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第十二章


 長い雨は未だ止む気配を見せず、徒に降り続ける。サメフ河の堤防にはすでに堆く土嚢が積まれ、いつ決壊してもおかしくない緊張感を漂わせていた。研究所内の貯水タンクもすでに一杯となり、今年は水不足よりも洪水を心配した方が良さそうだという雰囲気が漂っている。

「止みませんね……」

「ハイ、まだまだ降りそうデス」

 ジゼルと黒星(ヘイシン)は、第三書庫から研究室へ資料を運びながら溜息をついた。研究所の窓ガラスには容赦なく雨粒がぶつかり、水の冠を無数に創造している。

「異常気象、留まるコトを知りませン」

「さすがに二週間降りっぱなしはおかしいですよね……」

 この二週間、雨はひっきりなしに降り続け、時に激しく、時には弱くと威力を変えながら降り続いている。いくら世界の異常気象が常ではあっても、こんなに雨が降り続いたことはない。

「ワタクシのアパートでもついに死人出マシタよ」

「ホントですか!?」

「ハイ。C地区移民街、結構発熱・腹痛患者出てましたケド、人死んだの初めてでス」

 以前ネイサンが言っていたことが現実になりつつあった。西の長雨による伝染病は確実に東でも猛威をふるうつもりのようだ。病院には急患が相次ぎ、研究所もいつもより気持ち閑散としている。

「ジゼルさん、アレ、どうでしたカ?」

 小さな声で黒星(ヘイシン)が尋ねてきた。

「直接的な情報はあまりなかったんですけど、少し気になることがありました」

 マクシミリアン・ド・ジャッケ。「小夜啼鳥」、もといテノールと何らかの関わりがあったであろう男。

「調査団の人なんですけどね、どうしても気になるんです」

「その方の名前ハ?」

「マクシミリアン・ド・ジャッケ。音響学者です」

 黒星(ヘイシン)は軽く上を向き、記憶を漁る。どうやら聞き覚えがあるらしい。完全に意識が検索に回っているにもかかわらず、黒星(ヘイシン)は変わらぬ速さで歩き、巧みに人を避けていく。

「音響学研究室紀要に論文の掲載、されていますネ。五〇年以上も前ですケド。確かタイトルは『フィロメーラ波の音響特徴量の分析 流速的ベクトルの視点から』だったと思いマス」

「……畑違いなだけあって異常に難しく聞こえます……」

「ハイ、とても難しい論文でシタ。読むのに苦労しましたかラ」

黒星(ヘイシン)さんって一体どんだけ論文読んでるんですか?」

「ヒマさえあれば。大丈夫ですヨ。ワタクシは読むのとても早いですカラ」

 黒星(ヘイシン)の記憶力と速読には目を見張るものがある。第三書庫の書物はもとより、中央図書室の本も片っ端から読んでいる。しかもそれをほとんど忘れていない。ジゼルも記憶力には自信があるが、絶対量が違う。

「その論文、ブッフォン調査団に入る前のモノでス。余程優秀な学者だと思いマス。その方がどうかしましたカ?」

 エレベーターのボタンを押し、到着を待つ。

「それが……、その人、行方不明なんです」

 りーん、とエレベーターが到着を知らせる。

「調査の最終日の夜に、いなくなってしまったみたいです」

「見つからないのデスか?」

「森の中に入ったんじゃないかと思うんです。けどその理由が分からない」

 上昇するエレベーターの中でジゼルは溜息をつく。

「ジゼルさんは彼が『小夜啼鳥』を知るタメの重要人物だト思う?」

「ええ。きっと彼と『小夜啼鳥』は深く繋がっているはずなんです。私、どうしても気になって……」

 扉が開き、二人は研究室へと歩き出す。

「きっとアナタの鋭い感性、訴えているデスよ。気になるもの、追いかけた方がいいと思いまス。頑張っテ下さい」

 それは他に何も言えない黒星(ヘイシン)の精一杯のエールのようだ。根拠もないジゼルの思い込みに近い感性の訴えは、もしかしたら見当違いかも知れない。それでも応援してくれる黒星(ヘイシン)にジゼルは笑顔で答えた。

