第十三章
国へ提出する資料が完成し、伐採申請が通るまで五日かかった。それからは早いもので、雨季晴れ宣言が天候部から出される頃には中央政府からの使者を迎え、伐採の段取りを決めていた。
そして今日。
森の入口付近にはネイサン、サーシャ、エルシー、そしてジゼルの四人。政府から派遣されてきた自然局森林管理課の役人二人と、そしてソマと呼ばれる伐採専門職員五人がいた。ネイサンはいつもの無精ヒゲを剃り、ぼさぼさの髪もセットし、こざっぱりとした格好をしている。いかにも「室長」の名にふさわしい、固い格好だ。研究員の白衣と違い、黒いマントを羽織った彼らの雰囲気はどことなく重く、これからやることの重責をジゼルに感じさせた。
「それではベレッタ研究員を先頭に」
「はい」
ジゼル以外は蔦の薬を打っていない上に森の地理には明るくない。森の現状を知るジゼルがM5まで案内せねばならない。ぞろぞろと後ろに大群を引き連れて森を行く。それがどうにも落ち着かない。ソマ達が持つ大きな斧や楔、腰にぶら下げた油の瓶が陰気な音を立てて揺れる。これから死刑執行をしに行くかのような心持ちがジゼルの顔を下へ下へと引き下げていく。
楓の群生は入口からさほど離れてはいない。数分歩いた頃、聞き慣れた声が降ってきた。
「今日は随分と大所帯だな、ジゼル・ベレッタ」
不遜な物言い。上からの声。間違いない。テノールだ。
「しかも妙なヤツらも連れて……。一体何なんだ?その黒服は」
テノールは一本の楓から飛び降り、役人二人を睨め付けた。
「東の森の『小夜啼鳥』だな?」
「我々は中央政府自然局のものだ」
「チューオーセーフ?」
「検体番号M5が未知の病に感染しているとの調査結果により、M5を伐採する」
「伐採?何を言ってるんだこの唐変木は?ここは、世界を支える世界樹の、その枝葉の森だぞ?ここの木々の一本一本が世界を支える柱だというのに、それを自ら手折るのか?馬鹿馬鹿しい!ジゼル!コイツらを連れて帰れ!病気だ?ふざけんな!この森の木の声も聞けない人間に何が分かる!?病気に罹っていたら俺が気づかないわけがない!」
「テノール!」
敵意をむきだしにするテノールに、ジゼルは一喝した。
「そんなこと……そんなこと分かってます!でも、でも!……M5は、病気なんです。それも、もう……治らない……」
テノールの目を、まともに見られない。
きっとあの碧い瞳は私を訝しんでいる。
信じたくないと、揺れている。
ジゼルは顔を伏せたまま、あげることができなかった。
「……嘘だろ?」
テノールのたおやかな手がジゼルの肩を掴む。
「嘘だろう?なあ、嘘だろ、ジゼル・ベレッタ!病気を治す手立てを考えるのがお前達の仕事だと、そう思っていたのに……治らない?治らないのか?だいたいM5って何だ?そんな木、この森にはないんじゃないのか?なあ、ジゼル……。嘘だろう?」
下から顔を覗き込まれる。ひどく歪んでも尚、美しいテノールの顔。しかしその瞳にはあらん限りの苦痛と、縋るような祈りが満ちあふれていた。
そんな目をしたテノールに、ジゼルが告げるのは残酷な真実。
喩えそれがテノールをどれほど傷つけようとも、それをテノールに告げることが、今のジゼルの仕事なのだ。ジゼルはそっと指さした。
「あの木です。検体番号M5は、今の今までテノールが上にいた、あの木です……」
テノールの顔から祈りが消えた。
「……あ、」
ふらりと立ち上がり、テノールは覚束ない足取りでM5へ向かう。
まだ時期でもないのに紅葉したその楓。
その幹に手を置き、
「嘘だろう?」
繰り返す。
「嘘だろ、お前が病気なんて……。う、嘘だって言ってくれ……!嘘だって言え!マクシミリアン!」
何かがはじけた。
ジゼルの頭の中で、映像が奔流となって渦を巻く。
マクシミリアン……木……――人と木、鹿の嘶き、生温かい血――、雨の音、叫び声、蔦・蔓・木の根……闇、闇、花の香り、闇、闇、闇闇根闇闇闇闇闇香闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇蔦闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇根闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇蔦闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇蔓闇闇闇闇闇香闇闇闇闇闇闇香闇闇闇闇蔓闇闇闇闇闇闇――……
――助けてくれ!
