第二章
†2
懐かしい歌が聞こえる。
母の子守唄だ。幼い時に死に別れてしまったが、今でもその掌のぬくもりと、柔らかな歌声はかすかに記憶に残っている。甘い余韻に包まれて、ジゼルは誰かの膝の上で微睡んでいる。
「ねえ、じいちゃん。もりのおはなし、もっときかせて」
寝物語に聞いた祖父の話。作り話にしてはお粗末で、本当の話にしてはできすぎていた、森の「小夜啼鳥」の話。御伽噺の延長線。
「続きはジゼルが大きくなって、偉い学者さんになってからだな」
祖父の言葉にぷぅ、と頬を膨らませる。母が笑う声がする。
ジゼルがどんなに聞いても、祖父は詳しい話を語ってはくれなかった。いつも終わりは決まっている。「ジゼルが大きくなって、偉い学者さんになってから」。
――ねえ、じいちゃん。私、学者さんになったんだよ?
ジゼルが学院入学が決まったその日に、祖父は他界した。父も母もなかったジゼルは、本当に天涯孤独になってしまった。悲しくて悲しくて、何日も何時間でも泣き続けていた。祖父を知る学院の教官達が不憫がって何かと気にかけてくれていたのを思い出した。
「ジゼルはいいよね。お祖父さんが有名だから」
突如、ジゼルの前に一人の女性が現れた。
「だから試験、合格したんでしょ?」
震える唇から発せられるのは、恨み言。
――違う……違うよ。そうじゃないんだよ!
反論しようにも、なぜかジゼルの声が出ない。喉が張り付いたように痛み、ジゼルの声はただの空気の摩擦に変わる。
「じゃなきゃアンタみたいなとろい子が研究所には入れるわけないじゃない」
涙を流し、あらん限りの恨み辛みをぶつけられる。
彼女以外の声もする。
――このコネ野郎!
――卑怯者。そこまでして研究者になりたいか。
――ベレッタの名がなきゃお前はただのクズだ。
学院時代にぶつけられたありとあらゆる罵詈雑言がジゼルを取り囲む。
頭の上から何かが降ってくる。
破れた教科書、割れた眼鏡、隠されたピペット、砕けたシャーレ……。
四方を取り囲まれ、責め立てられ、ジゼルは思わず耳を塞ぎ、蹲った。
――そんなことない!私だって頑張ったんだもん!
騒がしい罵声の中、彼女の声だけがジゼルに届いた。
「コネで入るなんて最低!アンタなんて友達でもなんでもない!」
――待って!待ってアマーリエ!私、そんなんじゃない……!
ほっぺたちぎれる!
そう思って飛び起きた。
「うなされてたみたいだけど、大丈夫ー?」
「エルシーしぇんふぁい……?」
どうやらこのけしからん先輩がジゼルのほっぺたを渾身の力でつねりあげたようだ。うなされていたのならもう少し起こし方というものがあるのではないか、と言おうと思ったが止めた。
寝惚け眼でもエルシー・イリルッシが果てしなく巨乳の美人だと言うことが分かる。ジゼル・ベレッタ、永遠の憧れの存在だ。
「先輩、今日も超絶美人です」
「あら、ありがとう」
西部出身者特有の朝日に輝く蜂蜜色のロングヘアーも、ブラウスのボタンが今にもはじけ飛びそうな胸も、少し垂れ気味の優しそうな瞳も、ふっくりした下唇も、すらりと伸びた四肢も、すべてジゼルにはないものだ。そう言えば昨日出会った「小夜啼鳥」のテノールも、女のジゼルよりもずっと美しかったことを思い出した。……そして地味に凹んだ。
「それよりもどうだったー?森の方は」
「そう!それです!先輩、どうして教えてくれなかったんですか?」
「何を?」
「『小夜啼鳥』が男だってことですっ!私、えらい恥かきましたよぉ……」
「……言ってなかったっけー?」
「言ってませんでした!」
「でも確かいい子よ?東の森の『小夜啼鳥』は」