「頑張ります!」


 資料を高く積み上げたネイサンの顔は原形をなくしそうなほど顰められていた。

「厄介なことになった」

 いつになく張り詰めた声でネイサンが告げた。

「……どうしたんですかー?」

 間延びしたいつもの調子だが、エルシーも若干緊張気味だ。

「サーシャ君もジゼルちゃんもよく聞くように」

 珍しく全員がデスクにつき、ネイサンの言葉を待つ。外の雨だけが五月蠅く窓ガラスを叩くだけだ。

「東の森の楓が病に冒されている」

「え?」

「うっそ」

「本当ですか!?」

 三者三様の反応に、ネイサンは軽口を叩くことをせず小さく溜息をつき、続ける。

「ジゼルちゃんに採って来て貰った楓の検体に病変細胞が含まれていた。もしかしたらこの長雨で病状が一気に悪化するかもしれない」

「他の木々への感染はありますか?」

 エルシーが尋ねた。

「今のところはない。けど今後は分からない」

「一体何の病気ですか?」

 今最も森に携わっていたジゼルだが、楓が病気にかかっているとは気づかなかった。テノールもそんなことは言っていない。ジゼルの胸が妙にざわめく。

「結論を言えば、分からない」

「分からない?どういう状況なんですか、それは」

「この細胞を見てよ」

 ネイサンがスライドに顕微鏡の画像を映し出す。

「ジゼルちゃん、献体番号M5を覚えている?」

「は、はい!」

 森の入口近く、テノールがよく登っている楓の木だ。

「その木に異様なコブ、みたいなものってあったかい?」

 ジゼルは首を振った。M5と名付けられたその木にはいつもテノールがいた。だから細部までよく覚えている。そんな異常が見られれば、ジゼルが気づかないわけがない。

「M5の幹、葉、根の細胞の中で、根の細胞だけが変性している。それをちょっと培養してみたヤツも順に見て」

 試薬をつけた細胞の画像は、明らかに正常なものと変異した細胞とに分かれている。正常な細胞が長方形が秩序だって並ぶタイル床のようなものなのに、今映し出された細胞は、異常なまでに数を増やし、端の方から崩れている。しかも細胞壁がところどころ溶解し、隣り合う細胞と解け合っているものまである。一目で異常だと分かった。

「なんだこりゃ。こんな病気、見たこともない……」

 サーシャが目を丸くした。植物病理のどの書物にも載っていない症例。こんな細胞異常は見たことがなかった。

「室長。これ、もしかして植物がなる病気じゃないんじゃないですか?」

 エルシーが何やら恐ろしいものを見たかのように青ざめている。

「そう。今まで植物には見られなかった病気。しかも結構進行している」

 溜息混じりにネイサンは吐き出した。

「一体何の病気なんですか……?」

 知識も経験もないジゼルだが、これが異常事態だということだけは分かる。

「これは、癌だ」

 研究室内が痛いほどの沈黙に包まれた。

 植物が癌にかかるなど聞いたことがない。癌と酷似した症例はあっても、この細胞は明らかに人の癌と同じような変異をし、増殖している。もしかしたら転移の可能性もある。

「細菌感染による腫瘍ならまだしも、おそらく楓の内部からの発病だ。全く驚きだよ。人と同じように植物も癌にかかるなんてね……」

 脱力したようにネイサンは椅子に崩れ落ちた。

「ワクチン、作れそうですか?」

 サーシャが問う。

「いや、無理だ。全く対処の仕様がない。なんてったって前例がないし、原因も分からない。一か八かの賭け事をやるわけにはいかないんだ。東の森は主要森林だから下手なことをして森全体に不利益を与えかねないことは絶対無理」