「ああああああああああああああああああああああああああっ!」
「ジゼル!?」
「どうしたんだ!?」
叫びを上げてジゼルは地面に膝をついた。
――夢じゃなかった……。
ジゼルの頭の中で流れたものは、確かにこの森で起こったこと。
森の掟を破った者の末路。
鹿を殺したヘルマン。
帰ってこなかったマクシミリアン。
全てが繋がった。
エルシーとサーシャに支えられながら、ジゼルは立った。楓に額をくっつけたまま動かないテノールのもとへ、ふらつきながらも一人で歩いた。そしてテノールの手に手を重ね、囁いた。
「ここにいたんですね、マクシミリアンは」
テノールがいつも登っていた楓の木。それこそがマクシミリアンだったもの。
「テノールは、いつもこの木の上で歌っていたのは、そういうことだったんだ……」
アーネストの日記で見た、若かりし頃のブッフォン調査団の写真。あの写真に写っていたマクシミリアンの瞳と同じ、赤銅色の葉の楓。
ジゼルはなぜマクシミリアンが森の裁きを受けたのか、知らない。きっとこの間のできごとの中に答えはあったのかも知れないだろうが、そこまでは思い出せなかった。
ただ、この木こそがテノールの歌に含まれた、一匙の悲しみの素だということだけは、何となく察しがついた。
「俺がいけないんだ」
テノールは言った。
「俺がマクシミリアンを楓にしてしまった……。だから俺はマクシミリアンのために歌うことが必要だった。それが俺の、……贖罪だから」
閉じたテノールの瞳から涙がこぼれ落ちた。一粒、また一粒と楓の根に落ち、玉を結ぶ。
御伽噺のように、テノールの涙で楓はマクシミリアンに戻ることはない。それでも涙ははらはらとこぼれ落ち、染みわたっていく。
「何があっても毎日俺はマクシミリアンの所に行った。鹿の子が生まれようとも、百合姫の機嫌を損ねようとも、俺はマクシミリアンのためだけに歌う時間を毎日……まいにち……。なのにマクシミリアンは教えてはくれなかった……。病に冒されているなんて……」
「……他の木や草花は教えてくれるんですか?」
テノールは黙って頷いた。
「マクシミリアンは……俺のことを責めてるんだ……。あの日、一緒に行っていれば……こんなことにはならなかったのに……!」
そう言って泣き崩れるテノールのか細い手をジゼルは握った。小さなジゼルの手には余る大きさの、柔らかな手。しっかりと両手で握り、ジゼルは言った。
「マクシミリアンは、テノールを責めてなんかいません」
涙に濡れる碧い瞳がジゼルを見つめる。幼い子供のようなあどけなさ。何を言っているのか分からないと言ったように、テノールはジゼルをただただ見つめた。
「どんな事情があったか知らないけれど、マクシミリアンが病気を教えなかったのは、もうあなたを解放してあげなきゃって、そう思ったからですよ。もう自分のことで苦しまないでほしいって、悲しい歌を歌わないでって、そう思ったから、言わなかったんですよ」
そう言って笑ったジゼルの顔は、どこか困ったような、それでいて限りなく優しい。テノールは自分がブナの木に包まれている時と同じ安堵感を覚えた。
「……そうなのか?マクシミリアン……」
テノールとマクシミリアンとの会話を、ジゼルは聞くことができない。たださわ、さわ、と赤銅色の葉が風に揺れるだけだった。楓の前に膝をつくテノールに、ジゼルはそっと手を触れた。
「ね、テノール」
そして抱き締めた。
「マクシミリアンを、眠らせてあげましょう?」
小鳥を手のひらに乗せるように、柔らかく。
「もう自分を、許してあげましょう?」
「っ……、ぁぁ……っ、あ、あああぁぁぁぁぁ…………」
テノールは泣き叫んだ。
こんなにも叫ぶのは初めてだった。
喉が痛い。つぶれそうだ。それでもテノールは叫ばずにはいられなかった。
テノールもジゼルを抱き締めた。否、縋り付いたと言うべきか。母親を見つけた迷子のように、テノールはジゼルにしがみつき。ジゼルはただ黙ってテノールの背や頭を撫でた。