いい子?このコーヒーを淹れている先輩は一体何を根拠に彼をいい子と言っているのだろう。少なくとも昨日の態度はいい子と言うよりは粗野な少年のように思えた。
「ねぇ、先輩もそう思うでしょー?」
いつの間にか出勤していた大きな熊のような研究員、サーシャ・キリアノワにエルシーは振った。
「俺は東の森には行ったことないぞ。俺、北部出身だから」
サーシャは薬品で指紋の削れた大きな手でジゼルの頭をわしゃわしゃとなでた。子供扱いされるのは嫌いだが、サーシャのその手は嫌いではなかった。
「てかエルシー、お前ジゼルに何も教えずに森にやったのか?」
「そんなわけないですよー。誓約書も書いてもらったしー、あ、大事なこともちゃあんと教えたわ。『夜の森には近づくな』って!」
「……それだけ……か?」
人の良さそうな緑色の目がエルシーからジゼルに向けられる。ああ、否定して欲しいんだな……。そんな目をしている。
「……それだけです」
けれども事実は事実だ。森での検体採取は重要な新人の仕事なのだが、それにはまず先輩の手ほどきというものがある。いわゆる研修だ。そこで必要な知識や手順を詰め込むわけだが、ジゼルの麗しの先輩・エルシーはほとんど何も教えてはくれなかった。ジゼルの検体採取の腕が良かったのもあるが、エルシーがめんどくさがったということが諸悪の根源である。
唯一ジゼルが教わったのが、テノールにも忠告された『夜の森には近づくな』であった。それを聞いたサーシャは何やら唸りながら天を仰いだ。
「あー……非常に申し上げにくいが……ジゼル、今から補習な」
「はい……むしろそうしていただけるとありがたいです、ハイ……」
はぁぁぁぁ、と盛大な溜息をつく二人。迷惑を振りまく災厄の種は素知らぬ顔でコーヒーのおかわりを注いでいた。
「いいかぁ?『小夜啼鳥』は東西南北の四つの主要森林に一羽ずついる、ということは子供でも知ってるな?」
大きな実験用机に小さなジゼル一人。しかも教師役は大柄のサーシャという何だか妙な組み合わせだが仕方がない。指導係のエルシーはすでに一人ブレイク・タイムを決め込んでいるのだから。
「北にソプラノ、南にバス。西のアルトに東のテノール。この四羽によって世界樹は枯れずに今もこの世界を支えていられる、というわけだ。ここまでいいか?」
「はい、サーシャ先輩。……つまり、『混声四部合唱』なんですね?」
「その通り。混声四部合唱は和声の規準だ。おそらく極めて安定した和音が創り出されるため、『小夜啼鳥』もその規準に則っているのだと推測されている」
エルシーがめんどくさがって言わなかったことをジゼルは一言一句漏らさず聞く。
「小夜啼鳥」に関する知識というものは、一般人と専門家とでは雲泥の差がある。ジゼルの知識は一般人に毛の生えた程度で、今サーシャが教えていることは専門家、つまりは学者達のみが知りうる事なのだ。
閉鎖的な森の知識は一般には流れない。もちろん、学院生にもだ。
「小夜啼鳥」の知識は、今ジゼルがサーシャから受けているように、完全口伝の方法でその閉鎖性を保ち続けている。
個人がノートに書き記すことすら許されない、絶対他言無用が原則である。
学院生も、研究員も、「小夜啼鳥」の情報を外部に出さない、という誓約書を書き、それを忠実に守っているのだ。そのため、誰もが知っていることというものは曖昧模糊として判然としないものが多い。
「そして彼らは月が中天を指す時に揃って歌う。それ以外の昼間も彼らは一羽ずつ森で歌っているんだ。昨日ジゼルが聞いた昼の歌と、いつもの夜の歌はそれぞれ音も歌詞も違うらしい。なぜだか分かるか?」
