第四章
†4
恥ずかしさで人は死ねるんじゃないんだろうかと思うくらい恥ずかしい。
知り合って間もないテノールに愚痴を言ってしまったことも、泣いてしまったことも、何もかもが恥ずかしい。だが一番恥ずかしいのは、エルシーに謝ってしまったことだ。
テノールに言われた、エルシーが自分を試していた、ということを真実だと思い、エルシーに心底懇切丁寧に謝り倒した。
しかし、返ってきたのは先輩の威厳からはほど遠い言葉だった。
「やだ、私そんなこと考えてないわよー」
エルシー曰く、本当にめんどくさくて研修を適当に済ませていたらしい。一部始終を聞いていたサーシャも
「エルシーがそんな深く考えてるわけないぞ?謝り損だ、ジゼル」
むしろエルシーが謝れ、とのたまった次第だ。ジゼルはもう恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなかった。
「あれぇ?なんか楽しいことしてるのかい?」
気の抜けた炭酸のように話しかけてくるのはネイサン・リントン室長以外にはいない。よれよれの白衣に無精ヒゲ、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけ、今日も聞いている方が脱力するような力の抜けた声を出す。植物病理学研究室の人気がないのはひとえにこの脱力感溢れる室長の影響があるのかもしれない。
「いやぁ、楽しくなんかないですよ。いつものようにエルシーはめんどくさがりで、ジゼルは早とちりです」
サーシャはコーヒーを注ぎ、ネイサンに差し出した。ネイサンはそれにスティックシュガーを何本も何本も追加し、コーヒーはついにジャリ、と音がする不思議液体に変化していった。
「うん、エルシーちゃんはすごくいい論文書くけどホントめんどくさがり。頼んどいたファイル整理、全然ダメ。やりなおしねー」
甘ったるい不思議液体を噛みながらネイサンはダメ出しをした。ええええええ、と盛大に文句をいいながら、エルシーは資料室へと向かった。何だかんだ言ってこのネイサン・リントンという男には誰も逆らえない。
「あとジゼルちゃんね。細かい仕事、ホント上手。この前やってた検体の処理、すごくいいね。丁寧にやってあるから細胞見やすくって」
「あ、ありがとうございます」
褒められれば素直に嬉しい。その褒め言葉に祖父が関わっていなければ尚更だ。
「そうそう、森はどう?テノール君とは仲良くやれそう?」
う、と言葉につまった。
先日の恥ずかしさが甦り、ソバカスだらけの頬に血が上る。
「おや?仲良しの意味が違ったかな?」
「そそ、そんなことあるわけないですっ!だだ、大体!私、テノールさんの本名も知らないんですよ?」
テノールはジゼルに、便宜上「テノール」と呼べと言った。ということは彼ら「小夜啼鳥」にも、パート名でなく固有の名前があるに違いない。「便宜上」という言葉がなぜかひどく冷たく感じる。
「ジゼルちゃん、テノール君達『小夜啼鳥』はね、自分の本名を教えたらダメなんだ」
申し訳なさそうに苦笑いするネイサン。一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。
「森の掟は絶対だからな」
「森の掟……ですか?」
ぽん、とジゼルの頭にサーシャの大きな手が置かれた。
「森の掟を破れば罰を受けなければならない。あいつらは名前も捨てて、森に生きる。それが生きる道だからな」
何か理不尽なものを感じたが、サーシャもネイサンも、飲み込みづらいものを口に含んだような顔をしていた。それ以上言い募ってはいけない。無言の壁がジゼルの口を閉ざした。
「ま、森の掟についてはきっとテノール君が教えてくれるから。さー、今日も張り切って切り刻みましょー」
んんっ、と背伸びをして、ネイサンもサーシャもそれぞれ勤務態勢に入った。何となく何か喉につまったような感じがする。
森の掟についてはとりあえず置いておくことにした。ジゼルはやはり今日も表皮を剥がしてはプレパラートを作成していた。ネイサンが褒めたように、ジゼルのプレパラートは見事な出来栄えである。次から次へとプレパラートを作り、サーシャがそれを顕微鏡で見る。気になるものがあればそれをネイサンが再度検査する。一連の流れ作業ではあるが、ジゼルはこの仕事を気に入っている。植物病理研究室では、森の植物が病気にかかっていないか、何の病気の恐れがあるか、などを調査することが主な業務である。森の健康診断といえば分かりやすい。
「ジーゼルちゃーん。ちょぉっと第三書庫からこれだけ持ってきてくれるー?」
「あ、はい」
双眼顕微鏡を覗いたまま指示を出すネイサンからリストを受けとり、ジゼルは席を立った。安請け合いしたものの、リストには二十冊以上の資料が書かれており、しかもどれも辞典並に重そうな本ばかりだった。若干の後悔を感じながらも、台車を借りればいいか、と思い直した。