それは誰も侵すことのできない、一種の神聖さすら漂わせる光景。
誰かに縋って泣くなど、テノールにはない経験だった。ジゼルの体温が、マクシミリアンとテノールの鎖を解かしている気がした。赦された気がした。テノールは流れるがままに涙を流す。心の底から叫ぶ。感情のままに。決壊したテノールの感情は声となり、涙となって、森に還る。泣き叫ぶテノールを、森はただじっと黙って見守るだけだった。
「では伐採を始める」
漸くテノールが落ちついたところで、ソマ達は手早く伐採の準備をした。M5、かつてはマクシミリアンと呼ばれた優秀な学者だった木の四方に支柱を立て、シートで覆い、杭を打つ。役人が合図をすると、ソマ達は楓を登った。二人が上から枝を切り、下の三人がそれを地に落とす。
切る。落とす。切る。落とす。切る。落とす。切る。落とす。
リズミカルに、手早く進められる作業が他人事のようだった。テノールを見つめ、多くを語ってきた瞳と同じ色の葉は、次々と地面に散り、幹から離れていく。一枚、また一枚と切られる前から落ちるその葉を、テノールは愛しげに手に乗せる。肩にはテノールを慰めるかのように小鳥が止まり、足元には野ウサギや野ネズミがひくひくと鼻を動かしながらテノールを囲んでいた。
いたたまれない。真っ赤に目を腫らしたテノールが、黙っているのがジゼルには辛い。時折すんすんと鼻をすすりながら、テノールは黙って楓が切られるのを見ていた。
全ての枝が落ち、ついに幹に鋸が入る。
「テノール。今後の研究のためにM5を森から持ち出したいんだけど、駄目かな?」
ネイサンが尋ねた。彼は決して深く事情を聞かず、ただ黙って急ぐ役人を止めていてくれた。
「……ダメだ。これは囚人の木だから。検体以上に森から出すことは王の怒りを買う」
「そうか……」
ネイサンは悲しげに顔を伏せた。眼鏡の奥の瞳が何を思っているのか分からないが、この伐採にあまりいい気はしていないということだけは分かる。
「枝の一振りも、葉の一枚も外に出せない。だからここで燃やせ」
普通、伐採された木は研究所の検体となり、それ以外の部分は焼却される規則だ。しかしマクシミリアンであったこの楓は、森に出せないという。
テノールには見届ける義務がある。マクシミリアンの最期を。この森の未来を。
だからこそ、「王」は小鳥の口を借りてテノールに伝えたのだ。マクシミリアンをここで燃やせ、と。
――これが俺への、最後の罰だ……。
テノールはきつく拳を握り、徐々に短く、低くなる楓の木を真っ直ぐに見つめた。
ついに楓は覆いのシートよりも低くなり、地は切られた枝と幹で一杯になった。ソマ達は無言で作業を続ける。
切った枝と幹を全てシートの中に収め、油をかけた。そして四方の支柱を上に伸ばした。ソマ達は器用に隣の木を利用して支柱にシートを張る。あっという間に周りの木よりも高い覆いができてしまった。ソマ達は覆いから出ると出入り口の役目を果たしていたシートのスリットの大部分を塞ぎ、その下も杭で打ちつける。カーン、カーン、と森に響いたことのない金属音が響く。葬送の鐘の音のように響くそれは、鹿を怯えさせ、テノールの足元にいたウサギも逃げ出した。
「これから火を放ちます。お下がりくだされ」
一番年嵩のソマが研究員達と役人を下がらせる。
「おい、他の木や草には燃え移らないのか?」
「ご安心を。美しき『小夜啼鳥』。この覆いは特殊なものですので燃えませぬ。煙も全て上へ上ります故、燃え移ることはござらん」
そしてそのソマが合図を送る。配下のソマ達が残しておいたスリット部分から火を投げ入れた。
すぐに熱気が辺りに満ちた。テノールの側に侍っていた動物たちも逃げ帰った。巻き上がる熱風、登りゆく煙に誰もが言葉を失った。
ぱち、ぱちぱち、弾ける音がする。
木が燃える、燻り臭さが森に漂う。
