作業は進んでるか?ジゼル・ベレッタ」
いつの間にか、テノールはジゼルの目の前にいた。白い紗の衣に木の実か何かをのせて。
「モミジイチゴから誘いを受けていた。お前にもお裾分けがあるぞ」
そう言って、テノールはいくつかの木の実をジゼルに渡した。
それは薄黄色のような、オレンジのような、決して真っ赤ではないが赤く熟れた小さな木の実。
「この森で一番の古株のモミジイチゴから頂戴したんだ。よく礼を言っておくんだな」
そしてテノールはジゼルに渡したものと同じ実を、口に入れた。
「ん。甘酸っぱくて美味いぞ。食べてみろ」
「あ……」
食べたい。
食べてみたい。
しかし、ジゼルにはそれができなかった。
「私……」
手の中に鎮座するその可憐なモミジイチゴ。小さな粒が集まってできた一つの実。赤い小さな粒の中に、ジゼルが映る。
「?どうした?食べないのか?」
「た……食べられないんです」
食べられない。
こんなにも美味しそうに、赤くなった木の実が、ジゼルは食べられない。いや、人の子は食べられない。
「なぜ?」
「人は、プラント工場で採れたものしか、食べられない規則になってるんです……。特に、森のものは……」
その次が言えなかった。
ジゼルだけでなく、人間全般が従わなくてはならない法律。それは、森のもの、自然で採れたものは例外なく「危険」であるというものだ。
世界が砂に覆われ、海が毒に犯されている今、地下プラント工場でのみ栽培される野菜や、完全管理の下に置かれた家畜・食肉のみが唯一無二の安全な食材となっている。森で採れたものなど、どの成長段階で毒素が含まれているのか、分からない。だから食してはならない。と、国の衛生管理局が申し立てている。それに従わなければ、いけない。特に、ジゼルのように特別な許可を得て森に出入りするものは、その法律を絶対に、何があっても、守らねばならない。
だからといって、これをそのままテノールに言えるわけがない。彼はこの森に住み、この森を慈しみ、この森と共にある存在。その彼に、「森の木の実は危険」などと、どうして言えるだろう。ジゼルは手の中にある実を潰さぬよう、そっと握りしめ、下を向いた。
「……それがお前の守らねばならない掟なら、仕方ない」
頭に手が置かれた。
顔を上げると、テノールの碧い瞳が間近に迫っていた。その瞳は、何も聞かずともジゼルの心を酌み取る、深く、底の見えない、しかし澄んだ色をしていた。
「食べなくてもいいから、それはもらってくれ。モミジイチゴがお前に渡せと五月蠅い」
テノールはジゼルの握りしめた手に手を添える。
「それに、その実はお前の髪の色と同じ色をしているからな」
不思議と心地のよい温かさが伝わる。柔らかな、新芽の産毛を思わせるその感触に、ジゼルはふるりと身を震わせた。
「掟なんて……なくなってしまえばいいのに」
テノールが食べるのだから、きっとこのモミジイチゴは害など与えない。森にあるものは、森に住む動物たちが食べているのだから、きっと問題などない。
掟や法律は常に理不尽だ。
ジゼルがこの美味しそうな木の実を食べられないことも、テノール達『小夜啼鳥』が森から出られないことも、何もかもが理不尽だ。
「なぜ、掟は人を縛るんですか?どうしてこんなに窮屈な思いをするんですか?」
こんなにも広い森の中で、どうしてこんなに窮屈なのか。世界はもっと広いのに、どうしてせせこましく、煩わしいものがまとわりつくのか。普段は考えたこともないことが、取り留めもなく溢れてくる。きっと今まで無意識のうちに思っていたことなのだろう。ジゼルはなぜか、そう思った。
「ならば逆に問おう。何のために掟はあると思うか?ジゼル・ベレッタ」
「え?」
質問に質問で返すとは……と思いながらも、ジゼルは考えた。何のためにあるのか。なぜあるのか。それは堂々巡りの卵と鶏の話のようで、ジゼルの思考は一向にまとまらない。
「……俺はな、掟は守るためにあると思っている」
「……、そんなの、当たり前じゃないですか。掟を守らなかったら掟なんて意味ないですよ」
「違う違う。人が掟を守るんじゃない」
困ったように笑い、テノールは続けた。
「掟が、人を、守るんだ」
「掟が、人を……?」