 あらゆる植物のあらゆる病の原因を追求し、その対抗策としてのワクチンを精製することこそがこの病理研究室の第一級使命でもある。しかしそれは十分な検体と十分な時間があって初めて成立するものだ。初めて見る、たった一例だけでは手の打ちようがない。全員が己の無力さに歯噛みし、下を向くばかりだ。

「……このまま放って置くわけにも行かないですよねー」

 エルシーが沈黙を破った。

「室長、どうしますか?」

「……放置しておけば他の植物にどんな影響が出るか分からない」

 ネイサンはデスクのレターケースから一枚の紙を出した。

「サーシャ君は今からこの要項に沿って書類を作成して。エルシーちゃんは今から書くトコに電話して。そんでジゼルちゃんは僕と一緒に細胞写真を撮る」

 一息に言い、そして全員を見据える。

「雨季が終わり次第、M5の伐採を敢行する」


 雨の帰路をジゼルは辿る。いつもよりも足取りは重く、知らず溜息をついている。

 ネイサンの采配により、中央政府の許可を得るためにジゼル達は東奔西走していた。長雨による流行病のため残業は厳しく禁じられているが、緊急事態のため大目に見てもらった。資料収集に黒星(ヘイシン)の手も借りた。それでも定時の帰宅時間よりだいぶ遅く、雲に覆われた空も灰色から濃紺へと変わっているのが分かる。時折光る稲光が空を照らし、低い雷鳴が腹に響く。

 ――テノールになんて伝えたらいいんだろう……。

 ジゼルには森の木を切るということがテノールの友人を殺すことのように思えてきた。森へ行くたびにテノールは木々や草花の言葉を伝えてくれる。植物が生きているということを実感させてくれる。その実感こそが、ジゼルの気を重く暗くさせているのだ。

 雨季が明ければ楓の木を切りに行く。

 長引いた雨のせいで、ジゼルは森での活動予定を大幅に狂わされた。三ヶ月間の検体採取の終わりの日が、すぐそこに迫ってきている。すでに十分な検体は集められているため仕事に支障はないが、おそらく、雨季が明ける頃には「蔦の薬」の効果が切れる。

 もしかしたら、テノールに伐採を告げる日がジゼルが森へ行く最後の日かも知れない。

 それもジゼルの気を落とす要因の一つであった。

「……でも、そのほうがいいかも」

 楓を切った後、ジゼルはどんな顔をしてテノールと会えばいいのだろう。

 いっそこのまま雨が上がらなければいい。レイン・コートのフードが外れるままに、ジゼルは空を見上げた。

 放射状に降る雨が眼鏡のレンズにぶつかる。ジゼルの頬が濡れる。

 この雨の中、テノールは今もあの楓の上にいるのだろうか。悪戯っぽく笑うテノールの顔が、ジゼルにははっきりと思い出せる。あの笑顔が、曇ってしまうのは嫌だ。でも、ジゼルのような下っ端には、できることなど何一つない。

「テノール……」

 雷鳴にかき消された囁きは、その日のジゼルの最後の言葉だった。

「うっ?!」

 突如襲われる閉塞感と強烈な眠気。

 小柄なジゼルの足が宙に浮き、次の瞬間、だらりと力を失った。

「コイツで間違いないか?」

「ああ、そいつだ」

 何ものかの会話はすでにジゼルの耳には届かない。

 ジゼルを襲撃したのは夜闇にとけ込む暗い空色のレイン・コートの二人組だ。

 大柄な男が二人、しかし顔がフードで隠されてよく見えない。一人が薬で眠らせたジゼルを担ぎ、もう一人がジゼルを大きな麻袋に入れた。二人はもはや人さらいではなく、雨の中も働く運送業の人間にしか見えなかった。