ぱたぱたと歩くジゼルは研究所の中で最も背の小さい研究員である。書庫の中でも脚立を使っても手が届かない資料があったり、一冊抱えただけでよろめく重さの本もある。何とか司書に手伝ってもらってリストの資料を集めることができた。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
「いいえ。これもワタクシどもの仕事デスので、お気になさらズ」
その青年司書を、ジゼルは初めて見た。何度も第三書庫には足を運んでいたはずなのに初めて見る人間である。しかも左目から頬、顎にかけて幾何学的な龍の刺青がされているという、極めて目立つ容姿なのだ。一度見たら忘れるはずがない。
「申し遅れマシタ。ワタクシ、今月かラこの第三書庫を担当します黒星・D・リデルと申しマス。以後、お見知りおきヲ」
「うあ、はい。ここ、こちらこそ」
恭しく頭を下げられ、戸惑いを隠せない。
「あ、私は……」
「存じ上げておりマス。植物病理研究室のジゼル・ベレッタ様デスね?」
すぐ分かりました、とまで言われた。一体巷では何と噂されているのだろう、と複雑な気分になってしまう。
「リ、リデルさんは情報通なんですね……ん?リデル?」
社交辞令的な挨拶をしているとは思うが、彼が名乗った「リデル」という名に聞き覚えがあった。日常的によく聞く名だ。今朝も聞いた。しかしどこでだったかが思い出せない。
「リデル……リデル……どこだったっけ……」
収納上手な頭をひっくり返して「リデル」を探す。ジゼルが忘れるはずがないのだ。絶対にどこかに入っている。こめかみに指を当て、記憶を掘り出すかのように指を回す。手っ取り早く今朝の記憶から掘り起こす。目覚ましを止めた瞬間、朝食のメニュー、どちらのブラウスを着ようか迷ったこと、ラジオから流れる音楽、新聞の朝刊……
「あ、輝・M・リデル!中央評議会議員の!」
「ハイ、それはワタクシの父デス」
大陸訛りの共通語を操る青年は、人の良さそうな笑みを浮かべた。ふわりと笑うその顔は、厳めしい顔をして激しい政治論争を繰り広げる父、輝・M・リデルなど欠片も感じさせなかった。
「よく似ていない、と言われマス」
黒星は柳眉を下げて目を細めた。そんなに顔に出ていたのだろうか。ジゼルは自分の大人げなさに顔を赤く染めた。
「す、すみません……」
「謝ることはありマセン。ワタクシは母親似なので」
「そ……そうですか?」
「そうでス」
控えめに上がる口角が、ジゼルの緊張感をほぐしていく。
「宜しけれバ研究室まで運ブの、お手伝いいたしますヨ?」
「えっ!そんな申し訳ないです!」
司書は雑用係ではないのだ。他の司書は絶対にそんなことはしない。たとえどんなに小さな(ジゼルより小さな研究員などいないのだが)人間が本の山の前で途方に暮れていようとも、黒星のような申し出をしてくれる司書は、少なくとも東部にはいない。
「司書はすべて利用者のためにあれ。がワタクシのモットーなので、お気遣い無用デス」
「でも……っ!……って聞いてないし……」
ジゼルの申し訳なさそうな声など無視して、黒星はさっさと台車の用意をし、資料を丁寧に箱詰めし始めていた。ジゼルが折れるしかない。ジゼルが呆然としているうちに黒星はてきぱきと仕事を終え、台車を押す体制を整えていた。
「そちらの資料は箱に入りキらないのデ、申し訳ありマセンがジゼルさんに持っていただきたいデス」
「は、ハイ!もちろん!」
規格外の図鑑は重いが、たった一冊くらいジゼルにだって抱えていける。他の資料はすべて黒星が台車に乗せてしまったため、ジゼルは思わぬ楽をしてしまった。
「研究室は三階デスか?」
「はい、そうです」
「では、参りまショウ」
ガラガラと耳障りな音を立てながら、ジゼルと黒星は本棚の森を抜けていく。
「一寸出ます。すぐに戻りますカラ」
黒星は第三書庫のカウンターに一言申した。各書庫には最低5人の司書が詰めている。それぞれに役割があるため、少しでも抜ける時はこうして一言言っていくのが慣例のようだ。受付業務をしている女性司書が、じろりと二人を睨め付けた。
「……どうぞ」
なぜか彼女は不機嫌そうに応え、カウンターで目録カードをいじるばかりであった。黒星は困ったように笑い、ジゼルと共に第三書庫を後にした。
国立森林保護研究所東支部の資料室は広い。三階建ての円柱状の資料室はもはや図書館と言っても過言ではない。その円柱資料室を中心に、各研究棟が渡り廊下でつながれている。さながら子供の描く太陽の絵のような構造になっている。
