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第三章


†3







 ジゼルは心底謝りたかった。

 初対面で相手を嘘つき呼ばわりしてしまったことも、テノールが(サーシャ曰く)本当は寂しがりで誰かと話したかったのに冷たくしてしまったことも。

 しかし、いざ謝るとなると、気が重い。

 初日はあんなに楽しみにしていた森での仕事も、なぜか今日は足が思うように動かない。誰かに謝るということはこんなに体力を使うものなのか……。そう思いながら、今日何十回目かの溜息をついた。

「辛気くさいヤツだな、ジゼル・ベレッタ」

 森によく通る高めの男声。一度聴いただけで絶対に忘れることのできなくなる印象深い声。森の中という特異な環境でなくとも絶対に間違えない、テノールの声だ。溜息をつきながら重い足取りで歩いていたにもかかわらず、ジゼルはいつの間にか楓の木の辺りに来ていた。この間テノールが歌っていた楓だ。今日もテノールは楓の上で、地面に立っていても見えるジゼルのつむじを見下ろしている。

「あまり溜息をつくな。楓達まで辛気くさくなる」

 そう言って彼は先日と同じようにふわりと跳ぶ。裸足なのに痛くはないのだろうか、と思うが、彼に謝ることが今日の重要課題だとすぐに思い出した。俯いたまま、視線をあげることができない。ジゼルはじっと自分の靴とテノールの裸足を見つめるしかなかった。

「……どっか調子でも悪いのか?森の空気は重いからな。初心者には厳しいものがある」

 透き通るように青い瞳がジゼルを覗き込んでくる。邪心のない、無垢な瞳はジゼルを意味もなく追い詰める。

「あ……あのっ!」

 ぎゅっと白衣の裾を握りしめる。テノールと目線を合わせない。合わせたらきっと謝れない。

「この間は本当にすみませんでした!私が知らなかっただけで、私の無知のせいであなたを嘘つきなんて言ったりして……!先輩の研修がいい加減で……それで知らなくって、ホント、変なこと言ってすみませんでしたっ!なんていうか……テノールさんの歌、すっごく素敵で、知らなかったとは言え本物の『小夜啼鳥』さんにホント失礼なこと言っちゃって……なんか……木霊さんですかー、とかホントなんていうか、恥ずかしいことばっかり言っちゃって……!本っ当ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっに!すみませんでしたぁっ!」

 機関銃のように捲し立て、腰を九十度以上に曲げて謝った。あまりのことにテノールは一歩引いてしまった。はあはあと息を乱して頭を下げ続けるジゼルに丸くした目を向けていたが、徐々に気まずい空気が流れ出した。

「……許しては……くれませんよね……」

 やっとジゼルは視線をあげた。ずれた眼鏡ではよく見えないが、何やらテノールが引き気味なのが分かる。もしかしたら謝り方が悪かったのかも知れない。

「あー……そんなんはもうどうでもいい」

 バツが悪そうに頭を掻きながら、テノールはジゼルをつ、と横目で見た。

 実際、テノールはさほど気にしていなかった。むしろ新鮮な気分を味わっていたりもする。大抵のぺーぺー研究員はそれなりの予備知識を持って森に入ってくる。それでも自分が思っていたイメージと違う光景に完全に警戒心と猜疑心を目に貼り付けてテノールを見た。ジゼルのように何も知らずにズケズケと思い込みで話してくる研究員は初めてだったのだ。しかもそれを謝ってくるなんて、本当に面白い。

「けど、今の謝り方はちょっと気にくわない」

 面白いからこそ、気にくわないことは気にくわない。

「お前、自分の無知を先輩のせいにしたことに気づいているか?」

「え?」

「先輩の研修がいい加減だった、って。たとえそれが事実でも、お前は研究員だろ?先輩が教えてくれなければ自分で調べるくらいのことはできるんじゃないのか?違う人に聞くとか、もっと食い下がってみるとか。そうしなかった自分を棚に上げてその先輩を悪く言うな。もしかしたら先輩はお前が自分で聞きに来るようにわざといい加減な研修をしたのかも知れないだろうが」

 ジゼルは黙って聞いていた。テノールはジゼルの方を向かず、なおも続けた。

「お前、学校の成績はよかったかも知れないが、研究員は勉強ができればいいってもんじゃないだろ?」

「っ、そんなこと、あなたに言われなくってもわかってますっ!」

 ジゼルに背を向けていたテノールは気づかなかった。白衣の裾がアイロンをしてもシワが取れないほどに握りしめられていたことも、焦げ茶色の瞳が涙で一杯になっていたことも。

 ジゼルは森の奥へと駆け出した。

 後ろでテノールが何かを叫んでいた。それでもジゼルは走った。森の奥、あの湖に浮かぶブナの木の方へ。この前は転びそうになった木の根も、ぬかるんだ足元も何もかもを無視してジゼルは走った。目頭が熱い。横っ腹が痛い。