「急げ、時間がない」

 二人はジゼルを入れた麻袋を肩に担ぎ、雨の中へと消えていく。どこか遠くに、雷が落ちた。




 むせかえるような緑の匂いで目が醒めた。

「こ、こは……?」

 ぼやけた視界に映るのは見慣れた森の一風景。

「わたし……どう、してもり……?」

 気づくとジゼルは森の遺跡の広場にいた。もたれかかっているのは最後に森を訪れた時にテノールと話ながら苔を採取した岩だ。

 断続的に殴られているような頭痛がする。手足がぴくりともしない。ようやくジゼルは自分が何ものかに拉致されたことを悟った。

 近くで鹿の鳴き声がした。

「くそっ!手こずらせやがって!」

 野太い男の怒号がした。

 ずる、ずず、と何かを引きずる音を立てながら、男はジゼルに近づいてくる。

 男は乱暴に引きずっていたものを投げた。

 べしゃ、と何かがつぶれるような嫌な音を立てて落下したそれは、ジゼルも見たことのある、野生の鹿だった。ただそれは、暗がりの中で濁りながらも光る目をしていた。生温かい何かが、ジゼルの頬にかかった。

 ――死んでる……。

 死んだ動物独特の、生気を失った目が、黙ってジゼルを見据えている。

「こっちにもいたわ!大漁よ!」

 震える甲高い声がした。どうやら女もいるようだ。やはり暗い空色をしたレイン・コートを着ている。

「さすがだな、わんさかいやがった」

 わらわらと最初の男の周りに集ったのは合計五名の男女だった。揃いのレイン・コートに身を包み、皆妙な匂いをさせている。

 カッ、と光った雷の一瞬をジゼルは見逃さなかった。

「あ……ああああ…………」

 彼らのレイン・コートには、べっとりと赤い血がついていた。そしてジゼルの目の前には死んだ鹿。

 ――鹿を殺したんだ……!

 あまりの恐怖に、ジゼルは目を見開き涙を零した。がくがくと関節の合わない顎が五月蠅い。口の端からはきっとみっともなく涎が垂れている。しかしそんなことなどどうでもいい。この男女五人組は鹿を殺したのだ。森の、鹿を、殺したのだ。

「な……なんで……」

「何ではねぇだろう?ジゼル・ベレッタ」

 野太い男の声。ジゼルはこの声に聞き覚えがある。脱いだフードのしたから現れた栗色の髪、人を心底蔑むような冷たい瞳。

「へるまん……?」

 ヘルマン・ソリス。

 ジゼルを薬で眠らせたのも、鹿を殺したのも、あのヘルマンだ。

「本当はお前なんぞに用はないんだがな、蔦の薬を打ったヤツがいないと『小夜啼鳥』が結界を張っている森に入れないだろ?俺様が打ってもよかったんだがな、それだと記録に残るし怪しまれる。だから森に出入りできているお前を連れてきたってワケだ。頭いいだろ?」

 馬鹿にしたように笑うヘルマンに、意識のはっきりしていないジゼルでも怒りが湧き上がった。

「あんた、けんきゅうしゃ、のくせに、こんなば、かなこと……!」

 薬の抜けきらない舌っ足らずな言葉に、ヘルマンは鼻で嗤った。

「研究者だからこそのビジネスだよ、ジゼル」

 ヘルマンは鹿の死体を蹴飛ばした。

「野生の鹿の角と肝はなぁ、今流行ってる病気に効くんだよ。東でも流行りだしただろ?あれでもう何人も死んでるからな。病院だけじゃ手が回らないんだよ」

 ジゼルの顎が掴まれた。無理矢理に上を向かされ、首の筋が嫌な音を立てる。

「俺の妹はそいつで死んだ」

 ジゼルの目が驚愕の色に染まる。

「知らなかったよな?俺に妹がいるなんてよ。ろくでもない大陸野郎に引っかかって家を出てっちまったからな。そのろくでもなしがアイツを寝ずに働かせてしかもろくに食わせもしなかった。流行病は罹り始めなら助かったのに病院に行く金がなくてカティは死んだ!こんな馬鹿な話があるか!」