「え……と、おそらく効力が違うんじゃないですか?夜は世界樹のために歌うんでしたよね?だから……昼はそれぞれの森の植物に歌う……じゃ……ないですか?」
「ハラショー!ジゼル、ご名答よ!」
いつ加わっていたのだ。回転椅子でくるくる回りながらエルシーが拍手をした。
「……ごほん。……あー、もうちょっと詳しく言うとだな、夜の歌はお前が答えたとおり世界樹のためだけの歌だ。だからこっちは特別なんだな。昼は、世界樹と同じように、各森で弱っている植物のために歌われる。もしも昼に夜の歌を歌ったらどうなると思う?」
どうなる、と言われても困る。
どうなるのだろう。
「効力が違う」ということが手がかりになりそうだが、ジゼルには思いつかなかった。
「えぇ……と……?」
「……ギブ?」
回転椅子で背後に逼ってきたエルシーが意地悪そうに耳元で囁く。どうにもこうにも考えのでないジゼルは降伏するしかなかった。
「うぅぅぅ……ギブです……」
「答えは、『森が枯れる』だ」
「え?『小夜啼鳥』の歌で森が枯れるんですか!?」
そんなことがあるのだろうか。「小夜啼鳥」の歌は森を甦らせるための特別な歌だ。それがなぜ森を枯らすのだ?
「ジゼル、なぜ『小夜啼鳥』の歌が森を生き返らせるのか、これは学院時代に習ったはずだな?」
「はい。『小夜啼鳥』の声が特別だからです。普通の人間がどんなに努力して歌おうとも決して出ない波長を『小夜啼鳥』の歌は出しています。音響学者のフィデリオ・バイルシュミット博士によって、その波長が観測されました。『小夜啼鳥』が発する波長が植物の波長と作用し合うことによって活性化が促され、繁殖力を高めています。その波長をフィロメーラ波、つまり前時代言語で『小夜啼鳥』というんだと音響学で習いました」
まるで教科書を暗記しているかのような模範的すぎる解答。
それもそのはずで、ジゼルは幼少期の絵本から最新の論文まで、自分が目を通した本のすべてを暗記しているのだから。それは彼女の得意とする所であり、唯一の取り柄のようなものであった。
ひゅー、とエルシーが感嘆の口笛を吹いた。流石のサーシャもジゼルのこの特技には目を丸くした。
「すごいな、ジゼル。良く覚えている」
くしゃくしゃと頭をかき混ぜられ、何だか背中がむずがゆかった。
「暗記力は大したものだが、そこから答えを導き出すことを練習しような」
「……はぁい」
的確な指導だった。
「まぁ、今回はいいよ。一緒に考えていこうな」
そう言ってサーシャは再びジゼルの前に立ち、教師役に戻った。ジゼルの胸の中にはチリチリと何かが燻っているような、そういう感触が残っていた。
「確かに『小夜啼鳥』の声には特別な波長がある。しかしこれは薬のようなものなんだ」
「くすり……ですか?」
「薬は確かに効果がある。けど、強すぎる薬は毒にしかならないんだ。どんなに良く効く薬でも、大人用の薬は絶対に子どもに服用させちゃいけないだろ?それと同じなんだ」
「つまり、夜の歌は大人用の薬で、昼の歌は子供用の薬なんですね?」
世界樹は大人、その他の植物は子供。
「ま、だいたいそういうことだ。だから『小夜啼鳥』は歌い分ける」
「先輩、質問です。『小夜啼鳥』は一体何語で歌ってるんですか?私、この前昼の歌を聴いたんですけど、意味が分からなくって……」
「いい質問だな」
しかしエルシーはそんなことも教えなかったのか……、とサーシャは頭を抱えてしまった。基本的で基礎的なことだが、それを教え込むのが研修である。めんどくさがりのエルシーとお節介な自分の性分をここぞとばかりに恨んだ。