 頭の中は学生の時に言われた言葉が響いていた。

『お前は研究者には向かない』

『ジゼルが研究者?あんなボーッとした子が?』

『研究者は自分で動くことが大切なんだ。お前みたいな受け身のヤツがなれる職業じゃあないんだよ』

『自分じゃ何もできないくせに、どうして試験に受かったの?』

『どうせコネでも使ってたんだろ!』

『いいよなあ、身内に有名人がいるヤツは!』

 同級生たちは、誰もジゼルの実力を認めなかった。どんなに努力をしても、それは偉大なる祖父、アーネスト・ベレッタの影によって黙殺される。唯一ジゼルが祖父にも負けないと思っている暗記力もそうだ。教科書を暗記することができても、それが何の役に立つのだ。サーシャに先日言われたとおり、その知識を使えなければ意味がない。ジゼルは詰め込みたいだけ詰め込める、優秀な収納力を持っているのに、その溜め込んだ知識の使い方を知らない。使い方が分からない。

 夢中でかけたジゼルは開けた場所に出た。

 軋む肺が痛い。喉や鼻腔の奥から血の味がする。

 目をあげるとそこにはあのブナの木があった。相変わらず湖に浮かび、悠然と葉を揺らしている。

 テノールに言われたことはきっと真実だ。

 エルシーはきっとジゼルを試していた。ジゼルがどれだけ自分で調べられるか。どうやって調べるのか。それをエルシーは見ていたのだ。エルシーはいい加減でめんどくさがりのように見えるが、とても優秀な学者である。若くしていくつもの論文を発表している。東の森に野生の水仙を咲かせることができたのも、エルシーの研究の成果だという。

 ジゼルは湖の脇に咲く水仙を見た。

 白や、淡黄色の花弁がジゼルの顔を覗き込むようにうかがっている気がする。可憐な水仙はどことなくエルシーの髪の色を彷彿とさせる。

 湖の畔にジゼルはうずくまった。

 眼鏡のレンズに涙が溢れた。走ってきた、赤く上気する頬を次から次へと伝っていく。抱え込んだ膝にも白衣にも吸い込まれてはまた溢れ、零れる。

 悲しくて泣いているのではない。

 悔しくて泣いているのでもない。

 涙の理由は分からないが、泣かずにはいられなかった。ジゼルは白衣の裾を噛みしめて声を殺した。なぜか水仙が笑っている気がした。湖が呆れかえっている気がした。森全体が何人もの人のようにジゼルを見て、嘲笑っている。そんな気がしてならない。

 ――いっそこの湖に飛び込んでしまおうか……。

 誰も入ることのできない静謐な森。自然の堅牢な檻。

 沈んだ水底でジゼルは何も考えない。何も感じない。

 ただ何もかもを投げ捨てて、ジゼルは森の一部になる。

 テノールは気づくだろうか?できれば気づかないで欲しい。

 人知れず、ジゼルは果ててしまいたい。

 涙で滲んだ視界に、日に輝く湖面が映る。光の乱反射がジゼルを誘う。泥に汚れた靴のまま、ジゼルは一歩、一歩、湖へと歩を進めていった。

「そのまま歩いていってどうするんだ?」

 爪先が水に触れるか触れないかの所だった。

 息を切らしたテノールがジゼルの肩を掴み、そのまま湖から引き離した。

「お前、一体何しに来たんだ?森を汚しに来たのか?それでも研究員か?」

「……じゃあ、もう辞めます」

「はあ?」

「だって私、研究員に向かないんですよ?散々言われ続けてきたことですし……!グズだし、言われたことしかできないし……!それに……」

 ぐ、と言葉につまる。

 これだけは自分で言いたくなかった。認めたくなかった。違うと信じたかった。けれども、いつも心の隅で疑っていたことだ。す、と息を吸って、ジゼルはそれを吐き出した。

「コネで入った、なんて言われてるし……!」

「コネ?」

 ぐい、と涙を拭い、ジゼルはテノールに向かって再び吐き出す。

「あなた、知ってるんでしょ?アーネスト・ベレッタ!有名な植物学者で学院の共感してたんです!……お祖父さんの教え子が今の直属の上司ですし……、学生時代の教官も大勢じいちゃんを直接知っている人でした」

 まだ学院に入り立ての頃だった。その時のジゼルは教官に本当によく可愛がられていた。ジゼルはそこに祖父の力が働いているなど考えたこともなかった。教官達はそれがどんなものを招くか知らなかった。ただの善意と、死んでなおその業績を誇るアーネスト・ベレッタを畏怖してのことだ。そしてその結果、周囲の学生達は皆ジゼルを煙たく思い、彼女を色眼鏡で見るようになった。