 ヘルマンの平手がジゼルの頬を殴った。口の端が切れたのか、錆びた鉄の味がした。

「ここにいるヤツらはな、病院に行く金もない、行っても門前払いされた家族達だ。おら、お前も知ってるヤツらがいるぞ」

 甲高い声をした女がフードを脱いだ。

 彼女はジゼルの隣に住む女性だった。夜泣きの酷い赤ちゃんを抱いて子守唄を歌っていた女性だ。

「あの女の赤ん坊は町医者が金持ちを優先してワクチンを打っていたから死んだ。。あっちの男達もみんな似たようなヤツらだ」

 ヘルマンは死んだ鹿を恨めしそうに睥睨しながらなおも続ける。

「だから俺たちは薬の買えないヤツらに薬を作る。そんで薬を作った後の鹿の死体を剥製にして闇市で売りさばく。その金はまた貧乏なヤツらに回してやる。そう決めたんだ」

 ジゼルは何も言えなかった。そこまで病が広まっていたことも、近所で困っている人がいたことにも、何も気づいていなかった。そんなジゼルが、彼らを責めることなどできはしない。ジゼルは打ちのめされた。己の非力さに。愚かさに。

 ――だがそれは鹿を殺していい理由にはならない。

「きゃあぁぁぁあああああああああっ!」

 女が叫んだ。

「な、なんだ!?」

 女の腕に、蔦、蔓、木の枝が絡み付いた。

「いや、いや、そっちに行きたくない……!」

 抗うものの、絡み付いた植物は女を容赦なく引きずり出した。手に、足に、その胴に絡み付いたそれらは女を闇の濃い方へと引きずり込む。

 ――森の掟に背きし者どもよ

 ――裁きを受けよ

 ――その身で償え

 ――その身で贖え

 闇から聞こえるその声に、背筋が凍り付く。まるでこの世の終焉から響くように重く、深淵から這いずり出るように暗い。

「いやだ、放して、私はただ赤ちゃんに……ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ、」

 叫び声は鉈で切られたように途切れた。

「、ひいぃぃぃっ」

 一人の男が走り出した。しかし闇から伸びる蔦に足を取られ転んだ。

 ――森のものを殺すことなかれ

 ――森のものを殺すことなかれ

「ゆるしてくれぇぇええっ!妻が、エリスが寝込んでいるんだ!助けるにはもう、それしかなか、うわぁああぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああ……」

 男はそのまま帰ってこなかった。

「な、何が起こってんだよ……」

 歯の根が合わなくなったヘルマンが絞り出すように尋ねるが、ジゼルの中に答えはない。ただ、森の掟を破ったものに制裁が下されているということだけはわかる。

「うわっ!」

「あああああああっ!」

 呆然と突っ立っていた他の二人にも蔦は容赦なく巻きつき、無惨にも闇の方へと引きずり込まれていく。

「助けてくれ、助けてくれぇぇぇえぇええええええっ!」

「ヘルマン!俺を見捨てる気か!?あ、あああいやだ、あああああ、ああああああああっ」

「うわあぁぁぁああああぁぁぁぁあぁぁああああああああああっ」

 突如ヘルマンは叫び声を上げながらジゼルを抱えて走り出した。背後から迫る気配に戦きながらも、ヘルマンは走った。

「おいジゼル!出口への近道を教えろっ!」

 置いていくべきお荷物のジゼルを抱えたのは道案内のためだ。腐ってもヘルマンは研究員である。頭の回転は窮地に陥っても適切に回り続けている。

「し、しらない!わからない!」

 ようやく薬も切れてきたのか、言葉がはっきり出せる。しかし道は分からない。確かに森の遺跡にいたはずなのに、ヘルマンが今走っている風景を、ジゼルは見たことがない。

 記憶力だけはいいはずのジゼルにとってあり得ないことだ。

 夜というだけでここまで違うものなのか?一度記憶を疑い出すと何もかもが疑わしい。

 あの木はこんな所に生えていただろうか?そこには花が咲いていたはずじゃないか?あんな形の岩はなかったんじゃないか?