サーシャが振り返った。続いてエルシーも、ネイサンも、役人ですら振り返った。
一団の一番後ろで見ていたテノールが、歌う。
燃えさかる炎を前に、テノールは歌う。煙も、灰も、火の粉も、全てがテノールの歌に合わせているかのように舞い上がる。
「宵の湖……」
いつも歌う、木霊の言葉ではない。それは「宵の湖」。かつてマクシミリアンがテノールに教えた、唯一の歌。
森の異常にどよめく動物たちすら鳴くのを止め、聞き惚れる。とてもさっきまで泣きじゃくっていたとは思えないほどの澄んだ歌声。楓林を揺らす、圧倒的な声量。テノールの声は柔らかく風に漂い、煙と共に登っていく。
「今度こそ、ちゃんと言うよ」
かすかに微笑むテノールの頬に、一筋の涙が流れた。
「ありがとう。そしてさよなら。マクシミリアン」
楓はすでに灰となり、跡形もなくなっていた。一陣の風が灰を巻き上げ、マクシミリアンは森を出た。
ソマ達が後片付けを終えれば、もう森に用は残っていない。二人組の役人が書類を書き上げ、居住まいを正す。
「伐採、恙なく終了しました。それでは帰りましょう、リントン室長」
「ああ、その前に少しだけ時間を」
ネイサンは後片付けを手伝っていたジゼルを呼んだ。
「さ、ちゃんとお別れしておいで。もう森には来られないんだから」
「……はい」
ジゼルはぺこりと頭を下げ、森を走った。
全ての作業が終わると、テノールはどこかへ行ってしまった。テノールの態度が気にくわなかったのか、役人達が眉をひそめたが、ジゼルはテノールの心中を察した。
愛しい人に火を放つよう指示したのは、テノール。
それを最期まで見届けるのが、どれほどまで彼を苦しめただろう。一刻も早くそんな場所から立ち去りたいのは当たり前だ。
そしてジゼルは走った。
行く場所は分かっている。なぜだか分からないが、分かっている。
昼の森は明るく、光と活力に溢れている。夜の森とは全く別の顔だ。ジゼルはこなれた道を走る。時折出しゃばる木の根を軽く飛び越えて、ぬかるんだ土を避け、大きな木々の間を渡り、そして開けた場所に出た。
背の低い草に覆われた平野。何かの罠のように並ぶ遺跡。
その中心にある大きな岩の上にテノールはいた。
「……終わったのか、ジゼル・ベレッタ」
「ええ。終わりましたよ。全部」
「そうか」
テノールの顔は見えない。わずかに三日月の横顔が見えるくらいだ。
「ここでマクシミリアンとよく話をしていた」
岩の上で立て膝をして座るテノール。
「お前ともここで地図や写真を広げて見たな」
「……はい」
「もう……来られないんだろう?」
「……、はい」
「そうか……。三月は早いな」
「雨季のせいであっという間でした」
「本当だ。あともう片手の指くらいは会えると思っていたのにな」
乾いた笑い。
こんなことなら街のことをもっとたくさんテノールに話したかった。黒星の写真も見せたかった。テノールの歌を、話を、もっと聞きたかった。どうしようもない後悔が涙と共に溢れる。
「……そんなに泣いてくれるな、ジゼル・ベレッタ」
いつの間にかテノールが目の前に下りてきていた。両手でジゼルの顔を挟み、親指で涙を拭ってくれる。
「この森に来たての時もお前は泣いていた」
「わ、すれてくださいよ……そんなこと」
少しだけジゼルはむくれてみせる。
「笑ってくれ、ジゼル。そしてちゃんと俺に言ってくれ」
普段の不遜な笑顔とは違う。羽毛のように柔らかくて温かい、笑顔。
その笑顔は今まで見てきたテノールの表情の中で一番美しかった。
ジゼルは乱暴に白衣の袖で涙を拭い、笑った。
「さよならです、テノール。そしてありがとうございました」
「別れに涙はつきものだが、笑顔の飾りなら悪くない」
テノールは、に、と笑い、ジゼルに言った。
「さよならだ、ジゼル・ベレッタ。お前の言う人と森が共に暮らせる日を、俺はいついつまでも待っている」
突風が押し寄せた。