「まず最初に押さえなければいけないのは、『小夜啼鳥』が人間ではない、という事実だな」
「人間では……ない?」
「そう。『小夜啼鳥』は人間と木霊のハーフ、だと思ってくれればいい。彼らは人間には見えない木霊を見ることができ、言葉を交わすことができる。『小夜啼鳥』の歌の言葉は木霊の言葉なんだ。だから俺たち人間には理解できない」
「木霊と言葉が交わせるなんてすごいですね」
「ただ、不都合なこともある」
「不都合?」
「彼らは人間と木霊のハーフだって言っただろ?」
「はい」
「木霊は森の中でしか生きられない。『小夜啼鳥』も、それは同じなんだ」
「え……?」
人間は森では生きていけない。重く立ちこめる緑の匂いは、乾いた土地に順応してきた人間にとってあまり良い影響を与えない。そのため、検体採取や森林調査などは絶対に日にちをおいて行われる。ジゼルが三日に一度しか検体採取に行かないことにはそのような理由があった。しかし、「小夜啼鳥」はその一生を森の中で過ごす。それが可能なのは、彼らが「人間」ではないからなのだ。
ジゼルは想像した。
もしも、絶対にないことだが、自分が「小夜啼鳥」だったらどうだろうか。
緑に囲まれ、花と戯れ、鳥と歌う。それはとても夢のような光景だが、果たしてそれで満たされるのだろうか。
今、ジゼルは良き先輩、良き上司に恵まれ、多くを学び、話し、笑う。
しかし、テノールや他の会ったことのない「小夜啼鳥」たちは……?
誰かと言葉を交わすことはあるのだろうか。
植物と、ではなく、血の通った人間と……。
それがなければ、いくら木霊と話ができるとはいえ
「寂しくは……ないのでしょうか……?」
眼鏡の奥の瞳がゆれる。そして昨日出会ったテノールを想う。
白緑色の髪も、硝子のような瞳も、すべてが美しいのにどこか儚く見えたのは、彼が纏う孤独の膜があったからなのだろうか。その孤独を想像すると、なぜか横隔膜がひりつく様に痛んだ。。
「だから、俺たちが行くんだ」
俯くジゼルの目の前に、優しげな色を瞳に浮かべたサーシャがいた。大きな体を、座ったジゼルと目線が合うようにとかがめる。白い肌、ごく薄い金髪、灰色の瞳。ごつごつとした掌が、ジゼルの頭を撫でる。
「検体採取とか森林調査とかいう建前を利用して、俺たちは『小夜啼鳥』が人を忘れないよう会いに行くんだ。彼らと話して、時にはケンカなんかして、最後には笑わせたりもする。『小夜啼鳥』が寂しくならないようにするのも、俺たち研究員の大事な仕事なんだ……と、これはしゃべりすぎだな。今の、ちょっと忘れろ」
取り繕ってはいるものの、どこか懐かしむように話すサーシャにジゼルは違和感を覚えた。
「サーシャ先輩は……そういう経験したんですか?」
「……そうだな。遠い昔のことだよ」
そういって彼はジゼルの頭を三回優しく叩いた。
「研修はお終い。通常業務に当たるように」
サーシャは多くを語らない。白衣の背中がなぜか遠くに感じられた。
ジゼルと同じように、サーシャも何年か前は新人研究員だった。その時に森で何かがあったのかも知れない。
あれこれと考えているうちに、コーヒータイムを決め込んでいたはずのエルシーですら顕微鏡を覗いていた。わたわたと道具を準備し、ジゼルも昨日採取してきた検体の表皮細胞を剥がす作業に取りかかった。
テノールは歌う。
今日も楓の木の上で。
テノールは歌う。
森を歩きながら。
テノールは歌う。
湖畔でくつろぐ渡り鳥のために。
テノールは歌う。
枯れかけたヤマユリのために。
テノールは歌う。
会ったこともない他の「小夜啼鳥」に向けて。
テノールは歌う。
自らの孤独を戒めるために。