 ジゼルは混乱した。何が起きているのか分からないこの現状で、ジゼルの思考は完全に冷静さを失っていた。

「うあぁっ!」

 雨で濡れた草でヘルマンが滑った。小脇に抱えられていたジゼルは放り出され、転がり落ちた。

 ずる、ずる、ず……

 濡れた地面を何かが這いずる音が近づいてくる。

「くる……来る……っ」

 腰が立たなくなったのかヘルマンは四つん這いになったまま起き上がれない。

 ずずず、ず、ずるずる……

 先の見えない闇から、独特の匂いがする。

 土臭く、それでいてどこかむっとするような、花の匂い。

「ひぃああああああああっ!」

 とうとう蔦がヘルマンの足を捉えた。

「うあ、あ!あ!あああああああああああああああああああああああああ!」

 半狂乱になりながらヘルマンは自由な方の足で絡み付く蔦を蹴る。蹴る。蹴る。しかしそんな攻撃が通じるような相手ではない。次から次へと闇から這い出る蔓がヘルマンの両脚を絡め取る。手首を覆い尽くす。首を締め付ける。

 ――夜の森に入ることなかれ

 ――森のものを殺すことなかれ

 ――森の掟を破りしものよ

 ――盟約を踏み躙りしものよ

 ――その身で償え

 ――その身で贖え

「たすけ、助けてくれジゼル!殺される……ころ、」

 ジゼルは息を飲んだ。

「あ……あぁ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」

 何が起こっているのか、分からない。

 ヘルマンに絡み付いた蔦や木の根が、ごぽ、ぐるる、と音を立てている。

 鼓動のようなその音が響くたびに、ヘルマンの体が枯れていく。

「ああ……………あ、ああ、…………………………」

 頬が痩け、血色のよかった肌が黒く黒く変色していく。

 見る見るうちにヘルマンはヘルマンだったものに変わる。

 細く枯れた足が地面に埋まる。磔刑のように広げられた腕から何かが生える。

 ジゼルは吐き気を覚えた。

 ヘルマンは、ジゼルの目の前で、人ではなくなった。

「うあ……あああああ…………」

 ヘルマンは、木になった。

 周りに生える楡の群れの一本になった。

 ――あり得ない……!

 頭が事実を否定しても、ジゼルは目の前で起きたこの現象を、否定できない。闇に引き込まれた隣のおばさんたちもヘルマンと同じ末路を辿ったのか?

 そしてジゼルの頭の中に一人の名前が浮かんだ。

 マクシミリアン・ド・ジャッケ。

 早く逃げなくては!背筋に冷たいものが流れるのを感じながらジゼルは力の入らない足で立ち上がろうとした。が、すぐに転んでしまった。ヘルマンに絡まっていた蔦がジゼルの方を見た。

 ――森の掟を破りしものよ

 ――愚かな人の子よ

 ――裁きを受けよ

 ――その身で償え

 ――その命で贖え

 闇の中から声が響く。ずる、ずずず、と木の根が這いずる。腰の立たないジゼルに、距離を縮めてくるその手から逃れる術はない。

 獲物を捕らえる蛇の如く蔦たちが一斉にジゼルに向かってきた。

「いやぁっ!」

 ジゼルは死を覚悟した。

 無駄な抵抗だろうが、両腕で顔と頭を庇い、身を強ばらせた。

 ……しかし、ジゼルに蔦が絡まることはなかった。

「王よ、この子は関係ない」

 聞き慣れた声。

 凜と響く、気高い声。

「テノー、ル?」

「王、この子は貴方との盟約を破ったわけではない。この子は鹿を殺していない。森に入ったのだって裁きを受けた者どもに無理矢理連れ込まれただけだ。……聡明な貴方なら、分かっているだろう?」

 ジゼルに向かってくるはずだった蔦は、いつの間にかテノールが立ちはだかって受け止めてくれていた。白い腕に、足に、首に巻きつく種々の手が妙に毒々しい。

 ――テノール

 ――我が美しき小夜啼鳥

 ――人の子を庇うか

 ――我らの籠の鳥が

 ――再び過ちを犯すか

「犯さない」

 暗闇の中、雨粒に濡れる銀の髪が光る。

「俺は貴方の籠の鳥。貴方のために歌い、貴方のために生きることこそ俺の幸いだ」

 ――その人の子はどうか?