「そう。掟は人を縛っている、鬱陶しい鎖のように思えるけどな、その実、縛っているものを守っている。現にお前の従う法律という掟は、お前達人の子の安全とか、命を守っているだろ?たとえ、俺や動物たちが平気で食べている木の実でも、ジゼル達外の人間が食べても大丈夫かと聞かれれば答えは『分からない』だ。危険があるかも知れない。それは本当に分からないことだ。だからあらかじめ掟で縛っておく。そうすることで人を守っている。そういうことだ」
そしてテノールはまた一つ、モミジイチゴを口に入れる。ジゼルはテノールをただただ見つめるだけだった。
よくよく考えると、テノールという人物は、本当に毎日小難しいことを考えているように思えた。森を鳥籠と称して侮蔑しながらも、自身を縛る掟が自身を守っていると考える。何やら矛盾しているようだが、これは本当に矛盾しているのだろうか。
テノールという「小夜啼鳥」は、森の動物のように単純な生き物ではない。むしろ人のように悩み、苦しみ、諦めている。ジゼルにはそう思えて仕方がない。
「さあ、仕事が済んだのなら早く帰るがいい。日が暮れるぞ」
「もうそんな時間ですか……」
先程まで降り注いでいた日差しはすでに傾きかけ、太陽がオレンジ色の球体へと姿を変えつつある。森での時間はあっという間に過ぎていく。子供が遊びに夢中になってしまうように、ジゼルも森の植物に夢中で触れている。夕暮れ特有の胸の奥が締め付けられる、甘酸っぱい郷愁に、ジゼルは目を伏せた。
「さあ、早く荷物をたたんで帰るんだ。日が暮れる前に」
テノールはジゼルを促す。
「テノールは……寂しくないんですか?」
「寂しい?なぜ?」
「……いえ」
森との、テノールとの別れを寂しいと思っているのは、自分だけか。一方的な感情の押しつけをしていることに、ジゼルは何となく恥ずかしくなった。
「お前はまた来るじゃないか。また会う日を思えば、それまでの時間は問題じゃない」
「テノール……!」
「……ほら、早く帰れ。道は分かるな?」
「ぅあ、はい!ま……また来ます!」
ジゼルはあたふたと道具を片付け、森を駆け出した。テノールがあんなことを言うなどと、ジゼルは思ってもみなかった。
――テノールはジゼルが会いに来るのをもしかして、楽しみにしているのではないのだろうか?
それは寂しいという感情よりも、遙かに喜ばしい感情だ。
テノールは楽しんでくれている。私だけじゃない。私は、テノールの寂しさを少しでも癒しているのだ。ジゼルはそう、信じたい。
いつの間にか、ジゼルの仕事が検体採取ではなく、テノールと一緒にいる時間を大切にすることになりつつあることに、ジゼル本人は気づいていなかった。
夜の歌を紡ぐ。
星の光に乱反射する歌の欠片が森に、世界に散らばっていく。
――寂しくないんですか?
寂しい。
寂しいに決まっている。
テノールの中で、いつしかジゼルの存在が大きくなっていく。
歌の終わりに「祈り」を捧げ、最後の欠片が瞬き、落ちる。
湖畔の月下美人を見る。
普通の月下美人は、一年に一二度程度しか花を咲かせない。しかし、この森の月下美人は、夜毎、咲く。絶えることなく、毎日、咲く。月の光を一心に浴びるその花は、夜毎艶やかな白い花弁を開き、妖しく咲き誇る。
森が光る。
ぽぅ、ぽう、と儚げな光を放つのは、ジゼルが昼間に見つけたあの菌輪。よく見れば、森のあちらこちらに菌輪はその栄華を示している。遠く、森の端の方から、順にぽう、ぽぉ、と光っていく。誰かがその円を辿っているかのように。踊るように、ぽぅ、ぽお、と光る。
――テノールは寂しい
――テノールは森を出たがっている。
――テノール。
――テノール
――テノール
――テノール
――テノール
――テノールは……
「俺は森から出ない」
森に響く声に、テノールは毅然と言い放つ。
「俺は森から出ない。もう二度と、森を裏切らない」
テノールは目を伏せ、思う。
ジゼルのことを。
ジゼルの祖父のことを。
そして、一人の男を。
「あなたを裏切るようなことはしない」
ざぁぁ、と何かがテノールを通過した。
噎せ返るような土と花の匂いと共に。
それはあるいは風であり、あるいは飛沫であり、あるいは――
「王よ……俺は貴方の籠の鳥だ」
碧の瞳に、月下美人が映る。その花はなぜか、ひどく妖しく、美しく光を放つ。