ごぉぉぉぉおおおおお、と音を立て、草を巻き上げながら。
思わず目を瞑ったジゼルが再び目を開けると、テノールの姿はなかった。
今までのことがまるですべて夢だったかのように。
御伽噺でありがちな、ステレオタイプな展開に、ジゼルは思わず笑ってしまった。
これがテノールなりの演出なのだろう。
風に乾かされた涙の跡を拭い、ジゼルは遺跡を後にした。ジゼルは今日、森から街へと戻る。緑に覆われた夢のような空間から、乾いた砂の現実へ。
それもいい。
ジゼルは来た道をまた走っていった。
テノールは暗い方へと向かっていた。遺跡からほど遠くない、鬱蒼と茂る木々の群れの中。昼間にもかかわらず差し込む光は鈍く、わずかに足元に光の孔を穿つだけ。森の他の場所とは違う、どこか陰湿で、寒気すらするような、暗い、暗い場所。
狼たちの群れが支配するそこは、妙に重苦しい空気が漂っていた。
「エミリア・ハーバー」
テノールは名を呼ぶ。
「ジョセフ・リー、ニコライ・ブレジネフ、トマス・リンドバーグ」
そして一本の木に触れる。
「ヘルマン・ソリス」
そこにあるのは全て楡の木。何かを嘆くかのように虚が空いた、楡の木ばかりが立ち並ぶ。
「ここは東の森の囚人林。お前達はここで罪を償うためにいる」
まだ若い楡の木に触れながらテノールは続ける。
「汚れは濯がなければならないのと同じように、罪は償わなければならない。命を奪った罪は、その命をもって贖うんだ」
五本に分かれた枝に、銀の何かが引っかかっているのを見つけた。テノールは枝を手折らぬようそっとそれを外した。
それは小さなロケット。中には栗色の髪をしたよく似た兄妹の写真が入っていた。少し垂れ目の、巻き髪の少女。優しく笑うその写真を、テノールは静かにその木の枝に戻した。
陰気な風が林を吹き抜けた。虚に通る風が、呻き声のような、悲鳴のような音を立てる。
「……寂しいのか?苦しいのか?」
――ずるい……
――あいつだけ死ねた……
――私達は出られないのに……
――ずるい……ずるいぃぃぃぃ……
嘆く楡の木にテノールは下を向いたまま、顔が上げられない。訴え悲しむ楡の木に、狼たちが低く唸り声を上げ、
「二の罪を犯したお前達が、出られるわけがないだろう?」
生臭い息を吐きながら嘲笑する。
一の罪は夜のもりに入ること、二の罪は森のものを殺すこと、そして三の罪は、「小夜啼鳥」を森から出すこと。
「あの楓の木は三の罪の虜囚。お前達とは違う」
二の罪を犯した囚人林の楡達は、その命で奪った命を、戻らない命を償う。それが彼らに科せられた、罰。狼たちはなおも告げる。
「お前達の罰は、ここで永遠に罪を償うこと。そして、歌を奪われることだ」
「囚人林に歌は届かない」
「『小夜啼鳥』はお前達のために歌う歌を持っていない」
「永久の咎人たちに、永久の苦しみと嘆きを。それがこの世界の王が定めた法だ」
――いやだ……苦しい……たすけてくれぇぇぇぇ
――歌ってくれないのか?あいつには歌ったのに……
――死なせてくれ……せめて切り倒してくれぇぇぇぇ……
「憐れな罪人達。嘆くことはない」
テノールは激しく嘆く楡に手を触れた。
「歌うことはできないが、俺は毎日ここでお前達の嘆きを聞くくらいできるぞ?永久に続く苦しみを、永久に俺と分かち合え」
そう言い残し、テノールは再び明るい方へと歩き出した。狼の唸り声響く生臭い林から、小鳥の鳴く、緑の匂い薫る森へ。囚人林は再び狼と陰気な風と底冷えのする嘆きに支配された。
「では今日のことは一切他言無用、論文への掲載もご遠慮ください」
四角四面な台詞を残して役人達は中央へと帰っていった。森と街の中間地点にある平野。病理学研究室の面々だけがぽつんと残されてしまった。
「……じゃ、僕らも帰ろっかね」
ネイサンが手を叩いて促した。ぐしぐしと鼻をすすっていたジゼルにハンカチを出しながら。
「テノールとはちゃんと別れられたのか?」