 ――かつての人の子と同じではないのか?

「ジゼルとマクシミリアンは違う」

 夜の闇より明るい碧の瞳が闇を見据える。

「この子は森のためを思う心優しい人間だ。マクシミリアンのように熱いものはくれないが、ジゼルは温かい、ひだまりのようなものをくれる。森と同じ、優しいぬくもりだ。そんな彼女がマクシミリアンのように狂ったりするはずがない」

 ――だが不審な芽は摘むべきだ

 ――お前を惑わすものは排除する

 テノールを離れ、蔦や木の根はジゼルの方へと伸びかけたその時。

「この子に裁きを下したら俺はもう歌わないぞ!」

 その一言で動きを止めた。

「朝も昼も夜も俺は歌わなくなるぞ!王はそれでもいいのか!?」

 ――何を言う、テノール

 ――お前が歌わなければ

 ――森が死ぬぞ

 ――お前も死ぬぞ

「それでもいい!」

 大地に座り込んだままのジゼルの前で、テノールは大きく手をひろげ、ジゼルを守る。

「俺も、世界も、どうなったっていい。ジゼルがいない世界など、どうなろうが知ったこっちゃない。この子の命一つで森も世界も助かるんだ。……王はそれでも、この子を裁くというのか?」

 テノールは自分が何を言っているのか、よく分からなくなっていた。

 なぜ自分がたった一人を守るためにここまでしているのか、よく分からない。

 ただそれは理屈を離れた、遠く深いところでテノールを動かすものがある。それだけは感じていた。

 闇から響く声は何かを躊躇っていた。逡巡していた。

 そして漸く伸ばしていた蔓や木の根を再び闇の中へとしまい込んだ。

 ――人の子よ、感謝せよ

 ――慈悲深き憐れな小夜啼鳥に

 ――そして立ち去れ

 ――二度目はない

 それを最後に、声は沈黙した。

 あの花の匂いも遠ざかっていった。

 そしてテノールは大きく息をついた。

「お前が無事でよかった、ジゼル・ベレッタ」

 未だに腰の立たないジゼルに目線を合わせ、テノールはジゼルの顔についたままの鹿の血をその手で拭った。カタカタと体の震えが止まらない。テノールの優しい指先が、ひどく冷たい。