資料室には更に地下があり、ジゼルと黒星が出て来た第三書庫、それ以外の集密書庫はすべて地下にある。地上に排架されている資料のほとんどが最新の資料であったり、使用頻度の高い参考図書である。すでに古くなった雑誌、論文集、貴重な図鑑などは地下の集密に収められている。ジゼルと黒星は植物病理研究室に行くために地下から地上へと上がるエレベーターを待っていた。
簡素な鉄柵でできただけの扉から覗く箱の在処は、どこまでも続く穴のように思えた。ひゅぉぉ、と風を吸い込む音がして、小さなエレベーターは到着した。長身の黒星が頭を少し屈めなければ入口で使えてしまうような小ささだ。無論、ジゼルにはそんな心配はない。台車とジゼルを先に乗せ、黒星は最後に乗ってから鉄柵を閉めた。地上を示すFのボタンを押し、再びエレベーターは浮上した。
「ベレッタさんの論文、読みましたヨ」
「え?」
エレベーターのリールの音に紛れてよく聞こえなかったが、確かにこの黒星という青年は、ジゼルの論文を読んだ、と言った。
「『音波振動による植物細胞への影響』、とても面白かったデス」
「え……あ、ありがとう、ございます」
学院卒業論文だ。テーマがざっくりしすぎていて教官受けはあまり良くなかった、どちらかといえば「失敗作」――。
「でも何でリデルさんが……」
「ワタクシは、司書デス。面白イ論文、面白イ資料、目を通すのも仕事デス。それに、所属しテいる研究員のことヲ知らずして、どうしてよき資料を提供できるでショウ?」
りーん、と軽いベルが鳴り、地上に着いたことを知らせる。開のボタンを押し、黒星はジゼルを先に下ろした。台車を引きながら再び二人は話を続けた。
「あの論文、ちゃんとベレッタさんのオリジナリティがあって、面白いデス。学院卒業論文、一寸盗用が目立つ傾向にありマス。でもアナタの中には、ない。これからもっと面白い論文書けルと、思いマス」
柔和な笑みを浮かべながら、黒星はジゼルに最大の賛美を送る。そこに虚飾やおためごかしは微塵もない。
ジゼルは嬉しかった。
たった今知り合ったばかりの、ジゼルの祖父も関係していない、全くの第三者からこんなお褒めがいただけるなどとは思ってもみなかった。心の底からふつ、ふつ、と沸き立つ歓びに、眩暈がしそうになる。
「そんなこと……言ってもらったの、初めてです」
ぎゅ、と資料を抱き締め、ジゼルは赤くなった顔を俯かせた。自分が今、どんな顔をしているのか、分からない。きっと変な顔をしている。そんなジゼルを、黒星はただ笑って見ているだけだった。
地上一階から研究室のある五階まで上がるために、二人は再びエレベーターへと向かった。煩雑ではあるが、台車を使っている限り階段は使えない。エレベーターホールで二人はせわしなく稼働する二機のエレベーターの順番を待っていた。資料を運ぶのは何もジゼルと黒星だけではない。他の研究室の下っ端研究員達も同じだ。ただ、ダントツでジゼルの資料が多いだけの話。他の人たちは一人で持てる分だけの資料しか持っていなかった。
「やっぱり多いですよね。この資料の数は」
「病理は資料、たくさん要りマス。研究室の資料だけデは足りナイこと、たくさんデス。仕方ありませんヨ」
単に室長の無精癖が問題なだけであって、決して黒星の言うような特別な理由などない。断じてない。よく気のつくいい人だ、とジゼルは思った。司書達の働きぶりがどのようなものか知らないが、絶対に黒星は働き者の、優秀な司書だと思う。でなければ今この瞬間、ジゼルの横になどいないだろう。
ふと、ジゼルは気づいた。
背筋にちくり、と針で刺されたかのような痛みが走るような視線を感じた。それは幾度も体験した、嫌な視線だ。
控えめに周りを見渡すと、通り過ぎる研究員、特に資料室から出て来た若い研究員達がジゼル達を見て何やらひそひそと囁きあっている。その声は森のざわめきのように広がるが、決してその正体が明らかにならない。
「いいよな、コネがあるヤツは」
囁きの中で一際大きな声が飛び込んできた。
心臓が鷲掴みにされたような、感覚が走る。
学院時代の苦い思い出が蘇る。
ゴミ箱の教科書、破られたノート。改竄された図書室の利用者コードが奏でるエラー音、ぶつけられた腐った卵の匂い、嘲笑の声、蔑む瞳、そして絶望――。
ジゼルは身震いした。
自分の論文を褒めてくれた人の前で、馬鹿にされるのか。せっかく知り合ったばかりの、研究室の先輩達以外で仲良くなれそうな、唯一の人が、離れていく。ジゼルは身を強ばらせた。いっそのこと耳を塞ぎたくなった。しかし、抱えた資料を落とすわけにはいかない。代わりにジゼルは資料が体にめり込むかと思うほど強く抱え、下を向くばかりであった。
が、ジゼルの耳に飛び込んできた罵声は、ジゼルの予想していたものとは違った。
「故郷の大陸捨てて自分だけ高給取りかよ」
――大陸?