「……はい。バッチリですよ……」
サーシャが大きな手でまたジゼルの頭をかき混ぜた。
「ジゼルはどこかの誰かさんみたいにいつまでも引きずりませんよー」
「その辺で転べ、そして鼻血を出せエルシー」
「そぉっちが転べばいいですよーだ!そんでたんこぶ作れ」
ジゼルの頭の上でサーシャとエルシーが言い合いを始めてしまった。とりあえず、今はジゼルが転びそうだ。
「とっころでジゼルちゃん?」
陽気に歩いていたネイサンが振り返った。
「キミ、もしかしてM5の病気の原因、気づいてる?」
「え?」
「嘘!?」
「マジかよ……」
にこにこと笑いながらネイサンはじっと答えを待っている。
「サーシャ君もエルシーちゃんも分かってないみたいだけど、ジゼルちゃんは分かったんだよね?」
更にネイサンはジゼルに迫ってきた。なぜか笑顔が怖い。
「実はさー、僕もわっかんないんだけど、ヒントくらいは掴んでるんだよねー。それを是非!ジゼルちゃんに確かめてもらいたいっていうか……うん、はっきり言おう。教えてください!」
誰かに頭を下げられたことなど初めてのことだった。しかもジゼルが師事するネイサンに。
「あー!室長ずるーい!私も知りたいー!」
「お、俺も知りたい!ジゼル、頼む!教えてくれ!」
加えてエルシーもサーシャまでもが頭を下げてくる。
「そそそそ、そんなわわわ、私そんな大層なことは……」
「いいから教えてよー!」
あわあわ戸惑ってしまったが、これ以上ネイサン達の頭を下にしておく訳にもいかない。ジゼルはとうとう諦め、自分の中に収めておこうと思っていた「答え」を話すことにした。
「……あの病気の原因は、多分二つ、あります」
とりあえずジゼル達は研究所に戻り、話すことにした。街中や平野ではいつ、誰が聞いているかも分からない。その点研究室ならば「会議中」の札さえかけておけば何の心配もない。安いコーヒーを飲みながら、ジゼルは推測に過ぎない、しかしおそらく正解に近い原因を話し続けた。
「一つは、M5が『囚人の木』と呼ばれる特殊な木だったことです」
「……どういうことだ?」
「M5の細胞写真、覚えてますか?」
「アレは忘れられないわー。詰めすぎたグミみたいになってた細胞……」
「もしかして、『囚人の木』にされた人が、癌に冒されたって言うのか……!?」
サーシャの問いかけに、ジゼルは黙って頷いた。
「でもあれは正確に言うと癌じゃないです。そうですよね?室長」
上目遣いで尋ねるジゼルに、ネイサンは笑顔を浮かべた。
「その通り。あの増殖具合は癌だと言ってもいいだろうけど、癌細胞ならあんな細胞壁の溶解は起きないだろうね」
ご褒美といわんばかりにネイサンはデスクからキャンディを取り出しジゼルに投げた。
「もとは癌細胞だったかも知れないですけど、ある一つのファクターがそれを変えてしまった」
しん、とした沈黙が耳に痛い。それでもジゼルは続けなければならない。一度出したものは引っ込めることはできないのだから。
こく、と唾を飲み込み、ジゼルは三人を見据えた。
「テノールの歌です」
「待て、ジゼル。『小夜啼鳥』の歌が、楓を蝕むような病気の原因になるわけ……」
「あるんです」
サーシャの言葉を強く遮り、ジゼルは続けた。
「テノールは言いました。毎日楓のために歌っていたと。それがいけなかったんです」
「でも毎日歌うことは『小夜啼鳥』の仕事よー?」
「もちろんです!けど、それは森のものだけに対してのことです」
「……そうか!そういうことか!」
半信半疑で聞いていたサーシャが膝を打った。
「あの楓は囚人の木、つまりは元・人間だった。植物の繁殖を促すテノールの歌が徒になったんだな。だからあのM5の周りの植物には異常が見られなかった」
「……あー、何となく分かったわー。植物には薬になるはずの歌が、M5には毒に変わったのね。……なんかサーシャ先輩の受け売りっぽいけど。しかもそれを毎日、浴び続けていたわけだから、おかしくならないはずがない」