「仲の良かった子が、言ったんです。『アンタなんか祖父さんの力でやってるだけのくせに』って……。その子、研究員になりたかったんですけど、試験、落ちちゃったんです。でもその子より成績よくなかった私が受かったから……。でも私……じいちゃんに何も言ってないし、第一死んでるし……頼ってるつもりなくって……」

「お前は本当に馬鹿だな、ジゼル・ベレッタ」

 いつの間にか、テノールの顔が目の前にあった。

 背の高いテノールがわざわざ屈み、ジゼルと目線の高さを合わせている。湖水の色に似た青い瞳に、泣き腫らした顔のジゼルが映る。

「コネだのなんだのってくだらない。そんなこと言うヤツらはみんなお前に嫉妬しているだけだ。それに研究員に向いてるか向いてないかなんて、誰にも分かんねぇよ。むしろ、アーネスト・ベレッタだってお前と同じように悩んでたぞ?」

「え?」

 そういってテノールはジゼルの頬を引っ張った。

「お前と同じようにチビで、眼鏡で、赤毛で、ソバカスで。やっぱりアイツも親父のコネで入ったとか何とか馬鹿にされていた」

「ひょうなん……れひゅか?」

「アーネストの親父、ま、お前のひい祖父さんになるのか?そいつは中央政府の役人でな、東にも結構力があって?……あー詳しいことは忘れたけど!とにかくお前と一緒だった」

 祖父との思い出が蘇る。

 ジゼルと同じだというソバカス顔は歳と共にシミもシワも増え、赤毛は色がなくなっていった。森の植物についていきいきと話してくれる祖父の声。

「それに、そんなこと言われてもお前は学校辞めなかったし、研究所にも入ったじゃないか。やりたいこと、あったんだろ?だから頑張ってるんじゃないのか?」

 縦に横にと引っ張られていた頬からテノールの手が離された。じんじんと響く痛み。それ以上にジゼルは目覚めた気分になった。

 ジゼルにはやりたいことがあった。

 ジゼルには夢があった。

 日々の忙しさや他人の悪口に傷つき、根拠も何もない噂を鵜呑みにして勝手にひねくれていた間に忘れかけていた。

「お前のやりたいことは何だ?ジゼル・ベレッタ」

「わたしの……やりたいこと……」

 ジゼルはテノールの後ろに広がる森を見る。

 そこにはジゼルの知らないことがあちらこちらに散らばっている。

 ざあぁ、と風が吹き抜けた。

 二つに結わえた髪がほどける。白衣がはためく。

 風の中に懐かしい声が聞こえた気がした。

 ――ジゼル、どうしても学院に入るのかい?

 心配そうに尋ねてくる祖父の声だ。最初、アーネストはジゼルが学院に入ることに消極的だった。今なら分かる。ジゼルがアーネストの偉業のために惨めな思いをするんじゃないかという危惧からだった。しかしジゼルはアーネストに言ったのだ。

 ――ああ、そうだった。

 忘れかけていた最初の思いを、ジゼルは思い出した。

 それを告げた時のアーネストの笑顔、頭を撫でられた感触。

 妙な充足感に心がくすぐったい。

 風が止み、ジゼルはもう一度涙を拭い、テノールを見た。

「私のやりたいこと」

 焦げ茶色の瞳にテノールを映し、高らかに

「森と人が共に生きられるようにすることです!」

 満面の笑みで答えた。

 それはテノールが初めて見た、ジゼルの笑顔であった。


 ジゼルが森を去った後もテノールは歌う。

 ジゼルのような研究員には初めて会った。今まで森に来た研究員達は皆一様に自分の力に自信を持ち、いずれ自分が偉大な学者になることを確信しているようだった。言葉の端々に選ばれしエリートとしてのプライドが滲み出て、テノールには鼻持ちならない、嫌味な人間達のように思われた。事実、森の検体採取の仕事をしていった者たちの多くが有名な学者になっている、と風の便りで聞いたことがある。

 その中で、ジゼルは異彩を放っていた。

 今までの数少ない訪問を見ているだけでもそれが分かる。いつも自分に自信が無く、俯いてばかりいる。なのに人一倍植物に愛情を持って接している。ジゼルの検体採取を受けた木々が口々にそういうのだ。

「そうだな。彼女は今までのヤツらとは違う」

 テノールは思う。

 彼女はもったいない、と。

 せっかくいいものを持っているのに、それを埋もれさせている。彼女をやっかむ心ない人間ももちろんだが、それにねじ伏せられている彼女の心が邪魔をしている。

「どうにかしてやりたい?」

 テノールは問いかける。ざわ、と楓の葉が揺れる。テノール以外には通じない、植物の言葉。葉に手を添え、目を瞑る。

「……そうだな。どうにかしてやりたい」

 空を仰ぎ、暮れ始めた日に目を細める。橙色が白い肌を染めていく。

 テノールは思う。

 人間は本当に愚かで、

 愛おしい。

 と。


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