言わずもがな、ジゼルは大陸出身ではなく、この研究所がある東部のティフェレト島出身だった。
そして同時に気づいた。
この罵声は、視線は、ジゼルに向けられたものではない。
黒星に向けられていたのだ。
「他の大陸の人たちは下働きなのにね」
「だってほら……あのリデルだから……」
ジゼルは頭一つ半高い位置にある黒星の顔を見上げた。傷ついていやしないか、もしかしたら怒りに顔を赤らめているかも知れない。悔しさに唇を噛んでいるかも知れない。半ば同情のような感情を抱きつつ、ジゼルは黒星を見た。
「……リデルさん」
胸が締め付けられた。
黒星は、笑っていたのだ。
罵声が聞こえていないはずがない。冷たい視線を感じていないはずがない。なのに黒星は笑っていた。滑らかな黒髪で顔を隠すことなく、背筋を伸ばし、ほんの少し困ったように柳眉を下げて笑っていた。
「さ、ベレッタさん。行きまショウ」
いつの間にか回ってきたエレベーターの順番。ジゼルは何も言えず、ただ黒星に付き従ってエレベーターに乗り込んだ。
それからジゼルは研究室まで、黒星に口を利くこともできなかった。
言いたいことはたくさんあった。聞きたいこともたくさんあった。しかし、何故かそれを口に出すことができなかった。声にすることができなかった。喉の奥が痛い。引きつるような感覚に、ジゼルは顔も上げられなくなっていた。
「病理研究室、着きましたヨ?」
顔を上げると、そこはよく知る自分の研究室の前だった。
「……すみませんでした」
「どうして謝るデスか?」
「だって……!だって私、」
――何もできなかった。
しかし黒星は笑って言った。
「謝るコトはないデス。それに、アナタが泣くコトでもなイ」
「え?」
言われて初めて気づいた。
ジゼルは泣いていた。
頬が涙で濡れ、嫌なべたつきを肌に残している。
「やだ……何で……」
次から次へと溢れる涙に、ジゼルは戸惑った。
何でも何もない。ジゼルは悔しかったのだ。
自分と同じく周りから嘲笑を受ける黒星に何もできなかったことも、テノールに励まされたのにまだコネのことを気にしていたことも、何もかもが悔しかった。そして何よりも、同じような立場にいる黒星が、笑っていたことが悔しかったのだ。
「――――っ!」
言葉にならない感情だけが、涙となって溢れかえる。これをどうやって伝えればいいのだろうか。悔しい。悔しい。悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい!
「ワタクシのことなんかで泣かないでクダサイ」
黒星がジゼルに視線を合わせてくれる。小さな子供をあやすように、黒星はジゼルの涙を掬った。さっきまで嵌めていた白手袋をわざわざ外してまで。
「でも、っでも!」
「いいんデス。ワタクシはいいんデス」
そう言って、黒星は笑った。
少しだけ柳眉を下げて笑うのは、どうやら彼の癖らしい。その笑顔が、どこか困ったような顔なので、余計にジゼルの涙は溢れる。
「それでは、ワタクシはこれで」
台車はまた今度、と言って黒星は立ち去ろうとする。
広い、男性特有の背中が、どこか悲しげに見えてしまう。
「あ、あのっ!」
白衣の袖で乱暴に涙を拭い、ジゼルは黒星を呼び止めた。
「私、いつでも話、聞きます!だから……だから!」
だから、の後を考えていなかった。だから、何と言おうと思ったのか、分からなかった。だから……と口ごもるジゼルに、数歩先にいた黒星は振り返った。再びジゼルに視線を合わせ、黒星は笑った。
「ありがとうございマス、ベレッタさん」
今度の笑みは、本物だった。
相変わらず眉を下げた笑顔だったが、優しいその笑顔にジゼルもつられて笑った。
「ジゼルでいいです」
「ではワタクシも黒星とお呼びくだサイ。リデルは……ねぇ?」
悪戯っぽく黒星が目配せをする。それがどうにも可笑しかった。
「ふふっ」
「ハハ」
先程までの涙はもうない。二人は既知の友人のように笑い合っていた。