「詳しく調べられないので断言はできないんですけど……、マクシミリアンのためだけを思って歌ったのも、原因の一つかも知れません……」
ジゼルは俯いた。マクシミリアンに歌を歌うことをテノールは「贖罪」だと言った。しかしその歌に籠めたテノールの思いがマクシミリアンの楓としての寿命を蝕み、悲劇を生んだのだとしたら、
「皮肉だねぇ……」
今まで沈黙を保っていたネイサンがぽつりと零した。
「ね。それ、テノール君に言わなくてもよかったのかい?」
ネイサンが椅子を軋ませながら尋ねた。
「今後同じようなことが起きるかどうかは分からないけど、彼の歌が毒にも薬にもなるってことを、彼自身も知っておくべきじゃなかったのかな?」
ネイサンはジゼルの方を見ようとはせず、ただ明後日の方向をぼんやりと見ているだけだった。その口調に責める音も同情の響きもない。ただ純粋に、しなかった過去への問いかけだった。
ジゼル自身にもそれは分からない。言うべきだったのだろうか、分からない。ただ、一つだけ言えることがある。
「マクシミリアンも、テノールももう充分、罪を償ったんです。もう二人とも解放されるべきなんです。過去からも、罰からも」
償いはいつか終えようとも、心に残った罪の爪痕が消えることはない。だからこそ誰かが彼を許すべきだった。それがこの五〇年後の今、マクシミリアン・ド・ジャッケの親友であったアーネスト・ベレッタの孫であるジゼルがすべき大きな仕事だった。ジゼルはなぜかそう思えた。
「……キミがそう言うなら、それが正解だ」
眼鏡の奥の瞳が優しく笑った。恩師の孫娘は今や立派な学者だ。冷たい結果主義者ではなく、血の通った温かい学者になった。それが良き学者かどうかは分からないが、少なくともこの目の前にいるジゼル・ベレッタという学者は、森のためといって「小夜啼鳥」を蔑ろにするような人間ではない。それがネイサンには嬉しかった。
「それでこそ植物学者だ」
ジゼルの両手に山のようなキャンディを乗せ、ネイサンは笑った。三人の研究員達は顔を見合わせては首を傾げるだけだった。
「さあて、諸君!今日のことは一切他言無用!第一級箝口令を敷く!くれぐれも気をつけ給え!」
そう言ってネイサンは培養してあるシャーレ達を眺めるという通常業務に入っていった。
「でももったいないわよねぇ……」
「何がですか?」
エルシーは溜息混じりに漏らした。
「だぁって囚人の木だってフィロメーラ波と病気の関係だって大発見なのにどうして論文にしちゃダメなのー!?今後の学問の発展のためなのにべふっ!」
足をジタバタさせながら悔しがるエルシーの脳天にサーシャが一撃食らわせた。分厚いファイルの角は殺人的だ。
「馬鹿言ってんじゃねぇよバーカ」
「……サーシャ先輩、エルシー先輩死んでます」
謎の言葉を遺してエルシーはデスクに突っ伏した。相変わらずこの二人の応酬は激しい。
「うぅうう……馬鹿って言う方が馬鹿って相場が決まってますー」
「馬鹿って言う方が馬鹿って言うヤツほど馬鹿だよな」
「もうホントに馬なのか鹿なのか分からなくなってきます……」
若干呆れつつもジゼルはサーシャに尋ねた。
「でもどうして馬鹿なことなんですか?確かに大発見といえば大発見ですけど……」
果てしなく嫌な顔をしたサーシャがジゼルを見下ろしている。あ、これは馬鹿なことを言ったに違いない。ジゼルは拳の一つくらい覚悟したが、それが下りてくることはなく、代わりに盛大な溜息が研究室内に充満した。
「はぁぁぁぁあああああああああ……。俺の後輩はどうしてこうも馬鹿揃いなんだ……」
「失礼なっ!お馬鹿は愛されるもんですよ!」
「寝言は寝て言え」
エルシー渾身の切り返しはばっさり両断された。
「あのな、普通人間が木になるなんて非現実的なこと、役人達があんなにすんなり認めるか?」