「い、今の……」

「あれは王。この森の主であり森の掟の番人」

 テノールがジゼルを落ちつかせるように髪を撫でる。そしてジゼルは口を開いた。

「マ、クシミリ、アンも……木になった……?」

 テノールの手が止まる。

「……お前、……まさか調べたのか?」

 湖のように碧い瞳が揺れる。ジゼルは小さく頷いた。

 この窮地の中で、ジゼルの頭は一つの答えを導き出していた。それはなくしていたパズルの一ピースが埋まるような、奇妙な偶然と爽快感。答えはここにあったのだ。

 鹿を殺したヘルマン達が受けた「裁き」を、かつてマクシミリアンは受けたのだ。

 それは推測を通り越した、純然たる現実の現象。ジゼルの目の前で繰り広げられた、信じられないできごとこそが答えであり、このテノールの反応こそが証明だ。

「……その話はまた今度だ。今は一刻も早く夜の森から出ることだけを考えろ」

 動揺をテノールは押し隠し、辺りを見回す。

「いいか?ツキヨタケを辿って行くと光る菌輪がある。その菌輪の中に入るんだ。それを繰り返していれば森から出られるから。分かったか?」

「つ、ツキヨタケを辿る……光る菌輪に入る……?」

「そうだ。ツキヨタケを辿る、菌輪に入るを繰り返すんだ」

 未だ震えるジゼルの手をぎゅっと握りしめ、テノールは力強く繰り返す。

「ツキヨタケは蒼白く光ってるから分かるな?あと菌輪は虹色に光っているからすぐに分かる」

 それでもジゼルは不安だ。夜の森は昼に見た森と全く違っているのだから。

 あらゆる木々が嘘のように気持ち悪い。

 もしかしたらあの木もこの木もヘルマンのようにかつては人だったのかも知れない。

 そう思うと怖い。人の森にいるということが、気持ち悪い。

「大丈夫。お前の行く先に囚人(めしうど)の木は一本もない」

 ジゼルの心を読んだかのようにテノールは優しく、しかし悲しげに言う。

「お前、前に俺がやったモミジイチゴを持ってるだろう?」

 そう言われ、ジゼルは首にかけてあった金の鎖を引っ張り出した。ペンダントトップのように樹脂で加工された赤い小さな実。

「それがお前の帰る道を示してくれる。さあ、行け。そして忘れろ。辛いことは森に置いて行け。……お前はそのまま、ひだまりのままでいてくれ」

 そしてテノールはジゼルの背中を押した。今まで立たなかった足が嘘のように軽く立ち、何かに導かれるようにツキヨタケを辿り始めた。

 ツキヨタケは点々と蒼白い光を放ち、ジゼルの道を示す。

 胸元で揺れるモミジイチゴが仄かな光で足元を照らす。

 ジゼルは夢中で走った。

 ぽぅ、ぽお、と導く光を辿り、虹色の菌輪を踏む。再び点在するツキヨタケを辿り、菌輪を踏む。蒼白い光は耐えることなくジゼルに道を示し、菌輪は誘うように七色に光り続ける。ジゼルはどこをどう走っているのか分からなかった。どれだけ走っているのかも分からない。

 もう何時間も走っている気もする。

 十分も走っていないかも知れない。

 喉が痛い。鼻に血の味が抜ける。膝がギシギシと音を立てる。

 それでもツキヨタケは変わらず蒼白い道を示し、菌輪は虹色に輝き続ける。その道が続く限りジゼルはそれを辿らずにはいられない。ジゼルは走る。ツキヨタケを辿りながら。ジゼルは走る。虹色の菌輪を通り抜けて。


 気づいた時、ジゼルはベッドの中にいた。

 ひどい頭痛がする。でもなぜそんなに頭が痛いのか、分からない。ひどく疲れている気もしたが、どうして疲れているのか分からない。明かり取りの窓から柔らかい日差しが差し込む。

「……晴れてる」

 何日も降っていた雨が嘘のように止み、何日かぶりの太陽が顔を出した。

「…………」

 ひどく滑稽な夢を見ていた気がする。でもそれが何だったのか思い出せない。

 確か、テノールが出てきた気がする。

 ジゼルは彼に伝えたいことがあったのに、それを思い出す前に……、いや、何があったのだろう。思い出せない。

 ジゼルは寝間着のまま朝食の準備をしに台所へと向かう。いつもの日の、いつもの朝だ。

 湯を沸かしながらも、ジゼルは何かを忘れているような気がしてならなかった。顔を洗っても、着替えても、新聞を眺めていてもそれは思い出せない。

 忘れたことはどうでもいいことだ、と死んだ祖父が言っていたのをぼんやり思い出しながら、ジゼルは身支度を調えた。

「……あんまり行きたくないな……」

 気が重い。

 単によく分からない頭痛のせいだけではなく、M5伐採の件がジゼルの気を重くしている。

 昨日の今日で雨季が終わってしまうとは思っていなかったため、おそらく国への申請はまだ通っていないだろうが、それでもこの天気だ。伐採の日はぐっと近づいてきている。

 頭の芯が薄い靄に覆われているかのようにはっきりしないが、こんなことで休んでいる場合ではない。今日も研究所では膨大な資料をまとめる仕事がある。申請が通れば中央政府からの使者も来る。やることはたくさんあるのだ。ジゼルは頭を振り、何かを忘れている、という感覚を追い出した。

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