「あ……」
「そういえば……」
そんなことはあり得ない。少なくともエルシーは「囚人の木」の話を聞いて顔には出さなかったが激しく混乱していた。しかし目の前にあるものをあるがままに捉えるがモットーのエルシーはテノールの取り乱し方を見て納得した。ジゼルは言うまでもなく、その非現実的な光景を目の当たりにしたから何も言わなかった。そしてサーシャも、自身の動かぬ薬指が証明だった。それは三人の特殊な考え方と経験がそうさせたが、役人達はそうではない。一般人と言っても過言ではないだろう。それなのに、あの楓を、マクシミリアンを、表情を変えることもなく切り倒し、燃やし、そして最後に箝口令を発令した。
「あいつら、知ってたんだよ」
溜息に怒気を含みながらサーシャは零した。
「知ってて隠したんだ。ったく、学問の発展が遅いのは政治的意志があるからだな」
がしがしと頭を掻きながら嘆息した。
「どうして隠そうとするんでしょうね?知れば掟破りなんて起きないんじゃないですか?」
「そんなわけあるか。森に元・人間だった木があるなんて知れてみろ。人と森の共存どころか人を森から遠ざけるだけだぞ?」
「確かに気持ち悪いですよねー……うん、あと三日くらいは私、ゴボウ食べられませんね」
「……お前は脳天気でいいな」
ジゼルは思う。東の森には一体どれだけの人間が囚人の木となって永遠に囚われているのだろうか。
――大丈夫。お前の行く先に囚人の木は一本もない。
テノールがあの夜に言った言葉が甦る。あの遺跡から逃げてきた道に、囚人の木はないという。ということは、他の所にはあるということだろう。森は広く、複雑に絡み合い、その全容を知るものは誰一人いない。そこにテノールは、いる。囚われた罪人達と共に、まるでテノール自身が罪人のように囚われて。
窓の外を見ると、雨季明けの激しい日差しが降り注いでいた。乾いた大地に苛烈な光線が刺さる。遮光硝子の研究所ですら明るく照らされている。
ジゼルは森の様子を思い出す。
葉の隙間からこぼれ落ちる穏やかな陽光。肺の奥に満たされる、湿った空気。時折聞こえる小鳥の囀り、魚の跳ねる音。滑らかな石の表面。草を踏む感触。葉と花弁の柔らかさ。馥郁と薫る花と果実。
そして、テノール。
彼はあんなにも美しい森に住んでいるのに、それが幸せだとは限らないのではないだろうか。胸の奥からくぅ、と痛いものがこみ上げてきた。知らず、ジゼルは胸を押さえてうずくまった。
ジゼルは耳を疑った。
聞こえるはずのない、声が聞こえる。
「……歌が聞こえる」
「え?」
それは確かに響いてきた。
昼間にもかかわらず、まるで世界に聞かせるかのように漂う声がする。
「テノールが歌ってる……」
「……何も聞こえないぞ?」
聞き間違えることはない、その声。今ではもう夜の歌からでも探し出せるほど聞き慣れた彼の声。
どうして聞こえるのか、分からない。しかしジゼルには聞こえる。
今日もテノールは歌っている。あの木漏れ日の溢れる森で。肩に小鳥を乗せ、指でリスと戯れながら。葉の揺らめきに合わせ、駆け回るような音を奏でる。
ジゼルの胸に居座っていた痛みがすぅ、と引いていくのが分かった。
この声が聞こえる限り、テノールは大丈夫だ。
テノールの幸せを、森の外にいるジゼルがどうこう言えるものではない。
「私は、私のできることをするんだ……」
テノールとの約束を、早く早く果たせるように。
テノールは今日も歌う。
昼も夜も歌い続ける。
ジゼルの言う、人と森との共存を夢見て。
テノールは歌い続ける。
朗らかに、高らかに。
木々のために、草花のために。
動物のために、そして人のために。
テノールは歌い続ける。
今日も、明日も、明後日も。
この声が枯れるまで、歌い続ける。
「なあ、俺の歌が聞こえるか?」
一匹の鳥が大空へ飛び立った。
テノールは満足げに笑みを零し、再び歌を口ずさむ。